#DOWN

少年の旅(2)

 しかし、目をあければ、そこは変わり映えのしない二階の一室。
 ともあれ……ぼくは決めた。
(きみに、頼みがあるんだ)
(頼み? なんでしょう)
(ぼくは、きみを雇いたい。そして……きみに、あちこちを旅して、ぼくに行く先々の風景や音を伝えて欲しい。きみと一緒に、感覚だけでいい、旅をして欲しい)
 彼女は、一呼吸だけ考えてから答えた。
(正当な報酬がいただけるなら。でも、どうして、あなたはそこから出られないんですか? 教えてください。それが条件です)
 今度は、ぼくが少しの間だけ黙った。でも、その質問の答えはすでに考えてあった。
(ぼくは身体が弱くて、この家から出たことがないんだ。病気が伝染するかもしれないから、会えるのも医者を含む、極わずかな人だけ。それも、マスクをして、特別な服を着て、医者の立会いのもとでね。だから、ぼくは生きてきた十数年の間、外に出て歩いたり走ったりしたこともない。遠くの国のことも本で読んで知ってるけど、実際に行ったこともない)
 ぼくは一旦ことばを切った。相手は、じっと黙って話を聞いている。
(だから……だから、見てみたいし、聞いてみたい。ぼくの命は残り少ないから……)
 しばらくの間、沈黙が訪れた。
 もしかして、彼女は去っていってしまったのかもしれない。そんなことを考えて、そっと窓から見下ろしてみると、ちゃんと黒衣の姿があった。
 少し待って、彼女の心の声が聞こえて来る。
(わかりました。引き受けましょう)
(ありがとう!)
 ぼくは、文字通りに心から礼を言った。これほど嬉しかったことは、もう何年もない。
 それから、魔女にぼくが雇っている女性を連れてきてもらい、魔女に報酬の前金を渡してもらった。これでも、蓄えだけはそれなりにある。
 魔女は報酬を受け取ると、すぐに宿を引き払って旅立ってくれた。その、旅立ちまでの買出しなどの準備や、門をくぐるときの胸の高鳴りまでもが、経験したことのない、冒険のようだった。
 ドキドキしながらも、ぼくは決して、罪悪感を忘れてはいなかった。
 そう、この日、ぼくは嘘をついた。人生で一番大きな嘘を。

 それから、ぼくたちは旅をした。
 魔女は一度訪れた場所にも案内してくれた。彼女は物知りで、聡明で、勇敢で……それに、美しかった。ぼくが知りたいことがあれば、何でも答えてくれる。行きたいところに連れて行ってくれる。もしかしたら、ただ、仕事だから、かも知れないけど。
 それでもよかった。
 ぼくたちは世界中を旅して回り、そして、毎日話をしているうちに、気心の知れた仲になっていた。二人で行き先を話し合い、危険を回避するために知恵を出し合ったりしているうちに、ぼくたちの間には心の底からの信頼が、太い絆が生まれていたと思う。
 そうして、あるとき彼女は、ぼくの病気を治したいと言った。それができなくても、伝染してもいいから、一目会いたいと。
 とても嬉しかったけど、ぼくはそれに賛成することはできない。でも、ぼくは動けない身体、彼女は優秀な魔女。抵抗する術は無かった。
 そして、彼女は知ってしまったんだ。
 そう……ぼくは、病弱で、外に出たことのない少年なんかじゃない。ただ、余生を悠々自適に過ごそうとしていた、少し足腰が悪いだけの老人だ。ぼくは出ようと思えば外にも出られるし、若い頃にはよく近隣の街を渡り歩いて商売をしていたものだ。
 ぼくの嘘を知って、彼女は当然怒った。
「わたしを騙した代償……支払ってもらう」
 彼女はぼくに魔法をかけて、去っていってしまった。
 それで、ぼくはこんな身体になってしまった。嘘の通りの、病弱な少年の身体に。皮肉なことに、もとの身体より寿命は伸びていた。
 でも、彼女には感謝している。
 今でも、時折、彼女の見ている風景や、聞いている音が伝わってくる。もしかしたら、ぼくの幻覚か、夢かもしれないけど……。
 ただ、彼女にきちんと礼ができなかったのが心残りだ。
 だから……。

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