グレイの毛並みと、人懐こい瞳が印象的な……鳳長太郎という大型犬を――。
犬と傘と雨
その日俺は、次の定例議会で話し合う議題についての準備をしていて、帰宅時間がかなり遅くなってしまっていた。
気付くと、もう時計は7時を指している。
部活動をしている生徒くらいしか残っていないような、こんな時間まで学校に残っていたのには訳がある。
俺は今期生徒会の副会長職を務めているが、その生徒会業務でトラブルが発生したのが、そもそもの原因だった。
明日の午後までに揃えなくてはならない過去の案件資料を、会計の奴が何処かへやってしまって、生徒会役員総出で生徒会室の資料棚をひっくり返しての、大捜索となってしまったからだ。
結局、棚の中から出てきたから良かったものの、そのまま見つからなかったら帰りは何時になったか分からない。
そんなこんなで、俺はこうして外が真っ暗になってから学校を出る羽目になってしまった。
「あー全く…疲れたーー!」
俺は右肩をぐるぐると回して大きく伸びをする。
こんな日は早く帰って、さっさと風呂にでも入ってしまいたい。
そんな事を考えながら靴箱に向かっていた俺は、電気が点いているとはいえ、かなり暗くなった昇降口のドアの前にぼんやりと立ち尽くす人影に気付いた。
「ん?」
ひょろりとした長身に、特徴的なグレイの髪。
どこかで見覚えがあるのだが、誰だか思い出せない。
何か引っかかるものを感じながらも、俺はそのまま靴箱で靴を履き替え、そいつの前を通り過ぎようとした。
「あの~すみません、傘持ってます?」
ちょうど、そいつの目の前を通り過ぎようとした時、ふと、そいつが声を掛けてきた。
「は?!」
「いや、だから傘…持ってませんかね?もしあったら一緒に入れて欲しいんスけど…。」
そう言ってそいつは外を指差した。
「かなり大雨降ってて帰れないんですよ。良かったら入れてくれません?」
確かにそいつの言う通り、建物の外はかなり強い雨が降っている。
小雨程度だったら走って帰るという事も出来たのだろうけど、さすがにここまで大粒の雨だとそうもいかないらしい。
仕事と資料探しで頭がいっぱいで、外の天気なんか気にもしていなかったから、いつの間にか雨が降り出している事にも全く気付かなかった。
「入れてくれって……何処までだよ?」
「できれば駅まで……。」
「残念だったな、俺は駅とは反対方向なんだ。悪いけど別の奴に頼んでくれ。」
少し可哀想かな――とは思ったものの、はっきり言って見ず知らずの奴にそこまでしてやる義理も無いだろう。
知り合いならともかく、コイツとは初対面だ。
コイツがどういう奴かも分からないのに、ホイホイ言う事を聞いてやるほど俺はお人よしじゃない。
俺は、このままこの場を離れようと、そいつの前を通り過ぎようとした。
「そんな~見捨てないで下さいよー。こんな時間に他に誰が居るっていうんですか?」
縋るような視線を向けて、そいつは俺の前で手をあわせる。
俺より背は高いくせに、おじぎをするように前屈みになっている為、上目遣いで俺を見上げてくる。
その瞳は、雨の中捨てられて「拾ってくれー!」と鳴き声をあげている捨て犬のようだった。
「どうして俺が、見ず知らずのお前にそこまでしてやらなきゃいけないんだ?」
「そんな事言わずに入れて下さいよ。『一生徒の為でも全力で動く!』がモットーでしょ?先輩?」
そう言ってそいつはニッコリと笑みを浮かべた。
「……何で俺を知ってるんだ?」
「そりゃあ誰だって知ってますよ。今生徒会一のキレ者で容姿端麗・頭脳明晰、クールな物腰が人気の生徒会副会長…なんですから。」
「おだてたって送らないぜ?」
「えー?!そう言わずにお願いしますって!このままじゃ俺帰れないっスよ。」
拝むように手を合わせて頭を下げると、そいつはじっと俺を見詰める。
その瞳といい、しぐさといい、本当に犬のような奴だと思う。
妙に人懐こいのも、目で訴えてくるのも、全てが犬っぽい。
