白の開襟シャツに、黒のスラックスという出で立ちの青年が、ゆっくりと目の前の校舎を見上げる。
その瞳には僅かばかりの不安が見え隠れしていた。
「来ちゃったよ、本当に………。」
ゴクリと息を飲んで、青年はグッと拳を握り締める。
「よっしゃ!、やるぞ~~っっ!!」
両手を突き上げて叫ぶ姿に、不信そうな視線を向けるものは、幸いにしてその場には存在しなかった。
気になるあの子は新米教師 1
が産休代理教師として青春学園中等部に赴任する事になったのは、初夏の日差しが強くなり始めた頃の事だった。
それまでは予備校の講師のバイトをしていただったが、母校である青春学園中等部の数学教師が一人産休をとる事になり、卒業生であるに白羽の矢が立った…というのが事の経緯だ。
連絡を受けてから数日は、あれこれ準備に追われていたが、昨日正式に辞令を受け、今日から晴れては、代理とはいえ中学教師という肩書きを手にする事になった。
「あ、あれ?職員室ってどこにあるんだ??」
気合いを入れてやってきたものの、はふと思い浮かんだ疑問に、玄関前に立ちつくしたままポツリと言葉を漏らす。
「え?え?えええ??!」
青学の卒業生であるが職員室の場所を知らないのには訳があった。
が中等部を卒業した後、校内が一部改装され、部屋の配置がいくつか変えられてしまっていたからだ。
昨日は、校門前で出迎えてくれた竜崎に連れられて特に何も考えずに歩いていた為、外からの職員室への行き方はおろか、肝心の職員室の場所さえ分からない。
「困ったな~まだ7時前だから時間は大丈夫だけど、肝心の職員室の場所が分からないんじゃなぁ…。」
誰かに尋ねようにも、随分早い時間なので人の姿さえ見当たらない。
「あの…何か困り事ですか?」
途方に暮れていると、ふと後ろから声を掛けられ、は弾かれたように後ろを振り返った。
「えっ?!」
「俺で良かったら力になるけど…。」
振り返った視線の先に居たのは学生服を着た少年。
短く刈り上げられた髪に、優しげに細められた瞳が印象的な少年が、笑顔でを見詰めている。
その爽やかな笑顔にホッとして、は大きく胸を撫で下ろした。
「良かった~職員室の場所が分からなくて困ってたんだよ。悪いんだけど場所教えてくれる?」
「ああ、だったら案内した方がいいかな。ちょっと分りにくい所にあるから。」
「え?いいのか?こんなに早く来てるって事は部活か何かじゃないか?」
ありがたい申し出に喜びながらも、少年の事が気に掛かり、そう問い掛ける。
「それなら大丈夫。部室の鍵を開けに来ただけだし。もう開けてきたから。」
「そう?じゃあ頼んでいいか?」
「うん、ここからだとちょっと分かりにくいから…こっちなんだけど。」
「ありがとうな!助かったよ。」
先に立って歩き出した少年の後をついて行きながら、は笑顔を浮かべる。
礼を言うに照れたように笑うと、少年は恥ずかしそうに小さく頭を掻いた。
「困ってる時はお互いさまって言うし、そんな大した事じゃないから。」
「そんな事ないって。俺、本当にどうしようかと思ってたんだしさ。本当に助かったよ。」
謙遜する少年の照れたようなその姿が可愛くて、はニコリと笑みを深くする。
素直に称賛される事に慣れていないのか、それともただ恥ずかしいだけなのか、少年はの言葉にさらに顔を赤らめた。
(初々しいなあ…可愛い♪)
耳まで赤くしている少年の後ろ姿を見て、は思わず口元をほころばせる。
最近の中学生は、酷く大人びている――という印象を持っていたには、目の前を歩く少年の姿が、酷く新鮮なものに思えた。
こんな所を目にすると、世間でどんなにあれこれ言われていても、やはりここは中学校なのだと思う。
何だか暖かな気持ちに一人浸っていると、ふと前を歩いていた少年がピタリと足を止めた。
「着いたよ。ここが職員室になってるんだけど。」
