風邪~乾編~
「乾先輩……会いたい……よぉ……。」
乾の事を考えるだけで、涙が溢れて止まらない。
今すぐ会いたいという想いが、まるで涙腺まで壊してしまったかのようで、の頬を零れ落ちる涙はいくら拭っても止まる事は無かった。
「…乾…っせん……ぱいっ……。」
嗚咽の合間に零れ落ちる名前。
普段は眼鏡に隠れて窺い知る事の出来ない表情が、を見るほんの一瞬だけ僅かに優しく綻ぶ、その一瞬がは好きだった。
その時だけはダブルスのパートナーとしての存在以上に、『』という一人の人間として自分を見てくれているような気がして、幸せな気持ちになれた。
だからこそ、不安と寂しさで押し潰されそうなこんな時こそ、無性に乾に会いたくてたまらなくなる。
は荒れ狂う己の感情をどうする事も出来ずに、込み上げる嗚咽を必死に抑えようと小さく唇を噛み締めた。
「…乾先輩……乾先輩っ……乾…先輩………。」
何度も何度も、ただひたすらに乾の名を呼び続ける。
そうする事でしか、今の不安定な自分自身を支えられなかった。
目を閉じると、いつもと変わらない乾の姿がぼんやりと浮かび上がる。
縋りつくように、必死の思いで瞼の奥の乾に手を伸ばした時だった。
「…っ?!」
不意に枕元に置かれたままの携帯電話から、聞きなれたメロディーが流れた。
「…まさか……っ?!」
数ある携帯の着信メロディーの中で、何よりも特別でが今一番聞きたいと思うメロディー。
このメロディーだけは、間違える筈は無かった。
熱でふらつく身体を引きずりながら、枕元の携帯へと手を伸ばす。
微かに伸ばした手が震えていたのは、発熱のせいだけではない事は、自身何となく分かっていた。
鳴り続ける携帯を手に取り、そっと液晶画面に触れる。
メロディーと共にその液晶画面に表示される、判っていた筈の名前に、は小さく息を呑んだ。
誰からの連絡か判っていた筈なのに、心のどこかでそれを信じられないと思う自分が居た。
だからこそ表示された名前を見て、思わず画面を凝視してしまった。
液晶画面に触れる指がさっきよりも震えている。
それでも気力を振り絞って、は口を開いた。
「はい……。」
『もしもし?か?乾だけど…。』
「乾…先輩…。」
言葉が詰まってそれ以上声が出なかった。
『風邪で学校休んだそうだけど、大丈夫か?』
本当にいつもと何も変わらないような乾の声。
声変わりを過ぎた少し低いその声を耳にした途端、さっきまで胸の辺りにつかえていた何かがすーっと溶けていくような気がした。
「あ…はい。大丈夫…です。すみません、心配掛けてしまって。」
『いや、熱はどれ位ある?』
「えと…さっき測ったときは37.8℃でした。」
『そうか…まだ少し高いな……まだ明日は出てこられそうもなさそうだな。』
ほんの少しだけ残念そうにひそめられた言葉に、はそっと目を伏せた。
乾の声を聞くことで、ようやく治まってきた胸のモヤモヤが、じわじわと再び胸を覆っていくのを感じる。
たとえ今すぐ会えなくても、こうして声が聞けるだけで良かった筈なのに、また明日も乾には会う事が出来ないと思うだけで、押さえ込んだはずの、今すぐ会いたいという想いが膨れ上がっていくばかりだった。
「そう…ですね……。」
かろうじて零れ落ちたのは、そんな言葉だけ。
モヤモヤとした胸元をぎゅっと押さえながら、は小さく唇を噛む。
それ以上は何と言ったら良いのか、今のには分からなかった。
『………?お前…………泣いてたのか?』
「え………?」
暫くの沈黙の後、ふと向けられた戸惑いがちな乾の言葉に、は咄嗟に答える事が出来なかった。
「………や、やだなぁ乾先輩。風邪で変わったように感じるだけでしょう?」
内心の動揺を隠すようには、ことさら明るい声で乾に応える。
そうしないと、本当にこのまま泣き出してしまいそうだった。
『そうか?』
「そうですよ!いやだなぁ。」
『…だが……いや、俺らしくない言い方かもしれないが……。』
乾自身、何と言ったら良いのか分からないのか、彼にしては珍しく僅かに言いよどんでから小さく息をつく。
『いつもと感じが違う……。』
「…っ……何…言って………。」
『泣いていたんだろう?』
暫くして、ようやく途切れ途切れに応えたの言葉に、今度はしっかりとした自信に満ちた乾の声がかぶさる。
その言葉に、は今度こそ完全に言葉を失った。
(どうして――?)
