風邪~河村編~






「……タカさん……今すぐ会いたいよぉ………。」


こんな姿を河村が目にしたら、困ったように眉を寄せるだろう事は分かっていたけれど、あの大きくて優しい存在の暖かさを、温もりを感じたかった。
骨ばった大きな手に触れたかった。

(苦しいよ…タカさん……。)

締め付けられるような胸の痛みに、すぐそばにある枕を力の限り抱きしめる。
それだけが今のに許される全てだった。
こうしている間にも放っておけばどんどんと湧き上がってくる感情の渦は、何故か全て河村の困ったような笑顔ばかりを思い起こさせる。
そんなことをしても、決してこの胸を占める狂おしいばかりの想いを抑える事など出来ないと分かっていながらも、はただ腕の中の枕を抱き締めた。




「…………?」

どのくらいの間そうしていただろう。
身体を丸め、必死に枕にぎゅっと顔を押し付けていたの耳に、遠くから微かな電子音が届いて、はそろそろと埋めていた枕から顔をあげる。
音の発信源を探してぼんやりと部屋を見回したの目は、どこか虚ろなままだった。

「電話……?母さんかな?」

ぼんやりとする視界の隅で電話の子機のランプが点滅しているのを見て、はゆっくりとベッドを降りる。
引きずるようにして動かす身体が酷く重い。
あまりのけだるさに座り込みたくなる身体を叱咤して、は鳴り続ける子機を手に取った。


「はい……です………。」
『もしもし、青春学園テニス部の河村と言いますが……。』

「たっ…タカさん?!」


不意に聞こえてきた河村の声に、は思わずビクリと身体をすくませる。
ずっとろくに水分も取らずに寝ていたからか、咄嗟に発した声は酷く枯れていて微かに裏返っていたけれど、そんな事にも気付かない程、は河村からの電話に驚いていた。

『ああ辛そうだね?大丈夫かい?』

電話に出たのがだと分かって、河村はホッと息をつく。
そしていつもに向けるのと変わらない、あの低くて優しい声のまま心配そうに声をひそめた。


「あ……少しだけ辛いけど……大丈夫です。」
『薬は飲んだかい?』
「いえ、朝飲んだきりで……ずっと寝ててさっき起きたばかりだから……。」
『朝ならもう薬の効き目も切れてるだろうから、もう一度飲んだ方が良いんじゃないかな?お母さんに胃に優しいものでも作ってもらって薬を飲みなよ。』
「胃に…優しいもの………。」


何気ない河村の言葉に、は何と言ったら良いか分からず声を詰まらせる。

『どうかしたかい?急に黙り込んで?』
「……………母さん…今居ないんです。」
『えっ?!何で?看病してくれてるんじゃないのかい?』

信じられないというように河村は驚きの声をあげる。
こうして電話越しで聞いているだけでも、辛そうなのがハッキリと伝わってくる位体調が悪そうなのに、そんなを残して出掛けるなんて信じられなかった。

「母さんこの時間パートなんです。だから多分9時位まで帰って来ないと思います。」

の言葉に電話の向こうで河村が小さく息を呑む。
その様子には、言うべきではなかったかもしれないと内心で溜息をついた。
優しい河村の事だから、看病する人間もおらず一人で寝ていると知れば、今まで以上にの身体を気遣って心配するに違いない。
これ以上河村に要らぬ心配を掛けたくは無かった。



『………なあ、もしが迷惑じゃなかったら、今から家に行ってもいいかい?』

「えっ?!」



暫くの沈黙の後、おそるおそるといった感じに河村が尋ねる。
その問いの意味を掴みかねて、は首をかしげた。

『やっぱり具合悪いのにお邪魔したら…マズイかな?』
「そんな!そんな事無いです!!でも、タカさんに風邪うつしちゃうかもしれないし…っ!」

湧き上がる嬉しさを必死に押し殺しながら、はパジャマの胸元をぎゅっと押さえる。
何だか都合の良い夢を見ているようだった。

『じゃあ、今から行ってもいいかな?』
「え…本当に来てくれるんですか?本当に?!」


心配を掛けたくないという思いと、河村に会って暖かな腕に甘えたいという欲求とがぶつかり合って、の頭の中は混乱していた。
自分が病人だから心配してそう言ってくれているのだと分かっていても、河村が自分の事を心配してくれる事が嬉しかった。
そして、河村から会いに来てくれるのが嬉しかった。


