#DOWN

絵本の国(2)

 言い争いは終わったのか、野次馬たちはその場から立ち去り始めた。まばらになった人の姿の間から、セティアは肩を落として門の前に立ち尽くしている、白衣姿の青年の姿を見つける。
 辺りに他の人の姿がなくなってから、彼女は青年に声をかける。
「あなたは、お医者さんですか?」
 背後からの突然の声に、青年はビクッと驚いたように振り返る。声の主を見ると、ほっとしたようにもがっかりしたようにも見える表情で溜め息を洩らした。
「ええ、そうです。……あなたは、旅の方ですね?」
「はい。この国の外から来ました」
「じゃあ、その、色々と汚いものとか怖いものとかも見たことはありますよね? ……よかったら、話を聞いていただけませんか?」
(ね、セティア、聞いてあげようよ)
 待ってましたというように、シゼルが即座に言ってくる。それを、セティアは予想済みだった。
「はい、お話をうかがいましょう。ここではなんですから、どこかお店ででも」
「では、そこのカフェに入りましょう」
 彼は少し嬉しそうな顔で、十字路の南西に建つ店を指差した。

 カフェは、〈銀のゆりかご〉亭という名前だった。壁から突き出した半円形のテーブルが並んでおり、それをめぐるように、ふかふかの長椅子が配置されている。テーブルもふちは弾力のある素材だった。ぶつけて怪我をしないように、という配慮か。
 他に客はいなかった。ウェイトレスが物珍しそうにしながら、注文を取ってカウンターの向こうに去る。
「この国の本屋さんは、もう見てみましたか?」
 暑くもないのに、袖で汗を拭くような仕草をしながら、彼は尋ねた。
「ええ。絵本ばかりですね」
「そうです。この国では、いかなる知識を得るにも、絵本のように穏やかに伝えなけくてはいけません。それは、学校の教科書も同じことですよ」
 言って、彼は懐から一冊の本を取り出した。紐で止めただけの、店に並んでいるものに比べて粗末な本だ。青年が自分で製作したのだろう。
 それを手渡されて、セティアはパラパラとめくってみる。そこには、負傷した人間への処置の方法が、怪我の種類や段階に合わせてわかりやすく描かれていた。ほとんどは絵本と同じく、かなりデフォルメされた挿絵が付いている。
(医学の教科書かな)
「これを、あなたが?」
 セティアが本を返すと、青年はうなずき、あるページを開いて見せた。カウンターの向こうに見えないよう、気をつけながら。
 彼が開いたページには、人体模型が描かれている。デフォルメされているが、一目でそれとわかった。
「どの内臓が身体のどこにあるのか、どんな形でどんな大きさなのか、医者なら知っておくべきです。しかし、これがこの国では許されないんですよ。この国は色々と科学が進んで便利になっていますが、医学の方面ではさっぱりなんです」
「あなたは、この国のかたではないんですか?」
「ええ、医者のいない町をめぐって旅をしていましたが、この国の惨状を見て三年前からここに住み着きました。医療もそうですが、そのう……」
 彼は身を乗り出し、小声で続けた。
「この国は性教育もまともにできないんです。色々といかがわしい商売が蔓延していますよ。国は取り締まることもできない」
「なぜ? 違法なんでしょう?」
「そういった知識すら拒否している国ですから、どこでどのように行われるかもわかっていないんですよ。たまたま立ち寄ったよその国の者が、独自のルートを作ってる。いいカモですよ」
 長い溜め息を洩らして、彼は身を引いた。丁度、ウェイトレスが注文していたものを運んでくる。
 そのとき、カウンターの奥の棚がカタカタと音を立てた。
(なに?)
 一同が不思議そうに首をめぐらそうとするなり、轟音が響いた。大地が揺れる。若いウェイトレスが素早くテーブルの下に隠れるのを見て、セティアと青年もそれに倣った。建物は地震に強い造りらしく、固定されたテーブルもこのためだろうか、と、セティアは感心する。カウンターの奥の棚も耐震性に優れているようだが、二、三回ほど何かが割れる音がした。

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