なつかしのSPレコード歌謡代表曲

菊池清麿・戦前・戦中日本流行歌史・昭和SPレコード歌謡名曲選名曲にみる日本流行歌の変遷

昭和モダン風景に響いた名曲・昭和流行歌の名曲
なつかしいSPレコード時代の昭和流行歌、昭和歌謡の歴史物語、思い出のメロディーの秘話。

 レコード会社の企画・製作を受け、作詞者の詩想、作曲者の楽想、表現者の歌唱芸術が一体となり名曲を生み出した歴史がここにある。SPレコード歌謡時代の昭和流行歌史,昭和歌謡史にとどまらない、日本音楽史、音楽文化史の一断面を十分に伝えている。平成二十年は流行歌誕生八十年。このサイトは名曲で綴る日本流行歌変遷史でもある。

『日本流行歌変遷史』(菊池清麿論創社)
昭和初期、アメリカから電気吹込みを完備した外国レコード産業の到来によって、日本の歌謡曲は誕生した。そして、日本流行歌の変遷の歴史がはじまるのだ。外資系レコード会社も誕生し、近代詩壇で鍛えた作詞家、クラシック・ジャズ系作曲家、音楽学校出身の洋楽演奏家によって作られた歌謡曲の世界が戦後、ビートルズの来日によって、大きく変貌し消滅しJ・ポップが誕生した。日本流行歌の波乱に満ちた変遷史の決定版。


名曲で綴る日本流行歌変遷史 昭和流行歌史

出船の港

《出船の港》の作詞は当時大蔵省の役人だった時雨音羽氏。大正十四年の秋、雑誌『キング』の創刊九月号に楽譜といっしょに掲載された。時雨氏の故郷は北海道の北端日本海に浮かぶ利尻島である。その荒波に思いをはせた書いた。原題は《朝日を浴びて》。昭和初期、藤原義江がアメリカのキャムデンで吹込んだビクターの赤盤レコードは、飛ぶように売れた。彼の力強いテノールが日本国中に響いたのである。沢田正二郎新国劇にいた頃、田谷力三を見てオペラ俳優を志したことは有名な話である。芸名は戸山英二郎。伊庭孝の勧め渡欧、欧州各地で人気を博した。さて、この《出船の港》だが、藤原は<波のり越して>の詩を<波り越えて>と歌って流行させてしまった。これが現在に至っている。昭和三十六年、《出船の港》の歌碑が建立された。この歌の舞台となった利尻島の沓形岬である。揮毫は時雨音羽氏。氏は、原作通りにすべきか悩んだが、そのまま<波り越えて>と故郷の碑に刻んだ。


波浮の港

この歌が発表されたのは、大正十三年『婦女界』の六月号においてであった。野口雨情の新民謡の代表作でもある。昭和三年、ビクターが国内録音の新譜発売に踏みきると、佐藤千夜子の歌唱でレコードが発売された。すでに中山晋平の新民謡の第一人者の地位にいた彼女が吹込んだレコードは十万枚も売れた。その後、藤原義江がビクターの赤盤に吹込んだレコードも発売されると、この歌はますます流行した。藤原の歌唱は、お得意のピアニッシモで島の乙女の慕情を悲しく表現している。鋼のようなテナーだが愁いのある音色が多く人々を魅了した。昭和の初めまでは、太平洋上の単なる孤島にすぎなかった伊豆の大島がすっかり有名になってしまったのである。だが、歌の流行とともにクレームが起きた。「波浮」には夕焼けが見えないということである。しかも、「鵜」も「波浮」にはいないそうだ。野口雨情は、土地の事情や風土を知らずに書いたのである。