『ああ、何か欲しい物はある?』
「いえ…特には……。」
『そうかい?じゃあ、今から出るから、又あとで。』


少しだけホッとしたように息をついて、河村は声を和らげた。
その河村らしい様子に、自然に顔がほころぶ。



「タカさん…あの……っ!」

『何だい?』

「えと…気を付けて……。」
『…………ありがとう!』



優しげな河村の声に、僅かだけ笑みが含まれていて、は何だか幸せな気分になる。
河村と話すだけで、自分も優しくなれるような気がした。
河村が笑ってくれるだけで、全てが満たされるような気がした。
さっきまで起き上がる事も辛かった身体が、まるで嘘のように今は僅かの倦怠感しか感じられない。
は手にしていた子機を手放して、勢いよくベッドの上に大の字に倒れこんだ。
一分がまるで一時間のように感じる。
今ほど時間の流れが遅く感じられる事は無かった。


















河村からの電話を切ってから20分位した頃、静かな家の中にピンポーンというインターホンの音が響いた。

「あっ!いけないっタカさんだ!」

いつの間にかうたた寝をしてしまっていたは、慌ててベットを飛び出して階段を駆け下りる。
河村の来るのを今か今かと待ちわびていただったが、予想以上に体調は回復していなかったらしく、気絶するようにして意識を失ってしまっていた。
階下からインターホンの音が聞こえなければ、そのまま寝続けてしまったかもしれない位に今のの身体は未だ充分な休息を求めていた。


「ごめんなさい!今開けます!」


インターホンに出る事無く、部屋からそのまま玄関までだるい身体を引きずりながら駆け下りると、私服に着替えた河村が心配そうにドアの前に立ち尽くしていた。

「おいおい、大丈夫かい?そんなに慌てないでいいよ。」

勢い良く開けられたドアに戸惑いながら、河村は眉を寄せる。
寝ていた所を慌てて起き上がったのか、パジャマは微かに乱れ、短い髪が絡み合っている。
そんなの姿を目にして、河村はそっとの柔らかな髪に手を伸ばした。

「タカさんっ?!」

不意に大きな手が髪に触れて、はピクリと肩を震わせる。
優しく髪を梳く河村の手の感触が暖かくて、くすぐったくて、は照れ臭そうに目を細めた。


「ごめんな、寝てたんだろ?」
「あ、すいません。起きてるつもりだったんだけど……。」
「いいんだ。こっちが急に押し掛けちゃったんだから。でも、やっぱりまだ辛そうだね?」


の絡んだ髪をそっと整えてから、屈み込むようにしての顔を覗き込む。
少し虚ろな瞳が僅かに潤んでいる。
発熱のせいで紅くなったの頬や額を見て、河村は心配そうに目を細めた。

「でも、少し楽になったんですよ?」
「そう?じゃあ、もっと辛かったんだね。」

玄関先で立ち尽くしたままだった事を思い出して、家の中に足を踏み入れながら、河村はまるで自分が辛いかのように表情を歪めた。
生気に満ち溢れた普段のと違って、だるそうに動かす身体や、ぼんやりとした瞳が、いかに体調がすぐれないのかを物語っている。
電話口で感じた辛そうな状態は、やはり思い過ごしなどではなかった。


「とりあえずは部屋に戻って寝た方がいいよ。」
「あ……はい。」
「俺は悪いけど、ちょっと台所を借りるから。」

「台所??」


不思議そうに河村の顔を見上げるに、河村は手にしていた大きめの風呂敷包みを持ち上げてみせる。

「何も食べてないんだろ?薬を飲むにしても空腹には刺激が強いからね。簡単なものを作るから、それを食べて薬を飲んだら、ゆっくりと寝るといい。」

そう言って河村はを階段の方に促した。
家の中とはいえ、病人がパジャマ一枚で起きているには、この状況はいささか寒すぎる。
小さな肩が段々と冷えていくのを感じながら、河村は眉根を寄せた。


「大丈夫です、これ位。」
「ダメだよ。病人はちゃんとに言う事聞いて早く治さないと、な?」


たしなめるようにそう言って、河村はの頭をポンッと軽く叩く。
その河村の言葉は最もだったが、は素直に頷けなかった。
せっかく来てくれた河村と、もっとずっと一緒に居たいという想いが強くて、少しでも離れている事に耐えられない気がしていた。


