戦前・昭和の流行歌とその時代・ムード歌謡・演歌とその時代-菊池清麿

 

昭和流行歌史の基礎知識

 
流行歌の源流(大正ロマンの時代)  大正時代の流行歌は「流行り唄」といって、レコード会社が街頭で演歌師が唄う「唄」をレコードにした。その「流行り唄」において、西洋音楽の技法(洋楽の手法)によって日本人の心情をメロディーにしたのが中山晋平だった。「カチューシャの唄」(1914)「ゴンドラの唄」(1915)は大正ロマンを象徴するものであり、関東大震災後の荒涼とした東京の風景を背景に「船頭小唄」は鳥取春陽ら街頭演歌師によって広められ、人々の心を癒した。鳥取春陽は街頭演歌師の立場から洋楽の手法で「籠の鳥」を作曲している。また、この時代は浅草オペラの隆盛のそれであり、「流行り唄」として田谷力三が歌う「恋はやさし野辺の花よ」などが広まった。
  ■昭和初期流行歌(歌謡作家と洋楽演奏家)  昭和に入ると、電気吹込みを完備したが外資系レコード会社が成立し、「流行り唄」から「昭和流行歌」・「歌謡曲」の時代に変わった。大正時代の街頭演歌師たちが庶民の心を唄った「流行り唄」をレコード会社がそれを聞きつけレコードにするのではなく、レコード会社が企画・製作し、宣伝によって大衆に選択させる仕組みに変わったのである。巷には輸入レコードも氾濫し、昭和モダンを踊らせるかのように耳新しいジャズも聴かれるようになった。大正時代のように演歌師が一人で作詞・作曲し街頭で唄い流すのではなく、作詞・作曲・歌唱という分業体制になり、近代詩壇で鍛え抜いた詩人たちが歌謡作家として作詞をするようになった。野口雨情、西條八十、時雨音羽、佐伯孝夫、佐藤惣之助、サトウ・ハチロー、高橋掬太郎、殊に詩壇の第一線にいた西條八十が流行歌の作詞に詩を提供したことは驚きであった。  作曲家も西洋音楽・ジャズなどの手法・メソッド・体系にもとづいた作曲法で旋律を作り、そのレガートな旋律とジャズ(舶来の流行歌)のリズムが融合させるなどをした。日本人の心を表現した中山晋平、ジャズと日本情緒を融合させた佐々木紅華、感傷のメロディーの古賀政男、海軍軍楽隊出身の江口夜詩、和製ブルースを確立した服部良一、クラシックの格調を流行歌に付した古関裕而らが活躍することになった。歌唱表現者・歌手も演歌師ではなく洋楽演奏者に変わった。世界的なオペラ歌手・藤原義江、晋平節の第一人者・佐藤千夜子、ジャズシンガーの元祖・二村定一らがまず登場し、その後、古賀メロディーを隆盛させた「上野最大の傑作」・藤山一郎(声楽家増永丈夫)、「10年に一人のソプラノ」・淡谷のり子ら声楽家・音楽学校出身者、花柳界から市丸、小唄勝太郎、直立不動の東海林太郎、ジャズシンガーのディック・ミネ、ハワイアンの灰田勝彦らが昭和二〇年代まで活躍しクラシック・洋楽系歌謡曲の全盛時を謳歌することになる。

  ■レコード会社による企画製作の最初のヒット曲  昭和流行歌・歌謡曲は、藤原義江・佐藤千夜子が歌う「波浮の港」「出船の港」などの「新民謡」や、二村定一が歌う「アラビアの唄」「青空」などのジャズ・ソングで幕を開けた。やがて、昭和4年に入ると、「波浮の港」のように既存の作品をレコード歌謡にするのではなく、最初からレコード歌謡ために企画・製作された流行歌がヒットした。昭和4年、日本ビクター1月新譜発売の「君恋し」(時雨音羽・作詞/佐々木紅華・作曲/二村定一/歌唱)である。大正時代にすでに存在した「君恋し」を新しく流行歌として、時雨音羽が作詞し井田一郎がジャズに編曲した。映画も制作され、映画とレコードが相乗効果をもたらした。さらに、同年日本ビクターは変貌する東京の都市空間を舞台にした大ヒットを生み出した。それが初代歌謡界の女王・佐藤千夜子が歌った「東京行進曲」(西條八十・作詞/中山晋平・作曲/佐藤千代子・歌唱)である。 銀座、丸の内、浅草を舞台に「ダンサー」、「ジャズ」、「丸ビル」・「ラッシュアワー」「シネマ」「リキル」(洋酒)など、モダニズムが記号化され、「モダン風景の戯画(ぎが)」だった。新鮮な感覚でモダンボーイ・モダンガールの胸に迫るものであったが、4番の<シネマ見ましょか、お茶飲みましょか、いっそ小田急で逃げましょか>原詞は≪長い髪してマルクスボーイ、今日も抱える赤い恋〜≫であり、西條八十は、モダン現象のみならずマルクス主義の風潮も視野においていた。  「東京行進曲」はレコード会社と映画会社との提携企画による映画主題歌第一号である。大正時代の「船頭小唄」「籠の鳥」以来、「流行り唄」の映画化はあったが、映画とレコードが同時企画・製作され、しかも大ヒットした最初の歌謡曲である。レコード売り上げは25万枚。また、歌ヒットには、そのモデルとなった小説『東京行進曲』が連載された大衆雑誌『キング』の絶大な販売力(150万部)がはたした役割も大きい。それ以降主要な映画は主題歌を挿入してレコードを発売した。このマーケティングの完成により、レコード会社と歌謡曲の将来が見えた。

  ■古賀メロディー  昭和恐慌によって暗い世相が充満していた。都市では失業者が溢れ、「大学は出たけれど」の言葉どおりの就職難、疲弊する農村、昭和6年秋、柳条湖事件から満洲事変への拡大、そのような切迫した時代を背景に「酒は涙か溜息か」(高橋掬太郎・作詞/古賀政男・作曲/藤山一郎・歌唱)が一世を風靡した。レコード産業史でいえば、ビクターに差をつけられていた日本コロムビアは「酒は涙か溜息か」の28万枚のヒットによって形勢を逆転したのである。歌唱者の藤山一郎は、声楽技術を正統に解釈し豊かな声量をホールの隅々に響きわたるメッツァヴォーチェ(弱声の響き)にしマイクロフォンに効果的な録音をするクルーン唱法で古賀政男のギターの魅力を伝えた。古賀メロディーは感傷メロディーだけではなかった。  今度は昭和モダンの青春を謳った「丘を越えて」(島田芳文・作詞/古賀政男・作曲)がヒット。これはもともとマンドリンの合奏曲として作曲されたものである。藤山一郎はこの軽快な青春歌謡を声量豊かな張りのある美声で高らかに歌い上げている。昭和7年に入っても、古賀メロディーは流行した。藤山一郎が甘美なテナーで「影を慕いて」を再吹込した。これは、元来、昭和4年6月、ギター合奏曲として発表され、昭和5年10月、佐藤千夜子によって、ビクターで吹込まれた。藤山一郎によって新しい生命が吹込まれ、古賀メロディーが確立したのである。 20世紀は、日本の「流行り唄」が近代化され、流行歌・歌謡曲が成立し大きな変貌を遂げた。街頭で流行っていた歌をレコードにするのではなく、レコード会社の企画、製作、宣伝により大衆に選択させるシステムが完成し、モダニズムの消費を満足させた。これが洋楽の形式をもった晋平節から古賀メロディーへという昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生である。
 
  ■SPレコード歌謡の隆盛―各社のヒット競争  昭和7年、近代日本の不吉な影と昭和モダニズムの陰翳を露わにしていた。井上日召の「一人一殺」を唱える血盟団員によるテロ事件・「血盟団事件」、海軍青年将校らが首相官邸を襲い犬養毅を射殺し政党政治の終焉を伝えた「五・一五事件」、猟奇事件として話題になった「坂田山心中」など、不気味な「翳」が覆っていたのである。だが、その一方では昭和流行歌・歌謡曲の世界では第二の古賀政男、藤山一郎を求めていた。  若い二人の絵に書いた心中だったがこの純愛を主題に「天国に結ぶ恋」(柳水色・作詞/松純平・作曲/徳山主蓮、四家文子・歌唱)がビクターから発売されヒットし、松竹で映画化された。また、昭和の悲しみを歌った「涙の渡り鳥」(西條八十・作詞/佐々木俊一・作曲/小林千代子・歌唱)もヒットし、佐々木俊一が新鋭作曲家として注目された。ポリドールからは「忘られぬ恋」(西岡水朗・作詞/江口夜詩・作曲/池上利夫・歌唱)が大ヒット。作曲者の江口夜詩は海軍軍楽隊出身で、昭和8年2月、コロムビアの専属になった。歌唱の池上利夫はのちのコロムビアの看板歌手松平晃である。  昭和7年の暮れから、昭和8年にかけて日本調の美声の小唄勝太郎が歌った「島の娘」(長田幹彦・作詞/佐々木俊一・作曲)が空前のヒットとなり、「勝太郎ブーム」が到来した。彼女の女心がやるせなく燃えて思わず洩れるような“ハァ”は濡れた声のようだった。ここに藤山一郎のような芸術歌曲を歌う声楽技術とは異なる艶歌調の邦楽唱法がうまれ、演歌系歌謡の復活でもあった。また、ライバル市丸はこの年「濡れつばめ」や「天竜下れば」をヒットさせた。そして、昭和8年の夏、幕末の民衆乱舞「ええじゃないか」の昭和版といえる「東京音頭」(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)が小唄勝太郎と三島一声大流行した。この年は、日本は国際連盟脱退によって国際的な孤立の途を取り始めたとはいえ不況から脱出し。軍需景気もあり円相場の下落を利用し飛躍的に輸出を伸ばし、特に綿織物はイギリスを抜いて世界一に達し、まるでそれに酔うように「東京音頭」の馬鹿騒ぎは広がった。  昭和9年のレコード業界に話題は「さく音頭」合戦、古賀政男のテイチク入社、ポリドールの東海林太郎旋風である。ポリドールの新企画・股旅歌謡・「赤城の子守唄」(佐藤惣之助・作詞/竹岡信幸・作曲・東海林太郎・歌唱)が大ヒットした。続いて満州を舞台にした「国境の町」(大木惇夫・作詞/阿部武雄・作曲/東海林太郎・歌唱)がヒットし「東海林太郎時代」が到来した。 昭和10年の歌謡曲は名門・ビクター、コロムビアに対し新興のポリドール、テイチクが対抗する形で、ポリドール・ 藤田まさと−大村能章−東海林太郎のトリオは「旅笠道中」「野崎小唄」をヒットさせ、テイチクは古賀メロディーで対抗し、ディック・ミネと星玲子が歌った「二人は若い」(玉川映二・作詞/古賀政男・作曲)で青春溢れるモダンライフを歌い、「緑の地平線」(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)で楠木繁夫をスターダムに押し上げ、古賀メロディーはヒットの量産体制に入る。ビクターは新鋭佐々木俊一が「無情の夢」を作曲し児玉好雄が歌ってヒットした。コロムビアは江口夜詩−松平晃コンビが「急げ幌馬車」「夕日落ちて」をヒットさせている。競争を彩った。また一方ではディック・ミネ、淡谷のり子の外国ポピュラー曲、藤山一郎、奥田良三、関種子らのセミクラシックな愛唱歌も好まれた。若者たちは軍国主義に国家が傾斜する時代風潮を敏感に感じ、それに否定する心情から洋楽(外国ポピュラー、クラシック)を愛好した。

 ■モダニズムの余韻と外国ポピュラーソング  昭和8年から10年にかけて、モダ二ズムの余韻が見られた。この時代の若者の心を捉えたのは、フランス映画、ドイツ映画などの主題歌やシャンソン、タンゴ、ジャズ系のポピュラーソングであった。昭和6年フランス映画の鬼才ルネ・クレールの「パリの屋根の下」の主題歌を浅草オペラの大スター田谷力三がビクターで吹込み、昭和8年ドイツ映画「会議は踊る」「狂乱のモンテカルロ」を楽壇の雄テノール歌手奥田良三が歌い、インテリ青年層に支持された。小林千代子はアメリカ映画「空中レビューの時代」の主題歌「キャリオカ」を吹込み映画は昭和9年 帝都座で封切られた。小林は「フロリダ」のアル・ユールスのジャズバンドがビクターの専属になるとジャズ・ソングも歌った。「ザ・コンチネンタル」「ラ・クカラチャ」「夜も昼も」など外国のポピュラーソングに日本語の歌詞をつけて歌った曲もヒットする。「谷間のともしび」(西原武三作詞/外国曲)は東海林太郎のバリトンが抒情旋律とマッチし若者の間で好評だった。また、中野忠晴とリズム・ボーイズコーラスの「山の人気者」やアメリカ民謡の名曲「蒼い月」「谷間の小屋」を藤山一郎が甘美なテナーで歌い人々の心に潤いを与えた。ジャズ、ポピュラーの分野で淡谷のり子の存在は大きい。明るいリズミカルな「私のリズム」、シャンソン歌手ラケル・メレのヒット曲「ドンニャ・マリキータ」、タンゴでは「ラ・クンパラシータ」、ヴギウギをポピュラーに取り入れた「ダーダネラ」など、モダンな香りとヨーロッパ風でありながら哀愁に溢れた曲を歌い上げている。また、昭和8年から9年にかけて、二世歌手も来日し、歌謡界を彩った。川畑文子、ベティ稲田、ヘレン隅田などが新鮮なジャズヴォーカルで人気を得た。  昭和10年、ジャズ・ソング「ダイナ」が軍国の暗い空気を吹き飛ばすかのような大ヒットとなる。歌ったのはディック・ミネ。日本ポピュラー史上最高のジャズシンガーとしてのゆるぎない歌唱をしめした。外国のフィーリングを取り入れながら、日本の歌に晅瞬していった彼の歌魂と声も甘く低音はまろやかだった。このレコードでソロを吹いた南里文雄のトランペットも名演奏として日本のジャズ史に残るであろう。

  ■非常時態勢と流行歌  外国の名曲が流れていても、軍国の影が漂い、この後、日本は戦争に突入していく。昭和9年「戦いは創造の父、文化は母である。」の一文で始まる「国防の本義と其強化の提唱」が配布され、同年レコード検閲制度も始まった。翌10年は貴族院で美濃部達吉の憲法理論・「天皇機関説」が国体に反するということとなり、大きな政治問題となった。昭和11年は雪の日のクーデター、(二、二六事件)で幕を明け、これによって統制派が軍内部の覇権を握る。戒厳令のもと広田弘毅内閣は「庶政一新」「広義国防」をスローガンに軍国主義体制の端緒を開いた。この年歌謡界の最大の事件は二、二六事件をよそにお色気たっぷりの官能歌謡・「忘れちゃいやョ」(最上洋作詞/細田義勝作曲)だった。これを歌ったのは渡辺はま子、彼女はどうしても最後のリフレーン<ねェ、忘れちゃいやよ 忘れないでネ>が作曲者の指示どうり歌えずついに泣き出し、とうとう<忘れェちゃァいや〜ンょ>と鼻にかけしなだれかかるように歌い、これが検閲官の「あたかも婦女の嬌態を目前に見るが如き官能的歌唱」という批判を招き発禁処分になった。ビクターは「月が鏡であったなら」と歌詞とタイトルを改め発売した。 この時代は、健全な歌詞で、健全なメロディーで健全な歌い方で新しい流行歌」を生み出す動きもみられた。昭和11年6月から放送開始した「国民歌謡」で詩情豊かな抒情歌が多い「椰子の実」(島崎藤村・作詞 大中寅二・作曲/東海林太郎・歌唱)。「夜明けの唄」(大木惇夫・作詞 内田元・作曲)などはレコードにも吹込まれた。

  ■都市文化の讃歌と日本調歌謡  昭和11年、古賀政男と藤山一郎コンビがテイチクで復活「東京ラプソディー」(門田ゆたか・作詞/古賀政男/作曲)は最後の平和の讃歌で、歌には銀座、ニコライの鐘、ジャズの浅草、新宿とモダン東京の風景が盛り込まれていた。「東京ラプソディー」は従来の歌謡曲になかった歌の最初の2小節が8分音符で構成されている。藤山はそれをレガートに歌唱している。都市文化においてはスピード感が増せば、その空間の抒情性がなくなるのが当然だが、「東京ラプソディー」はそれを失っていない。藤山一郎が正格歌手(音楽理論・規則や楽典に忠実な歌手)でありながら歌唱表現が豊かだからである。  古賀メロディーはモダンライフをテーマにペーソス溢れるコミックソングにおいてもヒットが多い。その代表曲が「うちの女房にゃ髭がある」と「ああそれなのに」である。「ああそれなのに」は都市文化におけるモダンライフの憂鬱さを哀調を帯びながら、美ち奴がユーモラスに歌って大ヒットした。古賀政男は都市文化を担う青年層の哀歓をヒットさせた。「青い背広で」は戦争を目の前のした青年層の不安な心理を巧みに衝くものであった。ポリドールは日本情緒を盛り込んだ名作歌謡・文芸歌謡を東海林太郎で企画した。名作歌謡は文学上の名作をベ−スにしたものであり、文芸歌謡は歌舞伎や江戸情緒豊かな明治期の小説・文芸作品を素材にしたものである。永井荷風の小説から「すみだ川」、森鷗外から「高瀬舟」などがあり、東海林太郎の憂いのある響きと微妙なバイブレーションが俗っぽさを感じさせない格調があった。優秀な音楽技術でクラシックの格調を流行歌にした藤山一郎の<都市文化を讃美したモダンな青春歌謡>と、早稲田−満鉄というエリートの教養人・東海林太郎東海林太郎の<日本調歌謡>は、従来クラシックの名盤しか関心のない知的教養人を流行歌に耳を傾けさせた大スターの双璧であった。

  ■軍国歌謡  昭和12年6月に成立した近衛内閣は盧溝橋事件(7月)から日中戦争へ拡大させた。 国民の戦争協力を強化する目的で国民精神総動員運動を展開させ、 11月 内閣情報部による募集歌「愛国行進曲」が制定され、各レコード会社が競って発売した。昭和13年1月 「国民政府ヲ対手トセズ」と自ら和平の途を完全に閉ざし、戦争の長期化を選択した。そうなると経済面は統制経済の強化が強化され、4月国家総動員法が議会を通過した。戦争に際して国家のもっているすべての力を有効的に運用統制するために戦争に必要な物資や人間を国家が自由に動員できることを可能にした。  日中戦争も泥沼化するとしだいに流行歌・歌謡曲も軍国歌謡が目立ってきた。「露営の歌」「軍国の母」「上海だより」「九段の母」「麦と兵隊」が流行した。昭和14年、満州西北部の満蒙国境で関東軍とソ連軍が武力衝突(ノモンハン事件)した。火力に勝るソ連軍に死傷者2万人の壊滅的打撃を受ける。国内では国家総動員法に基づいて国民徴用令が公布され、国民が軍需産業に動員されるようになった。日本と防共協定を結んでいたドイツが突然ソ連と不可侵条約を締結し日本は外交上混迷をきたした。平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢」という声明を残し総辞職。この時点でノモンハン事件は解決しておらず、日本は外交方針を見失った。9月にドイツがついにポーランドに侵攻。イギリス、フランスがただちにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。昭和14年には、軍国歌謡は盛んに作られ、「愛馬進軍歌」「兵隊さんよありがとう」「大陸行進曲」「太平洋行進曲」「出征兵士を送る歌」が歌われた。

  ■服部メロディー  日中戦争泥沼する中、淡谷のり子が歌う「別れのブルース」(藤浦洸・作詞/服部良一・作曲)は哀愁に満ちたメロディーで人々の心をとらえた。甘くロマンチックな曲は、暗く不安な時代の前触れにおののく若者の心を慰めたのである。服部は、少年音楽隊出身で、エマヌエル・メッテルに師事しながら大阪ジャズのサウンドで己の感性を育んだ。昭和8年東京へ上京し、ニットーレコードの音楽監督になった。昭和11年コロムビア専属となり、ジャズのフィーリングを生かした作曲を試みた。ブルースに関心をしめし、それが「別れのブルース」になった。  淡谷のり子は「別れのブルース」の低い音域を歌うために煙草を一晩中ふかして服部が要求する魂のこもった声にしたエピソードがある。淡谷は東洋音楽学校在学中、クラック界の大御所・山田耕作から「10年に一人のソプラノ」と絶賛された。青森から母と妹の三人で上京し、貧しい少女時代の体験、重くのしかかるクラシック世界の前近代的従弟制度への反発、自立した女性としての逞しさが優れた彼女の音楽的資質を支えていた。同時にこの曲はジャズ(洋楽・ポップス)を取り入れた服部良一を浮かび上がらせたのである。  新時代を迎えた昭和初期、日本の流行歌は日本系と外国系と大きく二つの流れがあったが、服部メロディーが台頭する頃には、その系脈も複雑なってきた。外国系流行歌は。芸術歌曲/ジャズ・ポピュラーソング(タンゴ・シャンソン)/ホームソング。日本系歌謡曲は東西の混合曲(ブルース調・タンゴ調)/五音音階・都節・艶歌唱法の日本調歌謡・浪花節系というように複雑な系脈になったのである。  

  ■映画主題歌黄金時代  SPレコード歌謡は軍国歌謡の台頭と並行して映画主題歌を中心に隆盛史、黄金時代を迎えた。翌昭和13年、コロムビアが新鋭・霧島昇でホームランを飛ばした。雑誌「婦人倶楽部」に連載された川口松太郎の小説を映画化した『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」(西條八十・作詞/万城目正・作曲)が爆発的ヒットのである。また、コロムビアからは渡辺はま子が歌う「支那の夜」(西條八十・作詞・竹岡信幸?作曲・渡辺はま子・歌唱)がヒットした。昭和14年に入ると二葉あき子が歌ったブルース調の「古き花園」(サトウ・ハチロー・作詞・早乙女光・作曲/二葉あき子・歌唱)がヒットした。これは『春雷』の主題歌である。  昭和13年から14年にかけては上海歌謡の隆盛を見ることができる。「上海」をテーマに異国情緒漂う哀愁やロマンチシズムを歌うものが多くなってきた。東海林太郎の歌声で「上海の街角で」(佐藤惣之助・作詞/山田栄一・作曲/東海林太郎・歌唱)、ディック・ミネが歌う「上海ブルース」、藤山一郎の甘く流麗な艶と張りのあるテナーでヒットしたタンゴ・「上海夜曲」などがある。  昭和14年に入っての映画主題歌では、コロムビアと松竹がタイアップした映画『純情二重奏』の主題歌「純情二重奏」が高峰三枝子・霧島昇の歌で発売されヒットした。昭和15年なると、コロムビアが立て続けに映画主題歌でヒットを放った。東宝映画『白蘭の歌』の主題歌「白蘭の歌」「いとしあの星」、さらにコロムビアは古賀メロディーが第三期黄金時代を迎え、「誰か故郷を想わざる」、東宝映画『新妻鏡』の主題歌「新妻鏡」「目ン無い千鳥」がヒットした。服部メロディーでは蘇州の美しい風景と抒情を盛り込んだ「蘇州夜曲」がヒットした。これも、映画『支那の夜』の主題歌で、主演の長谷川一夫と李香蘭の人気はすさまじいものであった。  李香蘭は妖艶な美貌であり、この映画ですでにレコード歌謡としてヒットしていた「支那の夜」を甘く情緒豊かにスクリーンで歌って絶大な人気を博した。コロムビアのヒット街道に対して、ビクターも映画主題歌でヒットを出した。南旺映画『秀子の応援団長』の主題歌・「燦めく星座」(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)は、灰田勝彦の人気を都会偏重から全国的なものにした。 ■異色歌手の登場  昭和流行歌・歌謡曲は、声楽家や音楽学校出身者に占められていたが、様々な職種から歌手になる者が増えてきた。専修大学野球部出身でわかもと製薬入社後歌手になった上原敏は、昭和12年、芸道一筋に生きる流転の人生をテーマにした「流転」(藤田まさと・作詞/阿部武雄・作曲)男の心情溢れる「裏町人生」(島田磐也・作詞/阿部武雄・作曲)でスターダムにのしあがった。戦後「オカッパル」の愛称で親しまれた岡晴夫は、上野松坂屋の店員のかたわら、阿部徳治、坂田義一に師事し、やがてデパートをやめ演歌師の途に入った。やがて、上原げんと知り合い、昭和14年、「上海の花売娘」(川俣栄一・作詞・上原げんと・作曲)「港のシャンソン」(内田つとむ・作詞・上原げんと・作曲)がヒットし上原げんと・岡晴夫コンビが歌謡界において誕生した。田端義夫は少年時代から苦労して歌手になった。昭和14年「大利根月夜」でヒットを出し、昭和15年「別れ船」でマドロス歌謡の先駆となる。  これらの異色歌手の登場は、艶歌唱法による演歌系歌謡の地下水となり、戦後昭和30年代の演歌隆盛の時代へとその系脈は流れてゆくのである。 ■軍国歌謡の逆襲  軍国歌謡の最大のヒットはコロムビアから昭和15年に発売された「暁に祈る」(野村俊夫・作詞/古関裕而・作曲)である。伊藤久男の歌唱は劇的で、古関裕而の悲壮感あふれるメロディーを際立たせ、かえって望郷の念をつのらせ、むしろ反戦的なイメージを与えたのである。この唄の持つ悲壮感と切なさが、銃後の大衆のみならず戦地にいる兵士の心を揺さぶったといえる。昭和15年9月、日独伊三国同盟成立。すでにナチスのような強力な指導政党を目指した新体制運動は、10月大政翼賛会として結実した。官製の「上意下達」機関となり戦争遂行のために国民を動員するうえで大きな役割を果たすことになった。  国民歌謡の「隣組」(岡本一平・作詞/飯田信夫・作曲)は徳山lが歌い広まったが、明るく微笑ましい光景の中に戦時体制の『翳』を象徴していた。昭和15年、紀元2600年祝賀行事は全国で盛大に挙行され「紀元二千六百年」(増田好生・作詞/森儀八郎・作曲)のレコードセールスは60万枚を記録した。昭和16年、日ソ中立条約を締結、日本はこれを背景に日米交渉に臨んだ。だが、交渉は最初から難航した。ヨーロッパ戦線で破竹の勢いで追撃するドイツは突如ソ連侵攻を開始。政府は御前会議を開き、情勢の推移に応じ対米英戦覚悟で南方進出。もしくは情勢有利の場合はソ連を攻撃するという方針を定めた。昭和16年に入ると国民の士気昂揚を高めるために次々と軍国歌謡が発売された。「出せ一億の底力」(堀内敬三・作詞/作曲)は藤山一郎、二葉あき子、柴田睦陸、大谷冽子、奥田良三らの共演により各社より発売された。テイチクに移籍した東海林太郎が歌った「ああ草枕幾度ぞ」(徳土良介・作詞/陸奥明・作曲)が発売され、銃後の人々の胸を打つものであった。 政府は日米交渉の継続を図るが、すでに決定されていた南部仏印進駐が実行に移され  それに対しアメリカは対日石油禁油で経済制裁を強め、軍部はその「ABCD包囲陣」を打破するためには、戦争に訴える以外に道はないと主張。アメリカは日本に対して満州を除く中国からの撤兵、日独伊三国同盟の死文化を要求し、お互い妥協を見いだせないまま開戦を主張する東条英機陸相が近衛内閣に代わり内閣を組閣、12月1日の御前会議で対英米蘭開戦が決定された。そして12月8日突然ラジオから臨時ニュースが流れ、それは真珠湾攻撃に成功し南太平洋で米英と戦争状態に入るという運命のニュースであった。江口夜詩・作曲の「月月火水木金金」(高橋俊策・作詞/江口夜詩・作曲)が発売当初はまったくレコードが売れなかったが、開戦によって脚光を浴びるようになった。

