名も知らぬ… 1
いつも同じバスに乗り合わせる人が居る。
俺みたいに体力しか能の無い奴と違って、きっと頭も良いんだろうなぁと思わせるような穏やかで知性的な眼差しを持つ、そんな人。
けれど、その肩に掛かるテニスバックの存在が、彼がただのガリ勉でも、たたの優男でもない事を教えてくれる。
「ねえねえ!不二先輩よ!!」
同じく乗り合わせている数人の女の子が、少し離れた所できゃあきゃあ言いながら見ているのにも気付いているんだろうけれど、彼は少しも動じる事無く手にしている文庫サイズの本に視線を落としている。
きっと俺なんかが見たって、さっぱり理解できないだろう難しそうな洋書を手にしている姿は、確かに女の子ウケしそうだ。
しかし、毎日同じバスに乗り合わせはするものの、俺は彼がどこの誰なのかは全く知らない。
遠巻きに騒いでいる彼女達の言う『先輩』という言葉からすると、おそらく彼はこの先の私立中学の生徒なんだろうとは思う。
確かこの先には、文武両道をモットーとし、マンモス校として有名な青春学園中等部があったはずだ。
俺はいつも、終点の青春学園前より2つ手前のバス停で下車してしまうから、彼が本当に青春学園の生徒なのかどうか知る術は無いけれど。
(いいじゃないか別に彼が誰だって。向こうは俺の存在すら知らないんだから。)
ぼんやりとそんな事を思いながら、俺は静かに彼から視線を外した。
走り続けるバスの外の景色は、少しずつ季節の色を変え、鮮やかな青葉が目に痛いほどに萌えている。
その鮮やかで優しい碧が、この目の前の彼のようだなぁとぼんやり思いながら窓の外の風景を見ていると、バスはゆっくりとスピードを落とし始めた。
「やばっ!俺降りなきゃ!」
混雑している通路を、人波をかき分けながら出口の扉へと進む。
ボンヤリしていたら降り損ねて次のバス停まで行ってしまう。
そんな事にでもなったら、完全に朝練に遅刻だ。
俺は慌てて扉の開いたタラップを駆け下りた。
「ヤバかった~~!」
小さく息をついて、今降りたばかりのバスの窓を見上げる。
「っ?!」
俺は何気なく見上げたバスの窓を見て微かに息を呑んだ。
ほんの偶然かもしれない。
けれど、確かに彼と……一瞬目が合った。
向こうもいささか驚いたようで、普段は優しげに細められている瞳が大きく見開かれている。
しかし、結局すぐにバスは再び走り出してしまい、俺はボンヤリと走り去るバスの後ろをただじっと見送るしかなかった。
結局あの日から特に何か変わるわけでもなく、いつもと同じに数日が過ぎた頃、俺は思いがけず青学の門をくぐる事になった。
「流石は私立だよなーウチと大違いだ。」
来客用の玄関から外に出て小さく呟く。
サッカー部の副部長をしている俺は、今週末の土曜日に予定されている青学サッカー部との練習試合についての打ち合わせの為に、はるばる青春学園中等部へと足を運んでいた。
大体の予定は既に決まっていて最終的な確認が主だったから、想像していたより早く話は終わって、俺は下校する生徒達に紛れながら校門までの道をゆっくりと歩いた。
俺の横を通り過ぎていく生徒達の――特に男子生徒の制服を見て、やはりな…と思う。
いつも同じバスに乗り合わせる『彼』と同じ制服に同じ校章。
間違いなく彼は、ここ青春学園の生徒だ。
「そういやテニスバック持ってたっけ……。」
青学男子テニス部は、ここら辺では誰もが知っている位有名で、なおかつ強豪だ。
きっと、彼もそのテニス部員なんだろう。
俺と同じく、朝練に参加する生徒しか利用しないような早い時間のバスに乗っているんだから、ほぼ間違いないと思う。
バスの中で見る静かな顔しか知らない彼が、実際にテニスをする所を見てみたいような気もしたけれど、俺は大きく頭を振ってその考えを頭の中から追い出した。
「見に行ったからって、どうにもならないじゃんか…。」
他校生がフラフラうろついていたら不審に思われるだろうし、第一よりにもよってサッカー部がテニス部を見に行くなんて、滑稽きわまりない。
知り合いが居るならともかく、こっちが一方的に彼の存在を知っているだけなんだから。
俺は改めて大きく息をついて校門前のバス停へと足を向けた。