「あ、ホント?ありがとうな!」
少年の指差した方に視線を向けると、部屋の前に『職員室』というプレートがぶら下がっている。
確かに、昨日竜崎に連れられ足を運んだ場所に間違いない。
ようやく無事に目的地に着く事が出来て、はホッと小さく息をついた。
「本当に助かったよ、ありがとな。」
少年に改めて礼を言って、は職員室と書かれたプレートの下がっている部屋のドアを開ける。
「あ、そうだ!」
何歩か歩いた所で、はここまでわざわざ案内してくれた少年の名前を聞いておこうと足を止めた。
しかし一歩遅かったのか、が再び振り返った時には、既に少年の姿は廊下の向こうへと消えてしまっていた。
「あ~…名前聞きそびれちまったなー。後で改めてお礼に行こうと思ったのに…。」
残念そうに大きくため息をつく。
仕方なく、溜息まじりに当初の予定通り職員室に足を踏み入れると、背後から聞き覚えのある声が掛けられた。
「かい?早いねえ。」
「竜崎先生!おはようございます!」
「どうした?こんな朝早くから職員室になんて何の用だい?」
普段通りのジャージ姿で現れた竜崎に、は困ったような表情を浮かべて応える。
「昨日、1時間早く来るようにっておっしゃったの、先生じゃないですか。男子テニス部の第二顧問になるんだからって……。」
「ああ、そうだったね。それにしても随分早いじゃないか。」
「あはは……何か緊張というか、気合い入っちゃって……。朝練なんての、数年ぶりですからね。」
「そうかい。まあ、悪い事じゃない。……さあ、そろそろ時間だ。さっさと支度してきな。この後の朝練の時に、あんたの紹介をするからね。」
「分かりました。すぐに支度してきます。」
竜崎の言葉に大きく頷いたは、にっこりと笑みを浮かべてから、職員用のロッカールームへと駆け出していった。
が職員室で竜崎と話をしているちょうどその頃、と別れた少年の方は、再び元来た道を戻り、運動部の部室が集まっている部室棟の方に向かって歩いていた。
「転入生…かな……?」
足取りは重くないものの、ゆっくりと歩く少年の頭の中は、さっき別れたばかりの人物の事でいっぱいだった。
職員室に用があったようだから、おそらく転入生だろうとは思うのだが、随分と大人っぽい雰囲気をしていたなーとぼんやり思う。
しかしその反面、向けられた笑顔は無邪気な子供のようで、相反する雰囲気を持ったその少年の事が不思議と気になって仕方がなかった。
「どうした、大石?」
ぼんやりと考え込んでいた少年は、不意に背後から掛けられた声に、自分がいつの間にか部室の前に立っていた事に気付いて、慌てて後ろを振り返った。
「ああ、手塚か…おはよう。」
「どうした?ボーッとしていたようだが?」
大石と呼ばれた少年が心ここにあらず…といった様子なのに気付いて、手塚は微かに眉間に皺を寄せる。
「いや、別に何でもないよ。ただ、さっき転入生みたいな子に会ったからさ。ちょっと気になって。」
気まずそうに笑って見せて、大石は部室に足を踏み入れた。
朝練の開始時間には、まだかなりの時間があるからか、部室にはまだ一人として部員の姿は見受けられない。
その無人の部室に大石に続いて足を踏み入れた手塚は、手にしていたテニスバッグを降ろすと、大石の言葉に小さく首を傾げた。
「転入生か?生徒会の方には、まだそんな連絡は入っていないが……。」
大石の言葉に何か引っかかるものを感じたのか、手塚は着替えの手を止めて暫し考え込む。
「今日、書類を提出しに来たんじゃないか?まだ制服無いみたいだったし。」
ワイシャツにスラックスという少年の姿を思い出し、大石はそう答える。
「……まあ、いずれは分かる事だな。」
「ああ、そうだな。」
手塚にそう言われて頷きはしたものの、どうしても大石は少年の事が気に掛かって仕方が無かった。
(名前くらい聞いておけば良かったかな……。)