君恋し

国民的名歌手藤山一郎(声楽家増永丈夫・バリトン)が街頭の蓄音器から流れてくる二村定一の《君恋し》を聴いてレコード歌手に興味を抱いたことは有名なことである。ビクター社長のB・ガードナーから、新しい流行歌をという要求に作詞者の時雨音羽は思案しながら、詩想を完成させた。そして、佐々紅華はジャズ調をイメージし井田一郎が編曲した。宵闇迫る頃、神田のカフェーで植木鉢の片隅で慣れない新人女給の結びつけない帯がずれて体をくねらせるのを見て歌のヒントを得た。さらに、新橋の橋の手すりにもたれながら、芸者の鮮やかな帯の臙脂の色が憂愁の詩のイメージとなったのだ。《君恋し》はレコード会社の企画・製作のヒット第一号。だが、大正十五年にニッポノホンから歌詞が異なる《君恋し》がニッポノホンから発売されていた。メロディーの楽想は感傷だが、いわゆる、和製ジャズ・ソングではなかったのだ。歌唱者の高井ルビ―は歌劇調に歌っていた。日本情緒とジャズをたくみに融合させた佐々紅華の曲想もよかった。レコードは昭和四年一月新譜。歌唱者二村定一は、浅草オペラの出身のテナー歌手である。大正後期からニッポノホンでジャズソングを吹込んだ。昭和に入り放送オペラに出演していたが、ニッポノホンから昭和三年五月新譜の《あお空》《アラビアの唄》を吹込み昭和三年ビクター十一月新譜で《青空》《アラビアの唄》がヒットすると、ジャズソングを本格的に歌うようになった。翌年の《君恋し》で二村の人気は絶頂となった。《君恋し》は、昭和四年に流行するが昭和の悲劇を暗示させる歌だった。ジャズの響きは昭和モダンの「翳」を象徴していたといえる。


東京行進曲

《東京行進曲》
は、昭和四年ビクター六月新譜で発売され、二十五万枚という驚異的な流行現象だった。昭和モダンの空間に流れ日本の流行歌の歴史を変えた。作詞、西條八十、作曲、中山晋平、歌唱、佐藤千夜子のトリオ。雑誌『キング』に連載された菊池寛の長編小説が原題。西條八十は、ジャズ、シネマ、リキュール、ダンサー、丸ビル、モダン語をちりばめモダン都市東京の戯画を見事に描いた。当時、マルクス主義の全盛で、〈シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか〉は〈長い髪してマスクスボーイ今日も抱える『赤い恋』〉だった岡庄五文芸部長の深慮と熱心さに西條は折れて、甘い禁断の恋に変わった。《東京行進曲》は、レコード会社と映画会社の提携企画による映画主題歌第一号である。この歌は、銀座、浅草が歌われているが、新宿が流行歌に初めて登場した。歌唱者の佐藤千夜子はこのヒットで一躍スターダムになったが、翌年、声楽の研鑽のため、アメリカ経由でイタリアへ。昭和五年十月二十日、《影を慕いて》を吹込むとおよそ一週間後の二十八日に日本を離れたのである。その後の人生は寂しかったが、《東京行進曲》の従来の流行歌にはなかったモダン感覚を広めた功績は大きい。そして、古賀政男(当時正男)のマンドリン・ギターを見出した慧眼は評価されるべきであろう。


浪花小唄

この歌は《君恋し》と同じ時雨音羽、佐々紅華両氏のコンビによる作品である。東の《東京行進曲》に対して、道頓堀、心斎橋を中心にしたモダン大阪の風景が感じられ西の大阪のテーマ曲としてヒットした。ビクターの岡庄正文芸部長は、銀座のバーで海軍仕官の「テナモンヤの連発を聞いて、早速、時雨音羽に「テナモンヤ」をいかした大阪の歌を依頼した。時雨音羽は、大阪長堀のすき焼き屋で女中に「テナモンヤ、ダンさん」と肩を叩かれて詩想が湧いた。また、正午の時報のサイレンの鳴る音、心斎橋の商店の日よけも歌詞に盛り込まれた。佐々紅華の旋律はジャズ調でありながら日本情緒が感じられた。また、ネオンが輝くきらびやかな表通りとは対照的な裏通りのうらぶれた寂しさが込められていた。歌手は人気絶頂のジャズシンガー二村定一。二村は「テナモンヤないかないか」と歌詞を間違えて吹込んだ。レコードはそのままで発売された。とはいえ、長い間、大阪のテーマソングとして歌われた。

女給の唄

昭和モダンの涙はカフェーの女給の瞳のなかにある。華やかなネオンの下で多くの女給の涙の物語があったのだ。
昭和五年『婦人公論』に連載された広津和郎の長編小説『女給』の題材がモデルとなった。北海道育ちの千代子は男にだまされて出産。乳飲児を抱えて上京。カフェータイガーを皮切りに女給生活に入った。小説『女給』は帝キネで映画化され、昭和六年一月十日に公開され話題を呼んだ。主題歌はビクターから昭和六年一月新譜で発売された。作詞は西條八十、作曲は塩尻精八、歌唱はA面羽衣歌子、B面は藤本二三吉だった。羽衣歌子は、東洋音楽学校出身で浅草オペラの後半にステージに登った。ビクター専属になりこの歌をヒットさせたのである。一番の「さめてさびしい」のテンポダウンの効果をうまく歌っている。作曲者の塩尻精八は、大阪松竹座のピアニスト。《道頓堀行進曲》を作曲して一世を風靡した。


