風邪~大石編~






「会いたい……大石先輩……会いたいよぉ……。」


小さな呟きは、誰にも聞こえる事が無いと分かっているからこそ、こうして吐き出す事が出来る。
こんな弱い自分を大石は望みはしないだろう事は、には容易に想像する事が出来た。
優しさの裏に、人を思うからこそ向けられる厳しさも持ち合わせた人だから、今の甘ったれた自分を見たらきっと、たしなめるように眉を寄せるに違いない。
けれど、どうしても大石を求める心の疼きは止める事が出来なかった。


「今頃……どうしてるのかな……大石先輩……。」


窓から見える空が段々と暗さを増していくのを見ながら、は目元の涙を拭う。
大石を思うことで、少しだけ気持ちが抑えられそうだった。

「まだ部室かな…。」

責任感があり面倒見の良い大石の事だから、きっと今頃まだ部室で色々な事に追われているのかもしれない。
副部長としての責任感もあるのだろうけれど、大石は常日頃から、皆に分け隔てなく優しかった。
その誰にでも向けられる優しさを、今は自分だけに向けて欲しい。
そんな想いが湧き上がって、は小さくかぶりを振った。
それはきっと、かなり前から心の中にくすぶっていた想い。
初めてそれをが自覚したのは全国大会の時だった。
全国大会の前日にダブルスのペアを巡って、大石と菊丸が口論をしていた時から薄々感じてはいたけれど、全国大会終了時に大石に掛けられた言葉を聞いて、それをはっきりと自覚した。
誰かと同列ではなく、誰よりも特別な存在でありたいと思う気持ち。
自分が菊丸以上の存在になれるなんて思う事自体、おこがましいと思う反面、大石にとって他よりも優先される位の存在になりたいと思う事も又否定出来ない事実だった。


「会いたいな…少しでいいから……。」


今は皆に向けられるのと同じで良いから、大石に気に掛けてもらいたい。
菊丸以上じゃなくても構わないから、今だけは側にいて欲しかった。

「こんなんじゃ、大石先輩に呆れられちゃうよな。」

振り切るように大きく頭を振った時だった。
ピンポーンというインターホンの高い音が階下の方から聞こえてきて、は部屋のドアを振り返る。
別に病人なんだから多少居留守を使っても構わないはずなのだが、さっきまでのように寝ている訳でもない以上出ないのはマズイ気がして、はまだふらつく身体を叱咤しながら、普段よりも酷く長く感じる階段を下りた。

「はい……どちらさまですか?」

正直リビングにあるインターホンに出るのも辛かったが、重い身体を引きずりながら、やっとの事で口を開く。



『すみません、青春学園テニス部の大石と言いますが…。』



「お、大石先輩っっ?!」

インターホンを通して聞こえてくる予想外の声に、モニタに映る思いもしなかったその姿に、の全身を激しい震えが駆け抜ける。
信じられない事実に、は大石の言葉に答えないまま勢い良く廊下に飛び出した。
さっきまでふらついていた筈の足が信じられない程軽い。


「今開けます!うわあっっ!!!」

玄関のドアを開けようと手を伸ばした瞬間、玄関口に置かれていた靴に足を取られて、はドカンという派手な音をたててドアにぶつかった。

「いたたたた………。」

顔面からぶつかったせいで赤くなった鼻を擦りながら、は鍵を開けてゆっくりと扉を開く。
扉の向こうには、盛大な音に驚きながらも心配そうに眉をひそめる大石の姿があった。


「凄い音したけど、大丈夫か?!」
「あ、あはは…大丈夫です。ちょっと足とられて…。」
「おでことか、鼻とか真っ赤になってるぞ?」


苦笑いするに、同じように苦笑してみせて、大石はの真っ赤になった額に手を伸ばす。

「ひゃっっ?!」
「ああ、ごめん!痛かったか?!」
「いえ、そうじゃなくて…そのっ……ちょっとビックリしてっ!」

咄嗟に変な声をあげてしまった事に赤面して、はブンブンと首を振って見せた。
外から来た大石の手が冷たくて驚いた…というのもあったが、まさか大石にそんな風に触れられるとは思っていなかった驚きが一番大きかった。