『どうして分かったんだろう……と思ってるだろう?』
「―――っ?!」
『解るよ、のことなら何でもね。』
受話器の向こうで乾が微かに笑う。
それが冗談なのか本気なのかには分からなかったが、その声は今までになく心地良くの心に響き、そして心の奥深くに染み込んでいった。
まるで乾いた心に恵みの雨が降るかのように――。
『誰よりも部員の事は…いや、の事は分かっていると自負しているつもりなんだが……違ったか?』
「乾…せんぱ…い……。」
『………俺に会いたいと……思っていただろう?』
「…っっ?!な、何で……っ?!」
『言っただろう?の事は何でも解ると。』
そこまで言って乾は言葉を切った。
ほんの少しだけ小さくなった声は、乾が本気でそう言っているのだとに信じさせるに充分だった。
『俺に解らない事はないよ。の事だからな……。』
優しく囁かれた言葉。
この場に居なくとも、乾が自分の事を少なからず思ってくれている事は、その声音だけでには痛い程伝わる。
それが何より今のの心を安らげた。
そして、胸の中にわだかまっていた重い何かを、乾なら解きほぐしてくれるような気がした。
「先輩……会いたい……です……。」
ほんの一言、微かに震える声ではポツリと呟く。
胸の辺りを握り締めた手の平が小さく震える。
喉がヒリヒリして声も掠れていたけれど、それでもそんな事はどうでも良かった。
自分の中にある溢れる感情を伝えずにはいられなかった。
たとえそれが乾を困らせる事だとしても。
『……。』
「会いたいです……。」
同じ言葉を繰り返す。
どうしても会いたいと思う気持ちと、こんな自分を見せる事で呆れられるんじゃないかという不安とが入り混じって、それ以上うまく言葉に出来ない。
けれど、一度口をついた想いは、溢れるばかりで止めることが出来なかった。
『どうして、そんなにすまなそうに言うんだ?』
溜息と共に乾が小さく笑う。
「だって、こんな急に……。」
『急に会いたいと言うのは、俺もした事だろう?覚えてないか?』
電話越しの乾の言葉に、は訝しげに首を傾げる。
乾が自分と同じように何かを抱えての存在を求めた事があったなんて、にはどうしてもそれは思いあたらなかった。
『まあいい。今からお前の家に行っても構わないか?』
「はい。母さんはパートで9時位まで帰ってこない筈ですから。」
『……そうか。じゃあ、20分位で着くと思う。』
「…はい…。」
『それじゃあ、又後で。』
ツーツーという音を聞きながら、は小さく息をついた。
半ば呆然としたまま通話ボタンを切る。
あんなに会いたくて会いたくてたまらなかった乾に本当に会う事が出来るなんて、信じられなかった。
都合の良い夢を見ているんじゃないかという思いが、いつまでも手の中にある携帯電話を手放せないでいる。
「先輩に…会える……。」
自分に言い聞かせるように呟いて、はほんの僅か震える己の身体をぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫か?」
インターホンの音に気付いて玄関に向かったが、ドアを開けた途端に掛けられた最初の言葉は、想像よりもかなり短いものだった。
「すいません、先輩。わざわざ来てもらって……。」
「ああ、別に構わないよ。それより起きて大丈夫か?」
「ええ。おかげで少し楽になりました。」
