気になるあの子は新米教師 3
大石を連れてが向かったのは、学校近くの路地裏にある小さな喫茶店だった。
年配のマスターが一人で店を切り盛りしている古くからある喫茶店で、は以前からこの店の常連客で暇があればよく足を運んでいた。
学校からここまで一言も口をきかない大石をソファーに座らせてコーヒーを二つ頼む。
そして、自らも大石の向かいにある柔らかなソファーに深く身を沈める。
静かな店内に流れるゆったりとしたクラシックに暫し耳を傾けてから、は小さく息をついた。
「さて……じゃあ聞こうかな?」
そう口を開いたの言葉にピクリと大石の肩が震える。
「何をそんなに緊張してるんだ?それとも…なにか――」
「すみません!!」
の言葉が終わらないうちに大石が叫ぶ。
その姿に一瞬何が起こったか解らず、はきょとんとした顔で目を丸くした。
「先生だとは知らずに、色々失礼しました。」
叱られた子供のように俯いて、大石は更に深く頭を下げる。
膝の上で握り締められた掌が、しっとりと汗ばんでいるのを感じながら、大石は身を硬くしたままぎゅっとまぶたを閉じた。
そんな大石を暫く見詰めていたは、暫く考え込んでから、ようやく大石が表情を強張らせている理由に思い至ると、大石に気付かれないように小さく笑ってから、コホンと一つ咳払いしてみせる。
「大石、顔上げて!」
わざと重々しい口調でそう言うと、再び大石の肩がビクリと震える。
その声におそるおそる顔を上げた大石の視界に映ったのは、何故か満面の笑顔を浮かべたの姿だった。
「え…?」
「大石は何も悪い事なんかしてないんだから、俯かないでこっち向いて欲しいんだけどな?」
「え…でも…。」
予想外の声と言葉に、大石はただただ呆然とするしかない。
「何をそんなに暗い顔をしているのかと思ったら……。俺に対する態度の事で落ち込んでたんだろ?そんなの全然必要ないのに。」
何も無礼な物言いをしたわけでもないのに、大石は本当に心底恐縮したように肩を落としている。
いまどき敬語が使えなかったりする子など、そこら辺にごまんといるのに、それが出来なかったとか、教師に対する態度ではなかったといって、ここまで落ち込むのも珍しい。
そういう変に生真面目な所が又、大石らしい所なのだろうけれど――。
ぼんやりとそんな風に思いながら、は表情を緩める。
そして、何よりそんな大石が、酷く好ましく感じられてならなかった。
「でも……やっぱり…その……そういうわけには……マズイんじゃ……。」
の言葉に、暫く呆然とした表情を浮かべていた大石が、ポツリポツリと戸惑いがちに言葉を漏らす。
その歯切れの良くない大石の姿に、は僅かに困ったような顔をしてみせた。
「んー……俺さ、話す時に上から威圧的に見下ろしたくないし、逆に下から恐る恐る見上げられたりしたくないんだ。まっすぐにオレを見て欲しい。こうやって今みたいに近くで話したい。だから先生だからってだけで過度に態度を変えてほしくないんだ。そりゃあ、適度な対応ってのは確かに必要だけどね。それでもダメか?」
そう言って大石の方へ顔を寄せる。
急に縮まった距離に戸惑いながらも、大石は身動きする事が出来なかった。
上目遣いに見上げてくるの瞳が、ふわりと優しげに細められる。
「オレの我が侭なんだけど、そうしてくれると嬉しいんだけどな。」
「先生……。」
「な、ダメか?」
「そっ…そんな事!!」
ブンブンと勢い良く首を振って、大石はの言葉を否定する。
そんな大石の様子に、ホッとしたように口元をほころばせて、は胸をなで下ろした。
「良かった!本当はさ、そんなの無理だって一線引かれちゃうかなーって心配だったんだけどね。正直、大石にそう言われたら立ち直れないかもって思ってたから、ちょっと嬉しいな。」
「俺に……ですか?何でまた?」
「ええと…………何て言ったらいいのかな?大石に、そう思わせてしまうようだったら、教師なんか出来ないような気がした…って所かな?」
照れ臭そうに笑って、は少しだけ頬を掻く。
その僅かにはにかんだような微笑みに、大石は小さく息を飲んだ。
「はは………俺、まだ新米だからな。今日だって本当は朝から不安だらけでさ。そんな時に大石に声を掛けてもらえて、普通に何気ない事とか話が出来て………何となくだけど、それで頑張れるような気がしたんだ。だから、そんな大石に受け入れてもらえたら、これからもやっていけるって、そんな気がしたんだろうな。」
情けないよなぁこんなんじゃ――そう言っては困ったように眉尻を下げた。
その言葉に、大石は無言のまま再度大きく首を振る。
必要以上に勢い良く首を振ったせいで、少し頭がクラクラしてしまっていたが、そんな事今の大石にはどうでも良かった。
「情けなくなんかないですよ。」
「そうか?ありがとな。そう言ってくれるだけで嬉しいよ。」
「気を使って……とかじゃないですから。本当に。」
「大石………。」
まっすぐな大石の視線に、僅かに戸惑ったようには視線を泳がせる。
大石の瞳は、どこか痛いくらいに真剣な色をたたえていて、は注がれるその視線にいたたまれず俯くと、静かに己の両手を握り締めた。
「大丈夫ですよ。先生が望むように、これからは生徒と近い位置で接していけますよ。だって、先生が言う『情けない所』……俺は情けないなんて思わないけど……百歩譲ってそうだったとしても、それを俺達生徒に隠さずにさらけ出してくれる先生なんて、居ないじゃないですか。それだけで生徒達は親近感を感じるでしょう?」