侍ニッポン


群司次郎正の小説『ニッポン』四部作の中で、最も好評得たのが『侍ニッポン』だった。早速、日活が映画化した。主演は大河内伝次郎。井伊大老落胤である新納鶴千代は生来のニヒリスト。性格は些か複雑である。彼にとっては、勤皇左幕の闘争など無意味なものだった。、江戸の恋人菊姫は父の命により井伊直弼の側室に。新納鶴千代は、盟友と菊姫を斬ってあてのない旅へ立つ。当時の左翼もインテリも鶴千代のニヒリズムに共感した。レコードはビクターから、昭和六年四月新譜で発売された。作詞は西條八十作曲は松平信博。この人は、東京音楽学校出身のピアニスト。日活音楽部の楽長を務めた。歌は希代のユーモリストバリトン歌手徳山lが歌ってヒットした。「ニイロ」を「シンノウ」と間違って歌ったことは有名なこと。徳山は東京音楽学校(現芸代)出身の声楽家。ベートヴェンの《第九》やオペラ《カルメン》のエスカミリオ役等で活躍し流行歌手としてもスターダムとなった。また、レコード吹込みも幅広く歌曲、外国民謡、ジャズソングと多岐に渡っている。


酒は涙か溜息か

満州事変が本格的になりだした頃、古賀政男のギターの旋律に乗せて《酒は涙か溜息か》が一世を風靡した。当時、函館の新聞記者で高橋掬太郎が作詞して古賀政男が作曲した。古賀は七・五・七調の短い歌詞に悩んだ。都市では失業者が溢れ農村は娘の身売りが社会問題となり溜息が充満していた。古賀政男は当時の社会世相に敏感に反応し見事に「ジャズと都々逸」の距離を縮めた。これによって晋平節一色に塗られていたSPレコード歌謡の地図を塗り変えてしまった。いわゆる、古賀メロディーを確立した。この歌は猛烈な勢いで流行した。歌があまりにも流行ったので藤山一郎という歌手が話題になった。当時、彼は本名増永丈夫といって東京音楽学校(現東京藝術大学音楽部)の在校する学生で将来を嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家のモスリン問屋の借財返済のためのアルバイトだった。当時、電気吹込みという時代が始まっていてマイクロフォンに効果的な歌唱で録音した。ホールの隅々に響かせるメッツァヴォーチェを応用したクルーン唱法で古賀メロディーの感傷と詠嘆を表現したのである。ところが、レコード会社でのアルバイトが学校当局に知れ一ヶ月の停学処分となった。藤山一郎の歌唱によって古賀メロディーの芸術を開花させる一曲だった。



丘を越えて

古賀メロディーの魅力は、感傷のメロディーのみならず青春の躍動がある。表現者藤山一郎が登場することによって学園を装置にした青春のメロディーが確立することになる。卒業を迎えた古賀政男は稲田堤に明大の学生らとお花見に行った。春爛漫の季節に桜を背に酒を飲み交わし青春を謳歌した。古賀は、下宿に帰り学帽についていた桜の花びらを見て二度と帰らぬ青春へいとおしさを感じるとマンドリンを手にしながらつぎからつぎへと浮かぶ旋律を書きとめた。やがて、昭和五年十月三十一日、マンドリンの演奏会でマンドリン合奏曲《ピクニック》として発表されたが、昭和六年十二月新譜でコロムビアから《丘を越えて》として発売された。作詞は島田芳文歌唱者の藤山一郎は今度はマイクロフォンからかなり離れて吹込んだ。レジェローなテナーに加えスピントを効かせ青春を高らかに歌った。《丘を越えては流行歌の世界に青春という陽に響きをもたらし、輝かしい青春讃歌として広く大衆に歌われた。