それも、これは……明らかに大型犬だ。
何だかこのまま放っておいたら、罪悪感にさいなまれそうな感じがする。
俺は思わず大きく溜息をついてしまった。
「元はといえば、こんな時間まで何してたんだよ?」
コイツ自身が口にしたように、こんな時間になれば流石に人も少なくなる。
もっと早い時間に誰か同じ方向の奴を捕まえていれば、こんな事にもならなかったはずなのに。
「そりゃー決まってるじゃないですか、部活です。」
「部活?」
「はい。俺テニス部なんですよ。一応これでもレギュラーです。」
俺の問いに、ニッと笑ってそいつは片目を瞑って見せた。
テニス部といえば、うちの学校でも一目置かれている優秀な部だ。
全国大会常連校としての実績が、校内でも認められて、かなり優遇されている。
そのテニス部なら、確かに遅くまで練習していてもおかしくはなかったが、だったら他のテニス部員だって居る筈だと思う。
けれど、この場にはコイツ以外それらしい姿は見当たらなかった。
「テニス部……ああ、宍戸の所か……。」
俺はあれこれ考えながら、テニス部に所属している友人の顔を思い浮かべた。
宍戸は俺のクラスメイトだ。
2年生の時から同じクラスだから、結構親しくしている。
他の奴に言わせれば、俺と宍戸がウマが合うというのは、かなり意外な事らしいが、俺達はそんな声をよそに普段は一緒に行動する事が多い。
そこまで考えて俺は、はた――とある事に気付いた。
「お前……いつも宍戸の後追っかけてる…………鳳…だっけか?」
ようやく記憶の糸が繋がった。
どこかで見た覚えがあると思っていたら、宍戸に会いによく教室に来ていたテニス部の2年生、鳳長太郎だった。
「俺の事知ってるんですか?!」
鳳は俺の言葉に驚いたように目を見開く。
そりゃあそうだろう。俺達はさっきまで面識すら無かったんだから。
「よく宍戸の所に来るだろう?あいつから名前くらいは聞いた事ある。」
不思議そうに首をかしげている鳳に事情を説明してやると、納得したように何度も頷いて、鳳はニッコリと笑った。
「嬉しいなー先輩が俺の事知っててくれたなんて♪」
ウキウキとした調子で鳳はニコニコと無邪気に笑顔を向けてくる。
その様子は、やっぱり大型犬が引きちぎれんばかりにシッポを振っているようにしか見えなかった。
「知ってると言っても、名前だけだ!」
「それでも知ってる事には変わらないっスよ。これで俺達見ず知らずの他人じゃありませんね?!先輩?」
そう言って鳳は少し首をかしげて俺を見下ろした。
その素振りに、ほんの少しだけ可愛いと思ってしまったのが何だか口惜しい。
かなり一方的なことを言われているのに、俺は言い返すことが出来なかった。
エサを目の前にして目を輝かせている犬から、急にエサを取り上げるのと同じような気がしたからだ。
「という事で、駅までよろしくお願いします!」
「……って、何が『という事で』だ?!」
俺は思わず頭を抱えてしまう。
これ以上の問答をする気にもなれず、頭を振って俺は手元にあった傘を開いた。
ここでこんな事を続けていたら、いつまでたっても帰れそうにない。
俺は早い所この場を離れようと、右手に傘を持って昇降口を出た。
「あ、俺が傘持ちますよ。俺の方が高いんで。」
2・3歩も歩かない内に、ひょいっと右手の傘が手元から離れる。
「なっっ?!!」
当然のように俺の右横に並んで、俺の傘を手にしている鳳。
あまりの強引さに、俺はあっけにとられて目を見開いた。
「もう少し寄らないと濡れますよ?先輩?」
「おっ…お前な!一体いつ俺がお前を傘に入れると言った?!」
「まあまあ…そんな事言わずに早く帰りましょうよ。あまり暴れると本当にびしょ濡れになりますよ?」
「まあまあ…じゃない!」
のほほんとした鳳の言葉に少し声を荒げる。
その俺の反応に、鳳は一瞬ビクッと身体をすくめた。
別にそこまで鳳を傘に入れるのが嫌な訳じゃない。