  ■太平洋戦争勃発  日本は破竹の勢いで南方を次々と占領。昭和17年1月マニラ占領、2月シンガポール陥落させた。シンガポール陥落に従事した兵士が亡き戦友を思って作った歌がレコードになった。それが「戦友の遺骨を抱いて」(逵原実・作詞/松井孝造・作曲)である。また、陸海軍落下傘部隊の活躍を讃えた「空の神兵」(梅木三郎・作詞/高木東六・作曲)が反響を呼んだ。歌謡曲は南方メロディーが中心になった。灰田勝彦が歌う「ジャワのマンゴ売り」(門田ゆたか・作詞/佐野鋤・作曲)、比較的リズミカルな「南から南から」などがヒットした。召されて征く夫や子の無事を祈る女性の心情を歌ったのが「明日はお立ちか」(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲/小唄勝太郎・歌唱)が大衆の心に染み入りながらヒットした。  太平洋戦争が始まると軍国歌謡が主流になった。国民の戦争への決意を強固にあるために「大東亜決戦の歌」が各社から発売された。このレコード発売後、昭和17年4月、米軍機によって本土空襲を受けた。そして、太平洋戦争の戦況はミッドウェー海戦の敗北を境に一気に日本に不利な状況となる。 太平洋戦争の花形は航空戦である。昭和17年5月、愛機「隼」とともに散った加藤建夫中佐の武勲を讃え、空の軍神の死を悼んで映画『加藤隼戦闘隊』が制作され、ビクターから灰田勝彦の歌で「加藤部隊歌/加藤隼戦闘隊」(田中林平、朝日六郎 作詞/原田喜一、岡野正幸 作曲)が発売された。

  ■戦争の激化と歌謡曲  戦争の色が濃くなったレコード歌謡に抒情歌も生まれていた。霧島昇と二葉あき子の「高原の月」(西條八十・作詞/仁木他喜雄・作曲)や「鈴懸の径」(佐伯孝夫・作詞/灰田晴彦・作曲)は抒情歌謡として好評だった。「鈴懸の径」はカレッジ・ソングとして若者の哀感を歌い、死と共存する若者達の愛唱歌となった。佐伯孝夫が早稲田、作曲の灰田晴彦は慶応、歌唱の灰田晴彦は立教と、それぞれのキャンパスライフの想いがあった。また、タンゴ調の「新雪」(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)は戦争によって荒んだ人々の心を癒した。  昭和18年に入ると、国民は耐乏生活を強いられるようになった。学従出陣、勤労動員が始まり、未婚の女子は女子挺身隊として軍需工場などに動員された。また、朝鮮人や占領下の中国人を軍需工場で働かせた。国内では決戦体制に突入し国家管理統制の下で映画も国策遂行のための武器になったが、大衆には戦争色の薄いものが好まれた。昭和18年の映画主題歌としては、泉鏡花・原作『婦系図』の映画主題「婦系図の歌」(佐伯孝夫・作詞/清水保雄・作曲)、伊那の勘太郎』の主題歌「勘太郎月夜唄」(佐伯孝夫・作詞/清水保雄・作曲)がヒットした。映画も長谷川一夫、山田五十鈴、高峰秀子、古川ロッパらが共演し好評だった。戦後「婦系図の歌」は「湯島の白梅」のタイトルに変えられている。

  ■敗戦への途  昭和18年、太平洋上の制空権をかけての戦いは人的物的に激しい消耗戦を呈し、海軍の予科練習生は貴重な兵力となった。通称「ヨカレン」と呼ばれ,厳しい訓練を受ける予科連をテーマに歌も生まれた。「決戦の大空へ」の主題歌として「若鷲の歌」(西條八十・作詞/古関裕而・作曲//霧島昇・波平暁男・歌唱)が発売され23万枚の驚異的なヒットとなる。昭和19年に入ると、6月マリアナ沖海戦の敗北、7月インパール作戦の中止命令、同月サイパン島陥落、10月レイテ沖海戦の敗北、神風特別攻撃隊の実施、11月、東京がB−29の空襲を受け、以後アメリカ軍の本土空襲が激化する。日本経済と国民生活はしだいに崩壊していった。  太平洋戦争の最前線で激闘を繰り返していたラバウル海軍航空隊の活躍を描いた「ラバウル海軍航空隊」(佐伯孝夫・作詞・古関裕而・作曲)、アメリカ軍の猛攻によって、撤退を余儀なくされ、その無念と別離の心情を歌った「ラバウル小唄」(元歌・「南洋航路」)が流行した。学徒動員の歌として「あゝ紅の血は燃ゆる」(野村俊夫・作詞/明本京静・作曲)作られ、悲壮感あふれるレコードが発売された。また、古賀メロディーの「勝利の日まで」(サトウ・ハチロー・作詞/古賀政男・作曲)は明るい旋律のなかに敗戦を予感される哀感が込められていた。  昭和20年2月硫黄島上陸(3月守備隊玉砕)、3月東京大空襲、4月アメリカ軍沖縄上陸、日本の敗北は必至となった。迫りくるアメリカ機動艦隊に肉弾攻撃を加えた特別攻撃隊をテーマにした〈無念の歯がみこらえつつ・・・〉・「嗚呼神風特別攻撃隊」(野村俊夫・作詞・古関裕而・作曲)、「神風特別攻撃隊の歌」(西條八十・作詞/古関裕而・作曲)が日蓄(コロムビアの社名変更)から発売され、悲愴感溢れる歌が戦争の悲惨さを伝えていた。た。その特攻隊員に歌われたのが同期の桜」(西條八十・作詞/大村能章・作曲)である。飛び立って行く搭乗員たちは、その出撃前夜、酒を特攻隊員に歌われ、戦後生きた軍歌として戦中派の傷心を癒し広く歌われた。

1 戦前のムード歌謡

 

 大正時代は、街頭演歌といわれた「はやり唄」の全盛時代だった。演歌師たちが流し歩いて唄っていた歌をレコード会社が聴きつけてレコードした。「船頭小唄」「籠の鳥」などが流行したのだ。だが、昭和になると事情が大きく変わった。日本ビクター、日本コロムビアなど外資系レコード会社が成立すると、各レコード会社が企画・製作し大衆に選択させるシステムに代わったのである。録音システムも従来のラッパ吹込ではなく電気吹込みという新しいシステムが登場し、耳新しいジャズの響きも巷では聴かれるようになった。激しいヒット競争も展開した。「我らのテナー」・オペラの藤原義江、「東京行進曲」(昭和四年)を歌って人気歌手になった佐藤千夜子、ジャズ・ソングの二村定一らが創成期の昭和歌謡を彩ったのである。そして、やがて、ムード歌謡的な歌も作られるようになった。 

 ムード歌謡とは、都会、夜の街、酒場、港を舞台とし、心情、雰囲気を歌詞やメロディーに盛り込んだ成熟した大人の歌謡曲である。そのようなムード歌謡の情緒と雰囲気はすでに昭和初期、戦前の流行歌に見ることができる。その嚆矢が古賀メロディーの「酒は涙か溜息か」(昭和六)だった。昭和六(一九三一)年、満州事変が本格的になりだした頃、「涙」「酒」「溜息」を心情のシンボルにした感傷のメロディーは大衆の心を捉え、一世を風靡した。モダン都市における夜の街、カフェー、酒場を舞台に昭和恐慌で喘ぐ人々のやるせない心を慰めたのである。歌唱者の藤山一郎は声楽技術を正統解釈した甘美・流麗な唱法で古賀政男のギターの魅力を伝えた。その豊かな歌唱表現がクラシックの体系・メソッドとはいえ、詠嘆のムードを明瞭な日本語で表現したことは従来の流行歌には見られなかったことであり、画期的なことだった。

 昭和初期は官能的なムードのある日本調歌謡が流行した時代でもある。小唄勝太郎が静かに濡れたビロードのような声で歌った「島の娘」(昭和八)も日本情緒溢れるムード歌謡的な歌である。また、「島の娘」の作曲者・佐々木俊一は「無情の夢」(昭和一〇)というムード歌謡の傑作を世に送り出している。また、関種子が歌った「雨に咲く花」(昭和一〇)もタンゴのリズムにのせた抒情豊かなムード歌謡の名曲といえよう。この「無情の夢」と「雨の咲く花」は、ロカビリー歌手の井上ひろし、佐川ミツオによって戦後昭和三〇代にリバイルされヒットしている。

 昭和一二(一九三七)年、日中戦争が始まった頃、服部良一作曲のブルース歌謡・「別れのブルース」(昭和一二年)が巷に流れた。これも今でいうならムード歌謡の範疇に入る名曲である。淡谷のり子がブルースの情感を出すため従来のソプラノを捨てて歌ったところにヒットの要因があった。また、ジャズのフィリーリングを生かしたディック・ミネが歌う「愛の小窓」(昭和一一)「上海ブルース」(昭和一年)、ハワイアン出身の灰田勝彦が歌う「燦めく星座」(昭和一五)もムード歌謡に入る流行歌の傑作である。 日中戦争は泥沼化しており、国家総動員法(昭和一三年)、日独伊三国同盟(昭和一五年)、大政翼賛会の結成(昭和一五年)と、しだいに戦時国家体制が顕著になり、軍歌・軍国歌謡も台頭してきていた。たが、当時は昭和モダンの青春や感傷をテーマにした「或る雨の午後」(昭和一三)「一杯のコヒーから」(昭和一四)「雨のブルース」、大陸を舞台に渡辺はま子が歌った「支那の夜」(昭和一三)「蘇州夜曲」(昭和一五)などの歌謡曲や「ダイナ」「ラモナ」「ダーダネラ」「人の気も知らないで」など外国のポピュラー曲のカヴァーも氾濫しており、これらは、カフェー、ダンスホールで流れ当時のムード歌謡として愛好されたのである。 

 太平洋戦争が終わり、戦後になると日本は新しい時代を迎える。戦後の歌謡曲は、並木路子が歌う「リンゴの唄」や岡晴夫の歌声が焼け跡や闇市から聞こえて来たことに始まった。そして、笠置シズ子が歌う「東京ブギウギ」は占領期の日本人の虚脱感を吹き飛ばし、藤山一郎が颯爽と格調高く歌う「青い山脈」は復興と民主化の息吹を伝えたのである。

 戦後の歌謡曲において、ムード歌謡的なヒット曲といえば、ディック・ミネが切実と情感を込めて歌う「夜霧のブルース」(昭和二二)、戦争の後遺症を残した「星の流れに」(昭和二二)、ビクターの新人歌手平野愛子が歌う「港が見える丘」(昭和二二年)、「アイラブユー」という言葉が入り新鮮な感覚をあたえた小畑実のヒット曲「星影の小径」(昭和二三年)があげられる。

 昭和二五(一九五〇)年、朝鮮戦争が勃発、特需景気が始まり日本の経済復興の兆しが見え、翌昭和二六(一九五一)年、サンフランシスコ平和条約、日米安保条約が締結され、占領時代が終わり日本は復興の時代を迎えた。歌謡曲も美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘が人気を呼び、その一方で、二葉あき子が歌った「水色のワルツ」(昭和二五年)も格調高いムード歌謡の魅力をもってヒットした。また、伊藤久男が抒情豊かに歌いあげた「あざみの歌」(昭和二五)も歌曲的とはいえムード歌謡の雰囲気が感じられ、さらに「君の名は」(昭和二八)も歌謡ファンにとって忘れることができないヒット曲となった。 

 

2 演歌系歌謡曲と都会派ムード歌謡

 

 昭和三〇年代に入ると、歌謡界が大きく変貌した。変化は歌謡界だけではなかった。昭和三〇年という年は日本の大きな転換期でもある。自由民主党の結成による「五五年体制」の始動、神武景気に始まる高度経済成長の到来、翌昭和三一(一九五六)年の『経済白書』には「もはや『戦後』ではない」という言葉が新たな消費社会を予感させた。五〇年代後半・三種の神器(洗濯機・テレビ・自動車)や六〇年代後半・3C(カー・カラーテレビ・クーラー)の登場がそれを象徴していた。

 昭和三〇年代、コロムビアは演歌・艶歌路線を濃厚にしていた。演歌はもともと自由民権運動の産物である。政治演説の代わりに歌われた歌が演歌である。大正時代には中山晋平が西洋音楽と伝統的な俗謡に眠る日本人の心情を融合させた「ヨナ抜き短音音階」で「船頭を小唄」を作曲し演歌系歌謡曲の範型を作った。その演歌は昭和に入り紆余曲折し歌謡曲の中心になり始めたのである。コロムビアの作曲陣では船村徹、遠藤実がコロムビアのカラーをしだいに変えていった。そして、古賀政男も浪曲の村田英雄の声に惚れ込み「無法松の一生」(昭和三三)「人生劇場」(昭和三四)を歌わせ、演歌の源流のスタンスを志向し始めた。歌手では美空ひばりが中心となり、泣き節の島倉千代子が「この世の花」で登場するなど新たなスターも生まれたのである。

 キングは、岡晴夫の時代が去り、春日八郎の望郷演歌、民謡を基調にした三橋美智也の故郷演歌を売り出した。「別れの一本杉」(昭和三〇)は故郷を離れ都会の片隅で喘ぐ若者の心情を歌った望郷演歌の傑作であり、「リンゴ村から」(昭和三一)は農村型のふるさと演歌の代表作だった。このように春日八郎・三橋美智也・隆盛の時代を迎えたが、ビクターは吉田正の都会派ムード歌謡を売り出した。成熟した都会生活を満喫するような甘い大人のムード歌謡が流行したのである。その代表曲が「有楽町で逢いましょう」(昭和三二)だった。 

 都会派ムード歌謡を代表する吉田メロディーは、流行歌に新しい感覚をもたらした。この傾向は、すでに鶴田浩二が歌った「赤と黒のブルース」(昭和三〇)、「東京の人」(昭和三一)「東京午前三時」(昭和三二)で見られていたが、「有楽町で逢いましょう」でその路線を明確にした。コロムビアローズが歌った「東京のバスガール」(昭和三二)は、集団就職の哀歓を感じさせる哀愁があり伝統的な歌謡曲路線だが、「有楽町で逢いましょう」は大人のムードが溢れる新しい感覚の都会派歌謡だった。

 都会の夜を舞台にしたムード歌謡において、ジャズのフィーリングを加味したフランク永井の低音の魅力は都会的な甘さがあり新鮮だった。石原裕次郎も同じ頃、ハスキーな低音で「狂った果実」(昭和三一)を歌い、また、キングの三船浩が「男のブルース」(昭和三一)をヒットさせ低音の効くブルース歌手として注目された。「望郷」「故郷」をテーマに歌う春日八郎、三橋美智也の高音歌手に対して都会のムードを歌うフランク永井、石原裕次郎、三船浩は「低音三羽カラス」と言われた。いわゆる、低音ブームという時代が到来したのである。 

 このように昭和三〇年代、演歌・艶歌路線の船村徹、遠藤実、都会派ムード歌謡の吉田正らと歌謡界のヒットメーカーの勢力図を形成したのがジャズの中村八大である。彼が作曲した「黒い花びら」(昭和三四)は従来の歌謡曲とは違った新鮮な感覚によるムード歌謡の傑作だった。歌唱の水原弘もチェック・ペリーに傾倒していただけあって、ドスの効いたブルース調の抜群の上手さで見事に第一回レコード大賞受賞に輝いた。 

 吉田の都会派ムード歌謡はその後、和田弘とマヒナスターズ、松尾和子らのヒット曲を作りだした。吉田はフランク永井と松尾和子を組ませた。夜の銀座の豪華な一流ナイトクラブで一夕を過ごす男女をテーマにした「東京ナイトクラブ」(昭和三)を二人に歌わせたのだ。銀座を舞台に大人のムード満点のムード歌謡だった。また、松尾和子の濡れるようなハスキーヴォイスとマヒナスターズを組ませた「誰よりも君を愛す」(昭和三五)は第二回レコード大賞受賞曲だった。

 マヒナスターズは都会派ムード歌謡のコーラスに先鞭をつけたグループである。松尾和子は進駐軍でジャズを歌い、ナイトクラブではハスキーな声を響かせていた。そのセクシーヴォイスで「再会」(昭和三五年)をヒットさせた。この曲は女性の心情を絞り出すようなバラード風の都会派ムード歌謡であり、そして、さらに、石原裕次郎が甘い低音のハスキーヴォイスで「銀座の恋の物語」(昭和三六)を歌いムード歌謡は頂点に達したのである。

 

3 演歌の隆盛 

 

 日本は東京オリンピック(昭和三九年)の成功以後、高度経済成長をまっしぐらに走り、昭和四三(一九六八)年、GNPがアメリカに次いで先進国で第二位となり、経済成長の繁栄と平和を満喫していた。六〇年代後半になると流行歌・歌謡曲と言われた歌が演歌という形容で呼ばれるようになった。また、それは日本の歌謡曲がビートルズサウンドの影響から演歌とポップスに分けられた歴史のスタートでもある。 

 昭和四一年、エレキブームのさなか、アコースティックギターのイントロが奏でる「悲しい酒」(昭和四一)が美空ひばりの歌でリバイバルされた。これは、もともと北見沢淳が創唱したものであった。だが、レコードは、ほとんどヒットせず埋もれたまま消えゆく作品だった。それが美空ひばりによって再生し、ムード歌謡的な演歌としての古賀メロディーが確立したのである。

 古賀政男は日本人の哀しい涙やうらみ・つらみの源流を仏教の声明にあるとのべていた。演歌・艶歌の心情は、声明を源流とし、平曲や謡曲、浄瑠璃、説教節、浪花節への流れと、和讚(国産声明)や御詠歌、子守唄、江戸小唄などに流れる系統に分類され、日本人の暗く哀しい情念の世界を作りあげたのである。古賀政男はこの点に関して深い関心をもっていた。

 六〇年代後半の演歌は、美空ひばりを頂点にして、北島三郎・男の魂演歌、都はるみ・独特の「唸り節」、水前寺清子・人生応援歌に代表されるが、演歌においてまったく従来とは異なるヴォイススタイルが生まれた。森進一、青江三奈である。それは、悪性のハスキーヴォイスで男女の情念を歌い上げる歌唱だった。青江三奈は成熟した女の色気を醸し出しキャバレーのネオン街に男にすがることもなく生きる「一夜妻感覚」を感じさせた。そのハスキーヴォイスの女性歌手の系譜の中から七〇年代に登場するのが炎の女の情念を歌いあげた八代亜紀である。女の情念演歌を歌い続けた。

 森進一は女の嗚咽、哀艶の切なさ、情痴の世界の隠微な感情を苦しげに喘ぎながら歌った。また、このハスキーさが女性の母性をくすぐり人気を得たのである。森進一は「女のためいき」(昭和四一)でデビューした。この年は橋幸夫が「霧氷」(昭和四一)で予想外のレコード大賞を受賞した。青春歌謡では舟木一夫が「絶唱」(昭和四一)をヒットさせ、西郷輝彦が「星のフラメンコ」(昭和四一)で人気を博すなど、まだ歌謡界において御三家の人気は健在だった。だが、森進一は「港町ブルース」(昭和四四)をヒットさせ、御三家の時代・青春歌謡の終焉を予感させたのである。

 

4 ムード演歌

 

 演歌にムード歌謡的なイメージが加わった。高度経済成長がもたらした自動車と高速道路、地方都市の盛り場、有線放送が結合し媒体になって美川憲一が歌う「柳ヶ瀬ブルース」(昭和四一)、青江美奈の「恍惚のブルース」(昭和四一)「伊勢佐木町ブルース」(昭和四三)がヒットした。盛り場では有線放送によってこれらの「ブルース演歌」・「ブルース艶歌」が流れたのである。 

 演歌の隆盛の時代、六〇年代の甘いムード歌謡を思わすような歌がヒットした。黒沢明とロス・プリモスが歌った「ラブユー東京」(昭和四一)、鶴岡雅義と東京ロマンチカがムード演歌の抒情をたっぷりと聴かせた「小樽の人よ」(昭和四二)「君は心の妻だから」(昭和四四)は演歌特有の泥臭さがあまり感じられなかった。だが、この年にはムード演歌がはっきりとジャンルとして確立している。

 ムードコーラスと演歌を結び付け、ムード演歌を確立させたのがコーラス演歌の内山田洋とクールファイブである。「長崎は今日も雨だった」(昭和四四)がヒットした。そして、七〇年代に入ると、「噂の女」(昭和四五)「そして、神戸」(昭和四七)「中の島ブルース」(昭和五〇)と次々とヒットさせたのである。内山田洋とクールファイブのヴォーカル・前川清の絶唱にはブルースに近い情感が感じられた。

 七〇年に入ると、藤圭子がクローズアップされた。彼女の登場には七〇年代前後の昭和四〇年代の社会世相が影を落としている。昭和四〇年二月の米軍の北爆以来のベトナム戦争が激化していた。中国の文化大革命、大学紛争が激化、三島由紀夫割腹事件、浅間山荘事件などの時代の空気が反映されていた。

 藤圭子は政治闘争に挫折した若者の虚無感を満たすかのように、黒い上衣とパンタロンに白いギターを持って登場した。ハスキーヴォイスで、成熟した女とは程遠いがどこかシラケた冷たさの中にある情念を歌った。ぶっきらぼうな冷めた歌い方が政治の季節に疲れた若者の心を癒したのである。

 「圭子の夢は夜ひらく」(昭和四五)は、青江三奈のエロティックな溜め息の入った大胆さとは対照的だった。世間に背をむけたティーンエイジャーの世代体験が反映されていた。ロカビリー出身の中村泰士が作曲した「喝采」(昭和四七)が日本レコード大賞を受賞した。歌唱はちあきなおみ。ちあきなおみはハスキー系ヴォイスの魅力を持ちポップス調のムード演歌で活躍した。

 七〇年代のムード演歌といえば、五木ひろしを忘れてはならない。ムード演歌で幅広い支持をえた。「よこはま・たそがれ」(昭和四六)「長崎から船にのって」(昭和四六)、レコード大賞受賞の「夜空」(昭和四八)などをヒットさせた。

 五木は売り出した頃、細い目をさらに細くして絞り出すような泣き節で、歌い方も拳を握り締めたポーズでボクシングスタイルのようだった。だが、ヒット街道を驀進するにつれ低音の魅力が増し持ち前の歌唱力も冴え、ムード演歌から幅広いジャンルに歌唱力を見せた。 七〇年代に入っても、演歌には有線放送の存在を欠かすことができない。東京・大阪・名古屋という大都市のみならず、地方都市のスナック酒場では高価なステレオを置くよりも有線放送を契約して演歌を流した。有線放送から流れる「地名もの」・「季節入り旅演歌」・「女シリーズ」・「ムード演歌」を聴きながらグラスを煽ってじっと演歌を聞き入る光景もみられた。その中にはハスキーヴォイスで炎の女の情念を歌いあげた八代亜紀の「なみだ恋」(昭和四八年)もよく聴かれた。

 七〇年代前半の演歌は、ハスキーヴォイス・森進一の女の嗚咽・溜息、美声低音の美川憲一・怨念演歌、低音に魅力をだす五木ひろし・旅情ムード演歌、ド演歌・盛り場演歌のぴんからトリオ(後にぴんから兄弟)、激情演歌・殿様キングスと非常に濃かった。そして、七〇年代後半から細川たかし、小林幸子などが登場した。演歌歌手の層も厚くなったのである。

 「女のみち」(昭和四七)は盛り場演歌のド演歌中のド演歌である。ここまで濃く庶民環境を歌った歌は無いとまで言われた。レコードは三二〇万枚という記録的な売り上げをしめした。この歌がヒットした年は、田中角栄の「列島改造論」で日本は湧いた。

翌年オイルショックが日本経済を直撃し狂乱物価を招き、日本経済はこれ以後低成長時代を迎えるが、この頃、有線放送からは渡哲也が歌ったムード演歌のヒット曲「くちなしの花」(昭和四九)がよく聴かれた。また、昭和元禄を象徴するかのように「昭和枯れすすき」(昭和四九)がさくらと一郎の歌でヒットした。 

 

5 演歌の変容

 

 演歌とアイドル歌謡は融合することはなかった。だが、演歌はフォークと接近した。それが「襟裳岬」(昭和四九)である。作曲がフォーク界のプリンス・吉田拓郎、歌手が森進一だった。女の嗚咽を歌ったハスキーヴォイスとフォークの抒情性がうまくかけ合わされていた。「襟裳岬」はレコード大賞に輝いた。その後、演歌とフォークの融合作品、つまり、演歌的にも聴け、フォーク的にも聴くこともできる作品が作られていった。都はるみが歌う「北の宿から」(昭和五〇)、河島英吾の「酒と泪と男と女」(昭和五一)がその路線に沿ってヒットした。 

 フォークと演歌の接近が見られた頃、ロッキード事件が日本の政界を震撼させた。前田中角栄首相が外国為替管理法違反・受託収賄罪事件として逮捕されるなど戦後最大の疑獄事件へと発展した。その一方で、日本経済はオイルショック以後の低成長の長いトンネルからようやく抜け、昭和五四(一九七九)年の第二次オイルショックも乗り切り安定成長の軌道に乗った。

 八〇年代に入ると演歌では八代亜紀が歌う「雨の慕情」(昭和五五)がヒットした。八代はこの年、五木ひろしの「ふたりの夜明け」(昭和五五)との激しいデットヒートを展開し、凄まじい争奪戦を制し、「日本歌謡大賞」と日本レコード大賞」の二冠受賞となった これらの曲はカラオケブームに便乗したものが多い。中高年の郷愁を誘うものだった。「奥飛騨慕情」(昭和五六年)「みちのくひとり旅」(昭和五六)、「北酒場」(昭和五七)、「さざんかの宿」(昭和五八)、「八切の渡し」(昭和五八)「浪花恋しぐれ」(昭和五九)《長良川艶歌》(昭和五九)などがヒットした。 

 八〇年代前半は細川たかしの活躍が目立った。「北酒場」と「八切の渡し」で二年連続日本レコード大賞を受賞する快挙を成し遂げた。また、「長良川艶歌」をヒットさせた五木ひろしは、昭和五九(一九八四)年の日本レコード大賞と日本歌謡大賞の二冠を受賞。五木は橋幸夫、細川たかしに続いて三人目のレコード大賞二回受賞。これは、演歌の隆盛の再来を思わせた。昭和五九(一九八四)年、都はるみの引退は演歌にとっては暗いニュースだったが、「あばれ太鼓」でデビューした坂本冬美は新しい女性演歌歌手として注目された。坂本は、ポップスのフィーリングを持ち合わせ、さらに「祝い酒」(昭和六三)をヒットさせた。そして、坂本は忌野清志郎と組むなど、ニューミュージックと演歌の交流が見られた。