「とはいっても、まだ顔が赤いな。熱が上がってるんじゃないか?」
心配そうにの目線まで屈みこんで額に手を伸ばす。
ヒヤリとした乾の手の冷たい感触に、は小さく身を震わせた。
「すまない。冷たかったか?」
「いえ、大丈夫ですよ。」
「だが、やはりかなり熱はあるな。寝ていた方がいい。部屋に行っても構わないかな?」
パジャマのまま玄関先で立ち尽くしていたの身体に、着ていたハーフコートをかけて、乾はほんの少しだけ表情を和らげた。
いつも、をその瞳に映す一瞬だけ見せる、柔らかな表情。
その、何よりも求めていた柔らかな眼差しと、にはかなり大きいハーフコートから伝わる乾の温もりに、は再び自分の視界がぼんやりと歪んでいくのを感じていた。
「?!」
ポロポロと涙を流すの姿に、小さく息を呑んで乾は声をあげる。
それをどこか遠い事のように感じながら、はゆっくりと瞳を閉じた。
「どうかしたのか?」
これまでが一度も耳にした事が無い位に静かで優しく響く声。
目を閉じてもすぐ側に感じられる乾の存在が暖かくて嬉しくて、は覗き込んでくる乾の見た目よりも逞しい胸元に、そっと額を預けた。
「…?」
「乾先輩……俺……っ!」
何と言ったら良いのか分からないまま、はそのまま言葉を詰まらせた。
込み上げてくる嗚咽を抑えようとすればするほど涙がこぼれて、小さくしゃくりあげてしまう。
乾の前では泣かないつもりだったのに、こんな情けない所を見せたくは無かったのに、今日は何故か感情の高ぶりに耐えられなかった。
「先輩っ?!」
ふと、静かに身体を引かれて、は驚いたように涙に濡れる瞳を見開く。
開いた瞳の先には廊下に掛かる小さなカレンダー。
乾の大きな腕の中に抱き込まれていると気付いたのは、暫くしてからだった。
「なに…?乾……先輩?」
「大丈夫か?震えている……。」
小さな呟きが、すぐ真横から聞こえてきては初めて自分が震えていた事に気付いた。
「あ…俺……。」
「今は……何も言わなくていい。」
何とか言葉を捜そうとするの言葉をさえぎって、乾はゆっくりとの顔を己の肩口に押し付ける。
泣き顔を隠してくれる乾の腕は、下手な言葉よりも優しかった。
抱きかかえた方の腕とは反対の手がフワリと髪を撫でていくのを感じて、は声を詰まらせたまま大きく泣き崩れる。
は何年かぶりに人の腕の中で泣く事を己に許した。
「すっきりしたかい?」
「ごめんなさい、先輩。俺……。」
泣き腫らした目で申し訳無さそうに俯いて、は腰まで掛けられた布団をぎゅっと握り締める。
俯いたまま上目遣いに見上げたの視線は、乾の学生服の肩口に向けられていた。
「構わないよ。これ位大した事は無い。」
自分の学生服の肩口に出来たシミを見てから、乾は苦笑してみせた。
の涙で濡れた制服は、必ずしも問題なく着られるとは言い難かったが、それでも乾は嫌な顔一つ見せない。
それが余計にに罪悪感を抱かせた。
「でも、俺あんなみっともない所……。」
「体調が悪い時は精神的にも負担が大きい。感情も不安定になるものだしな…気にすることはないよ。」
「何でだろう…俺、なんか…今日凄くおかしいんです。」
自分に起こった異変を、どう伝えたら良いのか戸惑いながら、はベッドのすぐ脇に座る乾の顔を不安そうに見上げた。
「心と身体は密接に繋がっているものだからな…普段と違って情緒不安定にもなる。誰にだってある事だよ。」
「誰にでも?……乾先輩も?」