「そうか?でも、ぶつけたのはともかく、まだ随分熱いけど…熱下がってないんじゃないか?」


そっと眉根を寄せて、大石はもう一度の額に触れる。
声が少し掠れている以外には、普段とあまり変わらなそうに見えるだが、一度触れた額は想像以上に熱かった。


「あ、でも随分良くなりましたよ。ほら、こうやって起きられるようになったし……。」

そう言って大石を中に招き入れようと、家の中に一歩足を踏み出す。
途端にさっきまでの身の軽さはどこに行ったのか、急に膝の力が抜けてガクリとは膝を落とした。


「あれ?」

「大丈夫か?!」
「はい、すいません。ちょっとふらついて…。」


ペタリと膝をついてしまったに、慌てて駆け寄り大石は手を差し伸べる。
差し出してきたの手が予想より熱くて、大石は再び眉を寄せた。

「あれれ?足に力が……。」

大石の手に縋りながら立ち上がろうとしたが、再びペタリと腰を落とす。

「やっぱり無理してるな?いいからそのまま動くんじゃない!」

何度も立ち上がろうとするを制止して、大石は静かにの身体を抱き上げた。


「わわわっ!大石先輩っっ?!」


「いいから暴れるな。部屋まで連れて行くだけだから。」
「だっ大丈夫っス!歩けますよ!!」
「無理をするな。立ち上がる事も出来ないじゃないか。」

うろたえるを横抱きにしたまま、大石は顔をしかめる。
抱き上げたの身体は、思った通りかなり熱っぽく、本人が言うほど回復しているようには思えなかった。
恥かしさにもがいていたも、そう言ってたしなめるように静かに見下ろしてくる大石の瞳に見詰められて、観念したのか渋々身体の力を抜く。
そんなの反応に、大石はにっこりと笑って、二階へと続く階段へ足を向けた。


















結局大石に抱きかかえられたままベットに運ばれたは、そのまますぐに布団に横たえられてしまい、起き上がることを大石にきつく止められてしまった。


「すみません、大石先輩。重かったでしょう?」


のかわりに窓のカーテンを引いたり電気を点けたりと、せわしなく動いている大石の後ろ姿に、布団を口元まで持ち上げた状態でが申し訳無さそうに声を掛ける。
くぐもった声に小さく笑って、大石はベットの横に腰を降ろした。

「ああ、これ位は平気だよ。それよりは、もう少しウェイトあった方が良いんじゃないか?」
「そ、そうですか?」
「まあ、今はそれよりも早く治す事が第一だけどな。」

そう言って大石は、もう一度の額に手を乗せる。

「早く治せよ?堀尾や加藤達が淋しがってたぞ?それに越前も同じ一年生レギュラーが居ないと気が抜けるみたいだしな。桃や英二だっていつも元気なお前が居なくてつまらなそうにしてたし…。」

熱を帯びたの額に手を乗せたままそう言って、大石は小さく苦笑した。

「皆が…?」
「ああ。だから早く治さないとな?」


「…………大石先輩は…………。」
「え……?」
「大石先輩は……どう…なんですか……?」


ポツリと、微かに呟く声が、どこか戸惑いを含んでいる。
その、思わずこぼれたというような呟きに、大石は大きく目を見開く。
元気で前向きないつものと違い、どこか憂いを感じるような瞳が酷く儚く、大石はそのまま言葉を失った。


「あ…………えっと……………っ。」


不安そうに揺れる瞳は、それでもじっと大石の瞳を捕らえて、そらされることは無い。
発せられた声が震えていた事を思えば、必死の思いで紡がれたものかもしれないのに、情けなくもどう答えるべきか今の大石には分からなかった。


「………あ……っ!ご、ごめんなさい変な事言って!」
……。」
「忘れて下さい!!」


布団から半分だけ出した顔を照れ臭そうに真っ赤にしてそう言うと、はバサッという音をさせて慌てて布団を頭からかぶる。
困ったような大石の表情を見て我に返ったは、自分がいかに突拍子も無い事を聞いてしまったのかを自覚せざるをえなかった。




(何言ってるんだ俺ってば?!先輩困ってるじゃないか!)



?」

もぐりこんだ布団の外側から、戸惑いがちに声が掛けられる。
それでもは顔を出す事が出来なかった。
大石を困らせるつもりは無かったのに、結果として自分の想いが大石を困らせた事は変えようが無い。
けれど、誰よりも大石に自分の存在を求められたいという強い想いは、こうしている今でも決して無くなる事はなかった。
こうして自分の為に家まで来てくれただけで充分な筈なのに、どうしてもそれ以上を望んでしまう自分がいる。
そんな自分が酷くわがままに思えた。


「なあ、?」

クスリと笑う声がして、先程より幾分優しげに大石が声を掛ける。

「冷たいもの……欲しくないか?」
「え……?」

思いもしなかった言葉に思わず布団から顔を出したは、布団をめくった瞬間に飛び込んできた大石の満面の笑顔に、驚いたように目を瞬かせた。

「やっと顔を出したな。」
「あ…っ!」
「おい!又もぐるのは無しだぞ?」

もう一度布団をかぶろうとしたに、いち早くストップをかけて、大石はおかしそうに小さく笑う。

「来る時にリンゴと桃を買ってきたんだ。食べられるか?」

テニスバックと一緒に床に置かれていた小さなビニール袋を軽く持ち上げて見せて、大石は不思議そうに自分を見るにそっと片目を瞑ってみせる。
大石が袋を開けると、良く熟したフルーツの甘い匂いが部屋に広がった。