 ニューミュージック系の谷村新司、堀内孝雄らが演歌にも進出した。その後、演歌の新世代を次々と登場させたが、演歌が八〇年代後半の生活感覚に合ったものとして志向されたとしても、若い女性の共感を得ることは非常に難しかった。酒場でひとり酒を飲む男の背中や健気に男へひたすら尽くす女の心情を込めた歌詞が新鮮さに欠けていたのである。 昭和六三(一九八八)年がJ・ポップ元年である。昭和初期の歌謡曲が放送用語として生まれたように、J・ポップという名称も放送から誕生した。バブル経済の最盛期の頃である。年号はまだ、昭和だが、昭和天皇がその年の九月から吐血し、その病状の様子がほぼ毎日のようにテレビで報道されていた。翌年一月七日午前六時三三分、昭和天皇は崩御した。八七歳。そして、平成の時代が始まった(一月八日〇時三〇分)。昭和の終焉とともにJ・ポップは産声を上げたのである。 

 平成元年(一九八九)年、美空ひばりが逝去した。戦後の六〇年経った歌謡界において、美空ひばりに比肩できる歌手は生まれることがなかった。そういう意味でも、美空ひばりの死は、演歌と云われた戦後・歌謡曲の終焉といえるのではないか。「川の流れのように」(平成一)は、美空ひばり最後のヒットであり、昭和の故郷を雄大にそして恍惚と歌い上げた。この壮大なバラードは美空ひばりの鎮魂歌でもり、日本の演歌の集大成でもあったといえよう。 



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月20日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載一回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々
     〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載一回〉

小畑実は甘美な明るい音色。津村謙は哀調のあるビロードの声と表現できる。小畑実はポ
リドールからデビューした。昭和十六年二月新譜で発売された《成吉思汗》である。小畑
は、韓国に生まれた。小学校に入る前から、教会の聖歌隊に入り将来をオペラ歌手への夢
を吹膨らませた。当時、日本では朝鮮半島出身の永田絃次郎というテノール歌手が活躍し
ていた。少年はやがて、母を残して海を渡ったのである。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

昭和のレコード会社はモダニズムの消費経済によって発展した。第二の藤山一郎発掘に血
眼になっていたのだ。流行歌の男性専門歌手があまりいなかった時代である。美声と歌唱
力があればレコード会社は放ってはおかなかった。その標的は当然
,音楽学校生だった。上
野の音楽学校の師範科に在籍していた福田青年は、苦悩していた。生家が連帯保証人の煽
りをうけ邸宅や田畑を手放す不運に見舞われたからだ。彼は考えた末に《酒は涙か溜息か
》の一件で問題を起こし停学になった増永丈夫(藤山一郎)を訪ねることにした。

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■昭和三十年代昭和歌謡

〈歌謡人生いろいろ〉

春日八郎の本名は渡辺稔。電車の車掌のように固い名前である。では、一体どうして春日に
なったのか。岡晴夫がキングディレクター掛川氏に語った話をもとに芸名を考えた。岡の夢
枕に立った白ヘビが春日竜神とあり、掛川が春日に話し二人で相談して決めたそうだ。それ
までの芸名が歌川俊。三門順子の前歌歌手だった。春日八郎となり、《赤いランプの終列車》
でデビューし、大歌手への始発列車に乗るのである。《赤いランプの終列車》はギリギリのと
ころまで追い込まれながら、これが最後と江口夜詩に会社を口説き落としてもらい、何とか吹
込み発売にこぎつけた。いわば春日八郎の土壇場のヒットデビュー曲だった。

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☆〈ポップス歌謡〉

水原弘もロカビリーの落し子といっても過言ではない。派手なきらたイメージがないにしても
それなりの理由がある。水原が赤坂商業二年だった。文化放送の『素人ジャズ喉自慢』に優勝
したのである。この喉自慢はロカビリー時代やポップス歌謡の土壌になっていた。水原はやが
てジャズ喫茶で喉を磨き独自のスタイルを確立した。渡辺美佐がジャズ喫茶を回ってスカウト
をしたことが歌謡界へのきっかけだった。

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〈映画スターの共演〉

太陽族と慎太郎刈りという流行風俗を生んだのが小説『太陽の季節』である。作者は石原慎太郎。日活で映画化された。原作者の実弟石原裕次郎はこの映画でデビューした。だが、裕次郎にはデビューの意識がなかった。それもそのはず、主役は長門裕之で裕次郎は不良仲間の役でほとんどセリフも数回程度のものだった。むしろ、撮影のときダイアログ

ディレクターで現場を楽しんでいたようだ。何しろ、舞台となった湘南地方を撮影スタッフも俳優もよく知らない。そこで、裕次郎が慶応の仲間と一緒にいろいろと教えたのである。

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〈青春歌謡の時代〉

昭和三十年代前半、演歌はまだ大人歌手が歌うものであった。十六歳の橋幸夫は、各レコード会社を回っていた。マーキュリーは「まだ子供過ぎる」、コロムビアは、「少年が演歌を歌っても?」といって敬遠した。ロカビリーの影響がまだ余韻として残り、演歌は故郷物が主流だった時代に十六歳少年の歌はまだ受け入れがなかった。橋は遠藤実のところで

三年間レッスンを受けた。その遠藤が橋を連れてビクターのスタジオにやってきたのが昭和三十四年だった。

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     70年代歌謡グラフィティー

〈アイドルの時代〉

昭和二十年代の三人娘は、美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ。昭和三十年代後半になると、中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり、いわゆるなべプロ三人娘。70年代に入るとアイドル黄金時代の渡来を予見するかのように、小柳ルミ子、南沙織、天地真理の三人娘が世の男を虜にし、その大樹に麻丘めぐみ、アグネスチャンが加わり、そして、森昌子、桜田淳子、山口百恵の中三トリオが登場するころには頂点に達した。まさに歌謡界はアイドル

の時代だった。

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〈演歌の抵抗〉

藤圭子の演歌は、成熟した女の色気とは程遠いどこか白けた冷たさがある。素っ気無い可愛げに乏しいのだ。エロチックな溜息の入った青江美奈のような大胆さとはまったく対極である。藤圭子の《夢は夜ひらく》は、女が濡れる大人の恋以前の当時の世間に背を向けたティーンエンジャーの世代体験が反映されていた。この歌は、東京練馬の少年鑑別所帰りの者が歌っていたメロディーを作曲家者の曽根幸明が採譜して補作したものである。この歌が盛り場の流しの歌うたいが歌い広まったといわれている。

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〈なつかしの歌声〉

70年の大晦日「なつかしの歌声・第三回年忘れ大行進」は、東海林太郎の《赤城の子守唄》でトップを切った。この歌は、昭和九年にヒットした。それを思えば、歌の生命力には驚かされる。つづいて二葉あき子の《夜のプラッとホーム》、小畑実が感傷を込めて歌う《高原の駅よさようなら》、その年に亡くなった岡晴夫のVTRも流れた。最終ステージの部では、藤山一郎が格調高く高らかに《東京ラプソディー》を。トリは東海林太郎。万雷の拍手に応えて《野崎小唄》を熱唱した。

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月21日発行---------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載一回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

     〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載二回〉

小畑が日本に来たのは十二歳のときだった。最初に京都の新聞販売店に住み込み、新聞配達をしながら中学に通った。中学を卒業後上京し日本音楽学校に入学した。月謝を稼ぐために中野の牛乳店に住み込みで働いた。小畑はある日新聞広告に目をやった。古川ロッパ一座の座員募集の広告である。オーデションは合格した。それから、しばらく、ロッパ一

座の端役・牛乳配達・音楽学校の生活を続けた。小畑はその頃には中野の牛乳店の住み込みをやめて新井薬師駅前に下宿していた。日本音楽学校を卒業後、ポリドールからデビューするわけだが、芸名は下宿の経営者の姓を採った。そして、その後ビクターに転じ、藤原亮子と共演し翌年十月新譜の《湯島の白梅》、さらに翌十八年二月新譜の《勘太郎月夜唄》

でヒットを放った。一方、津村は昭和十八年三月新譜の《人生第一歩》でテイチクからデビューした。本名の松原正で吹込んだ。戦雲緊迫のさなか松原正の歌声は世に広まらなかった。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

福田青年は増永丈夫(藤山一郎)をなかなか上野のキャンパスで見つけることができなかった。停学解除になって学校に復学しているはずだ。増永(藤山)は、その頃、音楽学校で上演される予定のオペラ《デー・ヤ・ザーガー》に取り組んでいた。音楽学校は流行歌をヒットさせた理由で増永(藤山)に厳しい処罰を下せなかったのは、クラウスプリング

スハイムの指揮・演出のオペラに彼の力が必要だったからだ。福田青年は、増永(藤山)がよく近くの銭湯に行くのを思い出した。彼は、早速行ってみることにしたのである。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

ヒットの震源地は名古屋から始まった。この終列車は春日にとっては胸迫るものがあった歌である。そして、岡晴夫の代打で登場し、《お富さん》で場外ホームランを放つ。春日八郎起用は当時の文芸担当重役町尻量光が決めたことだった。春日八郎は《お富さん》の大ホームランの後、苦しんだ。お富さんという流行現象に魅入られ、つぶれかかった。それを救ったのが《別れの一本杉》だった。

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     〈ポップス歌謡〉

『太陽の季節』の撮影中に監督の古川卓巳は裕次郎らの学生言葉に興味をもった。「台本がここにあるから、君たちが普段ヨット遊びで使う言葉を教えてくれ」。その手伝いの最中にルーペを覗いていた伊佐山三郎カメラマンの目に止まり、伊佐山が水の江滝子プロデューサーにささやいた。「むこうに阪妻がいる」。それが裕次郎の映画入りの始まりだった。その頃、日活では大物監督市川崑は日活を去り大映に移った。そこで、石原慎太郎原作『処刑の部屋』を撮ることになった。裕次郎は主役に抜擢されたが、彼はまだ慶応法学部の学生、大映が要求する三年契約を蹴ってしまった。そこで、日活は強引に迫り、契約にこぎつけた。

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     〈映画スターの共演〉

昭和三十四年九月、ロカビリー歌手総出演の東宝『青春に賭けろ』の挿入歌の一つで《黒い花びら》が流れた。この歌は今までにないタイプの歌謡曲だった。だが、水原本人もいわく、「これはちょっとシャレすぎてあたらねぇ」と。ところがレコードのA面の《ネリカン・ブルース》が発禁処分になった。それによって《黒い花びら》がA面になった。プレスは初回二〇〇〇枚だったが、下町から俄然ヒットし始めた。当時の東芝・ディレクター松田十四郎は、水原の歌への自信に賭けていた。そして、レコード大賞受賞へ。

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     〈青春歌謡の時代〉

遠藤実はコロムビア専属の作曲家である。その彼が愛弟子とはいえ、ライバル会社のビクターに橋少年をつれてくるとは奇妙な話だ。テストでは、村田英雄の歌を歌った。ビクターは拒否反応も一部あったが、一応合格させた。だが、少年ではおとなの三橋美智也、春日八郎を陵駕するのは無理という声が多数をしめていた。ただ一人、芸能タレント課課長小野が異論を唱えた。「若い世代がロカビリーだけを好むわけではない」。小野は、フランク永井、松尾和子らムード歌謡の吉田正をなんとか説き伏せ曲を書いてもらう約束をとりつけた。とに

かく、橋少年を吉田門下にしたのである。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

小柳ルミ子は、多少演歌の味がする《私の城下町》を歌い、レコード大賞最優秀新人賞に輝いた。若者の城下町という古い日本の心情風景や懐古趣味を刺激した。小柳ルミ子は、宝塚音楽学校出身でアイドルマークの八重歯に加え歌の実力はかなりのものがあった。翌昭和四十八年のレコード大賞では《瀬戸の花嫁》で歌唱賞を受賞した。沖縄の美少女南沙織は筒見京平作品の《17才》で衝撃的なデビューをした。黒髪を靡かせながら真夏の太陽がギラギラ輝く海というイメージそのものだった。南方から台風の上陸を思わせた。

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     〈演歌の抵抗〉

昭和四十五年十一月二十五日に作家三島由紀夫が東京市谷の自衛隊の駐屯地で割腹自殺をした。その翌年になると、ヒッピースタイルやジーパンにTシャツというスタイルが流行し、男の髪も長髪が当たり前になった。若者の懐古趣味にフィットしたのが小柳ルミ子の《私の城下町》だった。また、昭和四十年代の後半からは五木ひろしが人気歌手として台頭した。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年六月二日放送の「なつかしの歌声」は今年逝去した岡晴夫の追悼特集。東京音楽学校(現芸大)出身のクラシックの正統派歌手藤山一郎、満鉄のエリート社員を辞して音楽コンクール入賞し歌手になった東海林太郎ら正統派歌謡の全盛の頃、流し上がりの岡晴夫のレコード界への登場は異例なことであった。戦後の青い空に響きわたった明るい岡晴夫の歌声は戦後の打ちひしがれた人々の心を癒した。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・3◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月22日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載四回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載三回〉

戦後、津村謙はコロムビアに入社。活動を再開した。だが、《二人でいれば》《青春の花
咲けば》《希望の歌声》《股旅千里》等を吹込むがヒットに恵まれなかった。この頃の津
村は、「古賀メロディー扮装歌謡ショー」の地方実演にでることが多く、もっぱら霧島昇
持ち歌を歌っていた。この地方実には後の夫人となる大国阿古もいた。一方、小畑実は
テイチクに入社するが、昭和二十二年一月新譜の《人生の歩道》、八月新譜で《虹の都》
、藤原千多歌と共演した《初恋セレナーデ》などを吹込んだがあまりヒットしたとはいえ
なか
った。だが、この時期に江口夜詩と利根一郎ラインとの結びつきをしっかりさせた充
電期間だったような気がする。昭和二十二年の秋から暮れにかけて小畑実と津村謙はそれ
ぞれキングに移籍した。戦前からキングで活躍する林伊佐緒、岡晴夫らとともにキング黄
金時
代を形成する。ここから津村のビロードの声が爆発的な人気を呼ぶ。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

福田青年は、「上野」のホープ増永丈夫(藤山一郎)にレコード吹込みアルバイトを懇願した。だが、福田青年にも迷いは当然ある。もし、学校当局に知れれば首がとぶ。だが、そんな悠長なことを言ってはいられない。増永は(藤山)は福田青年をニットーに連れて行ってテストを受けさせることにした。増永(藤山)は少し、前に藤井竜男の名前使用しニットーで吹込みをしたばかりであった。音楽学校停学問題で、吹込みができなくなり、会社に迷惑をかけたことになるので、その代償として福田青年を紹介したのである。

■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

春日の渋みのある高音が船村徹の故郷歌謡の郷愁・哀愁にマッチしたといえる。地方から都会へ出てその片隅から切ない望郷の念が溢れていた。春日八郎は、うらぶれた人生の絶望と悲哀、頽廃と倦怠を渋みのあるかん高い声で歌い望郷の念を刺激するのである。浪花

節系の声ほどだみ声ではなく、むしろ渋みのなかにある透明感がストレートに大衆の心を捉えたといえる。

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     〈ポップス歌謡〉

東芝レコードは初め《黒い花びら》を作曲者が協会員ではないからという理由で作品提出に前向きではなかった。新人デビュー曲がレコード大賞受賞とは第一回のこれしか後に先にもこれしかない。水原弘は、その年の暮れの紅白に初出場。《黒い花びら》を熱唱した。

トリは春日八郎の《東京の蟻》。翌三十五年、黄金の60年代最初の紅白では、《恋のカクテル》、翌三十六年には《禁じられた恋のボレロ》。だが、翌三十七年は紅白落選の憂き目をみることになった。

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〈映画スターの共演〉

慎太郎の条件は「主役に裕次郎を」。出来上がったシナリオは、『狂った果実』でオリジナル作品。相手役には北原三枝が選ばれた。裕次郎にとっては映画第二作でも俳優としては第一作であった。石原裕次郎の映画界での活躍はもうご承知のことであろう。さて、彼の

もうひとつの武器が、歌であることはもうお馴染みである。テイチクから昭和三十一年《狂った果実》でデビューした。その後《俺は待ってるぜ》《錆びたナイフ》《嵐を呼ぶ男》などのヒットが続いた。デビューの頃は,エコーを効かせなんとか歌になったが、しだいに歌に渋みを加え歌唱力も増した。

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     〈青春歌謡の時代〉

昭和三十年代の歌謡曲は、キングの故郷・望郷演歌、コロムビアの叙情演歌、ビクターのムード歌謡という勢力図があった。吉田正は自分の将来の壁を予感していた。ムード歌謡だけでは行き詰まるのは見えている。何かないだろうか。そこで、民謡や大正時代以前の古い素材を使って作品を書けるのではと思った。吉田正は橋少年の巻き舌風のイナセに賭けてみた。作詞家佐伯孝夫はビクターの重鎮である。その佐伯は以前から『潮来笠』という作品を温めていた。吉田はそれに曲をつけることにした。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

小柳ルミ子、南沙織、天地真理のデビューは昭和四十六年である。小柳と南はデビューと同時に快進撃の勢いだったが、天地真理の人気沸騰は翌年からだった。翌年天地真理が《ひとりじゃないの》で青春アイドル歌手として躍りでた。白雪姫やシンデレラのようなその清純な姿は真理ちゃんブームをもたらした。歌い方は地声に甘いハスキーな裏声をブレンドしたものだった。ハスキーといっても青江美奈のようなド演歌でない。透明感があった。まさにこの新三人娘は、70年代のアイドル歌手時代の象徴だった。

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     〈演歌の抵抗〉

70年代の演歌は五木ひろしの台頭だった。だが、レコードはかなり早い時期から行っていた。だが、どれもパットとせず、無名な存在だった。当然、芸名も数回かえた。松山まさる、一条英一、三谷謙など。70年代の五木ひろしの人気から考えられないが、69年の《雨のヨコハマ》は、誰も振り向いてくれなかった。今の五木ひろしからは信じがたい。不遇の時代が彼を大きく成長させたといえる。昭和四十四年の紅白では森進一が堂々白組のトリを務めた。《港町ブルース》を熱唱したのだ。しかも、この年のレコード大賞新人賞には内山田洋とクールファイブが選ばれた。紅白にも初出場、《長崎は今日も雨だった》を歌った。

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〈なつかしの歌声〉

五木ひろしが最初に師事した作曲家は岡晴夫とコンビを組んだ上原げんとである。戦前、岡はレコードデビューする前に上原と組んで、随分流し歩いた。押上、浅草、向島と毎夜流しているうちに、岡晴夫の歌唱法が確立した。当時は、東京音楽学校(現芸大)出身でクラシックの声楽家と二刀流の正統派藤山一郎、時事新報社主催の音楽コンクール入賞から歌手になった直立不動の東海林太郎など、正統派歌謡全盛の時代に雑草のような逞しさをもってレコード界に登場するなど考えられなかった。その岡晴夫の歌声は戦後の青い空にこだました。昭和四十五年六月二日放送の「なつかしの歌声」では在りし日の岡晴夫のVTRが流れ出演者の涙を誘った。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・4◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月23日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載四回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載四回〉

津村謙のキング初吹き込みは《まぼろしの妻》。作詞、高橋掬太郎、作曲は飯田三郎だった。レコードは昭和二十二年の暮れ、十二月新譜で発売された。織田作之助の『土曜夫人』が映画化されその主題歌である。同月新譜では小畑実の《おしどり笠》も発売された。こちらは大村能章メロディー。キングはすでに戦前ビクター時代にヒットを持つ小畑実の方を期待した。その期待どおり、小畑実は昭和二十三年六月新譜で《長崎のザボン売り》でヒットを放ち津村の先手をとった。だが、翌月新譜《流れの旅路》で津村謙のビロードの声が知れわたることになる。そして、津村は、生涯において己の声価を決定づけた曲にめぐり会うのである。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

ニットーレコードは大正九年三月に「日東蓄音器株式会社」として大阪の住吉に設立された。邦楽レコードではかなりの実績を持っていたのだ。日本蓄音器商会の業界制覇のトラスト攻勢にも屈することなく関西では独自資本で気を吐いた。昭和に入り、ビクター、コ

ロムビアの二強対決に何とか割り込もうという気概を見せていた。だから、男歌手が欲しかった。福田青年は、ニットーレコードで大川静夫と名乗った。デビュー曲は《夏は朗らか》、昭和七年八月新譜である。これが作曲家江口夜詩との出会いとなるのである。

■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

鶴田浩二は、昭和二十六年六月、ポリドールから《男の夜曲》でデビューして以来、ビクターから《街のサンドイッチマン》《ハワイの夜》《赤と黒のブルース》をヒットさせ一躍人気歌手になった。鶴田が歌を歌うきっかけになったのは、師匠の高田浩吉が日本橋のて

んぷら屋で藤田まさとに「鶴田の歌はいける」と宣伝したからだ。だが、高田は今まで弟子の歌を褒めたことは一度もなかった。鶴田がビクターの専属になったのは、灰田勝彦の薦めによるもの。「商売は下手だが、こころがある会社だよ」が殺し文句だった。

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     〈ポップス歌謡〉

昭和四十二年、水原弘は《君こそ我が命》で奇跡のカムバック。レコード大賞最優秀歌唱賞に輝いた。その間の水原には深い事情があったようだ。豪快奔放な生活のなかに自分の歌への追及が彼を随分苦しめた。彼の目指す歌はやはりジャズだったような気がするが。水原は己の歌には相当自身があったようだ。だから、滅多に人の歌を褒めることはなかった。それは歌の実力者としての誇りがそうさせたのであろう。だが、昭和四十八年、水原自身最後になった紅白において特別ゲストで出演した正格歌手藤山一郎に最後まで惜しみない拍手を送っていた。

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〈映画スターの共演〉

石原裕次郎は、昭和三十六年の《銀座の恋の物語》で都会派ムード歌謡の魅力を見事に表現した。ムード歌謡の定義は難しい。演歌のように土俗なコブシがない。さりとてポップス歌謡のようなリズムの激しさがない。また、モダンジャズほど洒落てはいない。イメージ的にはバー、クラブ、キャバレーなどでグラスを傾けながらホステスと恋の手管を演じるのに最適なBGMである。裕次郎歌謡の魅力はそこにあるのではなかろうか。《夜霧よ今夜も有難う》は裕次郎歌謡の傑作のひとつでもある。また、裕次郎はテイチクの大先輩、

ジャズ・シンガーディック・ミネの歌が好きで《夜霧のブルース》をリリースしている。

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     〈青春歌謡の時代〉

ビクターの社内では復古調を危険視する意見が圧倒的多数を占めた。だが、吉田正は、小野同様に「十代の中にも演歌ファンはいる」という確信を崩さなかった。とはいえ、不安はある。吉田正は、ダメならと思い《あれが岬の灯だ》という現代風タイトルの曲も用意していた。《潮来笠》を歌う橋幸夫の当初の衣装は背広姿だった。だが、レコードが売れ出すと着流しスタイルに変わった。裾に「橋幸夫」と書いたのは実兄のアイデァであり力作でもある。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

「ルミ子・沙織・真理ちゃん」というこの三人娘が紅白に揃ったのは、昭和四十七年の第二十三回である。小柳ルミ子、南沙織はすでに昭和四十六年の紅白に初出場していた。このとき、南沙織は《17才》で赤組トップバッター。ロングの黒髪をなびかせながら、真夏のイメージをもって白組にまず先制パンチ。翌昭和四十七年の紅白は赤組のトップバッターが天地真理だった。《ひとりじゃないの》をさわやかに歌った。衣装は白。その色が白組を圧倒した。天地はその年はレコード大賞大衆賞に輝いた。ちなみに小柳ルミ子は《瀬戸の花嫁》で歌唱賞を受賞した。実力派のプライドをしめす。この紅白で小柳ルミ子はその《瀬戸の花嫁》を情感を込めて、南沙織は筒見メロディーの《純潔》を歌った。

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     〈演歌の抵抗〉

五木ひろしは、奥野谷悦男の勧めで実力本位のオーデション番組「全日本歌謡選手権」に出ることを決めた。プロ・アマに混じって出場に抵抗がなかったといえば嘘になる。なにしろ、あのコロムビア歌謡コンクール優勝という実績がある。売れていなくてもすでにプロ歌手への登竜門における優勝者なのだ。第一週目はクールファイブの《噂の女》、二週目は古賀メロディーの《目ン無い千鳥》を歌った。この二週目の選曲は、実兄がアドバイスした。五木は何か戦略があるのかと思ったが、実は兄がこの歌を好きだったからというだけのことだった。だが、これが功を奏した。そして、山口洋子との出会いが人生を変え

ることになるのである。

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〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年七月七日、「なつかしの歌声」は「テイチク同窓会」をテーマに放送された。出演、藤山一郎、ディック・ミネ。美ち奴、杉狂児、門田ゆたか、島田磬也、大久保徳二郎、茂木了次。昭和九年二月、東京進出を果たしたテイチクは同年五月に古賀政男を迎え東京文芸部を発足。昭和十年一月新譜の《ダイナ》が爆発的にヒット、南里文夫のトランペットも冴えディック・ミネの歌唱は新しい流行歌のフィーリングを伝えた。ディック・ミネは、テイチクに破格の契約金を認めさせ専属になった。ところが、当時は、ビクターの藤山一郎(声楽家増永丈夫)、コロムビアの松平晃、ポリドールの東海林太郎ら正統派歌謡が犇いていた。

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・4◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月23日発行---------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載四回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載四回〉

津村謙のキング初吹き込みは《まぼろしの妻》。作詞、高橋掬太郎、作曲は飯田三郎だった。レコードは昭和二十二年の暮れ、十二月新譜で発売された。織田作之助の『土曜夫人』が映画化されその主題歌である。同月新譜では小畑実の《おしどり笠》も発売された。こちらは大村能章メロディー。キングはすでに戦前ビクター時代にヒットを持つ小畑実の方を期待した。その期待どおり、小畑実は昭和二十三年六月新譜で《長崎のザボン売り》でヒットを放ち津村の先手をとった。だが、翌月新譜《流れの旅路》で津村謙のビロードの声が知れわたることになる。そして、津村は、生涯において己の声価を決定づけた曲にめぐり会うのである。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