「えと、次のバスは………30分後?!」
俺はあまりの事に思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
どうやら最悪のタイミングで出てきてしまったようで、前のバスは2分前にこのバス停を出たばかりだった。
「おいおい、マジかよ……。」
情けない気持ちを感じながら、俺は頭を抱える。
けれど、いくら頭を抱えた所で事態は解決する訳でもない。
「仕方ない…歩くか。」
次のバスを待っても良かったけれど、このまま30分も何もせずバス停でボンヤリ待っているのもバカらしくて、俺は静かにその場を離れて歩き出した。
ゆっくりと歩きながら次の試合でのフォーメーションを考えていた時だった。
「や、やめて下さい!」
どこか怯えたような小さな声が聞こえてきて、俺は思わず足を止めた。
くるりと辺りを見回してみると、左側に細い路地があって、その先の数人の人影が目に映る。
何だか嫌な雰囲気を感じながら、俺はそっと路地の奥に足を踏み入れた。
普段だったら別にそこまで気にしなかったかもしれない。
視界に入った後ろ姿が、うちの学校の生徒でなかったら、きっとこのままこの場を通り過ぎていただろう。
しかし俺の目には、うちの学校の生徒が2・3人の少年を取り囲んで脅している光景がハッキリと映し出されていた。
「お前ら何をしてる!」
急に聞こえた俺の声に、その場の全員がビクリと肩を震わせる。
振り返った数人の生徒の顔を見て、俺は内心で溜息をつかざるをえなかった。
間違いなく絡んでいるのは、うちの学校の生徒だ。
「げっ!?!何でこんな所に?!」
「副会長?!」
俺の顔を見るなり、慌てたように顔色を変える奴らを、俺はじっと睨みつける。
「やべっ!逃げろ!!」
俺の居る方とは反対側の路地の奥の方へ、慌てふためきながら走り去っていく姿を暫く見送ってから俺は小さく溜息をついた。
「おい!大丈夫か?」
壁際に背中をつけて震えていた3人の少年に声を掛けると、彼らは涙目でじっと俺の事を見上げてきた。
まだ完全に安心できないのか、3人とも無言で俺の制服についている校章を見詰めている。
(ああ、なるほど。あいつらと同じ校章だもんな。安心できないって事か。)
俺はできるだけ怯えさせないよう、彼らと同じ目線まで屈みこんでにっこりと笑って見せた。
「うちの生徒が酷い事をしてすまない。大丈夫か?」
「………………。」
「どこか殴られたりしてないか?」
「……はい………大丈夫です。」
「そっか!なら良かった。本当にごめんな、恐い思いをさせてしまって。」
小さく頭を下げると、ようやくホッとしたのか、3人とも肩の力を抜いて僅かに表情を綻ばせた。
「助けてくれてありがとうございます!あの……さっきの人達と同じ学校の人なんですか?」
「ああ、本当にすまなかったな。俺は中学3年、。サッカー部の副部長をしてる。今日は青学サッカー部との練習試合の打ち合わせに来てたんだ。」
「俺、堀尾聡史っス!」
「あ…僕、水野カツオです。」
「僕は加藤勝郎っていいます。本当に助けてくれてありがとうございました!」
どうやら一年生らしい小柄な少年達に頭を下げられて、俺はガラにもなく照れてしまった。
別に大した事はしていないんだから、そこまでされるとかえって恐縮してしまう。
「いや、別に大した事してないしな。…じゃあ、すぐ近くとはいえ気をつけて帰れよ?」
「あ!待ってください!!」
軽く手を振って別れようと踵を返すと、加藤と名乗った少年が慌てて俺の後を追いかけてきた。
「どうした?」
「あっあのっ!良かったら一緒に来てもらえませんか?!」
「え?俺が?」
「はい!先輩や先生にちゃんとに話して、きちんとお礼したいんです!」
じっと見上げてくる瞳は真剣で、俺は戸惑ってしまう。
お礼をされるほどの事はしていないとしか思えないのだが、目の前の少年はぐっとこぶしを握り締めていて、完全に俺を連れ帰る気満々のようだ。
「………分かった。」
熱意に押されて、俺はやれやれと思いながら小さく頷く。
これは帰る時間が更に遅くなりそうだ――そう心の中で思いながら、俺は笑顔で先を歩き始めた3人の後を追って、再び出たばかりの青学の門をくぐった。