名も知らぬ… 3






「ごめんね、待っててもらって。帰ろうか?」

結局不二の提案通り、部活が終わるまでテニスコートに留まる事になった俺は、着替えを終えて部室を出てきた不二がすまなそうに眉を寄せたのを見て、小さく首を振る。
待ったと言っても30分位だし、その間も普段目にする事の無い本格的なテニスを間近で見る事が出来て、決して退屈する事は無かった。
そして何より、俺の知らない不二の姿を、不二のプレイを間近で見る事が出来たのは、俺にとって大きかった。

いつも同じバスに乗り合わせるだけで、何も知らなかった『彼』。
それが今はこんなに近くに、それも俺のすぐ隣に居る。
昨日まではこんな事、想像する事さえも無かった事なのに。


「そんなに待ってないから…気にすんなよ。」
「そう?見てるだけなんて退屈だったんじゃないかなって気になってたんだ。」
「そんな事ないって。退屈なんて感じてるヒマ無かった位だ。」


心配そうに俺を見る不二に、慌てて手を振ってみせる。
本当に不二は俺が思っていた以上に凄いプレイヤーだった。
驚くような技の数々に、俺は思わず食い入るようにコートを見詰めてしまう。
不二のテニスは、その容姿にたがわぬ華麗なものだった。

「やっぱり凄いな、青学テニス部は。うちのテニス部じゃかなわないわけだ。」

不二と一緒にバスに揺られながら俺は感嘆の溜息を漏らす。
いまでこそ俺の隣でこうして笑顔を見せているけれど、コートに立った不二は俺の知っている不二とは、まるで別人のようだった。
相手を見据える鋭い眼差し、流れるような身のこなし、真剣な表情……その全てが目を見張るほどの眩しさを感じさせる。
男の俺がこんな言い方をするのはおかしいかもしれないけれど、あえて表現するなら『カッコイイ』だろうか?
なるほど、これなら女の子が騒ぐのも無理ない…とぼんやり思った位だから。


「んー…そうかな?」
「ああ、素人の俺が見て判る位だ。うちのテニス部の奴らなんかは、半泣きだったんじゃないか?試合の時は。」

お世辞でも何でもなく、本当にそう思う。
特に不二と手塚は、素人目に見ても同じ中学生とは思えない位だった。
レベルが違うとは、きっとこういう事を言うんだろう。
素人の俺だけでなく、青学テニス部の1・2年生が、感嘆と尊敬の入り混じった眼差しで見詰めるのも理解できる。



「こういう言い方するのはどうかと思うんだけど……すげぇカッコ良かったぜ?」

「本当?くんにそう言ってもらえると嬉しいな。」



本人を前に面と向かって言う事に、いささか照れ臭さを感じながらもそう称賛すると、ニコリと笑って不二は首を傾けて俺の顔を覗き込んだ。
その嬉しそうに細められた瞳に見詰められて、俺の心臓は不覚にもドクンッ…と大きく跳ね上がる。
俺がいつもバスで見かける静かで落ち着いた表情と違って、まるで大輪の華が咲いたような鮮やかな笑み。
こんな顔もするんだ――とぼんやり頭の隅で思いながら、俺は慌てて視線をそらした。


「おっ…お世辞なんかじゃないって!だって見たろ?1・2年生の目をさ。あんな風になりたいって顔に書いてある。不二は……憧れの存在なんだよ。」
「ふふっ……ありがとう。でも、くんだって同じだよ?」
「え?俺??」
「うん。」

思いもよらなかった不二の言葉に、俺は目を瞬かせる。

「俺なんかに憧れるなんて、そんな奴居ないと思うけどな……。」
「そんな所がくんのいい所なんだろうけどね。やっぱり自覚無かったんだ?」

「自覚??」


ますますもって分からない不二の言葉に、俺は首を傾げるしかなかった。
そんな俺を見て、不二は楽しそうにクスクスと笑みを零す。


「ええと…あれはいつだったかな?僕、ちょっと用があって中の近くを通りかかった事があったんだけど、その時見たんだ…君を尊敬の眼差しで見詰める子達をね。」


静かに微笑みながら、不二はそう言ってバスの外の景色へと視線を向ける。
不二にあわせて視線を窓の外に向けると、学校近くの小さな公園の緑が目に飛び込んできた。

「時々この公園で自主トレしてるでしょ?」
「えっ?!何でそんな事………。」

そこまで言って俺は口を閉ざす。
あれだけ詳しく俺の事を調べていたんだから、これくらいの事知っていても決しておかしくない。
それが分かったのか、不二は僅かに苦笑して小さく頷いた。

「僕もたまたま待ち合わせで公園に居たんだ。」
「その時に俺を?」
「うん、最初はくんが居るなんて知らなかったんだけど。ただ、楽しそうにはしゃいでる小学生が居るなぁ…としか思わなかったから。」
「小学生?」
「そう。10人くらいの男の子達とミニゲームした事あるでしょ?僕が見たくんは……小学生相手だったけど、凄く楽しそうな顔してた。そして、そんなくんを見る男の子達の目は……本当に輝いていたんだよ?」


そう言って、不二はフワリと小さく微笑んだ。


「そういえば……。」

確かに不二の言う通り、1ヶ月位前に学校近くの公園で自主トレしている時に、たまたま出会った小学生と軽いミニゲームをした事がある。
決して飛び抜けて上手いという訳じゃなかったけれど、試合で勝つ事ばかりを求められていた俺にとって、久しぶりに純粋にサッカーを楽しむ事が出来て、嬉しかった事を憶えている。