そう言って大石は静かに目を伏せる。
「そう………かな?」
ポツリと呟いたに、大石は表情を緩めて小さく頷いた。
「ええ。先生なら大丈夫だと俺は思ってます。何しろ……。」
「?」
「俺が生徒だと思ってしまうくらいに、フレンドリーに接してくれるんですから。」
英二や桃みたいなタイプの生徒は特に懐くんじゃないかな――そう言いながら、大石は微かに苦笑してみせる。
「ありがとな……大石。本当に……頑張れるよ、そう言ってもらえるとさ。」
「あ!でも限度を超えてたら、ちゃんとに叱ってやって下さいね?」
「ああ、それは分かってるよ。何事も限度はあるし、礼儀も知らない子にしてしまうわけにはいかないからな。その点は充分に注意するつもりだよ。だから、それ以外はいつでも近くに感じられる存在になれるよう……頑張るよ。」
そう言っては、どこか嬉しそうに目を細めた。
その柔らかな微笑みに、つられるようにして大石も笑みを漏らす。
「やっと笑ってくれたな。」
「え?」
「大石が最初に見せてくれた笑顔だよ。不安だった俺を勇気づけてくれた、大石らしい顔…やっと戻ったなぁって。」
「えっ?!あの……ええっと……。」
「やっぱり、大石にはその方が似合ってるよ?」
の言葉に、大石は慌てたように顔を赤らめて背中を丸める。
そんな姿が何だか微笑ましくて、はふわりと微かに表情を緩めた。
しかし次の瞬間、は思いもしなかった大石の言葉に驚きで目を見開く事になった。
「…………俺なんかより、先生の方が似合ってますよ…笑顔。」
「っっ?!!」
「優しくて暖かい……まっすぐな笑顔…………。」
相変わらず頬を染めたままだったけれど、どこか真剣な光をたたえた瞳でを見詰めてくる大石に、はガラにもなく照れてそっと目を伏せる。
あまりにもまっすぐな視線が、妙に熱っぽく感じられて仕方なかった。
「あ、ありがと……な。」
やっとの事で零れたのは短い謝礼の言葉。
その小さな声に、ハッと我に帰った大石は、紅い顔を更に紅潮させた。
「あっ、いやっ…そのっ……す、すみませんっ!変な事言って!!」
「…………いや、そんな事ないよ。大石にそう言ってもらえると嬉しい。」
「あのっ!深い意味はないんです!俺なんかより綺麗っていうか…ああ!いや、そうじゃなくて!その…惹きつけられるというか……ああっ!何言ってるんだ俺っ!!」
混乱したように、そうまくし立てると、大石は目の前のコーヒーを一気に飲み干す。
「……ぐっ?!……ゲホッ…ゴホッッッ!!!」
「お、大石、大丈夫か?!!」
慌てて飲み込んだコーヒーにむせこんだ大石が、目元に涙を浮かべているのを見かねたは、急いで大石の隣に駆け寄り、そっとハンカチを差し出した。
「す、すみませ……っっ!」
「いいから。喋らなくていいから。慌てて気管に入ったんだろ?大丈夫か?」
苦しそうに何度も咳き込む大石の背中を何度もさすりながら、は心配そうに大石の顔を覗き込む。
触れてくる暖かな手、真新しい濃紺のハンカチ、心配そうに細められた瞳、すぐ側で感じられる微かな吐息。
その急に縮まった二人の距離に、大石はもう混乱するしかなかった。
「ごめんなさいっっ!!!!!」
が止める間もなく、大石はトイレへと一目散に駆け込んでいく。
「……………吐きそうなのかな?」
一人残されたの、とんでもなく的外れな言葉がポツリとその場に零れた。
結局、5分ほどして出てきた大石を連れて喫茶店を出たは、ドアを出た途端に降り注いでくる太陽の光に眩しそうに目を眇めると、ぐっと大きく身体を伸ばした。
大きく深呼吸しながら、は隣に立つ大石に、にこりと笑みを向ける。
「さあ!戻ろうか大石?部活が終わるまで、まだ時間は充分ある。」
「はい。」
「俺も放課後の部活なんて久しぶりだからな。頑張らないと!」
「そういえばテニスやってらしたんですか?凄く強くてビックリしましたよ。」
昼休みの打ち合いの事を思い出して、大石はの横を歩きながらそう問い掛ける。
確かに、気軽な打ち合いだったのは確かだけれど、それでも大石が負けた事には変わりは無い。
「ははは……一応これでも俺、5歳からテニスやってるからさ。」
「そうなんですか……。先生は選手になろうとか思わなかったんですか?」
「おいおい……無茶言うなって。俺くらいのレベルじゃ、プロのテニスプレイヤーなんてなれないよ。」
そりゃあ、なれるもんならなりたかったけど――そう言って笑いながらは少しクセのある髪をガシガシとかき混ぜる。
「先生なら、なれたかもしれないですよ?」
「まさか!プロの世界は、そんなに甘くないって。………それよりもさ……?」
「はい?」
「さっきから気になってたんだけどさ、大石…俺の事『先生』って呼ぶよなぁ?」
僅かに眉を寄せた状態で腕を組むと、は隣を歩く大石の顔を覗き込む。
「え?そうです…けど……それが何か?」
「………何か、よそよそしく感じるんだよな……それ。」
「えええ?!」
「……………………………………………決めた!!」
暫くうなっていたは、ポンと両手を鳴らすと、ニコニコと笑みを浮かべながら大石の肩に両手を乗せる。
まるで悪戯っ子のようなその表情にたじろぎながらも、大石は無言のままを見詰めるしかなかった。
「『』じゃなくて『』な?」
「えええっ?!!」
「より親しくなる第一歩ってカンジかな?これからは俺の事は名前で…『先生』って呼んでくれな?」
そう言っては、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。