ニットーレコードは大正九年三月に「日東蓄音器株式会社」として

大阪の住吉に設立された。邦楽レコードではかなりの実績を持って

いたのだ。日本蓄音器商会の業界制覇のトラスト攻勢にも屈するこ

となく関西では独自資本で気を吐いた。昭和に入り、ビクター、コ

ロムビアの二強対決に何とか割り込もうという気概を見せていた。

だから、男歌手が欲しかった。福田青年は、ニットーレコードで大

川静夫と名乗った。デビュー曲は《夏は朗らか》、昭和七年八月新譜

である。これが作曲家江口夜詩との出会いとなるのである。

■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

鶴田浩二は、昭和二十六年六月、ポリドールから《男の夜曲》でデ

ビューして以来、ビクターから《街のサンドイッチマン》《ハワイ

の夜》《赤と黒のブルース》をヒットさせ一躍人気歌手になった。鶴

田が歌を歌うきっかけになったのは、師匠の高田浩吉が日本橋のて

んぷら屋で藤田まさとに「鶴田の歌はいける」と宣伝したからだ。だが、

高田は今まで弟子の歌を褒めたことは一度もなかった。鶴田がビクタ

ーの専属になったのは、灰田勝彦の薦めによるもの。「商売は下手だが、

こころがある会社だよ」が殺し文句だった。

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     〈ポップス歌謡〉

昭和四十二年、水原弘は《君こそ我が命》で奇跡のカムバック。レコー

ド大賞最優秀歌唱賞に輝いた。その間の水原には深い事情があったようだ。

豪快奔放な生活のなかに自分の歌への追及が彼を随分苦しめた。彼の目指

す歌はやはりジャズだったような気がするが。水原は己の歌には相当自身

があったようだ。だから、滅多に人の歌を褒めることはなかった。それは歌

の実力者としての誇りがそうさせたのであろう。だが、昭和四十八年、水原

自身最後になった紅白において特別ゲストで出演した正格歌手藤山一郎に最

後まで惜しみない拍手を送っていた。

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〈映画スターの共演〉

石原裕次郎は、昭和三十六年の《銀座の恋の物語》で都会派ムード歌謡の魅力を見事に表現した。ムード歌謡の定義は難しい。演歌のように土俗なコブシがない。さりとてポップス歌謡のようなリズムの激しさがない。また、モダンジャズほど洒落てはいない。イメージ的にはバー、クラブ、キャバレーなどでグラスを傾けながらホステスと恋の手管を演じるのに最適なBGMである。裕次郎歌謡の魅力はそこにあるのではなかろうか。《夜霧よ今夜も有難う》は裕次郎歌謡の傑作のひとつでもある。また、裕次郎はテイチクの大先輩、

ジャズ・シンガーディック・ミネの歌が好きで《夜霧のブルース》をリリースしている。

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     〈青春歌謡の時代〉

ビクターの社内では復古調を危険視する意見が圧倒的多数を占めた。だが、吉田正は、小野同様に「十代の中にも演歌ファンはいる」という確信を崩さなかった。とはいえ、不安はある。吉田正は、ダメならと思い《あれが岬の灯だ》という現代風タイトルの曲も用意していた。《潮来笠》を歌う橋幸夫の当初の衣装は背広姿だった。だが、レコードが売れ出すと着流しスタイルに変わった。裾に「橋幸夫」と書いたのは実兄のアイデァであり力作でもある。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

「ルミ子・沙織・真理ちゃん」というこの三人娘が紅白に揃ったのは、昭和四十七年の第二十三回である。小柳ルミ子、南沙織はすでに昭和四十六年の紅白に初出場していた。このとき、南沙織は《17才》で赤組トップバッター。ロングの黒髪をなびかせながら、真夏のイメージをもって白組にまず先制パンチ。翌昭和四十七年の紅白は赤組のトップバッターが天地真理だった。《ひとりじゃないの》をさわやかに歌った。衣装は白。その色が白組を圧倒した。天地はその年はレコード大賞大衆賞に輝いた。ちなみに小柳ルミ子は《瀬戸の花嫁》で歌唱賞を受賞した。実力派のプライドをしめす。この紅白で小柳ルミ子はその《瀬戸の花嫁》を情感を込めて、南沙織は筒見メロディーの《純潔》を歌った。

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     〈演歌の抵抗〉

五木ひろしは、奥野谷悦男の勧めで実力本位のオーデション番組「全日本歌謡選手権」に出ることを決めた。プロ・アマに混じって出場に抵抗がなかったといえば嘘になる。なにしろ、あのコロムビア歌謡コンクール優勝という実績がある。売れていなくてもすでにプロ歌手への登竜門における優勝者なのだ。第一週目はクールファイブの《噂の女》、二週目は古賀メロディーの《目ン無い千鳥》を歌った。この二週目の選曲は、実兄がアドバイスした。五木は何か戦略があるのかと思ったが、実は兄がこの歌を好きだったからというだけのことだった。だが、これが功を奏した。そして、山口洋子との出会いが人生を変え

ることになるのである。

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〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年七月七日、「なつかしの歌声」は「テイチク同窓会」をテーマに放送された。出演、藤山一郎、ディック・ミネ。美ち奴、杉狂児、門田ゆたか、島田磬也、大久保徳二郎、茂木了次。昭和九年二月、東京進出を果たしたテイチクは同年五月に古賀政男を迎え東京文芸部を発足。昭和十年一月新譜の《ダイナ》が爆発的にヒット、南里文夫のトランペットも冴えディック・ミネの歌唱は新しい流行歌のフィーリングを伝えた。ディック・ミネは、テイチクに破格の契約金を認めさせ専属になった。ところが、当時は、ビクターの藤山一郎(声楽家増永丈夫)、コロムビアの松平晃、ポリドールの東海林太郎ら正統派歌謡が犇いていた。

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・5◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月24日発行-------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載五回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載五回〉

津村謙の高く絞った艶のある声は切なく悲しくもあり人々の共感を呼んだ。彼の最大のヒット曲《上海帰りのリル》のリル、リルのリフレーンは、引き揚げ問題に対する公憤の高まりもあり、現実の響きをもって歌われた。作詞は東条寿三郎、作曲は渡久地政信。この大流行は《私は銀座リル》《風の噂のリル》《私はリルよ》《霧の港のリル》等々の歌を登場させた。一方、小畑は、キングで《星影の小径》をヒットさせ、コロムビアでは《涙のチャング》を哀愁を込めて歌いあげた。そして、ビクターに「ただいま」と元気よく戻ってきて《高原の駅よさようなら》を吹込み、ヒットさせようとしていた。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

昭和七年の晩秋、福田青年が」、ポリドールから池上利夫の名前で《忘られぬ花》がヒットした。電気吹込みの洋盤レコードを日本でプレスしたのはポリドールがビクター、コロムビアよりも早い。確かに流行歌では両外資系会社の後塵を拝したが、ポリドールは虎視眈々と挽回のチャンスを狙っていた。しかも、藤山一郎がポリドールでも吹込めなくなると、福田青年としてはまたとない幸運といえた。《忘られぬ花》は、西岡水朗の抒情詩に江口夜詩が涙でピアノの鍵盤を濡らしながら作曲した。このメロディーに脅威を覚えたのは古賀政男である。古賀を中心とするコロムビア陣営は、藤山一郎の卒業が待ちどうしかった。

■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

島倉千代子の歌手への途は、昭和二十九年の第五回コロムビア・コンクール優勝をきかっけにしている。だが、実は第三回にも出場し、美空ひばりの《リンゴ追分》を歌ったが優勝をのがしてしまった。審査の後、コロムビアの社員にどこが悪いのかとクレームをつけた。物静かな内気なイメージがあるが、この歌には相当自信をもっていたのだ。第五回の時は楽団のメンバーの一人からのアドバイスもあり、島倉は鳴海日出夫の《涙のグラス》を歌った。コンクールは優勝。自動的にコロムビア専属へ。

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     〈ポップス歌謡〉

日本流行歌の不作の時代、その代わりを務めたのがジャズと言われている。その口火が《テネシーワルツ》だった。歌ったのが十五歳のジャズ娘、江利チエミ。その実力は美空ひばりに決して劣るものではなかった。そもそも歌への途は内証で米軍の戸塚キャンプで歌

ったのが始まり。キャンプのアイドルはやがてレコード歌手へ。黒人の魂はそのとき培ったものである。彼女はレコード会社各社のテストを受けた。そのなかのビクターは不採用。日本語では歌わないという少女の頑固さが不採用の理由だった。だが、少女の意地はキ

ングからの華々しいデビューを勝ち取った。

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〈映画スターの共演〉

普通歌手というものは水を含みながら喉のコンディションを整える。ところが、裕次郎は違った。ビールをガブガブと飲むのである。歌う前にスタジオにおかれたビールをラッパ飲み。緊張をほぐすだけでなく酔うほどに声帯が充血しテンションも高くなり裕次郎流の最高のコンディションが出来上がった。低音の渋みと掠れが甘くなり不思議なムードを創りあげたのである。石原裕次郎の本領発揮である。

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     〈青春歌謡の時代〉

橋幸夫は《潮来笠》のヒットでレコード大賞新人賞に輝いた。暮れの紅白でも《潮来笠》を藤山一郎が指揮するオーケストラに乗って熱唱。赤組は同じ初出場の花村菊江の『潮来花嫁さん』で対抗した。佐伯・吉田・橋のトリオはこれを機に多くの作品を生み出した。昭和三十七年には《いつでも夢を》を吉永小百合とデュエットし大ヒット。レコード大賞にも輝いた。安保闘争が静まり、国民の目は政治闘争よりも所得倍増の言葉どおり経済の繁栄に向かった。清純と希望が受け、橋幸夫の青春歌謡スターとしての地位を確立させた。

橋幸夫の全盛は昭和三十年代後半から四十年代半ばまでと見て差支えがないであろう。その間にレコード大賞を二度受賞したことを考えれば妥当とみるべきではなかろうか。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

小柳ルミ子は、平尾昌晃の《わたしの城下町》《瀬戸の花嫁》《漁火恋歌》《お祭りの夜》《雪あかりの町》。やはり、本格的な演歌路線ではないが、日本的な心情風景が感じられた。南沙織は筒見京平の《17才》《純潔》《色づく街》。筒見サウンドをよくこなしている。歌唱力の充実ぶりを感じさせた。そして、天地真理は森田公一の《ひとりじゃないの》《若葉のささやき》《恋する夏の日》。天地真理は清純アイドル歌謡の本流を走っていた。何はともあれ、それぞれの個性ある作曲家の作品を歌っていたのである。

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     〈演歌の抵抗〉

十週勝ち抜きを決めたのは、五木のオリジナル曲《雨のヨコハマ》だった。五木ひろしは、昭和四十六年《よこはま・たそがれ》で再デビューした。北海道から火がつきはじめ大ヒットした。松山まさるの芸名で《新宿から》を歌いデビューして以来、ようやくつかんだスターの座である。昭和四十八年の大晦日のレコード大賞では《夜空》が大賞受賞曲と

なった。五木ひろしで売り出したころは、細い目をさらに細くして絞り出すような泣きの声だったが、ヒット街道を驀進するにつれて低音の魅力が増し歌唱力も一層冴えわたった。

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〈なつかしの歌声〉

ディック・ミネは声楽を浅野千鶴子に習う一方、独自の練習を自ら考案し実践した。場所は逗子と鎌倉にある素掘りのトンネルだった。そこで血の滲むような特訓を自分に課した。低音の響かせ方、高音の抜き方等々。発声の特訓で得た技術に国籍不明な日本語をのせ、ジャズのフィーリングを生かしたポピュラー曲でヒット街道を驀進した。一方,テイチクは、ビクターから藤山一郎を迎え、《東京ラプソディー》が大ヒット、古賀メロディー黄金時代を決定づけまさにテイチク全盛期を思わせた。同番組では、出演者全員で藤山一郎を中心に《東京ラプソディー》を高らかに歌っている。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

発行人:菊池清麿

kikuchi-kmas@msd.biglobe.ne.jp

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・6◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月25日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載六回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載六回〉

小畑実は紅白歌合戦出場が僅か三回。これは小畑にしては意外である。当時の紅白が人気のバロメーターではないとはいえ、一度も出場しなかった岡晴夫は別として人気歌手にしては少なすぎる。第四回=《ロンドンの街角で》第五回=《長崎の街角で》第八回=《高

原の駅よさようなら》。それに対して津村謙は第二回から九回まで連続出場している。小畑は第八回紅白で《高原の駅よさようなら》を熱唱して歌手家業をやめ、実業家に転進しアメリカへ。財界人と付き合うにはゴルフのたしなみが必要と藤山一郎にゴルフマナーを伝授されたことは有名な話。それに対して津村はキングに残り活動。だが、春日八郎、三橋美智也、若原一郎らの台頭に影が薄くなる。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

福田青年は、松平不二男という名前でキングでも江口夜詩とコンビを組んだ。昭和五年に発足したキングは当初ポリドールのスタジオで吹込みをしていたので、福田青年が同社でレコードをリリースするのにはそう時間がかからなかった。《島で一夜を》《口笛吹いて》《旅の夜船》《空の行進曲》等々。一方、コロムビアはビクターに追われる立場になっていた。新鋭佐々木俊一が《島の娘》で大ホームラン。小唄勝太郎の歌で昭和七年の暮れから空前のヒットを呼んだ。昭和流行歌は、晋平節から古賀メロディー、そして、江口夜詩、佐々木俊一の登場によって新しいヒット競争時代を迎えようとしていたのである。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

島倉千代子は、《この世の花》以来、快調にヒットを飛ばした。《りんどう峠》《東京だよおっかさん》等々。そして、デビュー四年目にして島倉は歌謡界の大スターの地位に登りつめた。それを確立させたのが《からたち日記》の台詞である。「幸福になろうねってあの人はいいました」は、当時の流行語にもなった。作詞の西沢爽が島倉に口うつしで教えたそうだが、もともと歌以外不器用な島倉はよくこなした。この《からたち日記》はヒットした。島倉千代子は叙情演歌の看板歌手としてのスターのはじまりでもあった。

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     〈ポップス歌謡〉

昭和二十八年、ハワイのナイトクラブで歌っていた江利チエミは、カール・

ジョーンズから《想い出のワルツ》を歌いことを勧められた。当然、野心が

湧く。そこへ、日本の兄から速達が届いた。雪村いづみのレコードデビュー

だった。目下《想い出のワルツ》がヒット中のこと。ビクターは江利チエミ

の失敗の教訓をいかし雪村いづみをデビューさせていたのである。江利チエ

ミの帰国を羽田空港のロビーで雪村いづみは花束を抱えて松島トモ子と一緒

に出迎えた。これが、チエミといづみの初対面だった。

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〈映画スターの共演〉

昭和四十年の夏から暮れにかけて、歌謡界は不思議な現象は起きた。それは

レコード売り上げ上位を「歌う映画スター」が上位を占めたことにある。加山

雄三、石原裕次郎、賠償千恵子。《恋は紅いバラ》《二人の世界》《さよならはダ

ンスの後に》。加山は翌年《君といつまでも》をリリースして二人を追い抜く。

歌のなかのセリフ「僕はしあわせだなあ」は吹込みのときの加山のアドリブ。

これは流行語となり歌のヒットを加速させた。作曲者の弾厚作は加山雄三自身。

尊敬する團伊玖磨と山田耕筰の名前を拝借したそうだ。

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     〈青春歌謡の時代〉

昭和四十一年の《霧氷》の受賞は加山雄三の《君といつまでも》を

抑えての受賞だから、感無量だったといえる。また、昭和四十年の

紅白では、大トリを務めた。赤組は美空ひばりで《柔》。橋の歌は

《あの娘と僕》。紅白のステージでは「スイムダンス」で舞台は騒

然となった。この年、紫綬褒章を受章した東海林太郎が出場してい

たが、戦前派の大歌手はこの情景をどう思っただろうか。とにかく

、橋幸夫の歌は多彩である。着流しの股旅歌謡、清純な青春歌謡、リ

ズム歌謡という路線でアイドル御三家=橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦

のリーダー的存在だったのである。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

麻丘めぐみは当時の美少女の典型だった。《芽生え》でデビューし《私の彼は左きき》で大ブレイクした。世の男どもがなんでも左を使うという現象も起きた。また、長い髪の耳に被さる辺りだけ、短くカットしたヘアースタイルも流行した。だが、筒見京平メロディーにもかかわらず、浅丘めぐみのブームは短かった。むしろ、アグネスチャンの方が人気は若干続いた。紅白も浅丘めぐみは一回だけだが、アグネスチャンは三回連続して出場している。

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     〈演歌の抵抗〉

五木といえば、なにかと比較され、ライバル視される歌手がいる。五木が苦境時代、すでに歌謡界で売れ出していた森進一である。この二人は同学年である。ちなみに森は昭和二十二年十一月十八日生まれ、五木は昭和二十三年三月十四日生まれだった。森進一は、昭和四十一年《女のためいき》デビュー。その後、《花と蝶》《命かれても》とヒットが続き、

昭和四十四年には《港町ブルース》で紅白二回目にして大トリをとるなど歌謡界の頂点に上りつつあった。五木が昭和四十六年《よこはま・たそがれ》で初出場したとき、森は、三回連続でトリを務めていた。

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〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年七月二十一日の「なつかしの歌声」は、青春讃歌として出演歌手の母校の校歌が歌われた。出演、藤山一郎、東海林太郎、灰田勝彦他。昭和二年、慶応は宿敵早稲田打倒に燃え、新応援歌を堀内敬三に依頼。《若気血》が出来上がると早速歌唱練習に入った。ところが、マーチのテンポに学生がついてゆけず、そこで、慶応普通部にいた増永丈夫

(藤山一郎)に歌唱指導させた。その年の早慶戦では慶応は早稲田を破る。歌をみんなが覚えた後、増永は上級生から呼び出しがかかり、殴られた。鼻に一発きて鼻血がどっと出た。これぞまさに若気血だった。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

発行人:菊池清麿

kikuchi-kmas@msd.biglobe.ne.jp

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・7◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月26日発行-------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載七回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載七回〉

小畑実が津村謙の死を知ったのは太平洋を隔てたアメリカの地だった。津村は昭和三十六年、自宅の車庫で一酸化炭素中毒よって亡くなったのだ。三十七歳の若さである。小畑実は昭和四十三年に帰国した。おりしも歌謡界は「なつかしの歌声」ブームで往年の歌手たちが再びステージへ。昭和四十三年の暮れの「なつかしの歌声」で、小畑は《湯島の白梅》を歌った。だが、昭和五十年に入ると、小畑は懐かしのメロディー歌手から脱し、ヒットをあくまでも狙う現役歌手復帰を宣言。みかん箱の上でも歌うと夫人といっしょに歌の行商を始めた。なつかしの歌声のブームである程度名前を売っていたから、マスコミも注目した。だが、その小畑も昭和五十四年、千葉県野田市のゴルフ場で急性心不全のため亡くなった。享年五十五歳。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

関西レコード界は、大正街頭演歌の伝統が色濃く残っていた。道頓堀から、千日前、通天閣が聳える新世界にかけて広がる芝居、活動写真、落語、演劇などの劇場が軒を連ねた。ひっきりなしに音楽が洪水のように流れる。それぞれの筋には演歌師がヴァイオリンをかかえて街頭で流していた。音楽学校出身者が流行歌を歌う時代とはいえ、一種の頽廃的な

寂しさを含んだ路地裏の歌は民衆歌謡の原点なのである。福田青年は、昭和七年の晩秋から暮れにかけてタイヘイレコードの吹込みの仕事で関西に足をのばした。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

民謡歌手から歌謡曲の大スターになった三橋美智也を意識した男がいた。三波春夫である。民謡から歌謡曲に転向できて、浪曲からそれができないわけがない。三波はそう思ってテイチクへやってきた。三波は当時、子持ちの三十三歳。だが、幸運が彼についていた。担当の杵淵一郎はもとテイチクの民謡歌手、しかも、宣伝部長には、戦前ポリドール時代に三十六歳でヒットを放った東海林太郎を売り出した経験のある榊原道雄がいたのだ。これが幸いした。三波春夫は昭和三十二年夏、《メノコ船頭さん》でデビュー。その後、二枚目の《チャンチおけさ》と《船方さんよ》が大ヒット。スターダムへ。

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     〈ポップス歌謡〉

初夏の夜、坂本九のヒットナンバー《見上げてごらん夜の星を》を夜学に通う若者は明日の希望をもって歌った。作曲者のいずみたくは、演劇をやめて作曲家をめざした。随分と苦労した。そのような体験が働きながら学ぶ若者をテーマにしたミュージカルの主題歌を創作させたのだろう。歌謡曲にロカビリーの与えた影響は大きい。ジャズ喫茶出身の歌手が続々と歌謡界に入ってきた。ザ・ピーナッツ、ジェリー藤尾、弘田三枝子、森山加代子等々。外国物を日本語カヴァーにしてデビューした歌手たちである。

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〈映画スターの共演〉

赤木圭一郎の人気沸騰は、彼の死後である。ジェームス・ディーンの死と似ていたし、どこか翳りのあるところも共通していたこともあって人気が集まった。赤木の事故は、昭和三十六年二月十四日に起きた。日活撮影所はちょうど昼休みだった。赤木圭一郎はゴーカートに乗って遊んでいた。赤木は、『激流に生きる男』に出演中だった。石原裕次郎が志賀高原のスキー場で怪我をしたため、赤木が代役に立っていたのである。ゴーカートはちょうど大道具工作室の前をカーブしようとした瞬間、突然、50キロのスピードで直進。工作室の鉄扉に激突したのである。

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     〈青春歌謡の時代〉

着流し姿の橋幸夫に対して、金ボタンの学生服姿で学園ソングを歌い一躍スターになったのが舟木一夫だった。ロカビリー旋風の台風もおさまり、そろそろ熱も冷め始めた頃、詰襟姿の純情な舟木一夫の姿は新鮮なイメージをあたえた。ロカビリーの熱狂は歌謡曲に影響をあたえたが、それが若者の姿すべてではなかったのである。《高校三年生》は二二〇万枚のレコードを売る大ヒット。舟木一夫の名前は全国に知れ渡ったのである。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

往年の名歌手はテレビ時代になってもほぼ直立不動で歌っていた。ところが、70年代のアイドルの時代はいわゆる「歌振り」というアクションの本格的なそれだった。60年代の御三家と70年代の新御三家の違いはまさにアクションの違いにあったといえる。しかも、セクシーな要素も加味されていた。肉体の激しい動きを入れた見せる歌謡曲はすでに山本リンダの《どうにもとまらない》がヒットしていたが、男性アイドルにもその要素

が求められた。肉体の激しさをぶつける西條秀樹、性的な情念を発散させる野口五郎、男と女の境目をなくした愛玩系の郷ひろみという新しいテレビ時代の申し子だった。

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     〈演歌の抵抗〉

五木ひろしが歌う《夜空》は昭和四十八年度のレコード大賞受賞曲だが、この年最もレコードが売れたぴんから兄弟の《女のみち》を阻止するためという噂が流れたほど、実際には翌年の方がヒットしていた。だが、昭和宇和四十九年のレコード大賞には森進一の《襟裳岬》が輝いた。森進一はその年に紅白のトリで歌った。五木ひろしが紅白でトリをと

るのは昭和五十年の第二十六回からである。《千曲川》を切々と歌った。昭和五十一年二月のNHKビックショーでは五木・森の二人は古賀政男の名曲《影を慕いて》を熱唱した。

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     〈なつかしの歌声〉

東海林太郎は早稲田の人である。早稲田でマルクス経済学者の佐野学に支持。一心不乱となり経済学の勉強に励んだ。歌手のなかでマルクス主義学徒からその途に入ったのは東海林太郎だけであろう。その後満鉄に就職するがこれも異色の経歴である。東海林太郎は大正デモクラシーの潮流のなかで早稲田の青春を謳歌した。早稲田大学校歌《都の製西北》は東海林太郎の心の故郷である。昭和四十五年七月二十一日放送の同番組では東海林は力強く高らかに母校の校歌を歌い上げた。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・8◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月27日発行---------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈小畑実と津村謙の数奇な運命・連載七回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載一回〉

昭和二十年、八月十五日、終戦。その年の暮れにNHKの企画で紅白音楽試合が催された。楠木繁夫はその中に名前を連ね復活の狼煙をあげた。ところが、レコード吹込みは遅かった。楠木が自ら作曲した《思い出の喫茶店》は、昭和二十二年九月に録音。翌年一月発

売された。楠木繁夫の戦後のコロムビア吹込みは非常に少ない。コロムビアは、藤山一郎、伊藤久男、霧島昇、渡辺はま子、二葉あき子と戦前派の歌手がもうすでにヒットを飛ばしていたのにどうしてなのだろうか。戦後は、岡晴夫、近江俊郎、田端義夫、小畑実、津

村謙など楠木よりも一世代若い歌手の台頭の時代である。殊にコロムビアでは近江俊郎が戦後の自由を象徴するかのように売り出されようとしていた。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

福田青年は、タイヘイ・レコードでは小川文夫の名前を使った。その頃、黒田進(楠木繁夫)もタイヘイで同じ名前を使用している。黒田は福田青年の音楽学校の先輩にあたり、中退して関西に流れてきていた。当時タイヘイ・レコードは、流行歌を発売するために東

京のレコード会社の歌手たちを呼び寄せて吹込ませていた。伊藤久男も内海四郎の名前で吹込んでいた。福田青年は奈良のテイチクにも足をのばした。松平不二夫で《若人の唄》を吹込んだ。テイチクが南口重太郎によって大阪・長堀橋筋に設立されたのが昭和六年二

月十一日。タイヘイもテイチクも大正街頭演歌の余韻が残る関西レコード界の影響がある。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

三波春夫の「お客様は神様です」という言葉は、少年期から青年時代の人生体験から生まれた。三波春夫の本名は北詰文司、大正十二年、新潟の片田舎(新潟県三島郡越後町塚山)に生まれた。新潟出身の小唄勝太郎と寿々木米若の影響を受けた。十三歳で一家は上京。

三波少年は米屋、セメント工場、魚問屋と職を転々した。浪曲が好きで小学校の卒業の頃すでに《佐渡情話》を語れたほどである。日本浪曲学校へ入学。まもなく六本木の新歌舞伎座で初舞台を踏んだ。南条文若が芸名。十七歳で座長になったが、昭和十九年召集によ

って満州へ。敗戦後、ハバロスクの収容所に抑留された。

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     〈ポップス歌謡〉

ロカビリー・ブームからコーラス・ブームへの転換にザ・ピーナッツの存在を忘れることができない。名古屋のキャバレー「ヘルナンド」で歌っていた伊藤姉妹をスカウトしたのが渡辺プロだった。清涼飲料のような耳当たりのよさは新しい歌謡曲の始まりでもあった。

ザ・ピーナッツの命名は日本テレビ井原高忠ディレクター。デビューは昭和三十四年六月の《可愛い花》。キングからだった。その後、《振り向かないで》《ウナセラディ・東京》《恋のバカンス》とヒットは続いた。

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〈映画スターの共演〉

ブレーキとアクセルが普通についていたら、事故は起こらなかったであろう。逆についていたための事故だった。赤木は東京・調布市国領の慈恵第三病院に運ばれた。意識はもどらず、一週間後の二十一日午前七時五十分、頭蓋内出血で亡くなった。二十一歳と十ヶ月。

赤木圭一郎は本名、赤塚親弘。成城大学在学中に第四期ニューフェースとして日活に入社した。赤木圭一郎のデビュー作は『拳銃0号』。レコードはポリドールから《黒い霧のふる町》《霧笛が俺を呼んでいる》他をリリースした。

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     〈青春歌謡の時代〉

舟木一夫は、歌手になろうと愛知県から上京。新宿若葉町のアパートに住む。歌に練習は四谷駅に近いグランドの土手だった。そこで、巨人軍の応援団長関谷文栄と知り合った。舟木少年は、町内の銭湯で関谷と再会する。その後何かと関谷の世話になった。舟木が卒業後、まもなくデビューするがその売り出しに関谷が一役買っている。なにしろ、巨人の試合のテレビ中継で関谷の熱のこもった応援は有名である。この人が応援する新人歌手ならば、しかも、初々しい学生服姿、しだいに人気が高まっていた。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

