#DOWN

決意 ―背神者たちの〈追走〉―(1)

 美しい模様を刻む壁に四方を囲まれた、薄暗い部屋の隅に、ひとつの人間のシルエットがうずくまっている。
 窓はなく、外と部屋の中の空間をつなぐのは、木目もあらわなシンプルなドアだけだ。そのドアもかなり厚いらしく、外の物音は何一つ聞こえない。
 何も動かない、静寂の空間。
 部屋のドアが開けられたのは、もう、半日も前のことだ。一組の男女がドアを開けて現われ、笑顔で部屋の主に声をかけた。
『お疲れさま。よくやったわね、クレオ。わたしも、鼻が高いわ』
『次の任務があるまで、ゆっくり休んでいていいんだぞ。もう瞑想して精神を高めてるなんて、お前は努力家だなあ』
『それじゃあ、お休みなさい』
 本当に、そう思っているの。
 少年は、そう問いたかった。今までも、何度も本心を訊いてみたいと思った。そして、本心を聞いて欲しいと思った。
 初めて、一度でも仲間と呼んだ、同年代の少年少女たちを、自分の属する組織に殺されて、どう思うかと尋ねて欲しかった。
 心に仮面を被った両親の顔を、もう何年も、まともに見ていない。
 ここ五年間、仮面を通さず話をしてくれたのは、何も知らない同年代の信徒か、セルサスくらいだった。
『きみは、将来なにに成りたいの?』
 五年近く前、セルサスは、彼に普通の子どもとして接してくれた。周りの大人はすでに、少年を特別な、英雄たるべき存在として扱っていた。将来の自由など、とうになかった。
 それでも、彼にとっては嬉しかった。両親や大人たちの目を盗んでは、セルサスと話をするくらいに。
 その、数少ない話し相手をその手で滅ぼして。
 心を許せそうだった、少年少女たちを見殺しにして。
 またいつか、同じことを繰り返すのか。
「仮面の世界か」
 今まで考え続けていたことも、すべてを放棄したくて、自嘲気味につぶやく。
 闇の中、そのつぶやきは、誰にも聞こえない――はずだった。
「それで、あなたは、仮面の奥を見ようとしているの?」
 突然、声が響いた。
 読唇者の声に似た、頭の中に直接伝わるような声。
「……誰?」
 一瞬幻聴を疑った少年は、何時間ぶりにか、顔を上げた。薄暗い、変わり映えのしない部屋の風景は、彼を少し落胆させる。
 しかし、その風景の中に、異変が起きた。
 一人の、白い少女。そこだけ色が欠けているように白く、その身体自体が淡く発光する少女のぼやけた姿が、視界の中心に浮かび上がる。長い髪が風もないのになびき、大きな目が真っ直ぐ少年に向けられる。
 哀れみも好奇心もない。ただ、少女の目は少年をそこに認める。
「あなたの歩く道は、親や組織に縛られている……でも、結局決断するのはあなた。縛られるのを選択するのもあなた」
「そんな……」
「違うの?」
 少女は、少年の記憶の中にあるとおり、淡々と促す。ためらいのない、滑らかな口調で。
「他の道なんて、オレにはないんだ……それに、もう、自分の足で歩けそうにない。引き返せないんだよ」
 自分の選択のせいで、取り返しのつかない犠牲を出した。それほどの犠牲を出しておきながら、今さら、道を変えることはできない。
 クレオは、すべてを振り切るように、断定した。
「ならば、このままその道を歩いて、より多くの人を手にかけるのね」
 突き放すようなことばに、少年は、大きく震えながら少女を見上げた。
「今なら間に合う。あとは、自分で確かめなさい」
 少女の姿が、薄れつつあった。
 クレオには、彼女が暗く閉ざされた世界に唯一変革をもたらす者に見えて、急いで手を伸ばす。
「待って、キミは……」
 差し出された手は、空を切る。
 白い光が薄れ、少女の背中は背景に溶けていくようにして消えた。
 ずっと閉ざされた闇の中にいたせいで、幻覚を見たのか。しばらく茫然と闇に目を向けていたクレオの脳裏を、そんな考えが通り過ぎていく。
 我に返り、乗り出していた上半身を引き戻すと、その手に奇妙なぬくもりを感じた。
 握りしめ、感触を確かめてから、目の前で手を開く。その手のひらの上には、綿毛のような、白い羽根が載っていた。
 その羽根をポケットに入れ、彼は部屋の外に出る。

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