マンモス校である青学では、例え転入生が居たとしても、あまりに規模が大きい為同学年ならともかく、一度学年が違ってしまえば存在に気付く事はおろか、探し出す事も困難になってしまう。
探し出したからといって特にどうという事は無いのだが、大石にはどうにも名前も知らない会ったばかりの少年が誰なのか、気に掛かって仕方が無かった。
何かモヤモヤとしたものが胸に引っかかっているような感覚に、大石は一つため息をつく。
しかし、いつまでもこうして考えていても始まらないと、大石は大きく頭を振って思考を切り替えた。
「……そういえば手塚、テーピングのテープ、昨日使って無くなったみたいなんだけど、予備はあるのか?」
「いや、この前予備のものは救急箱に入れてしまったからな、多分無いだろう。」
「そっか…じゃあ、補充しておかないとな。桃も足を痛めてるし、いつ必要になるか分からないし……。俺、備品の買出しに行ってくるよ。悪いけど朝練は頼むな。」
着替えかけていた手を止めて再び制服を着込むと、大石は開いたままのロッカーの扉を閉めて、下においたバッグを手に取る。
「別に大石がそこまでする事も無いだろう?後で竜崎先生に言って事務から持ってきてもらったらどうだ?」
「いいよ。気付いた時に済ませてしまった方が良いし、もしかしたら届く前に必要になるかも知れないだろう?」
そう言って笑うと、大石は着替え途中の手塚を振り返った。
「じゃあ、ちょっと行ってくる。朝練には出られないかもしれないけど、ちゃんとにホームルームまでには戻るからって、竜崎先生に言っておいてくれるか?」
「分かった。頼む。」
手塚に見送られて、大石は小さく笑うと、部費とバッグを手に校門の方へと駆け出す。
この事が、この後のと大石の出会いを変える事になろうとは、この時の大石には思いもよらなかった。
「集合!」
結局大石が戻らないまま部活の朝練開始時間になり、手塚の声がグランドに響いた。
手塚の声に、方々に散らばっていた部員達が次々と集まってくる。
全員が集まったのを確認すると、竜崎は全員をその場に座らせて部員達を見渡した。
「おや?大石の姿が見えないようだね?」
「大石は救急箱の備品を買いに行っています。ホームルームまでには戻るそうです。」
竜崎の疑問に、唯一事情を知る手塚が答える。
「そうかい…仕方ないね。じゃあ大石には後で紹介するとして……今日は皆に紹介したい者が居る。さ、こっち来な!」
竜崎に促されて、竜崎より数歩後ろに居たは、一歩前に足を踏み出した。
「昨日簡単に説明したと思うが、今日からあたしと一緒にあんた達を指導してくれる事になった、先生だ。ウチの部の第二顧問として、あんた達のメンタル面からフィジカルトレーニングまで全般的に見てもらう。皆、しっかり鍛えてもらいな!」
竜崎に紹介されて、部員達の視線が一斉にに集まる。
その興味深げな視線に苦笑しながら、は自己紹介の為に静かに口を開いた。
「です。まだまだ大した事は出来ないけど、精一杯皆をバックアップしていきたいと思ってるので、よろしく!」
『ウィーーっス!』
の挨拶に運動部特有の挨拶がかえってくる。
その様子に改めては笑顔で部員達を見渡した。
「さあ、練習を始めな!手塚、任せたよ。」
「はい!全員グランド10周した後、レギュラーはいつもの特別メニュー、それ以外の者は素振りと柔軟だ!」
手塚の声が響いて、部員達は慌てたように走り出す。
それでもチラチラとの方に向けられる視線の数は変わる事が無く、は思わず苦笑いを浮かべた。
結局その後の朝練は注意力散漫の部員が続出してマトモな練習にならず、手塚の怒鳴り声がひっきりなしにコートを飛びかった。
結果、相当数の部員が罰としてグランド20周を言い渡され、その日の朝はかなりの人数がグランドを走る姿が見られたという。