郷ひろみがデビュー直前の頃、「歌え!ヤンヤン」で歌っていたらしいが、記憶がない。この辺はマニアの識者にまかせることにして、《男の子女の子》でデビューしテレビに登場したときの衝撃は大きかった。気色悪いといえばファン叱られるそうだが低い金属音の中性声、奇妙な声にのって《男の子女の子》はヒットした。性的刺激を加えながら男性歌手を人形のような顔の美しさや可愛らしさで売り出したのはおそらく郷ひろみが最初であろう。

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     〈演歌の抵抗〉

アイドル全盛の時代、ぴんからトリオの《女のみち》はまさに抵抗だった。郷ひろみ、麻丘めぐみ、天地真理、三波沙織らと、ぴんからトリオがテレビの同一番組でならぶとその奇異現象には戸惑う人もいたであろう。アクの強いぴんから兄弟の歌が盛り場を席巻しレコードは記録的な売り上げをしめした。この歌は猥雑な庶民環境にマッチしたド演歌中のド演歌である。歌う宮史郎は塩辛声である。しんみりと訴えかける情趣がなかったが、ひたすら絞り上げるような押しの強さで歌いあげた。

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     〈なつかしの歌声〉

灰田勝彦は立教大学の青春が彼の音楽テーマでもある。《鈴懸の径》はまさにそれを舞台にしていた。戦争が大学のキャンパスに暗い影を落とし始めた頃、灰田勝彦の感傷的な歌声が流れた。作詞者の佐伯孝夫は早稲田時代の若き日の青春の夢を託した。作曲者の灰田晴彦は慶応出身。やはり、三田の学舎には思い出は尽きない。七月二十一日の「なつかしの歌声」は、慶応・早稲田・立教の青春の共演だった。

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・9◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月28日発行---------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈消え行く歌手と新たなスター連載第二回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載二回〉

戦後の近江俊郎の流行歌は、《夜ごとの夢》が第一作である。だが、まずはラジオ歌謡で人気を得た。レコードにはならなかったが《希望の街》(昭和二十二年九月三日放送)の好評で、レコードも売れた《山小舎の灯》(昭和二十二年十月六日放送)で俄然人気が出た。

そして、《心の青空》(昭和二十二年十一月三日)、翌年には《緑の牧場》(昭和二十三年一月三日放送)と彼の自由な歌声がラジオから流れた。《緑の牧場》は、その年の秋にキングから津村謙の歌唱

でレコードが発売されたが、近江俊郎の歌唱も人気があった。一方、戦前のコロムビア看板スター松平晃は、昭和二十年の《紅白音楽試合》に出演し、《花言葉の唄》を歌ったが戦後は厳しい状況が待ち受けていた。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

コロムビアはポリドールで江口夜詩の《忘られぬ花》を歌った池上利夫のスカウトに走った。ニットー、タイヘイ、キング、テイチク、パルロフォン等でいろいろな変名でレコード吹込みをしていることがわかったのだ。藤山一郎が増永丈夫に戻り東京音楽学校期待のホープとして復学している間は学生歌手福田青年の独壇場に近かった。そして、ついに松平晃として名門コロムビアからデビューするのである。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

三波はこのシベリアの捕虜生活なかで新しい芸の型をつくりあげた。何しろ、浪曲だけでは尽きてしまう。ソ連兵からシャリアピンのような声といわれた喉をなんとかより大衆的なものにしたい。そう思うと浪曲の伝統に固執せずいろいろな分野の音楽に眼を向けた。浪曲は歌でありストーリがある。西洋音楽ではオペラがそれに近い。オペラは宮廷や庶民生活の世俗な情事をテーマにしたものが多い。即浪曲オペラの創作というわけにはいかないが、大衆へのアピールの場の必要性を感じたことは確かである。

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     〈ポップス歌謡〉

エレキーの音が若者をしびれさせたが、さわやかなメロディーも逆に若者は求めた。ザ・ピーナッツの紅白初出場は、昭和三十四年の第十回である。早くもデビューの年に紅白に登場した。歌は《情熱の花》。その後十六回連続出場した。可憐さだけでは厳しいとしだい

にパンチの効いた歌唱も増し、人気維持のプラスになった。アメリカ、ドイツなどの海外公演も話題となり、『シャボン玉ホリディ』では定番ですっかり人気が定着した。また、怪獣映画『モスラ』に出演し次世代の人気も得ている。60年代を象徴するポップス歌手と

しての二人の華やかさは群を抜いていた。

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〈映画スターの共演〉

都会的憂愁を帯びた赤木圭一郎の不慮の死は多くのファンを悲しませた。事件から一ヶ月後、ポリドールから赤木圭一郎が歌った《流転》が発売され爆発的な人気を呼んだ。これは、戦前ポリドールで上原敏がヒットさせた曲である。吹込んだ歌手が亡くなるとその歌も生命を失うといわれているが、ニューギニアで戦死した上原敏といい、ゴーカートの事故で命を落した赤木圭一郎といい、そのジンクスはまったく関係なかった。

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     〈青春歌謡の時代〉

《花咲く乙女たち》は詩人西條八十の舟木一夫がいつまでも乙女のファ囲まれているようにという願いが込められていた。伴奏のマリンバやバックの女性コーラスが華やかで、一見明るい青春ソングの印象をうけるが舟木一夫の哀愁的な暗さがどこかで顔を覗かしていた。花も乙女もいつしか去ってゆくときが来る。流行歌手の悲哀である。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

郷ひろみの登場に火がついたのが西條秀樹と野口五郎である。秀樹は郷よりもデビューが半年早かった。《恋する季節》だ。だが、これは郷ひろみの《男の子女の子》や《小さな体験》に遠く及ばなかった。二曲目の《恋の約束》は、秀樹の肉体的情熱が出てくるがまだまだという感があった。だった。秀樹ブームは意外と離陸に時間がかかったのだ。郷ひろ

みが男女の愛玩系アイドルなら、秀樹は迸る情熱と肉体の暴走よってファンを痺れさせてくれるアイドルといえるのではないか。

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     〈演歌の抵抗〉

ぴんからトリオは関西のお笑いグループだった。お笑い抜きの歌でヒットしたことは前例のないことであった。このぴんからトリオにつづいたのが同じお笑い出身の殿様キングスである。《涙の操》は大ヒットだったのだ。リーダー、長田あつし、リードボーカル、宮路おさむ、それに多田そうべ、尾田まさるの四人のメンバー構成である。ぴんからトリオ

が盛り場の流しというイメージ対して、殿様キングスは場末の劇場で磨いた芸風というそれであった。どちらもアクの強さは並ではなかった。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年八月四日の「なつかしの歌声」放送は100回記念ということでサンケイホール(収録は七月二十二日)から「なつかしの歌声郷愁の歌まつり」という特番で放送された。これが「夏祭りにっぽんの歌」の最初である。この企画では、故人を偲んで近江俊郎が上原敏の《裏町人生》を、林伊佐緒が岡晴夫の《啼くな小鳩よ》を歌うという場面があった。近江は戦前ポリドールでは上原敏の後輩だった。また、デュエットでは、伊藤久男と二葉あき子が《白蘭の歌》、東海林太郎と小笠原美都子が《琵琶湖哀歌》を歌っている。そして、同番組は淡谷のり子の《君忘れじのブルース》、藤山一郎が《青い山脈》を高らかに歌い、東海林太郎の《野崎小唄》で大詰めを迎えた。

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・10◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月29日発行---------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈消え行く歌手と新たなスター連載第三回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載三回〉

戦後の松平晃の凋落は信じられないほどひどいものであった。巡業先で興行主に逃げられるなど戦前の華々しい活躍を知る人にとっては想像もできなかった。近江俊郎はリーガル時代、松平晃に苛められ散々だった。合唱の一員で松平晃の後ろで歌っていたとき、気負

っている近江は松平に「おい、リーガル、罵声を出すな」と怒鳴られることもあった。近江俊郎は鮫島敏弘の名前でタイヘイから《辷ろよスキー》を歌いデビュー。昭和十一年十二月新譜である。ここに近江俊郎の苦闘時代が始まった。戦後はいよいよ、ソフトな歌声

が求められコロムビアも新人に近かった近江俊郎に期待したのである。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

福田青年は、昭和八年三月新譜の《かなしき夜》で松平晃になった。作曲は江口夜詩。江口はすでに昭和八年二月にコロンムビアの専属になっていた。また、東京音楽学校の研究科に籍をおく松原操も二月、ミスコロムビアとして専属になった。デビューは《浮草の唄》、

やはり江口メロディーだった。B面は松平晃が歌う《港の雨》。昭和八年三月新譜。その後、ミスコロムビアは江口メロディーの傑作《十九の春》で一躍スター歌手の仲間入りをはたした。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

抑留生活を終え帰国した三波春夫は、浪曲の大衆化に精進した。そうした時に民謡歌手からレコード歌謡に転じた三橋美智也の《哀愁列車》を巡業先で聴いて衝撃を受けた。また、巡業先で見に来ていた老婆から「浪曲以外に歌も」と所望され歌ったところ、その反響のよさに自信を深めたこともあった。浪曲プラス歌謡曲でエンターテイメントを志したのである。彼のヒット曲《チャンチキおけさ》は故郷新潟から東京に出てきて敗北した者の挫折感と同じ挫折感を共有するものが出会うわびしさがテーマになっていた。

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     〈ポップス歌謡〉

見せる歌手の先駆が坂本九である。ニキビの九ちゃんが見せる歌手のパイオニアとはファンも訝るであろう。だが、あの動作、笑顔に老人も子供も親近感を持ったことは、事実である。坂本はバンド坊やの出身である。日大横浜学園の一年の時、サンズ・オブドリフターズに入った。昼間学校、夜は米軍キャンプの生活を続けていたが、やがて、日劇のウエスタンカーニバルに出演。もうこの頃からロカビリー男とは一味違う何かを見せていた。

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〈映画スターの共演〉

小林旭の映画が初めて裕次郎映画を凌駕したのが、『渡り鳥いつ帰る』である。小林旭は浅丘ルリ子と共演した。ギターを抱え赤い夕陽を背にした一連の「渡り鳥シリーズ」のスタートである。昭和三十五年、レコード大賞企画賞は、一連の「アキラの俗謡シリーズ」だった。《アキラのダンチョネ節》を最初に《アキラのズンドコ節》《アキラの鹿児島小原節》《アキラのツーレロ節》《アキラのチョンコ節》《アキラの炭鉱節》《アキラのソーラン節》等のヒットが相次いで生まれた。

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     〈青春歌謡の時代〉

昭和三十七年のレコード大賞新人賞は、下町のチャンピオン賠償千恵子だった。賠償千恵子が歌う《下町の太陽》は流行した。生活の呼吸と太陽がフィットした歌で根強い人気があった。太陽は金持ちだろうが貧乏人だろうが平等に輝く。日本は敗戦から完全に立ち直り、高度経済成長をまっしぐら。巨人の期待の王貞治もようやく昭和三十七年のシーズン

から一歩足打法になり、ホームランを量産。ONとして巨人の中軸になる。迎えるライバル阪神は小山・村山の両エース。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

西城秀樹は大ブレークを《情熱の嵐》でようやく勝ち取った。「ヒデキ」の嬌声ポイントもようやく定着したのもこの曲である。野口五郎のデビューは、郷ひろみよりも一年早かった。《博多みれん》という曲で意外にも演歌だった。五郎は古賀メロディーのギターに魅了されていたそうだ。これも意外である。芸術歌曲のように格調高く歌唱する藤山一郎の《影

を慕いて》が好きだった。そして、あのギターのイントロである。演歌デビューの意味がよくわかる。

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     〈演歌の抵抗〉

殿様キングスが紅白に初出場したのは、昭和四十九年第二十五回である。歌は《なみだの操》。殿様キングスはこの年の暮れのレコード大賞で大衆賞を受賞した。昭和四十九年の紅白では山口百恵、桜田淳子が初出場。高一トリオが初めて揃った。また、白雪姫の天地真理は最後の紅白だった。演歌路線では渡哲也の《くちなしの花》、中条きよしの《うそ》

が登場した。いずれも初出場である。同じお笑い出身のぴんからトリオはグループ内のトラブルで分裂しぴんから兄弟になり、消えていったが、殿様キングスは一曲では消えなかった。キャバレーのホステに異常な人気のある殿様キングスは短命ではなかったのである。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年九月八日放送の「なつかしの歌声」はビクターの同窓会がテーマだった。灰
田勝彦、小唄勝太郎、市丸らビクターを支えたスターが出演した。そこに意外にも藤山一
郎も出演している。ビクター時代の藤山は、クラシックは増永丈夫バリトンで独唱し、藤山
一郎では、流行歌はもちろんのこと、外国民謡、内外の歌曲、オペッレッター、タンゴ、ジ
ャズなど幅広いジャンルをレコードに吹込んでいる。藤山一郎といえば、コロムビアやテイ
チクの古賀メロディー、服部メロディー、古関裕而作品が有名だが藤山一郎の歌唱芸術の本
質はビクター作品にみることができる。

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・11◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年8月30日発行---------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈消え行く歌手と新たなスター連載第四回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載四回〉

戦後の民主化は大スター東海林太郎に春をもたらさなかった。軍国主義廃絶から軍歌は禁止されるのはしかたがないが、股旅、義理人情、仇討ちなど国粋主義につながる流行が禁止されたことは、東海林太郎にとっては致命傷だった。持ち歌が歌えなければお客さんは

納得しない。近江俊郎がそろそろ、売れ始めた頃、興行師たちが札束をもって列なし、人気絶頂の歌手がいた。岡晴夫である。《啼くな小鳩》は決定的だった。岡の歌は哀愁がありながらも軽快に歌った。当時全国にいた疎開ややもめ、復員街の家族のイライラを吹き飛ばす勢いだった。昭和二十三年、岡晴夫は《憧れのハワイ航路》の大ヒットを放ち、近江俊郎は《湯の町エレジー》でスターダムへ。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

コロムビアにとっては松平晃の加入は大きな戦力だが、古賀政男は待ちに待った藤山一郎が音楽学校卒業後はビクターに行くという噂を聞いて慌てていた。その噂が本当なら窮地に陥ってしまう。《サーカスの唄》には藤山一郎を予定していたからだ。さらに、ビクター

の佐々木俊一、同社の江口夜詩の台頭も古賀政男を焦らしていた。社内では江口の評判がすこぶる良い。昭和八年の早春、古賀は内心穏やかでなかったのだ。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

村田英雄は浪曲界では三波春夫よりはるかに上位にランクされていた。

村田は浪曲界では文句なしの若手NO1だったのである。文化放送の

浪曲コンクール一位、NHKの新人賞も手にした。玉川勝太郎、浪花

家辰造と伍しての実力派だった。だが、歌謡界では違った。浪曲界で

は遥か下の三波春夫は、三波はデビュー以来立て続けのヒットで人気絶

頂にいた。三波春夫が歌った《船方さんよ》をはじめとする一連の歌謡

曲は、伸びのある声と浪曲で鍛えた節回しでヒットしたのである。村田

英雄の闘志が湧いた。

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     〈ポップス歌謡〉

日本テレビの秋元近史は坂本九の三枚目と機転、リズム感と反射神経に

魅力を感じた。九ちゃんスマイルの下地はすでに認められていたのだ。

デビュー曲は《悲しき六十歳》。翌年の《上を向いて歩こう》が国際的

にヒットした。発売元の東芝に英国のレコード会社パイが《スキヤキ》

のタイトル出したいと打診してきた。それを皮切りに世界三十三国でこ

の歌は発売された。アメリカでは音楽専門雑誌『ビルボート』のホット

100の第一位を四週間続けた。坂本が渡米のさいには、ロサンゼルス

の空港で坂本九を5千人が取り巻く外電が日本に届き人気のすごさが伝

えられた。

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〈映画スターの共演〉

小林旭の声は奇妙な哀愁がある。演歌の渋さとは違う、むしろカントリ

ーウエスタンのような声の出し方である。パンチがあるので高く盛り上

がると民謡調の味にぴったりだった。作詞家の西沢爽、作曲家の遠藤実、

馬渕玄三の三人は小林の特徴をいかしたヒット曲を狙っていた。《アキラ

のズンドコ節》では、遠藤はマンボのリズムをつけた。リズミカルな明

るい曲想に小林旭のかん高い哀愁にある声が乗ったのである。

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     〈青春歌謡の時代〉

御三家の最後を飾る西郷輝彦は昭和三十九年《君だけを》でデビューした。

新会社のクラウンは西郷輝彦に社運を託した。レコード売り上げは六十万

枚を突破。着流しの橋幸夫、金ボタンの舟木一夫、そして、躍動感とテン

ションの高さを売りにした西郷輝彦と御三家が揃った。さらに西郷は《白

いチャペルに続く道》《星空のあいつ》《17才のこの胸に》と立て続けに

ヒットを飛ばした。この年のレコード大賞新人賞に輝いた。紅白にも出場。

《17才のこの胸に》を歌った。また、橋・舟木・西郷の御三家に加え、

三田明も《ごめんねチコちゃん》を歌い初出場。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

野口五郎のデビュー曲が《青いリンゴ》と思っているファンは多い。事実

《博多みれん》はまったく売れなかったのだ。すぐに演歌路線を脱しポッ

プスに切り換えたことが良かった。新御三家のなかで野口五郎だけが旧御

三家の感覚を多分に含んでいた。アイドル的美形という点では橋・舟木を

大きく離していたし、情熱の太陽を想像させる西郷輝彦のキラメキを払拭

しもっと哀愁と内向的なイメージをもたせたような、それでいてテンポ感

のあるスタイルだった。

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     〈演歌の抵抗〉

ムードコーラスに演歌をむすびつけたのがクールファイブだった。《噂の女》

《そして、神戸》《中の島ブルース》《東京砂漠》と70年代の演歌調ムード

コーラスのヒットが続いた。内山田洋とクールファイブの誕生は、長崎のキ

ャバレー合戦から生まれた。70年代前後は婦人同伴のナイトクラブや高級

グランドキャバレーが盛んに誕生した時代である。長崎市の「十二番街」と

いう高級キャバレーで歌っていた「高橋勝とコロ・ラティーノ」が《思案橋

ブルース》をヒットさせた。これが昭和四十三年のことだった。ライバルの

「銀馬車」は当然対抗意識を燃やすことになる。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年九月十五日は、「藤浦洸作品集」が放送された。藤浦洸といえば、

淡谷のり子が歌う《別れのブルース》の作詞で有名だが、この歌は最初《本

牧ブルース》という題名だった。本牧は外国人船員相手のチャブ屋と呼ばれ

る私娼窟があった。その界隈は妙に哀愁がただよう。外国人相手の歓楽街な

のでジャズが鳴り響き、その異国情緒が頽廃的なムードを醸し出していた。

服部良一、藤浦洸らが求めていたブルースの心情がそこにはあった。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

発行人:菊池清麿

kikuchi-kmas@msd.biglobe.ne.jp

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/

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〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈消え行く歌手と新たなスター連載第五回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載五回〉

藤山一郎は終戦を南方で迎えた。捕虜生活を余儀なくされ、イギリ

ス将兵の慰問では「東洋のジョン・マッコーマック」と言われた。

昭和二十一年夏、大衆音楽の演奏家としての決意を秘め藤山一郎と

して日本の土を踏んだ。テノールの音色と豊かな声量をもつバリト

ン歌手増永丈夫は藤山一郎を支えることになるのである。これが国

民栄誉賞への途の始まりだった。内地では、カストリに象徴される

世相にもっとも合った歌声が流れていた。岡晴夫の鼻にかかった高

音である。あの泥臭い庶民の活力を秘めた独特の歌唱であった。だ

が、彼の明るさの中には敗戦に打ちひしがれた悲哀が込められていた。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

《サーカスの唄》に藤山一郎が使えない。そうなるとそれに代わる歌

手が必要だ。コロムビア文芸部は古賀政男と西條八十に前にすでにコ

ロムビアからデビューしていた松平晃を連れてきた。松平晃はまだ音

楽学校に籍がある。ポリドールから去年発売されていた《忘られぬ花》

のヒットで学校当局に目とつけられ始め、同じ音楽学校の女生徒との

恋愛問題の噂も学校の風紀を乱す理由でもう在籍できる状況ではなかっ

た。松平はこの《サーカスの唄》の吹込みで決心をしたようだった。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

三波春夫の勢いは凄かった。昭和三十三年十二月浅草国際劇場でワ

ンマンショー、翌三十四年には日劇が超満員と、三波春夫の浪曲歌

謡の世界は多くのファンを魅了していた。村田英雄が流行歌と出会っ

たは、昭和三十年頃、四国興行中のときである。今治駅前の旅館で

寝ころがっていると前の劇場からすばらしい民謡調歌謡の高音が聴

こえてきた。三橋美智也のレコードである。《おんな船頭唄》だった。

その後、村田は国際劇場恒例の浪曲大会出演中に、浅草東宝の「三

橋美智也ショー」をみて、すっかりファンになってしまった。これが

浪曲に歌謡ショーの要素を取り入れるきっかけだったのである。

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     〈ポップス歌謡〉

昭和三十三年一月、日劇で当時、東京のジャズ喫茶で大受けしていた

ロカビリー歌手たちが一堂に会した。これが「ウエスタンカーニバル」

なる催しだった。一週間の興行で約六万三千人。この年は四回、翌三

十四年には年五回のカーニバルが催されたのである。狙いはずばりエル

ビス・プレスリーを中心とするロックンロールの日本波及効果だった。

うるさいと決めつけられた音を音楽と認識させ、強いリズムに体をアク

ロバットに動かし観客を熱狂させる目論見があった。とにかく異常な興

奮の坩堝だったといえる。平尾昌晃(当時・昌章)は、ミッキーカーチス、

山下敬二郎とともに三人男と言われていた。

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〈映画スターの共演〉

永遠のアイドル吉永小百合の初仕事は昭和三十一年、ラジオ東京の連続

放送劇『赤胴鈴之助』だった。千葉周作の娘役で出演した。昭和三十四

年には同じラジオ東京の『まぼろし探偵』に出演。映画となると同年の

松竹の『朝を呼ぶ口笛』が初出演である。それ以前から、どうしても吉

永を映画界に入れたくて、父・芳之は日活本社の宣伝部長・石神清を訪

ねていた。石神とは旧友である。そして、吉永は高校進学と同時に日活に

入社した。当時、売出し中だった赤木圭一郎の『電光石火の男』でデビュー。

まずは、アクション物だった。

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     〈青春歌謡の時代〉

西郷輝彦は鹿児島の出身。九州男児の象徴西郷隆盛の西郷を芸名にする。

南国の濃さをもつ二枚目である。御三家のなかで唯一、二枚目らしくアク

ションを入れて歌うスタイルをとった。その姿は眩しいほどのキラメキが

あった。しかもテンションが異常に高い。これは、《星のフラメンコ》に象

徴されている。両手を耳の近くにもってきて手拍子を入れる。これが西郷

の魅力となりラテンの情熱ともに人気を呼んだ。西郷輝彦は第十七回紅白

で白組のトップバッターを務めた。歌は南十字星に輝くラテンの情熱《星

のフラメンコ》。衣装は白の闘牛士スタイルだった。スペインの英雄の姿を

自分の歌唱スタイルにとりいれるあたり、西郷輝彦の情熱のキラメキを象徴

していた。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

新御三家の中で、最初に紅白に出場したのが、野口五郎だった。《めぐり逢

う青春》を歌った。十六歳でこの回の最年少出場。やはり、歌唱力では新御

三家のなかで抜きんでていたからだろうか。五郎は昭和四十七年に入るとエ

ンジンがかかり始めた。《悲しみの日曜日》《青い日曜日》とヒットが続き、

《めぐり逢う青春》でようやく哀愁路線のアイドル歌謡が定着した。だが、

人気はそれにとどまらず、翌昭和四十八年の《オレンジの雨》で野口五郎の

人気は決定的になった。

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     〈演歌の抵抗〉

《長崎は今日も雨だった》の作詞は、「銀馬車」の営業部次長が吉田貴子のペ

ンネームで作詞した。吉田は、うちにはもっとうまいグループがいるといって

歌わせたのが内山田洋とクールファイブだった。ソロボーカルの前川清は地元

でも人気があった。当時は演歌というよりはジャズ・ラテンをレパートリーに

していた。このグループは六人とも九州出身。あまり欲がなかった。記念にと

吹込んだ《長崎は今日も雨だった》が大ヒット。その年のレコード大賞新人賞

と紅白初出場。あれよあれよといつのまにかスターダムへ。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年十月六日から翌週にかけての「なつかしの歌声」にはSPレコー

ド歌謡の大スターが一堂に会した。藤山一郎、東海林太郎、淡谷のり子、小

唄勝太郎、ディック・ミネ、伊藤久男、渡辺はま子、灰田勝彦、霧島昇、二

葉あき子。林伊佐緒、小畑実らが出演した。「なつかしの歌声」の大スターは

ここまでである。藤山一郎の《丘を越えて》は青春の躍動そのもの。さわや

かに美しく澄んだ響きに出演者も感動。藤山はバリトンに音域をさげているが、

豊かな歌唱力と響き・音色が変わらないのはさすがである。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

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---------------------------------------------2003年9月1日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈消え行く歌手と新たなスター連載第六回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載五回〉