「…さあ?どうかな?」
見上げてくるの視線に僅かだけ口の端を引き上げて、乾は曖昧に答える。
そして、そのまま訝しがるをゆっくりとベットに横たえさせると、そのままの問いには答えようとはしなかった。
「あ!先輩もって言えば…先輩、そういえばさっき電話で、先輩も会いたいと思って俺を呼んだことあったって言ったでしょう?それっていつの事ですか?」
「やっぱり覚えてないか?俺は忘れられないけどね……いよいよ全国大会に臨もうという不安を抱えていた時だからな。」
「あ!全国大会の前日……?!」
「そう…初めてお前に支えられた日だからね、忘れられない。」
そこまで言って乾は口元をほころばせた。
「おっ…俺だって忘れてません!初めて先輩の不安とか、脆い部分みたいなのを見る事が出来た日ですから!」
「そうかい?まあ…でも、俺も今日初めての脆い部分を見たよ。お前には悪いけど、少し嬉しいのも本当だ。」
瞳に掛かったの前髪をそっとかきあげながら、乾は再びの好きなあの柔らかい表情を向けて笑ってくれた。
その乾の柔らかな空気に包まれる居心地の良さは、の心身の緊張をほどくには充分だった。
緊張と気まずさに堅くなっていた身体の奥から段々と力が抜けていって、は少しづつフワフワとしたまどろみの世界へと落ちていく。
微かに笑う乾の声を聞きながら、は一つ大きくあくびをもらした。
「これ以上は身体にも良くない。暫く眠った方がいいだろう。」
「あ…でも先輩は?」
重くなった瞼を必死に持ち上げて乾を見るの瞳は、微かな不安に揺れていた。
そんなの姿にやれやれというように苦笑して、乾はベット脇のイスに再び腰を降ろす。
「しばらくここに居るよ。心配する事は無い。」
小さな子供をあやすように数回布団を軽く叩いてから、乾は未だ熱を持ったままのの頬へと大きな手の平をすべらせた。
「あ……やっぱり…乾先輩の手、冷たく…て…気持ち…いい…。」
火照った頬や額に触れる乾の手に、は今日初めて小さく微笑む。
今まで自分の中を吹き荒れていたモヤモヤとした想いがまるで嘘だったかのように、の心は晴れやかだった。
安心感とも満足感ともつかない穏やかな感情が、身体中に満ちていくのを感じながら、張り詰めた緊張から開放されたは、訪れた睡魔に逆らう事なく、穏やかな眠りの世界へと落ちていく。
今なら幸福な夢を見られそうだと思いながら、は暖かな闇にその身を委ねた。
「…………一つだけ俺は嘘をついてしまったな……。」
静かな寝息が一定のリズムで聞こえ始めた頃、ポツリと小さな声が、薄暗くなった部屋にこぼれた。
を起こさないよう注意深く動く手が、少し汗ばんだの髪をかきあげる。
あどけない寝顔を見せるに一瞬だけ苦笑して、乾はずり落ちた布団を引き上げた。
「電話でお前が泣いてるのに気付いたのは確かだけど、会いたがってる事に気付いたっていうのは偶然だよ…。」
が起きていない事を確認してから、ゆっくりとフトンに顔を埋めて乾は更に小さく呟く。
「俺が会いたいと思っていたから、そうだと思った…。ただ、それだけだと知ったらお前は何て言うかな……。」
自分に苦笑しながら乾はもう一度の髪に手を伸ばした。
「本当は分からない事ばかりだ……の事は……。」
そう呟いて、乾は誰にも見せたことの無い笑顔を浮かべる。
その小さな呟きは誰の耳にも届くことなく、静かに夕闇に溶けていった。