影を慕いて


この歌は、作曲者古賀政男の人生の苦悩から生まれた昭和流行歌の名曲である。古賀政男の青年期の心象風景のすべてが織り込まれていた。恋愛の哀しい別れ、現実の厳しい状況、未来への絶望、古賀政男が託した心情は当時の世相に敏感に反応していた。したがって、楽曲の完成までには随分と時間がかかった。昭和三年夏のひなびた東北の温泉宿での自殺未遂、昭和四年六月、マンドリンコンサートでの初演(ギター合奏)、ギターの巨匠セゴビアの古賀を震撼させたインスピレーション、昭和五年十月二十日、創唱者の佐藤千夜子のビクターにおける吹込み、昭和六年一月新譜発売と、そのプロセスは謎に満ちている。《影を慕いて》のビクター盤は、売れず、藤山一郎の登場を待たなければならなかった。正統な声楽技術の解釈と咀嚼による藤山一郎の歌唱古賀政男の感傷のメロディーの魅力を十分に伝えた。昭和の陰影を象徴するこの歌をヒットさせた功績は大きい。藤山一郎は、当時東京音楽学校(現芸大)に在籍する学生だった。昭和七年の暮れ日比谷公会堂で《ローエングリーン》を独唱し将来を嘱望された。また、《影を慕いて》は日本人のギター創作歌曲の名曲でもある。いかに古賀政男がその世界にいかに通僥していたかがわかる。



天国に結ぶ恋

昭和七年の初夏、大変な勢いで流行した歌に《天国に結ぶ恋》がある。神奈川県の大磯の心中事件とその後の猟奇事件で有名な「坂田山心中」を題材にした時事歌謡でもある。慶大生調所五郎と静岡の素封家の娘湯山八重子の許されぬ結婚を悲しんでの心中だった。ところが、六十五歳の隠亡が大磯の法善寺仮埋葬された女の死体をあばき、その裸の死体が大磯の海岸の砂のなから発見されるという事件に発展した。心中が一転してグロテスクな猟奇事件になってしまったのだ。ビクターは西條八十に作詞を依頼した。ところが、頑なに拒んだ。青砥道雄の説得でなんとか引き受けた。西條はあくまでも純愛を主題に柳水巴の名前で作詞。作曲も松平信博林純平の変名で楽想をまとめた。原題は《相模灘悲歌》だったが、『東京日日新聞』の見出しをとって《天国に結ぶ恋》になった。歌手にはバリトン歌手徳山lとアルト歌手の四家文子が起用され、人々の共感をもって迎えられた。世相は、暗く坂田山心中の騒ぎのさなか、「問答無用」の一言のもとに時の総理大臣犬養毅が暗殺される「五・一五事件」が起きるなど血なまぐさい不安な時代を象徴していた。



涙の渡り鳥

ビクターの新進作曲家佐々木俊一は、カフェーで女給に囲まれ酒を飲んでいた(玉の井の侘しい二階という説もある)。外は雨が降っている。窓から雨を見ているとふと或る旋律が浮かんだ。その楽想をメニューに書きなぐったのだ。そして、その晩は女の所には泊らずに帰り曲想を完成させた。翌日、会社で西條八十に楽譜を渡し作詞を依頼した。しかも、大御所に対して〈泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ〉だけは、そのままにと懇願した。西條は日本語の不自然さに困惑しながらも佐々木の熱意に根負けして作詞した。佐々木俊一は、ビクターのオーケストラの一員で、夜遅くまで一人ピアノに向かい作曲をしていた。文芸部長の岡庄五はその姿をよくみかけ感心していた。レコードは昭和七年ビクター十月新譜で発売された藤山一郎が歌う古賀メロディーで劣勢を挽回したコロムビアに対してビクターの巻き返しのスタートだった。歌は東洋音楽学校出身の小林千代子が歌った。金色仮面という覆面歌手トして話題を呼んでいたが、このときはもう覆面を脱いでいた。この歌は小林千代子の初ヒットでもあった。



