あの日の僕ら 3
「どうした??」
ぼんやりとコートを見ていた俺は、不意に掛けられた声に、ハタ――と我に帰る。
「え?あ!すいません!!」
隣で訝しげに俺の顔を覗き込んでくる手塚先輩に、俺は小さく苦笑して頬を掻いた。
本来なら中等部の敷地内に居るはずも無い、高等部の生徒である手塚先輩達、旧青学レギュラー陣が何故こんな所に居るのかといえば…。
そう、何の前触れもなく――竜崎先生はあらかじめ知っていたようだったけれど――1年半前の全国大会優勝メンバーである先輩達が、中等部へと久しぶりに顔を出してくれた事が全ての始まりだった。
突然の訪問に驚いたものの、その後すぐに竜崎先生に先輩達との練習の許可をもらって、嬉々としてコートに戻った俺は、久しぶりに目の前で繰り広げられる不二先輩と菊丸先輩の打ち合いを見ているうちに、自分でも気付かないうちに、いつのまにかボーッと意識を飛ばしてしまっていたらしい。
慌てて辺りを見回すと、手塚先輩同様、心配そうに俺の方を見ているタカさんと大石先輩の顔が目に止まった。
「大丈夫か?調子でも悪いのか?」
相変わらず心配性らしい大石先輩の表情が曇ったのを見て、俺は大きく首を振ってみせる。
「大丈夫です。ちょっと……色々考えちゃって……。」
「そうか?ならいいんだけど…。、副部長をしてるんだったよな?無理してるんじゃないか?」
「そんな事無いですよ。それに、少なくとも大石先輩が副部長だった時よりは遥かに楽だと思いますしね。」
そう言って笑って見せると、つられるようにして大石先輩の表情も和らぐ。
そう、確かに俺なんかより大石先輩の方がずっと苦労していたと思う。
あれだけの個性的でアクの強いメンバーをまとめるのは、並大抵の事じゃなかったはずだから。
「でも、本当に大丈夫かい?さっきのは、何ていうか……心ここにあらずって感じだったけど?」
大石先輩と同じく心配そうな表情を浮かべていたタカさんが、そう言って首をかしげる。
そんなタカさんに小さく笑って、俺はそっと目を伏せた。
「あ……いえ…さっきも言ったと思うんですけど…こうしてると、どうしても先輩達が居たあの頃みたいな気がしてしまって……ただそれだけなんです。」
「………。」
「別に過去を振り返ってるとか、いつまでもあの頃に縛られてるとか、そういうんじゃないんですよ。でも、先輩達の前では、どうしても俺はあの頃と同じ俺のままになってしまうなぁって……。」
いつも見守るように向けられていた暖かな視線。
辛い時も苦しい時も、楽しい時も嬉しい時も、いつもすぐ側にあった大きな存在。
弱くて小さかった俺を包んでくれた頼もしい腕。
支えられていたのだと、守られていたのだと今なら分かるから。
「ダメですね、俺。最高学年として、副部長として部を支えていかなくちゃいけないって分かっているのに、今度は俺が後輩達を導いてやらなきゃならないって分かっているのに、俺の中で先輩達の背中を追いかける後輩のままの俺が居るんです。」
今はこうして目線が少し近付いたけれど。
それでも俺は先輩達の背中を、憧れの眼差しで追いかけてしまうんだ。
「ごめんなさい。本当なら立派にやってますって、安心させなきゃいけないのに…。」
「………そんな事は無い。お前はしっかりやっている。それに、さっき大石が言わなかったか?お前達は俺達の大切な後輩だと……それはいつになっても変わらない。」
「手塚先輩…っ!」
思いもよらなかった言葉に、俺は大きく目を見開く。
手塚先輩にそう言ってもらえるなんて、正直想像も出来なかった。
呆れられてしまうと思ったのに。
たしなめられてしまうと思ったのに。
叱咤されると思っていたのに。
けれど、こうして俺を見る先輩達の…手塚先輩の瞳はとても優しくて。
俺は不覚にも目頭がじんわりと熱くなってしまう。
「無理なんかする必要ないんだぞ?はのまま……俺達が認めたのままで充分だ。」
「大石の言う通りだよ。だからこそ俺達は青学テニス部を託せるって思ったんだしね。」
「そうだよ。僕達はそんなが大好きなんだから。」
「ふっ…不二っっ?!!」
「何だよ~3人だけでを独占しちゃってさ~~!!」
いつの間にか打ち合いを終えていた不二先輩と菊丸先輩が、ひょっこりと顔を覗かせる。
「菊丸先輩、不二先輩……。」
「忘れないでね?手塚達だけじゃない、僕達もの事をずっと大切に思ってる。」
静かに微笑んで不二先輩が口元をほころばせる。
そして、隣に立つ菊丸先輩も、いつになく穏やかな笑みを浮かべて目を細めた。
「そうそう。俺達み~んな、いつだっての味方なんだからなー?」
「だから、はの進む道を、自分らしく歩いていってほしいんだよ。目指すのは構わないけど、無理に『立派な先輩・完璧な副部長』である必要は無い。僕達はという、そのままの存在が好きなんだよ。それを……忘れないでほしいな。」
静かに、本当に静かに紡がれていく不二先輩の言葉。
その言葉がゆっくりと身体中に染み渡っていくのを感じながら、俺は改めて自分の幸運と幸福を噛み締めた。