少なくとも誰だか分からなかった時よりは、今は駅に送るくらいはしたって構わないとは思う。
ただ、上手いように鳳に乗せられてしまったような感じがするのがシャクなだけだ。
だから、素直に頷く事が出来なかった。
「先輩、怒り……ました?」
少し強引過ぎたという自覚があったんだろうか。
鳳は足を止めて、不安そうに俺を見下ろした。
その様子は、叱られて耳もシッポもパタリと落ち、シュンとしている犬そのものといった感じだった。
「すんません。俺嬉しくって…つい調子に乗っちゃって……。」
俺の目を見る事無く、鳳は手にしていた傘を差し出した。
俯いたまま、おずおずと手を伸ばしてくる。
そんな鳳の様子に俺は小さく苦笑するしかなかった。
「……バカ。怒ってねーよ。」
肩を落とす鳳の背中を一度だけ軽く叩いて、俺は自分より大きな鳳の顔を見上げる。
「怒ってねえから、そんな顔すんなって。」
「先輩……。」
呆然とした様子の鳳がポツリと呟く。
俺の反応に一喜一憂する鳳を、俺は酷く好ましいものに思えた。
「ほら帰るぞ?お前が傘持ちするんだろ?早いトコ行くぞ?」
そこまで言って、俺は自分から呆然としたままの鳳に近付く。
肩と肩が触れる距離。
何だか照れ臭いけど、まあ仕方ない。
こんな雨の中、鳴いてる犬を放って帰る訳にもいかないし、何より俺の反応にいちいち一喜一憂するくらい俺の事気に入ってくれてるらしい奴を邪険にも出来ないし。
俺はもう一度鳳を見上げて笑ってみせた。
「先輩~~~~っっ!!!」
「うわわっっ?!!」
「嬉しいっス!ありがとうございます!」
「こっ…こらっ!抱きつくな!!」
後ろからガバッと鳳が抱きついてくる。
もう、完全にこれは大型犬に飛び掛られてるのと変わらない。
振り返った鳳の顔は、はちきれんばかりの満面の笑顔だった。
「やれやれ……えらい拾いものしちまったな…。」
首元に抱き付かれたまま、半ば諦めの心境で俺は小さく苦笑する。
鳳に、ピンと立った耳とパタパタと揺れるシッポが見えてしまうのは、やはり目の錯覚ではない…と思いたい。
雨の日に拾った大型犬は、予想以上に俺の心の中にすんなりと入ってきてしまったようだった。
数日後――俺は仏心を出して鳳を拾ってしまった事を、後悔するハメになってしまった。
「し~し~どぉ~~~っ!」
「おわっ?!何だよ、こんな所まで?」
「鳳は何処だ?!」
「長太郎?あいつなら今日は週番で遅くなるらしいけど?」
俺の剣幕に気圧されて後ずさりながら、宍戸は校舎を指差した。
心なしか顔が引きつっているように見えるのは、この際見なかった事にしよう。
それ位、今の俺の機嫌は絶不調だった。
「あいつ~~一度キッチリしつけ直してやらなきゃならんようだな!」
俺は握り締めた拳を更にキツく握りしめる。
ニヤリと笑みを浮かべた俺に、もう一歩後ずさって宍戸は眉を寄せた。
「何だよ、機嫌悪ィな。何かあったのか?」
「あったなんてもんじゃない!あいつ、俺と相合傘で帰ったと触れ回ってるだろう?!」
「あ、ああ…そういや2・3日前から嬉々としてそんな事言ってたな…おい、マジだったのかよ?!」
俺の言葉に宍戸は元より、側で成り行きを見ていた忍足や向日、跡部達までもが目を見張る。
どうやら、ここの連中は鳳の話を鵜呑みにはしなかったようだが、他の連中はそうはいかなかった。
ここ数日、どうも周りの俺を見る目が違うと思ったら、一部で『俺と鳳が仲良く相合傘で帰った』という噂話が出回っていた。
それもどうやら発信源は鳳本人らしい。
「あれ?どうしたんです、先輩達??」
のほほんとした声が後ろから掛かる。
「あっ!バカ長太郎!!」
「なんつー最悪のタイミングで出てくるんや……。」
「ヤバそうじゃん、逃げよーぜ侑士。」
「鳳!!そこへ直れ!!一からしつけ直してやる!!!」
俺と鳳が相合傘で帰宅したという噂が本格的に校内を駆け巡ったのは、その次の日の事だった………。