忘られぬ花

昭和七年の晩秋、ポリドール十一月新譜の《忘られぬ花》というロマンティックな抒情歌謡がヒットした。作曲者の江口夜詩は亡き妻を思いながらピアノの鍵盤を濡らし作曲したと言われている。作詞の西岡水朗の抒情詩は感傷に溢れていた。演奏には、ギター、マンドリン、ヴァイオリンが使われていて哀愁がある。歌手の池上利夫福田恒治と言って東京音楽学校の師範科の生徒だった。ポリドールの本社が池上にあったので、利益が上がるようにとこの名前をつけた。だが、彼はすでに、ニットーレコードから大川静夫で《夏は朗らか》を歌いデビューしていた。これが後のコロムビアで《サーカスの唄》をヒットさせた松平晃である。《忘られぬ花》は最初、コロムビアに持ち込まれたそうだ。ところが、問題にされなかった。それがポリドールでレコードになりヒットしたのだから、コロムビアとしては驚きの色を隠せなかった。古賀政男はこの歌を聴いて脅威を感じたと伝えられている。コロムビアは後に江口を入社させ、古賀政男と競わせる。江口夜詩は、海軍軍楽隊の出身、委託生として東京音楽学校に学んだ。この歌のヒットによって流行歌の作曲家の途を歩み数々の江口メロディーを生み出した。

島の娘


佐々木俊一は、昭和七年の暮れ《島の娘》という大ホームランを放った。それは場外ホームランに等しい。作詞は、長田幹彦小唄勝太郎が大スターの座に着いたのである。レコードデビューはビクターではなく、オデオンから昭和五年七月新譜で《佐渡小唄》(大村主計・作詞・豊田義一・作曲)でデビューした葭町時代の吹込みである。小唄勝太郎は、絹糸のような細い美声で歌う不世出の日本調歌手である。歌詞の中に登場する〈ハァー〉が女心をやるせなく燃え上がらせた。濡れた女のやわらかい静かな感情が表現されていたのである。この歌の流行に影響されたのかどうか分からないがその頃、女子学生の私通事件が新聞紙上を賑わした。内務省のお叱りが当然でた。「恋ごころ」を「紅だすき」に替えられた。だが、際どい〈人目忍んで、主と一夜の仇なさけ〉はお目こぼしに預かった(戦争が激しくなると原詩とは全く違う内容に変更)。このヒットによって、佐々木俊一はビクターのヒットメイカーとなる。歌手の持ち味をいかした作風は、ビクターの重鎮を担ったのである。



東京音頭

この歌は幕末に流行した「ええじゃないか」の昭和版である。《東京音頭》は、歌詞が替わる前は《丸の内音頭》として歌われていた。《丸の内音頭》は丸の内界隈の旦那衆の銭湯での朝風呂会談から生まれた歌だそうだ。翌年、西條八十によって歌詞を書き直してもらい丸の内のみならず東京全体の音頭として生まれ変わったのである。すでに東京市はジャズで踊りながら近郊の五郡八十二町村を編入、三十五区の大東京に変貌していた。歌手は人気絶頂の小唄勝太郎、《丸の内音頭》でレコード吹込みした三島一声だった。新たに上野、銀座、隅田、東京湾、二重橋が登場した《東京音頭》は花の大東京に成長し、まるで熱病のように広がった。日比谷公園はもちろんのこと、上野、芝、深川の恩賜公園その他の公園という公園は《東京音頭》一色に塗りつぶされた。大東京といえども、地方出身者が人口の高い割合を占めていてその郷土への想いを癒す結果にもなったといえる。この歌の前奏には鹿児島の小原節が使用された。作曲者中山晋平は、鹿児島の小原節を気に入っていたそうだ。だが、中山晋平という大衆歌謡の先駆者もこの《東京音頭》が最後の花でもあった。

燃える御神火


昭和八年の夏頃、藤山一郎の澄んだ美しい歌唱で《燃える御神火》が流れた。西條八十と中山晋平のコンビによる作品だった。藤山はその年の春、東京音楽学校を首席で卒業し、晴れて誰憚ることなくビクターの専属アーティストに迎えられた。クラシックは本名の増永丈夫(バリトン)で独唱し、大衆レコードはテナー藤山一郎の二刀流だった。この御神火は自殺のメッカになりつつあった三原山のそれをさしている。昭和八年正月早々、実践女子専門部の学生二人が噴火口に飛び込んだ。それ以後、燃え滾る噴火口に飛び込む者が後を絶たず、この年の自殺者数は異常だった。確かに、この年は国際連盟脱退、国内では滝川事件など日本が間違った方向に向かおうとしていた。三原山ブームで世間の話題がもちあがっていたある日、中山晋平は、西條の大島を舞台に新しい歌を創作することをもちかけた。新人佐々木俊一の《島の娘》が中山氏を刺激していたらしい。そこで、小唄勝太郎に《大島おけさ》藤山一郎には《燃える御神火》というわけだった。西條の詩想と中山の楽想は、悲惨な自殺のイメージを払拭してロマンティックなうら哀しい作品を作りあげた。藤山一郎も折り目正しくしかも哀調を印象づける歌唱だった。若い命を自らを絶つ者へのレクエイムであり挽歌でもあった。