「早く治してくれよ?辛そうなの顔なんて、見たくないからな。」


幾分照れ臭そうに笑って、河村は頬を軽く掻いてみせる。

「…タカさん………。」

本当に心底心配してくれているからこそ、こうしてわざわざ見舞いにも来てくれるし、自分の為に食事まで作ろうとしてくれているのだと思うと、の胸は熱い想いで溢れそうになった。
嬉しさと切なさとがごちゃ混ぜで、上手く言葉が出ない。
心配してくれる河村には悪いと思いながらも、何よりも河村に心配される事が心地良かった。


「さ、これ以上無理はさせられないからね。ほら、おいで。」


何とか納得した様子のに、にっこりと笑って、河村は背中を向けて腰を落とす。

「え?」
「背負っていくから早く乗れって。」
「あっ?!だっ大丈夫です!!一人で歩けますからっっ!!」


想像もしなかった河村の態度に、慌てたようにはバタバタと手を振る。
暖かな河村の背中の誘惑も大きかったが、それよりも男として、背負われる事は何だか恥かしかった。

「いいから。こういう時は素直に言う事聞いておけって。それに一回の部屋に行かないと、どこがの部屋か分からないしね。」

なおも笑顔でそう言う河村に、は困ったように眉を寄せた。
振り返りざまにじっと見詰められて、何だか熱以外に顔が酷く熱く感じる。
こうして優しく微笑まれてしまうと、自分が酷い我が侭を言っているようで、それ以上の抵抗が出来なくなってしまう。
は照れ臭さに更に頬を紅くして、半ば諦めたように小さく息をついた。


「………お願いします。」
「よし!しっかり掴まってろよ?」


恐る恐る河村の背中に身体を乗せると、力強い腕がしっかりとの身体を支えてくれる。
背負われている恥かしさは消えようも無いけれど、触れている河村の暖かな大きな背中に、はクラクラするような幸福感を感じていた。


















、入ってもいいかい?」

言葉通りをベットに寝かしつけてからキッチンへ行っていた河村が、ノックをするかわりに部屋の前で声を掛ける。
その声に気付いて、は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。


「どうぞ!」

の声に促されて、河村はゆっくりとの部屋の扉を開く。
起き上がることを止められていたは、ベットの上に横になったままの状態で、開けられた扉の方へと視線を向けた。


「遅くなってごめんな。できるだけ胃に負担の掛からないものにしたつもりなんだけど。」


温かな湯気をたたえる小さな土鍋を載せたお盆を手に、河村は静かに笑みを浮かべた。

「うわ……いいにおい………。」

美味そうな匂いを漂わせながら近付いてくる河村の姿を、は幸せそうに見上げる。
朝に一度軽く口にしてからは、まともな食事を取っていなかった胃が、現金にも美味そうな匂いに軽く悲鳴をあげてしまう。
そんなの様子に、河村は微笑ましそうに目を細めた。

「あ、無理に起きなくていいよ。」

ベッドのすぐ横にある机の上に一度お盆を置いて、河村は起き上がろうとしたの動きを止める。

「でも、それじゃ食べられないし……。」

河村の言葉に不思議そうに目を瞬かせて、は覗き込んでくる河村の顔をじっと見詰めた。

「いいから。ほら、ちゃんとに布団に入って。」

子供を寝かしつけるようにして掛け布団を軽く叩く河村に、不思議そうに首をかしげながらは言われた通りに再び布団の中にもぐりこむ。
それを見て満足そうに頷いた河村は、ベッドの脇に置いたイスに腰掛けると、机の上に置いたお盆を自らの膝の上に置いた。
河村が土鍋のふたを取ると、いっそう強いにおいが広がっての鼻腔をくすぐる。
お盆の上に置かれた木製のスプーンを手にして、河村は寝たままのに小さく笑ってみせた。

「とりあえず、おじやにしてみたんだ。これだったら食べられるかなーと思って。」

土鍋の中のおじやをすくい上げると、美味そうな匂いと共に、温かな湯気が立ち上る。
それを少し冷ましてから、河村はベッドに横になったままのの口元に、そのスプーンを差し出した。