「どうする?食べられそうか?」
「う………はい……。」

みずみずしい果物の香りが、心地良く鼻腔を刺激する。
その誘惑に勝てずに、はこっくりと大きく頷いた。

「じゃあ、悪いけど果物ナイフ借りるな?キッチンにあるだろう?」
「はい。シンクの下の引き出しの2段目に入ってる筈ですけど…。」
「分かった。じゃあ、ちょと取って来るから、はちゃんとに寝てるんだぞ?」
「はぁい。」

笑顔で頷きながらも、きちんとクギをさす事も忘れないあたり大石らしいと思いながら、は小さく苦笑する。
いつ、いかなる時もこうして相手を気遣う事はそう簡単な事ではない。
それを、ほぼ無意識に出来てしまうのが大石の美点であり、大石が大石であると誰もが認める人となりだろうとは思った。


「あ、大石先輩!!」


部屋を出て行こうとする大石の背中に向かって、咄嗟には声を掛ける。



「あの…っ凄く嬉しい…です………。」



精一杯の想いを込めて呟く。
呼び止めた相手に掛ける言葉としては酷く滑稽なもののようにも思えたが、それが何より自分自身の今の気持ちを表すのに一番最適なもののような気がして、はそう言って口元をほころばせた。
こうして大石の顔を見る事が出来たのも、わざわざ自分の為に果物を買ってきてくれたのも、おかしな質問にも優しく微笑んでくれる事も、全てが嬉しい。
今はこうして大石が自分の為だけに側にいてくれるだけで充分だった。



「……俺もだよ。」



フワリと笑ったの、いつになく幸せそうな微笑みに大石も幸せな気分になって、自然に笑みがこぼれる。
どんな気のきいた言葉より、の素直な言葉や笑顔の方が、大石には何倍も嬉しかった。


















「ふう……参ったな……まさか俺はどう思ってるんだー?なんて聞かれるとは思わなかった。」


後ろ手に閉めたドアに、ほんの少しだけ寄り掛かって、大石は微かに顔を赤らめて小さく息をつく。
大石の知っていると、まとっている雰囲気が違うと感じるのは、決して病のせいだけではないようだった。

「どう思ってるかなんて……俺の方が知りたい位だ。」

溜息をつきながら片手で頭を抱える。
大石自身、どうしての家に来たのか分からなかった。
今までだって何人もの部員が体調を崩して学校を休んだけれど、何か用事でもない限り大石がわざわざそこの家まで行くような事など無かった。
それなのに、が学校を休んだと聞いた途端、行かなければという衝動に駆られて、着替えもそこそこに部室を飛び出していた。
何が大石をそこまで駆り立てたのか、大石自身にも分からない。
確かにダブルスのパートナーとしてと組むようになってからは、他の一年生よりも特別な存在として見ていたけれど、それはパートナーとして、一人の後輩として見守っていこうという気持ちでしかなかったはずだった。
それなのに、の笑顔を見た瞬間、大石の中にあったはずの全てが音を立てて崩れ落ちた。
の幸せそうに綻んだあの笑顔を目にした瞬間に――。


「いつから……こんなに大きくなったのかな……の存在が……。」


何よりも自分自身の事が、自分の気持ちが分からなかった。
最初は、たくさんの新入部員の内の一人だった。
同じレギュラーの内の一人にすぎないはずだった。
新しいパートナーとしての存在でしかないはずだった。
菊丸以上の存在なんて、考えた事もなかったのに、いつのまにか一人の人間として、パートナーという存在以上ににを求める自分が存在していた。
ゆっくりと階段を下りながら、大石は軽く頭を振る。
こうしている間にも、の笑顔が頭を離れなかった。

「……やっぱり特別なのかな…俺にとっては……。」

そう自覚してしまえば、これほど最もな理由は他には考え付かない。
何かに突き動かされるようにの家に来てしまったのも、の問いにハッキリと答える事が出来なかったのも、の笑顔を見ただけで幸せな気分になったのも、無意識にを想っていたからだとすれば、全て納得出来る。
そして、一度自覚してしまえばもう、大石には己の感情を誤魔化す事は出来そうに無かった。



「俺は…どうやってお前に応えたらいいんだろう………。」



誰もいない廊下に、大石の呟きだけが小さく響く。
呟く大石の言葉に応えてくれる声は無かった。




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