《憧れのハワイ航路》を歌う岡晴夫が外国航路のマドロスならば、

田端義夫は港町の粋な船乗りのイメージがあった。終戦の翌年か

ら復員の兵隊をのせた列車が目立つようになった。窓ガラスがな

い列車は戦地から帰ってきた兵隊を満載していた。この風景を地

方巡業の旅に出ていた東海林太郎、松平晃、楠木繁夫も見ていた。

復員兵が口づさんでいた歌が《かえり船》だった。田端義夫の独

特のバイブレーションが哀調切々とした歌声になり人々の胸を打った。

ヒットの火はやはり引き揚げ船が入港する舞鶴、博多あたりからだっ

た。この歌は、復員、引き揚げをテーマにして作られたが、もともと

田端義夫の歌は人生の波間に揺れる感情表現が込められている。漂泊

者の侘しい心情表現が彼の持ち味でもあった。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

藤山一郎のビクター入社が報じられた。古賀政男を中心にしたコロム

ビア陣営は驚愕の色を隠せなかった。藤山は本名の増永丈夫ではクラ

シックの独唱があり「上野」(東京音楽学校)の先輩らが多いビクター

に入社するのは当然であった。しかも、藤山は流行歌のヒットよりも

ポピュラーな外国のホーム歌曲を主体に考えていた。コロムビアは藤

山一郎無しの古賀政男に見切りをつけ、江口夜詩と松平晃のコンビに

重点をおくことになったのである。松平晃は端正なマスク。美声の青

春歌手としての期待が高まった。コロムビアに期待を担う松平晃の葉

隠れ武士の血が騒ぎ、「佐賀っぽ」の闘志が湧くのである。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

独創的な浪曲歌謡に目覚めた村田英雄は、浪曲界の反逆児と批判され

ることを覚悟で伴奏にアコーディオン、コーラス、笛を使って実演し

た。浪曲の公演は普通二席である。村田はそれを一席にし歌謡ショー

を加えた。だが、三波春夫の歌謡界での活躍は村田を過剰に刺激した。

この村田の声に興味を持ったのが歌謡界の大御所古賀政男だった。村

田英雄の《江戸群盗伝》に古賀の魂が震えたのだ。古賀政男はコロム

ビアの艶歌路線に合わせ新たな歌手を求めていた。テイチクの三波春

夫の高音美声に対抗するには哀愁が底流する男の魂しかない。古賀政

男は村田に電話を入れる。ところが、村田は古賀政男の名前を知らな

かった。

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     〈ポップス歌謡〉

昭和三十三年二月八日の日劇「第一回ウエスタン・カーニバル」から

始まったロカビリーブームの爆発音は凄かった。体はよじる。そりか

える。舞台をころげまわりながら興奮に浸った。客席からは無数のテ

ープ。女性ファンが舞台にのぼり歌手を抱擁するシーンも。当時の三

十代以上の大人は動揺を隠せなかった。まだ、ロックンロールの社会

現象化に一役買った映画『暴力教室』の衝撃がまだ消えていなかった

頃である。音楽評論家たちは戸惑っていた。そして、昭和三十三年九

月、《ダイアナ》《クレイジーラブ》でお馴染みのポール・アンカの来

日が興奮・熱狂の車をかけた。平尾昌章(後に昌晃)はキングから《

ダイアナ》をリリースしている。

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〈映画スターの共演〉

吉永小百合の初主演は、『ガラスの中の少女』である。アイドルスター

の一歩を踏み出す。翌年には森永健次郎監督『花と娘と白い道』に主演。

そして、何といっても吉永小百合を国民的アイドルにしたのが昭和三十

七年浦山桐郎監督『キューポラのある街』のジュン役だった。この年、橋

幸夫と歌った《いつでも夢を》がレコード大賞を受賞。若い世代の象徴的

な歌として一世を風靡した。男女の仲も個々の自由溢れるのびやかな交際

へと変化した。もう、戦後の若者の貧しさは見られなかったのだ。この年

は倍賞千恵子が《下町の太陽》でレコード大賞新人賞。女優も歌手になる時代

である。

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     〈青春歌謡の時代〉

西郷輝彦は二枚目であり歌のテンションも高く、とにかくカッコよかった。

だが、意外にも歌唱はオーソドックスだった。とはいえ、バイブレーション

を巧く入れファンを魅了した。紅白二回目の出場で歌った《星娘》はその典型

ではなかろうか。エイトビートのドラムに乗せ、歌の導入部には西郷輝彦な

らではのテクニックがみられた。この年の紅白の白組トリは橋幸夫。《あの娘

と僕》を歌った。こちらはスイムダンス。西郷のラテン演歌に対抗か。とも

あれ、舞台は騒然となった。ちなみに白組トップは舟木一夫で《高原のお嬢さん》。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

野口五郎の涙のポップス歌謡は《オレンジの雨》で確立した。十代を性的

に興奮させたのだ。性教育もオープンになりだした頃だから、よけい性的

な刺激が強かった。《君が美しすぎて》は演歌の心情を濾過した無垢な十代

の若者の女々しい泣きポップスの頂点を極めた。一方、郷ひろみは快調に飛

ばす。《愛への出発》《裸のビーナス》《魅力のマーチ》《モナリザの秘密》と

ヒットが安定し昭和四十八年第二十四回紅白歌合戦初出場をはたす。この年

特別出場の渡辺はま子に郷ひろみは花束を贈呈した。藤山一郎には小柳ルミ

子が花束を。五郎は堂々二回目の出場。北島三郎と水原弘に送り出された。

秀樹はまだ、紅白には声がかからなかった。

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     〈演歌の抵抗〉

60年代のマヒナスターズは甘いムードで女心をとろけさすようなソフトな

歌い方であった。60年代後半の黒沢明とロス・プリモスの《ラブユー東京》

もまだ、完全な演歌ではない。昭和四十三年に鶴岡雅義と東京ロマンチカが

《小樽のひとよ》をヒットさせ、翌年には《君は心の妻だから》もヒットさせ

たが、歌の内容は演歌でも、まだ、演歌特有の泥臭さがあまり見えなかった。

それを思うと、完全なコーラス演歌は内山田洋とクールファイブということに

なる。クールファイブのボーカル前川清は野性味溢れる渋い低音の魅力があった。

何もかも型破りな個性をもっていた。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年十月六日から二週続けての「なつかしの歌声」では往年の大スター

が一堂に会した。ステージは戦前のキャバレー風のセッティングである。テー

ブルに歌手が座っているが、その構成がそのまま交友関係をしめしているようだ。

東海林太郎は伊藤久男、灰田勝彦、霧島昇と交遊が深い。東海林は明治三十一年

生まれで世代は一回り違うが、伊藤と霧島とは同じ東北出身ということで気が合

った。伊藤久男はオペラの平間文寿門下の歌手。ドラマティックな叙情性のある

バリトンでオペラ歌手になるはずだった。ところが、慰問で流行歌が受けレコード

歌手へ。

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〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈消え行く歌手と新たなスター連載第7回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載7回〉

母の死体は芝・増上寺の収容所で確認。悲しみを押し殺して確認し

黙って一人で骨にした。並木は四月、大陸の慰問団に参加。出発の

日、東京駅で「祖国よさようなら」と思いながら水道の水を飲んだ。

七月末帰国。並木路子は終戦を一人で迎えたのである。この終戦に

よって映画『そよ風』は内容が変更された。もともと本土決戦に備え

戦意高揚の目的として企画されたものである。その後終戦を迎え内容

もすっかり変わり、レビューガールの恋と生活を描いた平凡なものに

なった。だが、並木路子という戦後を象徴するスターを生み出した。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

上野の東京音楽学校は声楽において甲乙つけがたく異例の二人。ソプ

ラノ長門美保とバリトンの増永丈夫。「上野」期待の増永はすでに藤山

一郎で歌謡界にその名を轟かしていた。また、去年の暮れの《ローエン

グリーン》では外国人歌手と伍しての堂々のバリトン独唱だった。武蔵

野音楽学校は渡辺はま子がドボルザークを独唱。こちらも井崎加代子と

異例の二人。東海林にはコンクール入賞にもかかわらず、クラシックの

仕事はそう簡単にこなかった。そうしているうちに、ニットレコードから

《遠き夢の日》が新譜発売されていた。流行歌である。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

コロムビアは村田英雄に船村徹の《よさこい三度笠》を吹込ませた。

これに古賀政男は激怒した。村田は古賀の弟子である。それなのに

別の作家の曲を歌わせるとは。だが、会社の方針は変わらない。そ

こで、村田は会社との板ばさみに苦しみながらも古賀政男を説得した。

この頃の村田英雄は辛い日々だった。だが、村田英雄は生涯を決定づ

ける歌にめぐり逢う。《王将》である。北條秀司は名棋士坂田三吉を主

人公に『王将』を書いた。これを村田英雄が歌謡浪曲で演じ、その挿

入歌が《王将》である。作詞は西條八十、作曲船村徹。古賀政男に見

出され、古賀とひともんちゃくあった船村メロディーでヒットすると

いう不思議なめぐり合わせとはいえ、あれよあれよとレコードは売れた。

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     〈ポップス歌謡〉

梓みちよは福岡出身。宝塚音楽学校に入ったが、途中でやめた。最初

からポピュラー歌手になるのが目的だったので、あっさりしたものだ

った。渡辺プロに入ったのもちょうどその頃である。渡辺プロは「ボ

サノバ娘」で売ろうとしたが不発。これが梓にとっては幸運だった。

田辺靖雄とデュエットした《ヘイ・ポーラ》がヒットした。これはア

メリカの大学生、ポールとポーラがレコーディングしたもの。日本語

で歌ったポピュラーレコードとしては久々の快打。

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〈映画スターの共演〉

戦後の民主化によって自由を共有できた若者の青春を歌ったのが吉永

小百合だった。昭和三十年代後半の日本の若者をあるがままの姿を歌

い上げた。それに対して倍賞千恵子は庶民性と日本的情緒感がある。

当時、各レコード会社は歌えるスターを持っていた。テイチクは石原

裕次郎、コロムビアは小林旭、ビクターは吉永小百合。ところがキン

グには歌えるスターは不在。そこで、松竹映画からデビューした倍賞千

恵子に白羽の矢を立てのである。

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     〈青春歌謡の時代〉

三田明は、御三家と比較するとより70年代のアイドルに近いような

気がする。二枚目度においては西郷輝彦と双璧である。昭和四十年前後、

ミハー的人気度では彼が一番ではなかろうか。そこがもしかしたら御三

家の陰になってしまった要因かもしれない。ルックスだけならいくらで

も生産できる。三田明の紅白初出場は、昭和三十九年第十五回である。

歌は《ごめんねチコちゃん》。作曲は吉田正。三田は吉田正の門下生の一人。

このとき、西郷輝彦も初出場。舟木一夫は堂々二回目。橋幸夫は五回目の

出場。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

郷ひろみ・野口五郎・西城秀樹の拮抗の頃、女性アイドルは、天地真

理の短い全盛期が頂点に達していた。麻丘めぐみは《私の彼は左きき

》で大ブレイク。八重歯の輝きで魅了する小柳ルミ子はさすが宝塚出

身だけあって本格派歌手ぶりを発揮していた。秀樹はこの年昭和四十

九年第二十五回紅白歌合戦に初出場。白組トップで《傷だらけのロー

ラ》を熱唱した。郷ひろみは《花とみつばち》で秀樹の性の情熱に対

して性の甘さをアピールした。五郎は《甘い生活》で当時流行してい

た同棲生活の終着点を歌った。この紅白では、新高一トリオ=桜田淳

子・山口百恵・森昌子が初めて揃って出場。天地真理は、この紅白が

最後だった。

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     〈演歌の抵抗〉

昭和五十年、昭和の半世紀を象徴するわけでもないのに《昭和枯れ

すすき》は大ヒットした。歌手はさくらと一郎。歌詞があまりにも

暗く、昭和が歪曲されてしまった感がある。この頃は、アイドル歌

手全盛で、ぴんから兄弟、殿様キングスらが歌謡番組で中三トリオ

と一緒に出演すると視聴者は何ともいえない異常空間を感じたもの

である。もともと演歌は自由民権思想の産物だった。演歌師が登場

し街頭で流すようになるが、夫婦の演歌師もいた。秋山夫妻だ。

さくらと一郎はその原型が残っているようだった。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年、十一月十七日の「なつかしの歌声」は、それぞれの

終戦を特集。藤山一郎は終戦をインドネシアで迎えた。収容所での

捕虜生活とイギリス将兵のための慰問。彼は懸命に歌った。イギリ

ス将兵から「東洋のジョン・マッコーマック」という声も聞こえた。

やがて、日本人捕虜への慰問も許される。慰問活動が進むにつれし

だいに増永は「藤山一郎」の知名度に驚いた。昭和二十一年夏、大

衆音楽の演奏家としての決意を秘め、つまり、藤山一郎として日本

の土を踏んだ。声楽家バリトン増永丈夫は藤山を支えることになる。

同番組では、《夢淡き東京》《長崎の鐘》を歌った。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

発行人:菊池清麿

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・16◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月4日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈消え行く歌手と新たなスター連載第八回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載八回〉

並木は歌う場面では《丘を越えて》にあわせて歌った。後に出来上が

った作品に《リンゴの唄》をかぶせたがなぜかピッタリ合っていた。

『そよ風は』はGHQ検閲第一号映画である。その後、NHK『希望

音楽会』で並木路子の歌声が電波に乗った。歌の世界は面白い。コロ

ムビアの看板歌手霧島昇は《リンゴの唄》を並木路子とデュエットし

たにもかかわらず、すっかり霞んでしまった。戦後は新しいスターを

求めていたのだ。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

昭和八年五月新譜でニットーレコードから、東海林太郎の歌で《遠き

日の夢》が発売された。B面は《花の木陰》。これが東海林太郎の流行

歌手としてのデビューレコードだった。東海林はニットーレコードと

ほぼ同時期にキングからもレコードをだした。東海林はキングと専属契

約を結んだ。だが、クラシック歌手の契約ではなかった。昭和八年日比

谷公会堂で行われた時事新報社主催の音楽コンクールで入賞したが、ク

ラシック歌手の仕事を得たわけではなかった。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

三波春夫は、高音・美声・技巧である。それに対して村田英雄は、低音

豪快・歌魂と形容できる。ロカビリー全盛のなかでの日本人の底にあ

る伝統的な義理人情は無くなることはない。三波春夫は華やかなポピ

ュラー音楽のもつエンターティメントを追求したが、村田は泥くさい男

の魂を表現した。三波春夫は多彩である。村田は一貫した男の心情を歌

った。全く対照的だった。村田英雄の紅白初出場は、昭和三十六年第十

二回である。三波春夫は四回目の出場で白組トリだった。

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     〈ポップス歌謡〉

60年代に入ると、ラテン系歌手が目立つ。それには、メキシコのトリオ

ロス・パンチョスの来日が影響をあたえていた。アイ・ジョージ、坂

本スミ子、アントニオ古賀等々。アイ・ジョージは紅白には《マラゲ

ニア》で登場。昭和三十五年第十一回紅白歌合戦。坂本スミ子は

翌三十六年の第十二回紅白に初出場し《アロロコ》を歌う。60年代後

半はラテン系コーラスがブームを呼んだ。黒沢明とロス・プリモスの《

ラブユー東京》は有線放送でヒットした。

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〈映画スターの共演〉

ビクターは、吉永小百合の素直な青春スタイルとマヒナ・スターズの甘

いコーラスによる《寒い朝》。橋幸夫と共演した《いつでも夢を》はレコ

ード大賞。コロムビアは、小林旭の一連の「俗謡シリーズ」でかん高い

声と哀愁を帯びたカスレ声でヒット連発。テイチクは石原裕次郎の不動

の人気で売り上げを伸ばす。ポリドールは日活のアクションスター三羽

烏=赤木圭一郎・宍戸錠・二谷英明がそろってレコーディング。当時、

キングディレクターの長田氏は「キングでは映画スターは育たない」と

いうジンクスをどう破るか思案していた。長田氏は倍賞千恵子を三ヶ月

追っかけようやく口説き落した。

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     〈青春歌謡の時代〉

美貌・可愛さ・かっこよさが先行するとその歌手の歌唱力が隠れてしまう。

切ないメロディーをリズミカルに歌う三田明とフラメンコを体内に血肉化

し情熱の実力派西郷輝彦はその典型である。三田明は昭和三十八年《美し

き十代》でデビューしたが、ブレスが入っていてあまり歌唱評価は低かっ

た。だが、スローテンポの《恋人ジュリー》、軽快なテンポの《恋のアメ

リアッチ》の頃は歌に安定感で出るようになっていた。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

昭和五十年、野口五郎が演歌を歌いこなす歌唱力で《私鉄沿線》をヒットさ

せた。この年はダウン・ダウン・ブギウギ・バンドの《港のヨーコ・ヨコハマ

     ヨコスカ》がヒット。また、バンバンが《「いちご白書」をもう一度》

をヒットさせ、フォークソングも歌謡戦線に登場した。そして、新井由美のこ

と「ユーミン」がニューミュジックという新分野を開拓。五郎の《私鉄沿線》は

昭和五十年レコード大賞歌唱賞に入った。秀樹の二年連続歌唱賞に刺激を受けた

のかどうかはわからないが、プライドを見せた。

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     〈演歌の抵抗〉

新御三家がは激しいバトルを展開するなか、演歌もつぎつぎと新鋭が登場した。

五木ひろしと同じパターンだが、『全日本歌謡選手権』を勝ち抜いてデビューし

た中条きよし。《うそ》は大ヒットだった。森進一の《襟裳岬》は作曲が吉田拓

郎でこちらはフォークソング。昭和四十九年暮れのレコード大賞受賞。森進一

は昭和四十四、六年のレコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞していたが、大賞は初

タイトル。彗星のごとく現れた五木ひろしが前年大賞獲得。先輩の森は演歌若手

本格派の意地を見せた。女性歌手では八代亜紀が情念演歌で女の燃える心情を歌

い上げた。《なみだ恋》は彼女をスターダムにした。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年十一月十七日、「なつかしの歌声」は、それぞれの終戦日記を特集。

二葉あき子は、昭和二十年八月六日、昼近く広島駅に来た。ところが、急に女

学校時代の教え子に逢いたくなり、三次行きの列車に乗った。この列車がトン

ネルに入った瞬間に原爆が投下された。広島は廃墟となった。もし、この列車

がトンネルに入るのが遅れたら、二葉あき子は原爆の犠牲となったであろう。

原爆犠牲者の霊を弔うかのように《夜のプラットフォーム》《別れても》《フ

ランチェスカの鐘》と戦後もヒットを放った。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・17◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月5日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈消え行く歌手と新たなスター連載第九回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載九回〉

並木路子のイメージがこの唄に完全にマッチし、《リンゴの唄》=

並木路子という代名詞ができあがってしまったのである。NHK

にも《リンゴの唄》の投書が殺到した。戦時中は空襲警報と戦果

の虚報を聞くだけだったラジオから、明るい前奏で始まり甘酸っ

ぱい感傷を含んだ《リンゴの唄》がながれた。戦後の流行歌史の幕

開けは《リンゴの唄》であることは異論がない。焼け跡の闇市のどこ

からともなく聞こえてきた。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

東海林は納得できなかった。音楽コンクールに入賞したのに。なぜだ。

キングの重役室でこう言われた。「あの豊かな声量と美しいテノールの

音色をもつバリトン増永丈夫でさえも流行歌では、ホールの隅々にま

で響かせるメッツァヴォーチェを巧くマイクロフォンに乗せる藤山一郎

ですよ」クラシック歌手が流行歌手にもなる時代だ。モダニズムがそれ

を求めている。増永丈夫は芸名=藤山一郎を使うが徳山l、四家文子、

関種子らはクラシックを歌うそのままの名前で流行歌を歌っている。東

海林太郎はそう思うと納得した。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

村田英雄は昭和三十六年紅白で初出場ながら、《王将》を熱唱。村田は

三番の歌詞を二番に挿入し白組必勝を誓う。打倒紅組の心意気を熱唱した。

この紅白では坂本九が《上を向いて歩こう》で初出場。十回出場で戦

前からドラマティックなバリトンで豪快に歌い上げてきた大御所伊藤

久男の後のため迫力に欠けた。初出場なら無理もない。伊藤も村田の

恩師古賀メロディーに名唱が多い。表面はジャズ・ロカビリーでもや

はり日本人は日本の伝統的な郷愁を求めていた。三波春夫は《文左た

から船》をトリで熱唱。

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     〈ポップス歌謡〉

なべプロ三人娘とは、中尾ミエ・伊東ゆかり・園まりをさす。といって

も、中尾ミエが《可愛いベイビー》でヒットを放ち、売れていたから姉御

的な存在だった。ところが、歌手歴では控えめな伊東ゆかりの方があった。

七歳のときから米軍基地のキャンプ周りをしていた。父親がジャズ・バン

ドのベース奏者だったことが関係しているらしい。《アイ・ラブ・パリス》

をおとなっぽく歌って米兵からは人気があった。

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〈映画スターの共演〉

小林旭はクラウン移籍後もヒットを連発。トランペットのハイトーンに渋

みを加えた声は哀愁を呼ぶ。コロムビアは高石かつ枝の抜けた後に本間千

代子を起用。昭和三十八年《若草の丘》でデビュー。本間はひばり児童合唱

団では吉永小百合と同期。コロムビアでは童謡歌手だった。大映からは、高

田浩吉の娘高田美和を歌手にした。《十七歳は一度だけ》でデビュー。一方、

倍賞千恵子は安定した正統派の歌唱でキングのジンクスを破った。

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     〈青春歌謡の時代〉

青春歌手の系譜はつぎのとおり。古くは、藤山一郎・松平晃・灰田勝彦。藤山

は慶応からから東京音楽学校(現芸大)、松平は東京音楽学校中退の異端児だが

モダンボーイ、灰田は立教の「モアナ・グリークラブ」出身のスポーツ万能の

青春歌手。加山雄三はその戦後版。彼らは特権化された学園を装置にした青春群

像である。昭和三十年代半ばの青春歌手は若さ、カッコよさルックスにアイドル

性を持ち青春の感傷と自由な明るさをテーマにしている。しかも、学園を装置に

したものではなく、日常生活のなかに溶け込んだ青春である。そして、ロカビリ

ーの刺激を受けて、井上ひろし、北原謙二、松島アキラ、佐川ミツオ、坂本九。

松島アキラは昭和三十七年紅白白組トップバッター。《あゝ青春に花よ咲け》。

北原謙二は《若い二人》。の原点。佐川ミツオは《太陽に向かって》で二回目の

出場。坂本九は《一人ぼっちの二人》で同じく二回目。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

昭和五十一年のレコード大賞に「五郎・ひろみ・秀樹」の新御三家が揃った。野

口五郎は《針葉樹》で歌唱賞。西城秀樹は《若き獅子たち》で同じく歌唱賞。郷ひ

ろみは、《あなたがいたから僕がいた》で大衆賞。彼らはこの頃テレビドラマにも

出演しそれぞれのキャラクターを演じた。この年は伊藤咲子が《きみ可愛いね》

で紅白初出場。可愛くないが研ナオコも初出場。《LA−LA−LA》を歌う。キャ

ンデイィーズは《春一番》で二回目出場。実力派アイドル岩崎宏美は《ファンタジ

ー》で二回目の出場。ヤングパワーの中核に。

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     〈演歌の抵抗〉

八代亜紀はバスガイドからクラブ歌手。熊本から上京した苦労人歌手でもある。

昭和四十八年《なみだ恋》でレコード大賞歌唱賞。翌年も《愛の執念》で歌唱賞。

昭和五十一年には《もう一度逢いたい》で最優秀歌唱賞へ。翌五十二年には紅白

でトリを務めた。70年代最後の紅白でも《舟唄》でトリを務め熱唱。八代は燃え

る女の情念を売りにしていたが、《舟唄》ではフォーク調を交えながら男の心情を

歌う。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年十一月十七日、「なつかしの歌声」は、それぞれの終戦日記を特集。

終戦直後、正格歌手藤山一郎の《夢淡き東京》がすさんだ人々の心に灯をつけ

てくれた。藤山は映画でもアコーディオンを弾きながら歌った。「銀座の柳」

「大川端の昔をしのぶ詠嘆」「路地裏の雨」というサトウ・ハチローの詩想と

マイナーからメジャー、そしてマイナーにもどる作曲者の古関裕而の楽想は

戦後の焼け跡から復興しよとする東京の姿を見事に表現していた。サトウは

古関の潤いのある叙情歌曲にあとからハメコミで詩をつけた。そこに澄んだ

     美しい藤山一郎のテナーとくればもういうことはない。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・18◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月6日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈消え行く歌手と新たなスター連載第十回〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈消え行く歌手と新たなスター連載十回〉

昭和二十四年、楠木繁夫はテイチクに移籍。息を吹き返したように矢継ぎ早

にレコードを吹込んだ。楠木繁夫の再起にかける気合が感じられた。この年

は正格歌手藤山一郎が《青い山脈》《長崎の鐘》をヒットさせていた。だが、

楠木のレコードは売れなかった。楠木・三原負債の精神的ダメージは大きか

った。レコードは売れなければ地方巡業のスケジュールを過密にしなければ

ならない。それをこなすためにヒロポンの魔力にたよってしまった。大量使

用は身体を蝕み、悲劇をもたらすことになった。盟友の松平晃は巡業で惨めな

状態だった。興行主に逃げられ宿で下人扱いを受けた。戦前の誇り高き青春歌

手松平晃からは信じられないことだった。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

東海林太郎が流行歌手の道に踏ん切りがついたのも、ちょうどその頃、恩師

佐野学の獄中転向声明が何らかしらの影を落していた。東海林はキングとポ

リドールの両方の専属だった。昭和八年の暮れ、十二月二十八日、《赤城の子

守唄》の譜面を渡された。東海林は、国定忠治や、その乾分の浅太郎を知ら

なかった。彼は生来、渡世人のようなアウトローの生活をしたことがないの

でわかるはずがなかった。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

都はるみの「うなり」は浪曲がヒントだった。はるみを厳しく芸事をしこんだ

母・北村松代は幼少も頃、浪曲が好きだった。浪曲師になりたかったが、戦争

中ということもあり断念。その夢を娘に託した。母・松代は毎日娘・はるみに

「うなれ、うなれ」とはっぱをかけた。はるみは「うなれば十円」に釣られて

ひたすらうなった。歌謡教室の発表会で童謡を唸って歌い周囲を唖然とさせた。

だが、母子はこの「うなり」はいけると自信を深めた。

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     〈ポップス歌謡〉

洋楽のカヴァー曲はフジテレビの『ザ・ヒットパレード』、NTVの『シャボン玉

ホリデー』NHKの『夢で逢いましょう』などの人気番組で流れた。『シャボン玉ホ

リデー』は、ザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレイジー・キャッツを中心。歌はもちろ

ん、コントもあり愉快なバラエティーショーだった。アメリカの十代のアイドル曲

のみならず、ヨーロッパのポピュラー曲、ラテンなどカヴァー範囲は多岐に渡って

いた。だが、このカヴァー曲はすでに戦前からブームがあり、二村定一、藤山一郎、

ディック・ミネ、中野忠晴、灰田勝彦、淡谷のり子、川畑文子、ヘレン隅田、小林

千代子らが外国のカヴァー曲を歌っていた。

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〈映画スターの共演〉

日活のアイドル女優・ビクターの青春歌手吉永小百合に対して東映

のアイドル・コロムビアの専属本間千代子は拮抗していた。本間千

代子は昭和二十年一月二十九日、長野県生まれ。みずがめ座。映画

デビューは東映の『恋と太陽とギャング』で千葉真一の妹役だった。

同じ東映の『十七才のこの胸』では人気絶頂の西郷輝彦と共演。歌も

《若草の丘》でデビュー以来、《純白の白い砂》《愛しあうには早す

ぎて》がブームを呼んでいた。

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     〈青春歌謡の時代〉

橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の「御三家」のは、ロカビリーを含めた

カヴァー曲ブームの集大成といえるかもしれない。アイドル性を具備

した歌手はたしかにもてはやされた。その後御三家はその人気におい

て頂点を極めた。ちなみに歌謡界の御三家の系譜を辿ってみよう。古く

戦前は、藤山一郎・東海林太郎・楠木繁夫。青春歌謡を歌ったのは正統

派藤山一郎。《丘を越えて》と《青い山脈》は青春歌謡の古典的名曲。

戦後の昭和二十年代=岡晴夫・小畑実・近江俊郎。彼らの青春にまだ焼け

跡が残っている。東京織ピック前後の青春歌謡=橋幸夫・舟木一夫・西郷

輝彦。高度成長の押せ押せムードが若者を刺激。男女交際もまだグループ

交際の域のままだ。70年代アイドル全盛=「五郎・ひろみ・秀樹」。彼ら

の青春は肉体的性の刺激が魅力だ。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

『スター誕生』は昭和四十六年の秋から放送された。『全日本歌謡選手権』

が実力派の大人のムードを満足させる歌手の登竜門なら、こちらは、アイ

ドル歌手のそれといえた。だから、審査委員の実に厳しい言葉にアイドル

スターを目指す少女たちは涙を流した。きらびやかなスポットライトを浴

びることが彼女らの夢だった。この番組の初代グランドチャンピアオンは

森昌子だった。アイドルにしては少しルックスが足りないと思われたが、

その実力は演歌で真価を発揮した。

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     〈演歌の抵抗〉

ムードコーラスにもいろいろある。内山田洋とクールファイブは演歌だが、

まだまだ『銀馬車』時代の名残があり、ムード歌謡の余韻があった。それに対

してお笑い出身の殿様キングスはやはり、盛り場の喧騒、嬌声、酔客の罵声の

中で鍛え上げたド演歌である。ところが、殿様キングスは《恋は紅いバラ》で

マンボのリズムを歌い上げた。マンボの王様ペレス・ブラドと共演をしコミッ

クバンド時代のプライドを見せた。昭和五十一年第二十一回紅白歌合戦では、

三波春夫と村田英雄に挟まれたながら熱唱。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年十一月十七日の「なつかしの歌声」はそれぞれの終戦日記が特集さ