「えっっ?!ええええっっ?!!」



突然の事に、は動揺して目を白黒させるしかなかった。
起き上がることはないと言った河村の言葉の意図をようやく理解する。
こうして他人に食べさせてもらうという事は、病人としては別に珍しい事ではないのかもしれないが、起き上がることも自分で食事を取る事も出来ない程に重病な訳ではない。
思いもしなかった事態に、は差し出されたスプーンを前にピタリと凍り付いてしまった。

「ほら、冷めるよ?口を開けて?」

差し出されたスプーンと河村の顔を暫く困ったように見比べてから、やがて観念したようにはおずおずと口を開ける。
そっと口の中に差し込まれたスプーンにかぶりつくと、温かなおじやの味が口いっぱいに広がった。


「あ、美味しい…………。」
「そうかい?良かった!」


思わず零れた呟きに、ホッとしたように河村が胸を撫で下ろす。
そしてもう一度おじやをすくい上げて、の口元にそれを近付けた。
柔らかく煮られたネギやニンジン、それに鮭や玉子などを一緒に入れたおじやは、暖かく空腹の胃に染み渡っていく。
こうしていると、恥かしい事よりも満たされるような暖かな想いが広がっていって、は思わず口元を綻ばせていた。


「タカさん?」
「ん?何だい?」

「凄く美味しいです!」


幾分か頬を照れ臭そうに染めながら、はニコリと笑う。
その素直な微笑みに、河村は一瞬だけ目を見張ってから、すぐに表情を緩める。
向けられた笑顔は、今まで河村が目にしたどんな笑顔よりも幸せそうに見えた。


















「ごちそうさまでした!」

河村手作りのおじやを平らげて、は満足そうに息をついた。
ホカホカと身体の中から暖かくなって、手先や足の先までがじんわりとしてくる。
食べ終わった後に、ダイニングのテーブルの上に置いてあった薬を水差しで飲ませてもらいながら、はたまにはこんな日もあってもいいかな――とぼんやりと考えていた。
身体が辛いのは嫌だけれど、ここまで河村に甘えられる事など、そうある事ではない。
くすぐったい想いと共に、嬉しさがあるのも確かだった。

「じゃあ、俺はこれを片付けてくるから、はちゃんとに寝てるんだぞ?」

静かに頭を撫でてくれる河村の手に、は小さく頷く。
自然に顔が緩んでしまうのを止められなかった。


「あ、タカさん…。」

「どうした?」


部屋を出て行こうとした河村の後ろ姿に、不意にポツリとが声を掛ける。
いささか戸惑ったように視線を彷徨わせるの姿に、小さく首をかしげて河村は続きの言葉を待った。



「甘やかしてくれてありがとうございます。その……恥かしかったけど、凄く嬉しかったです……。」



えへへ…と笑って、は掛け布団をバサリと頭までかぶる。
その言葉に、小さく息を呑んでから、河村は静かに微笑んで部屋のドアを閉めた。
パタンという音と共に、小さく溜息が漏れる。


「甘やかしてるのかな、俺……。」


そこまで呟いて、河村は手の中の土鍋をじっと見詰める。
自分の作ったものを、本当に美味しそうに、幸せそうに食べてくれたの、まだあどけない笑顔がちらついて仕方なかった。

「それでも、お前の為なら何でもしてやりたいって思ってしまうんだ……。」

小さな身体で精一杯頑張る姿が、とても好ましかった。
素直で力強く、綺麗な瞳が更に先を目指そうとしている姿を見るのは、嬉しかった。
だからこそ、の為なら出来る限りの事をしてやりたいと思った。
それがテニスの事だけでなく、一人の人間としてである事に気付いたのは、もうずいぶん前の事かもしれない。




「守ってやりたいと思ってしまうのは……お前にとっては迷惑な事なのかな?」




階段を数歩降りかけて、河村はそっと後ろを振り返る。
今は閉ざされているの部屋のドアが、何だかとても遠く感じられた。

「お前が笑ってくれるだけで良かった筈なのに………。」

自嘲気味に呟かれた言葉が静かに消えていく。
暫くの部屋のドアを見詰めていた河村は、迷いを断ち切るかのように大きく首を振った。
やがて大きく溜息をついて河村は静かに階段を下りていく。
静かな家の中は、時計の刻むカチコチという音と、河村の足音、そして静かなの寝息だけが響いていた。




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