赤城の子守唄


直立不動の歌魂を貫いた東海林太郎の出世作である。作詞は佐藤惣之助、作曲は明大マンドリン倶楽部出身の竹岡信幸だった。東海林太郎は早稲田の商学部を出て満鉄に入社。音楽の志を捨てきれず上京し音楽コンクールで上位に入賞して歌手の途に入った。下八川圭祐の門下で放送オペラにも出演していた。四行の歌詞に「泣く」「啼く」が四つも出てきて、まさに泣き節のアリアだった。東海林は澄んだバリトンで大いに泣いている。身体全体で泣かなければ男泣きの感じはでないと思ったそうだ。ちょうど、阪妻のチャンバラ映画はなやかりし頃で、うまくマッチしていた。国定忠治の子分、板割浅太郎をテーマにした歌で義理人情を男のロマンで綴るヤクザ小唄は庶民感情を反映していた。モダニズムの軽薄さに対抗するかのように男の生きざまが国粋的な硬派男性に受けたといえる。昭和九年の秋、日比谷公会堂で《赤城の子守唄》の実演が行われた。東海林太郎も出演した。このとき背中に負ぶっていた勘太郎の役が後の高峰秀子だった。この《赤城の子守唄》のヒットは、《沓掛小唄》以来絶えていた股旅歌謡の土台を築く一曲だった。



国境の町

満州を青春体験にもつ東海林太郎の歌唱から、万感の思いが伝わってくる。大正十二年、満鉄の庶務部調査課に勤務し「満州に於ける産業組合」を執筆し、それが問題となり鉄嶺の図書館館長という閑職に追いやられた。やがて、東海林は、満州の地で音楽の情熱を滾らせ音楽への途を志向するが、この経験が歌に独特な感情を与えている。作詞の大木惇夫は本格派詩人。作曲は阿部武雄。大木は夏の暑い盛りに新宿の路地裏で、毎夜星空を眺めながら、まだ見ぬ満州の冬の曠野に思いをはせた。「他国の星」が原詩では「ロシアの星」だった。この歌の企画者河野文芸部長の心づかいで「他国の星」という遠まわしの表現になりかえって歌のスケールが増した。男の寂寥感がより鮮明な表現になったのである。伴奏に使われている鈴の音は、雄大な満州をさすらう男のロマンを感じさせた。レコードは、昭和九年十二月新譜でポリドールから発売された《赤城の子守唄》につづいての大ヒットだった。これによって、東海林太郎時代が到来した。愁いのあるバリトンは歌の抒情にマッチし聴く人々に感銘をあたえた。



小さな喫茶店


コンチネンタルタンゴの曲調にのって昭和モダンの余韻をたっぷりと聴かせたのが《小さな喫茶店》である。甘いムードの回想に始まる若い二人のあまりにも淡い澄んだ純愛ソングである。喫茶店が新しい語りの空間として心地よい感覚を提供し始めた頃だった。コーヒーを飲みながら名盤を聴き音楽の鑑賞にはもってこいの場であり、二人の語らいの場には好都合であった。歌はレイモンド作曲のドイツ製のコンチネンタルタンゴのスタンダード曲である。男女の日常語が美しくメロディーにのって流れてくるので和製曲と遜色がなかった。最初歌ったのは河原喜久恵でドイツ語で放送した。オペラの訳詩で知られる青木爽が瀬沼喜久雄の名前で訳詞した。レコードはテノール山田道夫が最初に吹込んだがヒットしなかった。昭和十年五月新譜でコロムビアからジャズで売り出していた中野忠晴が歌いヒットした。中野は武蔵野音楽学校出身で、コロムビアがビクターの徳山lの対抗馬として山田耕筰の推薦もありスカウトした歌手。ジャズコーラスを率いてジャズソングをヒットさせていた



