#DOWN

異変 ―闇に堕ちる〈星〉―(1)

 桜の花びらが降っていた。
 まるで、雪のように、薄い桃色の花びらが舞い散っていく。
 それは、暖かな春の空気に包まれるような、ぬくもりを感じさせる風景だった。
 年季を感じさせる、幹の太い桜の木の下に、人影が見える。若い人間らしい姿は、桜吹雪のベールに隠れてよく見えないが、かすかにほほ笑んでいるように見えた。
 少女は、手を伸ばす。桜吹雪に負けないよう、絶対に相手に届くよう、つま先を立てて思い切り、手を伸ばす。
 もう何年も、そうしているような気がした。そしていつも、手が届く前に求める相手は消えてしまうのだ。
 今回も、どうせ同じだろう。
 心のどこかで予想しながら、相手に触れようとする。
 伸ばした指先に、暖かいものを感じた。
 確かに、何かが触れた。そのことに、少女は驚いた。
 心地の良い温もり。
 馴染みのない、存在感。
 それでいて、記憶のどこかからこみ上げる、懐かしさ。
 手が到達すると、今まで抱いたことのない欲望が次々とこみ上げてくる。
 ずっと触れていたい。もっと近づきたい。顔が見たい。声が聞きたい。
 あふれ出しそうな想いに、満たされることのない欲望。
 その葛藤の中で、周囲の景色が薄れていく。待って、と声を出したかったが、出せばさら早く、世界が崩れていくような気がした。
 やがて、枝にあふれていた桜もすべて散り、花びらの最後の一枚まで、広がり始めた闇の中に吸い込まれていった。

 淡い闇の中で、彼女は目覚めた。
 もっと続いて欲しかった夢は終わったものの、心地よい眠りと夢の中から覚醒するのは惜しい気もした。だが、眠り続けていては生きているとは言えない、というのが彼女の信条だ。生きてることを感じるために、彼女は意識を闇から引き出して、頭を振った。
 振ったついでに、周囲の景色が視界に入る。いつもと変わりない、クールで機能的な、彼女自身の部屋だった。
 ベッドから降りて目の前の壁には、大きな鏡がある。そこに映るのは、長い銀髪に大きな灰色の目の、小柄な少女。彼女は余り気に入っていない、〈銀の妖精〉という異名で呼ばれることもある姿。
「異状なしか」
 左右の髪の一束ずつを頭の上でまとめた団子を、軽く両手で触り、つまらなそうに言う。
 変わったのは、ただ、夢の中だけ。
 それだけでも、いつもよりはマシになったかもしれない、と思いながら、靴を履いて歩き出す。
 部屋のドアには、取っ手がなかった。少女が灰色のドアに近づくと、それは小さな噴射音を鳴らし、上にスライドする。しかし、そのドアの先は黒一色だった。
「いつものとこ」
 闇に一歩踏み出し、彼女は言った。
 瞬間、周囲の景色が一変する。
「おお、妖精のお出ましか」
 カウンターに座る男が冷やかしの声を上げた。その向こうでは、少し恰幅のいい体格のマスターが、自慢のグラスを丁寧に拭いていた。
 少女の部屋は、もう、視界のどこにもない。木造の壁と天井に囲まれたこの空間には、丸テーブルがいくつも設置され、大勢の客が食事をとったり、ワインやビールを楽しんだりしていた。部屋の隅には大きなモニターが設置されていて、エア・ホッケーの試合の観戦で盛り上がっている一団もある。
「リル、久々だな。例のアドベンチャー・ワールドには飽きたのか?」
 少女がカウンターに近づくと、マスターが親しげに声をかけてくる。
 リル、と呼ばれた少女は席につくと、置かれていたメニューの一覧を見た。
「どこのワールドも、経過が違うだけで、やることは一緒だよ。最近は、技能体験系に興味があるの……とりあえず、スパイシーグラタンとアイスティー。メニュー変わってないわね」
「自分の記憶で勝負したいからな。セルサスに頼むと、どこの店も同じ味になっちまう」
 マスターは苦笑交じりに答え、料理のために奥の厨房へ向かう。
「技能体験系って、まさか、料理とか裁縫とかか?」
 先ほどの、カウンター席の茶色の髪と髭の男が、蒸留酒入りのコップを手に、リルにからかうような笑みを向けた。少女は顔も上げず、それに答える。
「そういうのに向いてないのはわかってるでしょ。あたしが訓練する技能って言ったら、護身術とかサバイバル技能とかよ」
「そりゃそうだ」
「もうすぐ、ジルを素手で倒せるかもね」
 にこりともせず、いつもと変わりない調子の彼女のことばに、男は驚いたように顔色を変えた。
「じょ、冗談だろ?」
「どうかしら」
 本心のわからない曖昧な調子で言い、曇り空のような灰色の目を天井に向ける。一見、何も考えず、放心しているだけに見えた。
 しかし、付き合いの長いジルは、少女が五感以上の感覚を使い、きちんと周囲の状況を把握していることを知っている。

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