「楽しそうにサッカーボールを追いかけるくんを見る彼らの目は、きっとうちの部員達と変わらなかったと思うよ。少なくとも僕にはそう見えた。」




だからくんも同じ――そう言って不二はピッと人差し指を向けてくる。
俺をじっと見詰める不二の瞳は、いつも以上に優しげな光をたたえている。
まるで、その場の光景を目の前にしているかのように表情を緩める不二の姿に、俺は言葉が無かった。
正直、その小学生達が本当に青学のテニス部員達みたいに俺の事を思ってくれたかは微妙だったけれど、不二が俺の事をそう見てくれたというのは何だかくすぐったい気がする。


「あ、ありがと………。」

なんと言って良いのか分からず、俺は真っ白な頭と真っ赤な顔のまま、そう答えるしかなかった。
我ながら情けない反応だと思わずにはいられないが、こういう事態には慣れていないのだから仕方ない。
体力しか能のない俺にとっては、これでも言葉を発する事が出来ただけ、かなりマシだと思う。


「へえ…?くんのこんな顔見られるなんて思わなかったな。何かちょっと得した気分だね。」
「ふっ不二っっ?!!」
「隠す事ないよ。意外だったな、カッコイイくんにこんな可愛い一面があったなんて。」


一種、暴言とも思える発言を、不二は笑顔のまま平気で口にする。

「何だよそれ?!」

「本当に君って人は…………次々と僕を驚かせてくれる。会うたび、見るたびに君の新たな一面を知る事が出来るんだから……。君は僕にとって未知の宝箱みたいな存在だよ。目が離せない。」


爆弾発言に目を丸くした俺の様子にも動じる事無くそう言って、不二はにっこりと笑みを浮かべる。
その表情はどことなく楽しそうだ。

「それはお互いさまだろ……。」

そう言って俺は小さく溜息をついた。


どこの誰かも知らない、ただ同じバスに乗り合わせるだけだった、名も知らぬ『彼』。
ほんの短い時間だけ目にする、その『彼』の事を、あれこれと想像はしたけれど、実際の『彼』は俺が思っていた以上に、いい意味でも悪い意味でも『想像以上』だった。


「いつも…何となく目が離せない存在だったけど…知れば知るほどなんてね。次は何が出てくるのかな?」
「宝箱のレベルがあるんだったら、不二の方が遥かに上だよ。」
「ほめてもらったと思っておくよ。」


心底楽しそうに笑って、不二は満足そうに何度も頷く。
俺はそんな不二の姿に、やれやれといったように溜息をつきながらも、内心では湧き上がる昂揚感を押さえる事が出来なかった。
不二の言葉ではないけれど、本当に目が離せない。
気付くといつの間にか意識を奪われている。
万人を惹きつけてやまない魅力的な存在。
そう考えると、不二の方が宝箱という表現にふさわしいように思う。
誰もが手にしたいと望む――という点において、『宝箱』という表現は成る程と思わずにいられなかった。
そして、幸いにして宝箱の中身を垣間見る事の出来た俺は、今まで以上に宝箱…不二に惹かれている自分自身に気付いて、小さく苦笑した。




「あ、じゃあ僕次で降りるから……又明日の朝にね。」

次のバス停を目前に、ゆっくりと減速していくバスに気付いて、不二が手をあげる。
あれこれ考えながら自分の世界に入っていた俺は、その不二の言葉にハタと我に帰って、同じように手をあげた。

「ああ……また明日な、不二。」

そう、不二とは毎朝会う事が出来る。
これからいくらでも、たくさんの俺の知らない宝箱の中身を目にする事が出来る。
俺はいつもと変わらない笑顔で手を振る不二に、小さく笑ってみせた。



「あ、そうだ。言い忘れてた。」



静かに停車したバスの出口のドアに向かって2・3歩歩いていた不二が、ふと何かを思い出したように声をあげて足を止める。
そして、くるりと向きを変えて再び俺の横に肩を並べた。

「?」

突然の行動に何事かと首を傾げた俺の肩に手を置き、耳元にそっと顔を寄せる。
フワリとした風と共に、聞こえてきた声は俺の頭の中を再び真っ白にするには充分なものだった。




「僕の名前は『周助』って言うんだ。明日からはそう呼んでね『』?」

「っっ?!!」




囁くようにそう言うと、不二は何事も無かったかのようにタラップを降りていく。
俺はといえば、思いもしなかったその言葉の内容とゾクリとした囁きに、呆然と固まったまま不二の後ろ姿を見送るしか出来なかった。

「……………宝箱の中には爆弾も入ってるのかよ…………。」

再びスピードを上げ始めたバスに揺られながら、俺は熱くなった頬を押さえながら盛大な溜息をついた。
爆弾………いや、爆弾発言を落として去って行った不二の笑顔を思い出して、俺はグッタリとして吊り革にすがりつく。
やはり不二は予想外・想像以上だと思わざるをえない。



「降参だよ……周助…………。」



段々と遠くなっていく不二の姿を目の端に捕らえながら俺は小さく呟く。
早く明日にならないかと思いながら、俺は過ぎ去っていく町並みを見詰めて静かに瞳を閉じた。









いつも同じバスに乗り合わせる人がいる。
俺みたいに体力しか能の無い奴とは世界が違うと、ずっと心のどこかで思い続けていた。
そんな俺の世界を壊していった名も知らぬ『彼』。
その名も知らぬ彼は、今は俺を惹きつけてやまない宝箱になった。



『不二周助』という名の俺の宝箱に――。




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