れた。同番組に出演していなかったが、淡谷のり子の終戦はどい状況だったのだ

ろうか。淡谷は山形で玉音放送を聴いた。それから、まもなく、米軍相手のショ

ーに駆り出された。淡谷米軍キャンプ歌手一号であることはあまり知られていない。

将校ばかりのクラブで歌った。和製ブルースをはじめとする流行歌はもちろんの

ことジャズ、シャンソン、タンゴ、どれを歌っても拍手喝さいだった。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

発行人:菊池清麿

kikuchi-kmas@msd.biglobe.ne.jp

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・19◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月7日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈SPレコード歌謡・戦後編〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈SPレコード歌謡・戦後編〉

NHKのど自慢放送で勇ましい旋律の歌に鐘が乱打された。曲名は

《異国の丘》。シベリアの抑留所で作詞作曲者は不詳だが、広く歌わ

れていた望郷の歌である。この放送を聴いた作詞家の佐伯孝夫はビ

クターの上山敬三に連絡。誰が作ったのかわからないまま、佐伯が

補作して清水保雄が編曲してビクターからレコードが発売された。

竹山逸郎が一番を歌い、この歌をのど自慢で歌った中村耕造が二番

を歌った。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

古賀政男は、昭和八年の夏、《東京音頭の狂乱のさなか、疲労困憊か

ら、肺浸潤を患い神田杏雲堂病院に入院した。中村千代子との結婚

生活の行き詰まり、相当な精神的な疲労困憊が原因であった。古賀

政男は、病気回復のために昭和八年の晩秋から翌九年の四月まで伊

東温泉で静養した。この間に江口夜詩がコロムビアの中心になるの

である。歌手は当然、松平晃。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

魅惑のムード歌謡を歌いあげたフランク永井が歌手になるきっかけ

は自動車事故だった。彼は芝浦にあった米軍補給基地部隊で米国本

土から来た食糧をトレーラーで基地に運搬する仕事をしていた。と

ころが、川崎でスリップさせ事故を起こしてしまった。罰金二〇〇

〇ドルと軍法会議の噂を聞いてさっそく退職。自慢の歌を生かして

のど自慢荒し。その一方で朝霞の米軍下士官クラブ歌手で腕を磨い

ていた。歌手デビューは昭和三十年十月新譜でビクターから《恋人よ

われに帰れ》である。

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     〈ポップス歌謡〉

英語を勉強し、教会で賛美歌を歌い青山学院というお嬢さんミッショ

ン系へに通う高校生が米軍キャンプで受けていた。自己流で歌う《セ

ンチメンタル・ジャニー》には拍手喝さいだった。セラー服と学校近

くのパン屋で着替える。バンドマンや慰安婦と一緒にトラックでキャ

ンプに行くのだから、えらい度胸である。それがきっかけで渡辺弘と

スターダスターズの専属歌手になる。これが後のペギー葉山である。

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〈映画スターの共演〉

吉永小百合は、昭和三十八年、『映画伊豆の踊子』で純情可憐な旅芸人

の踊り子を演じた。また、《青い山脈》でも自由奔放な女子高生演じた。

その年の紅白では主題歌《伊豆の踊子》を歌った。キングの倍賞千恵子

は《下町の太陽》で下町のチャンピオンをアピール。高石かつ枝は《り

んごの花咲く町》を歌う。客席でこまどり姉妹がリンゴを配る演出もあ

った。

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     〈青春歌謡の時代〉

西郷輝彦の《君だけを》はクラウンの社運を決定づけたことは有名であ

る。伊藤正憲は西郷のテスト盤を視聴会で聴いて勝負の曲と思った。レ

コード番号は「西郷」をもじってCW―三五とつけられた。第一回プレ

スも三万五千枚で出荷。三十五万枚を突破しそれを遥かに上回る売り上

げを記録した。これがクラウン旋風のきっかけといえた。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

森昌子に続いて、登場したのが桜田淳子である。エンジェルハットの白

い帽子を斜めにかぶって現れた。ルックスは森昌子より抜群の可愛さだ

った。天地真理はすでにお姉さん的な存在であり、桜田淳子は同世代意

識を感じさせる正統派清純アイドルだった。親近感の質が違うのである。

紅白出場は昭和四十九年第二十五回。この年は、森昌子・桜田淳子・山

口百恵が高一トリオとなって揃って出場。森昌子は前年にすでに初出場

をはたしていた。

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     〈演歌の抵抗〉

八代亜紀の声は独特のハスキーボイスである。女の情念を燃えるように

歌うとき、瞳が潤む。摩周湖のようだと形容した人もいる。《舟唄》では、

客席が八代と同じ振りをしながら、大合唱するシーンも。紅白では《舟

唄》でトリを務める。白組は五木ひろし。《おまえとふたり》。この年の紅

白は、大橋純子、サザンオールスターズ、さだまさし、ゴダイゴなどニュ

ーミュージック系歌手の躍進が目立つ。だが、演歌歌手も負けじと熱唱し

た。さらに藤山一郎、美空ひばりも特別出演。格に違いも見せる。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十五年、大晦日の「なつかしの歌声・第三回年忘れ大行進」戦時歌

謡特集では、コロムビアの戦時歌謡を担った藤山一郎、霧島昇、伊藤久男

が《海の進軍》を熱唱。藤山はふつう流行歌の場合レジェロな甘いテナー

だが、戦時歌謡になると張りのあるハイバリトンで歌う。力強さがある。

伊藤久男は叙情的なバリトンで豪快に歌いあげる。メドレーでは《暁に祈

る》《燃ゆる大空》《若鷲の歌》をそれぞれが歌った。そして,灰田勝彦が《

ラバウル海軍航空隊》。

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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・20◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月8日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈SPレコード歌謡・戦後編〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈SPレコード歌謡・戦後編〉

服部良一の「ブギ」の実験は、すでに戦前に行われていた。《荒城

の月》をブギにアレンジして大谷冽子に歌わせた。また、《夜来香》

をやはりブギにして李香蘭に歌わせたりしていた。服部は戦後、笠

置シズ子に日劇のジャズカルメンでブギを歌わせテストを行った。

これで確信を得た。《東京ブギウキ》《ヘイヘイブギ》《ジャングルブ

ギ》《買物ブギ》等々のヒットは戦後歌謡の新しいウエイブだった。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

古賀政男が伊豆で療養中、東海林太郎は、正月休みに泣き方を練習

した。だが、本来、歌いたかったのは《シューベルトの子守唄》で

ある。東海林は先輩歌手から、マイクの前でささやくように歌えば、

レコードになったとき泣いているように聞こえてくると教えられた。

だが、東海林は納得しなかった。発声時の共鳴は抑えても身体全体

で泣かなければ男泣きの感じはでないと思ったからだ。《赤城の子守

唄》は大ヒットした。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

昭和三十八年、コロムビア歌謡コンクール大阪予選に北村松代・春

美母娘は臨んだ。畠山みどりの歌を歌ったが入賞せず。何とか審査

員をくどいて推薦というかたちで決勝大会に進んだ。それが日比谷

公会堂での優勝となる。母と娘は抱き合って喜んだ。昭和三十九年、

《困るのことヨ》デビュー。二作目が《てれちゃう渡り鳥》。そして。

《アンコ椿は恋の花》が大ヒットした。その年レコード大賞新人賞。

翌四十年、《涙の連絡船》で紅白初出場した。

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     〈ポップス歌謡〉

昭和三十年代後半、日本のポピュラー界は、カンツォーネと呼ばれ

るイタリア製のものが流行していた。ペギー葉山の《ラ・ノビア》

も感傷的なメロディーにのってヒットした。そのメロディーの原産

はアルゼンチンだそうだが、日本人好みの哀愁がある。「ラ・ノビア」

は恋人という意味だそうだ。とても、罪深い歌で結婚しようとしてい

る女がまだ、前の男を心のなかで思っているという内容である。ペギ

ー葉山は十代の歌手に対して大人の歌で存在価値を見せた一曲でもある。

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〈映画スターの共演〉

本間千代子は立教女学院高校を出て、東映に入社したが、出る映画はギ

ャング物ばかり。テレビに出て役柄を広げたいという希望があったが、

東映はOKを出さなかった。ところが、音楽番組なら良いという回答が

来た。そして、コロムビアが彼女に目をつけた。舟木一夫と共演した《

君たちがいて僕がいた》がヒットすると、俄然人気が出た。吉永

小百合の対抗馬としての期待に応えた。映画の方も青春歌手との共演も

ふえツキが回ってきた。

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     〈青春歌謡の時代〉

日本には「柳の下にドジョウが二匹」ということわざがある。ビクター

は三田明とまったく同型の久保浩をデビューさせた。《霧の中の少女》と

いう青春歌謡を歌った。作曲は吉田正。青春歌謡にバックコーラスをつ

ける手法は吉田正の考案だった。ライバルコロムビアは舟木一夫の二番

煎じの安達明をデビューさせた。デビュー曲は《潮風を待つ少女》。美し

い花の命は短いが二人の運命もはかないものであった。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

桜田淳子は初出場紅白で《黄色いリボン》を歌っている。山口百恵は紅

組トップで《ひと夏の経験》。また、この年の高校野球では、東海大相模

の一年生原辰徳が甲子園に出場し観衆をわかせた。ちなみに原は高一ト

リオと同い年。桜田淳子は天地真理の人気に翳りが見え始めた頃に絶頂

を迎えた。もう、お姉さん的なアイドルは不要の時代に入っていた。し

かも、大人の美人アイドルあべ静江の登場も大きかった。そして、《はじ

めての出来事》がヒットすると、桜田淳子もそろそろ少女から大人へ脱皮

のを予感させた。

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     〈演歌の抵抗〉

百恵・淳子・昌子の高一トリオが揃った紅白では、演歌勢もそれぞれのヒ

ットをもって初出場した歌手がいる。中条きよしの《うそ》、渡哲也の《

くちなしの花》、殿様キングスの《なみだの操》。殿様キングスは翌年も《

女の純情》で出場。演歌はコブシを多くし崩しに崩して歌う。その変化の

なかの表現に味があるのである。その年のレコード大賞は森進一の《襟裳

岬》。「襟裳」というのはアイヌの言の「エンルム」に音をあてて造語した

言葉である。岬という意味。森進一の絶叫演歌と「タクロー」のが巧く溶け

合っている。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十六年一月十二日の「なつかしの歌声」は映画主題歌が特集された。

藤山一郎が《花の素顔》を格調高いテナーで歌唱。これは舟橋聖一に小説

『花の素顔』を映画化したときの主題歌。また、《山のかなたに》も歌った。

レコードでは、前奏のホルンの響きが山の稜線を連想させ藤山一郎の清流

のような声を誘い出している。二葉あき子は服部メロディーの《恋のアマ

リリス》と古賀メロディーの《恋の曼珠沙華》を歌った。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・21◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月9日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈SPレコード歌謡・戦後編〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈SPレコード歌謡・戦後編〉

終戦から数えて三年目の春、人々はようやく荒廃から立ち上がり始

めていた。企業も復興し各会社でも慰安旅行が行われた。コロムビ

アの慰安旅行会場は箱根、伊豆がメインである。熱海から十国峠を

木炭バスで越える。町につくとギター流しの姿が目に止まった。作

詞の野村俊夫は、湯の町に淡い恋の思い出があった。早速、筆を執

る。バラード風の詩想が浮かんだ。ところが古賀政男の楽想は古賀メ

ロディーのギター曲。ディレクターの希望だったブルースは崩れた。

題名も《湯の町エレジー》。古賀政男は霧島昇を想定して曲を練った。

ところが、これからの人ということで、頭角を現してきた近江俊郎が

吹込むことになった。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

古賀メロディーの表現者、藤山一郎は昭和八年九月、バリトン増永丈

夫でベートーヴェン編曲のスコットランド民謡特集に出演、十月には

日比谷公会堂で『藤山一郎と増永丈夫の会』を開催。ホールの隅々に

響き渡るバリトンで聴衆を感銘させ、一方、マイクロフォンの特性を

いかしたテナー藤山一郎で聴衆を魅了した。昭和九年五月、テイチク

レコードが古賀政男を招いて東京文芸部を発足させた。だが、ビクタ

ー専属藤山一郎は動かなかった。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

コロムビア専属になった島倉千代子に早速、仕事が回ってきた。雑

誌『明星』連載中の『この世の花』を松竹が映画化、その主題歌を

歌うことだった。ところが、作曲者の万城目正が島倉を気に入らな

かった。しかも、コロムビアは美空ひばり一辺倒で同じ系統の歌手

には乗り気ではなかった。万城目からは「歌が下手」とこき下ろされ、

島倉はかえってこれに発奮して必死に練習した。これが現在の島倉

千代子を作ったと言われている。

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     〈ポップス歌謡〉

昭和三十八年の江利チエミは充実していた。《マイフェアレディー》

のヒット。『咲子さんちょっと』の無事打ち上げ。『紅白歌合戦』の

司会。当初、森光子が予定されていたが、大晦日は『越前竹人形』

の舞台稽古があり、東宝の菊田専務からOKが出なかった。そこで、

江利チエミということになった。チエミは、この時点で紅白に十一

回連続出場していた。初出場は、昭和二十八年第四回紅白歌合戦。

美空ひばりはまだ、紅白に登場していなかった。チエミは《ガイ・

イズ・ア・ガイ》を歌った。

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〈映画スターの共演〉

レコード会社には映画界からスターをひっぱりレコード歌手として

売り出すという得意技がある。本間千代子はその一人だ。映画の方

も主演作品が続き青春歌謡路線になくてはならないスターになった。

本間は舟木一夫をはじめ、西郷輝彦、梶光夫などの十代青春歌手と映

画で共演しているが、真剣な取り組みが若さの息吹を伝えていた。さ

らに本間千代子は日本テレビの『チコといっしょに』で茶の間の人気を

得ていた。

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     〈青春歌謡の時代〉

梶光夫は昭和二十年、大阪生まれ。青春歌謡を彩った一人である。《黒

髪》でデビュー。《青春の城下町》では、西沢爽の叙情的な詞と遠藤実

の哀愁に満ちたメロディーを歌いあげた。昭和四十年秋、発売の恋愛

ラブソング《わが愛を星に祈りて》は高田美和と共演。高田はすでに昭

和三十九年《十七才は一度だけ》をコロムビアからリリースしている。高

石かつ枝が歌った《りんごの花咲く頃》もそうだが、この頃の青春歌謡は

叙情豊かな歌が多い。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

森昌子は、アイドルという路線からしだいに遠のき本格派演歌へ移行する。

日本テレビの主導で製作されたスカウト番組『スター誕生』に出場して都

はるみの《涙の連絡船》を歌い周囲の度肝をぬいた。それ以来、本格的演

歌路線の方向は見えていた。昭和五十一年二月NHK『古賀政男ビックシ

ョー』に出演。これには岩崎宏美も出演したが、昭和初期古賀メロディーを

一世風靡させた藤山一郎、戦後の古賀メロディーを大ヒットさせた近江俊郎、

島倉千代子、村田英雄らのベテランに森進一、五木ひろしらの若手新鋭に混

じっての出演だった。これは淳子・百恵と比べて歌唱力が群を抜いていたこ

とをしめしていた。

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     〈演歌の抵抗〉

都はるみは《困るのことヨ》でデビューしたが売れなかった。二作目もパッと

しなかった。はるみの生活も実家の京都のそれも苦しかった。母・松代は知人

から借りた三万円を娘・はるみに送った。それは、秋も深まる頃だった。だが、

やがて《アンコ椿は恋の花》、《涙の連絡船》でスターダムにのし上がった。浪

曲からえた「うなり」は「はるみ節」の代名詞となった。演歌の大御所となっ

た都はるみは、阿久悠の詞をえて昭和五十一年、《北の宿》を大ヒットさせた。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十六年二月九日、放送の「なつかしの歌声」はキングの仲間が集まった。

キングはSPレコード歌謡において、ヒットが少なかった。出演の松島詩子が

歌った《マロニエの木陰》はロマンチックな歌で多くの人々に受けいれられた。

小畑実は、戦後、テイチクを経てキングにやってくると矢継ぎ早にヒットを放

った。同番組では、岡晴夫のVTRが流れたが、ここに津村謙の姿も欲しかった。

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〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈SPレコード歌謡・戦後編〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈SPレコード歌謡・戦後編〉

東海林太郎は戦後ビクター移籍を希望したが成功しなかった。ビク

ターも戦前の大スターだけあって、丁重にお断りした。ビクターは

竹山逸郎という新人を売り出そうとしていた。ところが、竹山逸郎

は、戦争末期にビクターのテストを受けていた。幅のあるバリトン

は素晴しく合格した。慶応法学部出身で卒業後にサラリーマン生活

をしながらヴォーカルフォアにいた。戦争の激化によってレコード

は一枚も出さずに終戦を迎えた。彼は戦後新人歌手として《仙太利

根唄》を歌いデビューした。やがて、竹山は《泪の乾杯》を低音で

じっくり聴かせ、ようやくヒットチャートに登場した。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

古賀政男はコロムビアへの対抗心は凄まじかった。殊に松平晃が歌

う江口メロディーにはたいしては並々ならぬものがあった。そこに

ポリドールの東海林太郎・大村能章・藤田まさとのトリオが台頭し

SPレコード歌謡は、群雄割拠の時代を迎えていた。古賀は黒田進

を楠木繁夫として再生させて《国境を越えて》を昭和九年八月新譜

で発売した。ところが、テイチクは録音機材の性能が低くとてもコ

ロムビア・ビクターなどの大手に比べ、質のよいレコードを製作す

ることが厳しかった。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

三波春夫が歌った《船方さんよ》は、三波の伸びのある声と浪曲で

鍛えた節回しでヒットした。作詞の門井八郎は、郵政省の役人だっ

たが、作詞を志し長谷川伸の門下生となった。《チャンチキおけさ》

とこの《船方さんよ》は、門井の初ヒットだった。その後、門井は

春川一夫、三波春夫とトリオで《忠太郎月夜》《あんこ可愛や》《

夕焼け船頭唄》などの作品を書いた。だが、門井は民謡演歌調ばか

りでなく《赤いグラス》のような曲を世に送り出している。

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     〈ポップス歌謡〉

ペギー葉山は、渡辺弘とスターダスズの専属になった。昭和二十七

年十一月、キングから《ドミノ》でデビューした。ジャズシンガー

やミユージカルに大きな夢を抱いてのデビューだった。紅白には昭

和二十九年第五回に初出場。《月光のチャペル》を歌った。《爪》《学

生時代》、和製ドリス・デイを印象づけた《ケ・セラセラ》などポピ

ュラー曲が彼女のキャラクターとなった。だが、あれほど歌うことを

嫌っていた異色の《南国土佐を後にして》が皮肉にも彼女の名前を全

国に広げた。

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〈映画スターの共演〉

昭和十一年、松竹大船撮影所に理知的な美女が入社した。彼女は東洋

英和に通っていた頃から、「三田小町」と言われていた。父は筑前琵

琶宗家の高峰筑風。高峰三枝子はその娘である。《母を尋ねて》など

に端役ででていたが、《荒城の月》で佐野周二と共演。《浅草の灯》で

は夏川大二郎、上原謙と共演した。《珠と緑》では悲恋のヒロインを演

じ人気が高まった。当時、松竹大船は、田中絹代、川崎弘子を筆頭に、

及川道子、桑野通子、高杉早苗、坪内美子、三宅邦子らがしのぎを削

っていた頃である。

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     〈青春歌謡の時代〉

久保浩は、デビュー以来ビクターの重鎮佐伯孝夫・吉田正の作品が

続いた。《むらさき色の雨》《白百合悲し君に似て》《恋物語》《僕の

マリアよ》《僕は好きだよ》《青春詩集》。同じビクターの三田明も

吉田メロディーだから、どうしても二番煎じになってしまう。安達

明も舟木一夫の路線を踏襲。《女学生》《夕焼けの丘》《友情》《赤いカ

ンナが咲いていた》《僕のカーネーション》《明日と握手》。同じ傾向

の無用な競争が青春歌謡をより感傷的にしてしまうのだろうか。

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     70年代歌謡グラフティー

     〈アイドルの時代〉

桜田淳子は優等生的なアイドルにおいては天地真理と変わらないが、

デビューの年齢が十五ということでかなり低い年齢層までに好印象

をあたえた。《天使も夢見る》《天使の初恋》と続き、《わたしの青い

鳥》で大ブレイクした。天使の恋というさわやかイメージと童話の

世界という乙女のメルヘンは、当時、全盛期の白雪姫天地真理をチ

ャイルド化したものであった。桜田淳子は昭和四十八年レコード大

賞最優秀新人賞を受賞した。

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     〈演歌の抵抗〉

三島由紀夫割腹事件のあった昭和四十五年、鶴田浩二の《傷だらけの

人生》がヒットした。70年安保に敗れた全共闘の若者はこの歌を好

んだようだが、彼らは「革命」を叫んでもやはり日本人の義理人情の伝

統から逃れることができなかったのである。その年は藤圭子の《圭

子の夢は夜ひらく》がヒットした。園まりが歌った《夢は夜ひらく》は

女の色気と艶があったが、藤圭子の場合は、しっとりとした女の濡れた

情感がなかった。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十六年二月二十三日の放送の「なつかしの歌声」は、戦後のヒット

曲が特集された。近江俊郎と奈良光枝接吻映画として話題を呼んだ『或る

夜の接吻』の主題歌《悲しき竹笛》を歌った。近江俊郎は戦前タイヘイか

ら《辷ろよスキー》でデビューして以来、リーガル、ポリドール、コロムビ

アと渡り歩き、数多くの変名を使った。戦後ようやく彼のソフトな歌声が受

けいれられるようになった。この日の出演は他に竹山逸郎、平野愛子が出演

している。

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・24◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月12日発行---------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈SPレコード歌謡・戦後編〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈SPレコード歌謡・戦後編〉

三木鶏郎は、東大法学部卒、諸井三郎に作曲を師事した。戦後冗談

音楽でその名を馳せた異色の男である。『日曜娯楽版』ではピリリと

効いた風刺とペーソス溢れる笑いが庶民層に受けた。しかも、音楽

才能は溢れんばかりの輝きを持っていた。その三木鶏郎の曲を藤山

一郎(声楽家増永丈夫)が歌っていたとはあまり知られていない。《ゆ

らりろの唄》がそうだ。当時のアメリカのスイング楽団の音調ヤハー

モニーがふんだんに使われ、藤山一郎の歌唱も見事に表現している。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

コロムビアは新興勢力テイチクの出鼻を挫くかのように昭和九年八

月新譜の《利根の舟唄》をヒットさせていた。歌は松平晃。古関裕

而の最初のヒットでもある。松平は甘く余韻を残しながら歌った。

日本の流行歌には「マドロス物」という分野があるが、その源流は、

「潮来もの」である。水郷生活における「さすらい」という漂泊の

感情に求めることができるのだ。昭和九年の秋、松平晃が歌う江口

メロディーはカフェーの蓄音器から流れていた。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

作曲家・遠藤実は藤島恒夫が歌う《お月さん今晩は》のヒットがで

たとはいえ、生活はまだ豊かではなかった。その時代に橋幸夫は遠

藤の所へ週二回のレッスンに通った。当時、遠藤は西荻窪の駅前で

八千円のオルガンを買うのがやっとで、このオルガンで橋はレッス

ンを受けたのである。兄のオートバイの後ろに乗って西荻窪に通っ

た。橋幸夫の育ての親が吉田正なら、遠藤実は生みの親といえる。

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     〈ポップス歌謡〉

九ちゃんスマイルの坂本九は笑いが止まらなかった。アメリカの『

スティーブ・アレン・ショー』に出演するからだ。この番組は『エド

     サリバン・ショー』『アーサー・ゴッドフレー・ショー』とともに

     アメリカ三大ショー番組のひとつである。《スキヤキ》ブームの要

因は中村八大が「ロカバラッド」のリズムを用いたからだといわれて

いる。坂本九の渡米に先立ってアメリカでは第二弾の《支那の夜》が

発売された。これは戦前、渡辺はま子が歌った竹岡信幸作品である。

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〈映画スターの共演〉

流行歌手のなかでスクリーンに登場しスポーツの万能ぶりを発揮した

元祖は灰田勝彦である。もともとは立教大学でベルリンオリンピック

を目指しサッカーの選手をやっていたというくらいだから、運動神経

のよさを定評があった。歌手になってからは野球に熱中した。戦後、

巨人のエース別所と義兄弟の盃を交わしたほどだから、その実力・熱

中ぶりは相当なものであった。昭和十五年、高峰秀子が主演した『秀

子の応援団長』では野球狂の灰田勝彦がプロ野球の新人投手役で共演

している。

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     〈青春歌謡の時代〉

ビクターの青春歌謡のスター、橋幸夫・三田明・久保浩は佐伯孝夫-

田正コンビの作品が圧倒的に多い。佐伯孝夫のデビューは昭和五年八

月新譜のコロムビアから発売された《浅草紅団》だが、初ヒットはビ

クターから昭和八年春に発売された青春歌謡である。東京音楽学校(

現芸大)を首席で卒業しビクター専属に迎えられた藤山一郎・歌唱に

よる《僕の青春》だった。レコードはほぼ10万枚売れた。同じビク

ターでも松島アキラは津村謙の歌でお馴染みの《上海帰りのリル》を

作曲した渡久地政信の作品が目に止まる。SPレコード歌謡作家が6

0年代の青春歌謡を作っていたとは。彼らの詩想・楽想の豊かさがわ

かる。

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     70年代歌謡グラフィティー

     〈アイドルの時代〉

山口百恵が歌手のみで勝負したら、その凋落は意外に早かったかもし

れない。レコード・テレビドラマ・銀幕と異なるメディアからの百恵

像がブーム沸騰の功の要因であろう。昭和四十九年、山口百恵はレコ

ード大賞大衆賞を受賞。この年は、殿様キングスも大衆賞に輝いた。

《ひと夏の経験》と《なみだの操》はあまりにも対照的だった。また、

同年のレコード大賞特別賞は、レコード歴50年の藤山一郎と浅草オ

ペラの大スター田谷力三(当時75歳)。二人とも元はアイドル。客席

で賞の発表を待つ山口百恵は、藤山一郎が青春の息吹を高らかに歌う

《青い山脈》に幸せそうに拍手をしていた。。

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     〈演歌の抵抗〉

藤圭子の美貌は冷たい。投げやりなところとその冷徹な緊張感が魅力

だった。同じハスキー声でも青江美奈は盛り場をしきる姉御的な存在

感があった。色気もたっぷりとある。後に出てくる八代亜紀は女の情

念を歌いながらも南国ムードがあった。藤圭子にはフーテン世代の反

映が見られる。シンナーを吸いながら盛り場をうろつく少女のような

イメージがするのである。園まりが高級マンションで男を待つとすれ

ば、藤圭子は都会の片隅のアパートでたむろする少年・少女といえよ

うか。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十六年二月二十三日、放送の「なつかしの歌声」では終戦直