俺には、いつだってこうして俺を見守ってくれる人達が居る。
あるがままの自分を受け入れてくれる人達が居る。
それは決して優しいだけのものじゃないけれど、いつも俺が一歩を踏み出す力を、先に進む勇気を与えてくれるんだ。
「先輩………俺………。」
俺は何と言って良いのか分からずに言葉を詰まらせた。
「………いいんじゃない?無理に何か言おうとしなくてもさ。」
「リョーマ?!!」
不意に頭の上に温かな手の感触がして、背後を振り返る。
そこには穏やかに微笑むリョーマと桃ちゃん先輩、そして乾先輩と海堂先輩の姿があった。
「皆…分かってると思うけど?が、俺達がを想うのと同じくらい、皆の事を大切に想ってくれてるって事くらいはさ。」
そう言って、リョーマが周りを見回すと、それにつられるようにして先輩達が微かに苦笑する。
肩をすくめたり、頭を掻いたり、顔を見合わせたりと反応は様々だったけれど、皆一様にリョーマの言葉を肯定しているようだった。
「まあ、皆同じに…って所がシャクだけどね。」
「リョーマ…………先輩達…………。」
整った顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて、リョーマが口の端を持ち上げる。
そんなリョーマや先輩達の姿を見て、俺はもう、どうして良いのか分からなくなってしまった。
そんな事言われたら、泣きたくなってしまうじゃないか。
ここまで俺を思い、俺を見守ってくれる人達から、こんな胸がいっぱいになるような言葉までもらってしまったら……。
「何泣きそうな顔してんの。」
「だって………。」
どこか楽しそうにリョーマが目を細める。
そっと数回頬をつつかれて、俺は微かに目元を赤らめた。
「構わないんじゃないか?泣くという行為は精神安定にも繋がる事がある。無理に感情を押さえ込むより、鬱積したものは吐き出した方が、心と身体の為には良いだろう。」
「そうそう!なんだったら、俺の胸で泣くかー?ん~?慰めてやるぜぇ~~?」
乾先輩の言葉を受けて、桃ちゃん先輩が目を半月型にしてニヤニヤとからかうような笑みを向けてくる。
「フン!てめぇじゃ慰めるどころが、泣かせるのがオチじゃねぇか。」
「んなっ?!何だとマムシ、てめぇ!!そりゃ、お前の方だろうが!!」
「やろう!マムシって言うんじゃねぇって何回言やぁ分かんだ!いいかげん覚えろバカ城!!」
「ば、バカ城だぁ?!こんのぉ~~~っっ!」
「こらこら、それくらいにしておかないと、昔のように誰かさんの怒号が飛ぶぞ?」
そう言って苦笑いしながら乾先輩が向けた視線の先には、案の定眉間にシワが寄り始めた手塚先輩の姿があって。
俺自身も、からかわれた事よりも、そちらの方に意識がいってしまって、乾先輩同様苦笑するしかなかった。
1年半前までだったら、下手をしたら連帯責任で全員グラウンドを走らされるハメになっていた事なのに――。
それなのに、あの頃のようにすくみあがる事が無くなっただけでなく、何故かそれを、少しも嫌だとは思えなくなっている自分が居た。
「やれやれ……相変わらず進歩してないっスね、二人とも。」
「まあ、そこが桃と海堂らしいっちゃ、らいいけどにゃ~。」
「はぁ~……逆に、この二人にはもう少し大人になってもらいたいもんだな。胃痛の原因が減らないよ、まったく。」
海堂先輩と桃ちゃん先輩のぶつかり合いに、呆れ半分の視線を向けるリョーマと先輩達。
でも俺の目には、皆…何だか嬉しそうな顔をしてるようにしか映らなかった。
だって皆、何だかんだ言いながらも、俺と同じように口元が笑っているんだ。
そう…きっと先輩達も俺と同じようにこの空間を、この関係を、心地良いと思っているに違いない。
俺は改めて先輩達を見回して小さく肩をすくめた。
「………さてと!桃ちゃん先輩と海堂先輩、いいかげん何とかしないといけないですよね?」
「それはそうだけど、あれを何とかできるのか?」
「もちろん俺がやるんじゃないですよ。」
「って事は、まさか………っっ?!!」
俺の言葉に大石先輩が顔を引きつらせる。
それににっこりと笑ってみせて、俺は手塚先輩の側へと駆け寄った。
そして何事かと訝しがる手塚先輩に、こっそりと耳打ちする。
途端に手塚先輩の瞳が大きく見開かれた。
「?」
「お願いします…『手塚部長』?」
そう言って笑うと、いつも無表情な手塚先輩の顔が少しだけほころぶ。
「………おまえも物好きだな、?」
「それはきっと、他の先輩達も…だと思いますよ?」
「いいだろう。他ならぬお前の頼みだ。」
少しだけ戸惑った様子だったけれど、そう言って手塚先輩は小さく頷いてくれた。
そして、その言葉を聞くや否や、他の先輩達がグランドの方へと向かった事は……もう言うまでも無い事で。
「規律を乱す奴は許さん!!全員、グラウンド20周だ!!」
手塚先輩の久々の怒号と共に、俺達9人はあわただしくコートを飛び出していく。
1年半前までと同じ、けれど少しだけ懐かしさと暖かさと、心地良さとを抱えながら――。