後の歌声が特集された。同番組出演の近江俊郎は鮫島敏弘の名前で

タイヘイから《辷ろよスキー》を歌いデビューし以来、苦闘の時代

を経験していた。この歌は昭和十一年十二月新譜。松村又一と片岡

志行のコンビによる作品だった。リーガル時代はコロムビアのスタ

ー松平晃に苛められ散々だった。レコード会社を作ろうとするが片

岡志行に資金を持ち逃げされ挫折。テイチクのテストを受けるが藤

山一郎をデフォルメして歌い古賀政男の逆鱗にふれ落とされてしま

った。流転の日々は続く。

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・25◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月13日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈SPレコード歌謡・戦後編〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈SPレコード歌謡・戦後編〉

《夜霧のブルース》は、作詞者の島田磬也の名作。戦前に思い描

いた上海の夢とロマンを求めエトランゼの哀愁を詩想に込められて

いた。カフェーの白系ロシア人の美少女、ガーデンブリッジを渡った

四馬路の街を思い出しながらペンを走らせた。歌はディック・ミネが

見事に歌い上げた。映画『地獄の顔』も当たり、そこでもさかんに歌

われた《長崎エレジー》もディック・ミネと藤原千多歌とのかけ合いで

ヒットした。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

古賀メロディーと無縁になった藤山一郎は、昭和九年の暮れ、わが国初

演のヴェルディ《レクイエム》の独唱者に名前を連ねていた。バリトン

増永丈夫の低音の驚異的な安定度が必要だったのだ。昭和十年二月、古

賀政男はようやくヒットらしいヒットを放った。《白い椿の唄》である。

楠木繁夫が哀愁を込めて歌った。古賀はなんとか面目を保った。テイチ

クはディック・ミネの《ダイナ》がヒットし、古賀はこれにたすけられた

面がある。だが、ポリドールは道中物で大ヒットを飛ばした。東海林太

郎・藤田まさと・大村能章のトリオは《旅笠道中》、《むらさき小唄》と

立て続けにヒットを放った。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

演歌とは泣き節である。センチメンタリズムの伝統は不滅である。船村

徹は、その伝統に固執した。泥くさかろうがそれに腰を据えて作曲した。

一方、吉田正は都会ムードのなかの甘いセンチメンタリズムを追求した。

吉田正は青春歌謡を多く作るが、都会に夢と希望をもって生きようとす

る若者の息吹をメロディーにのせた。そして、ジャズ的な要素を都会派

歌謡に持ち込んだのが中村八大だった。戦前から昭和二十年代までは、

古賀政男・服部良一・古関裕而が三大作曲家だったが、高度経済成長の

時代の三大作曲家は吉田正・船村徹・中村八大ということになる。

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     〈ポップス歌謡〉

日劇の「ウエスタン・カーニバル」出身でなければ歌手にあらず。この

言葉どおり真夏の台風のごとくロカビリー旋風は凄かった。昭和28年

から放送が始まったテレビもこの旋風がなかったらどうなっていたか。

それほどロカビリー系歌手・タレントは電波にのった。そのなかにあ

って、越路吹雪・ペギー葉山・中原美紗緒がじりじりと流行りだした。

そのなかでも中原美紗緒はお嬢さん歌手のイメージからに抜け出し大

人のムードを感じさせていた。

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〈映画スターの共演〉

高田美和の父親、高田浩吉は歌う映画スターとして戦前から活躍した。

また、歌う俳優の第一号でもある。ポリドールから発売された《大江

戸出世小唄》は大ヒットし劇中でも歌った。娘の高田美和は昭和22年

1月5日の生まれ。大映の『青葉城の鬼』でデビュー。また、高田浩吉

といえば、鶴田浩二が彼の内弟子だったことは有名である。鶴田は昭和

26年6月新譜の《男の夜曲》でデビューするが、歌手としてはビクタ

ーで本領を発揮した。

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     〈青春歌謡の時代〉

橋幸夫は着流し姿で《潮来笠》をヒットさせ、やがて青春路線にも進出

した。しかも、《恋をするなら》、利根一郎作品の《雨の中の二人》は橋

幸夫の歌手としての幅を広げている。舟木一夫はコロムビアのライバル

ビクターの吉田正が敷いた青春路線に便乗したと言われているが、あな

がち当たってなくもない。もし、舟木が青春歌謡の初陣だったら、この

ジャンルが軌道にのったかどうかは推測の域をでない。また、北原謙二

が鼻にかかった民謡調の音色だったため、アクのない素直な舟木の声の

方が学園物としてストレートに受け入れられたという意見もあるが。

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     70年代歌謡グラフティー

     〈アイドルの時代〉

その時代には前史がかならずある。山本リンダの登場は70年代アイドル

全盛の予兆を感じさせるものだった。《こまっちゃうナ》はミノフォルン

に専務として移籍した遠藤実がほんとうに困っているときに生まれた歌だ。

コロムビア時代にヒットさせた《からたち日記》《浅草姉妹》《高校三年生》

などの作風からは想像もできないような遠藤実の曲である。しかも、作詞も

遠藤自身だ。「リンダ君、ボーイフレンドがいるのかい」「そんなのリンダ、

こまっちゃうナ」という二人の会話から生まれたらしいが。

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     〈演歌の抵抗〉

ぴんからトリオと殿様キングスが歌う女は、操をひたすら一人の男

に捧げ守り通すというものだが、西川峰子の《あなたにあげる》は、

捧げるにしてもどこかあっけらかんとした娘の可愛さがあった。こ

れが山口百恵の《ひと夏の経験》と同時期なのである。一方、それ

と対照的なのは八代亜紀の歌う女の情念である。歌詞の内容は男へ

の思慕が歌われていても八代の歌はそれを逆に強さに変えている。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十六年二月二十三日、放送の「なつかしの歌声」は、終戦直

後から生まれた新しい歌が特集された。竹山逸郎は戦前、すでにビ

クターのテストを受けて合格していた。彼は慶応法学部を卒業しサ

ラリーマンをしながら、ヴォーカルフォア合唱団で歌っていた。

ビクターはバリトン歌手徳山lが亡くなっていたし、テノールの柴

田睦陸は応召されていたから、男性歌手が必要だった。だが、戦争

が激しさを増しレコードを吹込むことはなかった。彼のレコードデ

ビューは戦後を待たなければならなかった。

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・26◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月14日発行----------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈SPレコード歌謡・戦後編〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈SPレコード歌謡・戦後編〉

長崎を舞台にした映画《地獄の顔》の主題歌はコロムビアとテイチクで

主題歌が作られ競演となった。テイチクはジャズのディック・ミネが歌う

《夜霧のブルース》、ディック・ミネと藤原千多歌が共演した《長崎エレジ

ー》。藤原千多歌はすでに戦前ポリドールから、昭和十六年三月新譜の《ナ

ポリの歌》でデビューしていた歌手。コロムビアは古関メロディーの《雨

のオランダ坂》と《夜更けの街》。美貌の歌姫・渡辺はま子と叙情的な歌唱

で知られる伊藤久男がそれぞれ歌った。ディック・ミネとともに渡辺はま

子、伊藤久男は戦前からの人気歌手。《地獄の顔》はもともと新国劇で上演

された菊田一夫の原作『長崎』(古関の自伝では『上海』)を映画化したもの

だった。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

古賀政男の苦戦は続いた。《夕べ仄かに》がまずまずヒットしたが、ポリド

ールから発売された《大江戸出世小唄》が大ヒットし古賀メロディーは、

日本調歌謡に完敗を喫した。「歌う映画スター」高田浩吉の歌は舞台でも流

れた。一方、名門ビクターは、佐々木俊一がイタリア帰りの児玉好雄に歌わ

せた《無情の夢》が大ヒット。これは佐伯孝夫とのコンビ。コロムビアは古

関裕而の《船頭可愛いや》が大ヒットし名門の意地をみせた。さらに、コロ

ムビアは、松平晃と豆千代が共演した《夕日は落ちて》が大ヒットしてポリド

ール旋風・東海林太郎熱唱の《国境の町》に対抗。だが、昭和十年の夏、古

賀政男もそろそろエンジンがかかりだした。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

昭和三十三年、紅白最多出場を誇るある大歌手が紅白を辞退した。言うこと

が凄い。「今度から、男性軍のオーケストラ指揮で出場させてください」。長

い紅白の歴史において指揮で出場させてくれと申し出た歌手は後先にもこの

人物しかいない。藤山一郎である。上野の東京音楽学校で指揮・音楽理論を

クラウス・プリングスハイムに師事していただけあって自信はもちろん持って

ていた。藤山一郎は、昭和三十三年第九回紅白歌合戦から、男性軍総指揮者

として紅白に名前を連ねた。

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     〈ポップス歌謡〉

ザ・ピーナッツの魅力は華のある表情の明るさ、二人の絶妙なコンビネーシ

ョンにジャズのフィーリングを入れたデュエットである。では、隠し味は、

「ズリ上げ」を入れながらパンチのある演歌調の歌い回しと音色の微妙な違

いをうまく使って同じ旋律を歌ったことにある。これをレガートにハモらせ

たら珍しい双子の歌で終わったかもしれない。ドイツのババリア・プロ制作

のテレビ番組「スマイル・イン・ザ・ウエスト」に出演し、デュエットのシ

ョーマンシップと隠し味をうまく使い好評を得た。

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〈映画スターの共演〉

キングのディレクター長田はようやく倍賞千恵子からOKをもらった。テー

マは「下町」。倍賞の庶民性を生かそうという企画だった。だが、会社幹部の

発売会議でクレームがでた。「イメージが悪い。町の職人さんたちの反感を買

っては」。安保とベトナム戦争の狭間とはいえ、下町はまだまだ場末の低所得

というイメージがあった。しかも、哀愁に満ちたきれいな江口メロディーは

「下町の生活と不釣合い」とキングの販売店からも不評が出る始末。だが、

この年、倍賞千恵子は《下町の太陽》でレコード大賞新人賞。その頃、日本は

オリンピックを控え、高度経済成長をまっしぐら。この歌が希望をあたえたこ

とはまちがいであろう。

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     〈青春歌謡の時代〉

西郷輝彦が《君だけを》を日劇の「ウエスタン・カーニバル」で歌ったとき、

客席の反応は冷たかった。ロカビリー歌手に交じって流行歌を歌ったのは西

郷だけだった。レコーディング以前というハンディーがあったとはいえ、西

郷にとっては気分の良くないステージであった。ところが、この歌がレコー

ドになり発売されるやいならたちまち大ヒット。西郷輝彦の出現で新興会社

クラウンの幹部もほっとしたであろう。また、西郷輝彦・売り出しには作曲

者の北原じゅんと作詞の水島哲の力も大きいのでは。

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     70年代歌謡グラフティー

     〈アイドルの時代〉

74年の大晦日は、小柳ルミ子・南沙織・天地真理の70年代アイドル新三

人娘、森昌子・桜田淳子・山口百恵の花の高一トリオ、野口五郎・郷ひろみ・

西城秀樹の新御三家が全員揃った最初で最後の紅白だった。天地真理の《想い

出のセレナーデ》は妙に寂しかった。旧御三家は橋幸夫のみ。15回目の出場。

ザ・ピーナッツもこの紅白が最後(16回出場)。また、この年のレコード大賞

ではアイドル歌手の元祖、浅草オペラのテナー田谷力三(当時75歳)がレコ

ード歴50年の藤山一郎(当時63歳)とともに特別賞を受賞。田谷の《オーソ

レ・ミオ》に百恵の笑みが思わずこぼれた。

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     〈演歌の抵抗〉

音楽のどのジャンルにも全史はかならずある。60年代後半「ロマン演歌」と

いうキャッチフレーズがあった。これにうまく乗りヒットしたのが城卓矢の《

骨まで愛して》。昭和41年の紅白でも熱唱した。城卓矢はテイチク時代まった

く芽がでなかった。芸名は菊地正夫。驚くことに菊地もウエスタン歌手で初期

の頃から日劇の「ウエスタン・カーニバル」で歌っていた。ロカビリー親衛隊

からもけっこう騒がれていたらしい。テイチクに入って歌謡曲に転向。だが、

売れず、城卓矢になって東芝から再出発するまで苦労した。猫背になりながら

の破壊的な歌い方にはその苦労が滲みでていた。《骨まで愛して》の作曲者・「

文れいじ」は、実兄の北原じゅん。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十六年二月二十三日、放送の「なつかしの歌声」は、終戦直

後から生まれた新しい歌が特集された。同番組出演の奈良光枝も戦

前にすでにデビュー。《南京花轎子》は昭和十五年十一月新譜。初ヒ

ットは、大映東京作品『青空交響楽』の挿入歌・《青い牧場》。この歌

は杉狂児が山羊の鳴き声を真似るところをふざけて歌い発禁処分。急

遽、藤山一郎・奈良光枝で再吹込みをした。麗人歌手・奈良光枝は戦

後、大映映画『或る夜の接吻』の主題歌、《悲しき竹笛》でヒットし人

気歌手の仲間入りをはたした。

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・27◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

---------------------------------------------2003年9月15日発行---------------------------------------

〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈SPレコード歌謡・戦後編〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈SPレコード歌謡・戦後編〉

清水みのるは戦争の犠牲になった女性の気持ちを詞にした。「こんな女に誰がした」は戦争によってもたらされた人間の悲惨さを告発したものである。生活苦から身体を売ったり、米兵に強姦され転落した女性は数しれなかった。菊池章子は戦争犠牲になった無限の恨みと悲しめ込めて歌った。菊池章子は、発禁処分となった昭和十四年七月新譜《曖曖曖》でコロムビアからデビュー。最初、《星の流れに》のタイトルは、《こんな女に誰がした》だった。やはり、GHQからクレームが出た。日本人の反米感情を煽るという理由で《星の流れに》になった。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

松平晃は《夕日は落ちて》のヒットで「曠野物」でその地位を確立させた。松平も付き合ったという豆千代の夜間練習(日比谷公園)のもヒットに貢献した。、昭和十年代のポリドールの東海林太郎旋風などの新興勢力の台頭があったとはいえ、依然コロムビアの江口・松平コンビ強しの様相を呈していた。一方、コロムビアに激しい闘志を燃やす古賀政男は、モダニズムの甘い余韻を残す映画『のぞかれた花嫁』の主題歌・《二人は若い》をヒットさせた。ダイナを歌い波にのるディック・ミネと星玲子が歌った。そして、いよいよ、古賀メロディーのエンジンがかかった。楠木繁夫の熱唱が始まるのだ。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

渡久地政信は、「寒いよ、お父ちゃん」という子供の声や隙間風の音、雨漏りの妙に悲しい音を聞きながら《上海帰りのリル》を作曲した。渡久地は戦前、本名では昭和十七年《軍国アリヤユンタ》をテイチクで作詞をし、ビクターでは貴島正一という名の歌手だった。戦争中、傷痍軍人の微章をつけての歌手デビュー。戦後、キングでは藤村茂の芸名でスタートしたが売れなかった。作曲家への転進は利根一郎の進めによるものだった。その彼が

昭和三十年代の青春歌謡を作曲するのだから、凄い。

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     〈ポップス歌謡〉

《ウナ・セラ・ディ東京》や《恋のバカンス》を作曲した宮川泰は「日本の歌謡曲は原始的」と言ったが、日本人を感動させる歌をついに作れなかった。本来は演歌が好きなのに無理に強がってジャズを強調しすぎた結果だろう。ジャズは感情の爆発。ザ・ピーナッツというジャズのフィーリングと演歌の隠し味をもつ絶妙の二人のコンビがいなかったらこの二曲もヒットしたかどうかはわからない。無国籍作曲家にはそれをこなせる歌手が必要なのだ。彼女たちは、ドイツにおいてほとんどドレスで通し、ジャズを中心に歌ったが日本の心がやはり受けていた。

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〈映画スターの共演〉

倍賞千恵子は正統派の歌唱に近い。だが、庶民の青春を看板にした。吉永小百合の《いつでも夢を》は、吉永自身は「山の手の庶民」のイメージだが、定時制高校に通いながら明日への夢をつなぐ若者にも共感を呼んだ。また、《いつでも夢を》がレコード大賞をとった年は阪神タイガースの優勝の年。村山・小山の力投に牛若丸・吉田の華麗な守備が優勝への原動力。体操の世界選手権では日本男子チームが団体優勝。東京オリンピックを控え、ツイストも流行り紅白では平尾昌章(改名前)が《ツイストNO.1》を歌うなど若い力が合い言葉になった。

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     〈青春歌謡の時代〉

戦前の青春歌手の元祖は、藤山一郎と松平晃である。今でも、松平晃の《急げ幌馬車》《夕日は落ちて》《花言葉の唄》は根強い人気がある。藤山はアコ―ディオンを巧みにこなしそれを青春歌謡のシンボルにした。また、この二人はモダン都市東京の空間で軽快にモータリゼイションを乗り回した共通点があった。そして、立教のハワイアン出身の灰田勝彦が青春歌謡にスポーツを持ち込んだ。高度経済成長の始まりには、石原裕次郎が嵐を呼び、60年代後半になると、楽器、乗り物、スポーツ・大学というものを四季彩りに混ぜ合わせ、青春をアピールしたのが慶応出身の加山雄三である。彼の登場は高度経済成長最後の輝きのようだった。

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     70年代歌謡グラフティー

     〈アイドルの時代〉

昭和53年の紅白は異変が起きた。両軍のトリが演歌系ではなく、山口百恵と沢田研二がトリだったのだ。デビューした頃の山口百恵は歌がお世辞にもうまいとはいえなかったが、阿木燿子・宇崎竜童の作品に出会ってからは山口百恵の個性がいかされた。ピンクレディーの嵐と前身電飾で派手なスタイルの沢田研二と競合しながら、成長する山口百恵はますます、神秘性が増していった。78年紅白歌合戦のアイドルは、榊原郁恵が初出場。紅組トップで《夏のお嬢さん》。

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     〈演歌の抵抗〉

自分の身体をレントゲンでみるかのように《骨まで愛して》歌った城卓矢だが、そのまま70年代の演歌路線にいかなかった。テイチク時代に歌った《ふるさとは宗谷の果てに》が《骨まで愛して》に便乗して売れ出したもかかわらずだ。彼はテイチク時代に「民謡ロック」のシリーズをレコードにしている。当時、テイチクには元民謡歌手の杵淵一朗がディレクターにいた。昭和42年、城卓矢は《トンバで行こう》をリリース。己の本分で勝負に出る。坂本九・城卓矢・森進一の絶叫の系譜よりも灰田勝彦・ウィリー沖山・城卓矢の系譜が音楽的でおもしろいのではないか。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十六年二月二十三日、放送の「なつかしの歌声」は、終戦直後から生まれた新しい歌が特集された。出演者の近江俊郎の性格は短気である。ポリドール時代、酒の席で重役から「近江、何か歌え」と言われ、「酒の席で歌う契約はしておりません」と言い返し、同社を飛び出した。先輩歌手、上原敏がその場を随分諌めたが。もし、このとき、ポリドールをやめていなかったならば、戦後の彼の活躍があったかどうかはわからない。岡晴夫・田端義夫・小畑実・津村謙ともに大正世代の昭和二十年代の歌謡史を飾った一人である。

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発行元:SPレコード歌謡倶楽部

発行人:菊池清麿

kikuchi-kmas@msd.biglobe.ne.jp

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日刊昭和歌謡通信NO・28◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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〈目次〉

■SPレコード歌謡の人々

☆〈SPレコード歌謡・戦後編〉

☆〈昭和モダン狂詩曲〉

■昭和三十年代昭和歌謡

☆〈歌謡人生いろいろ〉

☆〈ポップス歌謡〉

     〈映画スターの共演〉

     〈青春歌謡の時代〉

     70年代歌謡グラフティー

☆〈アイドルの時代〉

☆〈演歌の抵抗〉

☆〈なつかしの歌声〉

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■SPレコード歌謡の人々

〈SPレコード歌謡・戦後編〉

迫力のある伊藤久男のバリトンは叙情性が豊である。声楽をオペラ歌手の平間文寿に師事。ヴェルディーのバリトンでもこなせそうな声は皮肉にも戦時歌謡で花が咲いた。戦後SPレコード歌謡の時代になっても伊藤久男はヒットを放った。《あざみの歌》ではしっとり

と艶のある豊な声量で歌い上げた。《山のけむり》では叙情豊かに哀愁溢れる歌唱である。《イヨマンテの夜》では、溢れんばかりの声量でリリクに歌った。これは伊藤久男の代表曲である。紅白には十一回出場した。

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     〈昭和モダン狂詩曲〉

楠木繁夫はの名前を決定的にした日活映画『緑の地平線』の主題歌《緑の地平線》が昭和十年の秋空に響いた。古賀メロディーのエンジンスタートである。だが、ポリドールも負けていなかった。昭和十年十月新譜で東海林太郎が歌う《野崎小唄》が好評でレコードが

かなりの売れ行きをみせた。コロムビアの松平晃は《銀座ボーイ》でモダニズムの余韻を歌う。一方、ビクター専属の藤山一郎(声楽家増永丈夫)は流麗なテナーで格調高く《谷間の小屋》《永遠の誓い》を吹込んだ。彼は、ビクター専属とはいえ、よりポピュラーな

クラシック作品であるホーム歌曲が主体。名門、ビクター、コロムビア、新興勢力のテイチク、ポリドールのヒット競争には無縁であった。

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■昭和三十年代昭和歌謡

     〈歌謡人生いろいろ〉

高度経済成長の時代、ギター流しのダイチャンといえば、渋谷ではちょっとした売れっ子だった。出身は、函館郊外、上磯郡知内町。ケンカはガキの頃から滅法強い。函館西高校でも硬派の番長。憧れは外国航路のマドロスと歌手だった。高校出る前に東京へ。新宿の声専音楽学校の試験をパスする。東京芸術大学声楽科出身の藤山一郎は別格だが、憧れた歌手はみんな音楽学校を少なからず出ていた。一度、故郷に戻り親を説得する。少年は怒りがおさまらない父親に対して夢を語り納得させた。故郷を出るとき連絡船に乗る自分を淡い思いを抱いていた女の子が見送ってくれた。この少年の名前は、大野穣。後の大スター北島三郎である。

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     〈ポップス歌謡〉

平尾昌晃をしびれさせたはやはりプレスリーだった。小坂一也の抜けた「チャックワゴン・ボーイズ」に入ったのが17歳。まだ慶応高校在学中である。音楽にはファッションが不可欠。そう思うと、ユニフォームは真っ赤にした。ジャズ喫茶をそれで回った。ジャズ学校で鍛えた喉には自信があった。平尾は銀座のテネシー、山下敬二郎は池袋のドラム、ミッキーカーチスは渋谷のスワン。それに目をつけたのあが渡辺美佐である。東京のジャズ喫茶で人気のあるロカビリー歌手をオンステージさせ一大ブームにすることが狙いだった。「アカ抜けた自然児」は予想通りの活躍をした。

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〈映画スターの共演〉

《いつでも夢を》は昭和38年に映画化された。吉永小百合、浜田光夫

のコンビに加え橋幸夫も出演した。舞台は東京の工場地帯。吉永は、三

原医院の看護婦で町工場の工員の人気のマト。浜田光夫が演じる勝利と

は定時制高校で同じクラス。勝利が定時制高校ということを理由に就職

試験で差別されるというシーンも出てくる。舟木一夫の《高校三年生》

が学園ソングとして注目を集めるが、高度経済成長のムードのなかでひ

たむきに生きようとする若者のエネルギーが感じられた。

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     〈青春歌謡の時代〉

青春歌謡の原点は、昭和6年、当時東京音楽学校(現芸大)在校中で将来を嘱望されていた増永丈夫という青年が藤山一郎の芸名で歌った《丘を越えて》である。古賀政男の明治大学の青春を高らかに歌った。藤山は戦後《青い山脈》で民主化されたその息吹を歌う。だが、まだまだ、青春は特権化された階層の財産でしかなかった。そこへ、60年代に具体的な高校生活の内容が盛り込まれた学園歌謡、舟木一夫の《高校三年生》が登場する。青春歌謡なら、コロムビアが本家本元である。ビクターは、前年《いつでも夢を》(37年)でレコード大賞。そして、この年は、三田明の《美しい十代》でコロムビアと競演をする。高度経済成長の押せ押せのなかで、コロムビアとビクターは青春歌謡で激突する。

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     70年代歌謡グラフティー

     〈アイドルの時代〉

山口百恵のデビューの印象はあまりよくなかった。桜田淳子の影に隠れている感じがした。だが、彼女には不思議なオーラがあった。それは明確なモチベーションである。このモチベーションにふとかよわき少女の哀愁を見せた。ブルーといっても、中森明菜のように不良ではない。なにか守ってあげたい衝動にかられるイメージなのだ。山口百恵の人気にひとつとは。暗い過去があっても女の一番大切なものを守ってきたという貞操をブルーな少女がドラマをつうじてアピールするところに今までにないアイドルの個性があったのではないだろうか。

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     〈演歌の抵抗〉

70年代の演歌には有線放送を欠かすことができない。東京・大阪・名古屋という大都市のみならず、地方都市のスナック酒場では高価なステレオよりも有線放送をと契約して演歌を流した。北島三郎、青江美奈、森進一、クールファイブなどの歌には、日本列島改造論に乗った「地名もの」、季節入り歌謡、女シリーズがあり、盛り場演歌の名曲が生まれている。地方の都市といっても繁華街の規模は大きい。有線放送を聴きながら、グラスを煽りじっと演歌に聞き入る光景が見られた。。

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     〈なつかしの歌声〉

昭和四十六年二月二十三日、放送の「なつかしの歌声」は、終戦直後から生まれた新しい歌が特集された。出演者の一人、竹山逸郎は悶々とした日々を過ごしていた。戦争の激しさが増し、軍関係や工場の慰問が続く。竹山は酒が強かった。僚友貴島正一(後の作曲家・渡久地政信)とはよく飲んだ。戦後、竹山は新人歌手同然でレコードを吹込んだ。《泪の乾杯》がヒットした。

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この内容を無断で転載することを禁じます。

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