さくら音頭

《さくら音頭》は、浅草の軽演劇作家の島村竜三と作詞家の佐伯孝夫との友情から生まれた。東宝劇場で予定されているバラエティーショー「さくら音頭」の主題歌を島村は銀座裏のおでん屋で佐伯に話した。作曲は中山晋平《東京音頭》の余勢をかって曲をつけた。ところが、マイナーのゆっくりした、暗い感じのものであった。ところが、昭和八年十二月二十三日、皇太子誕生のニュースが報道されると、世の中はお祝い気分となった。中山も気分を一新し華やかに力量感が溢れ躍動的なメロディーに書き直したレコードは昭和九年二月新譜でビクターから発売された。歌手陣には小唄勝太郎三島一声バリトン歌手徳山lが加わった。他社からも《さくら音頭》が発売されたが、ビクター盤が圧倒的な売れ行きをみせた。コロムビアは松竹と組み、作詞、伊庭孝、作曲、佐々紅華で臨んだか完敗。このときのコロムビア文芸部長は責任をとって辞職した。キングは東海林太郎,美ち奴で勝負にでたが、ビクター盤には歯が立たなかった。ニットーも《さくら音頭》合戦参加。当時専属だった服部良一《さくらおけさ》で気を吐いた。


急げ幌馬車


この歌は、松平晃の歌唱五大傑作の一つに数えられる。また、広大な満州を舞台にした「曠野もの」の名曲として残る名曲である。昭和八年頃から、国内では農地を持てない農民、あるいは新天地で人肌あげようとする者がぞくぞくと海を渡って満州に移住した。こうして満州を美化した流行歌が生まれたのである。この「曠野もの」というジャンルは江口夜詩によって確立した。これは古賀メロディーにはなかった分野でもある。松平晃が哀愁を込めて歌う江口メロディーの「曠野もの」は人々の共感をもって迎えられた。江口は島田芳文の詩想を前にして前奏から歌へ流れるように旋律を浮かびあがらせたと言われている。ピアノで入る前奏の鈴の音が効果音に使われ哀愁を感じさせた。それが遠くの山の麓から一台の幌馬車が鈴と鞭の音を響かせながら近づき、やがて遠くに消え去ってゆく情景を連想させている。この弱音からフォルテになり、また、弱音になって終曲する「パトロール形式」による効果音と松平の甘い美声がマッチし漂泊感が滲み出ていた。


野崎小唄


この歌の主題は、義太夫の「新版歌祭文」(野崎村の段)が主題になっている。お染、久松の恋に義理と人情がからんだ物語である。春爛漫の河内平野の情景を舞台に二人の悲恋の物語が盛り込まれた《野崎小唄》は東海林太郎の歌声でヒットした。野崎村の観音まいりに真室川を屋方船で行くなど春風を浴びた夢のような風景である。作詞は今中楓渓、作曲は大村能章だった。レコードは非買品にもかかわらず大村は間奏に三味線のツレビキを入れるなど味な手法を試みた。お染は船で久松は籠で、二人が川と土手の二手に分かれて大阪へ向かう最後のくだりでである。詩想・楽想・歌唱が一体となり情緒溢れる日本調歌謡だった。ところが、会社のお偉方からカットするように言われた。活動写真のような伴奏で非売品にしては凝りすぎているという理由だった。それに激怒したのが、大村能章だった。彼は「新版歌祭文」(野崎村の段)をよく理解していた。大村の心意気に東海林太郎も気合も入り、歌唱も三味線の音も一段と冴えた。レコードは非売品ではなく改めて全国に売り出された。


無情の夢

この歌を最初にヒットさせた児玉好雄はイタリア帰りの声楽家だった。彼はイタリアのミラノ学院でオペラ歌手の修行中に端唄・小唄・民謡の研究にも余念がなかった。この外国における邦楽の勉強が非常に役立った。低音を柔らかく高音を甘くコブシも巧く回し詩想と楽想を生かした歌唱はこの歌のもつやる瀬ない無情を表現していた。作詞は佐伯孝夫作曲は佐々木俊一である。ビクターにとっては久々の本格的流行歌のヒットであった。だが、《無情の夢》は内務省から厳しいお叱りを受けた。男一匹、恋に命をかけるなどもってのほかということなのだ。〈花にそむいて 男泣き〉が問題になったのだ。世相は、「天皇機関説」や、「二・二六事件」が起こり、軍部の政治的発言が高まってきた頃である。昭和十二年には盧溝橋事件が勃発し日中戦争へと突入する。男の凛々しさが求められた時代でもある。戦後になり、この《無情の夢》はロカビリー歌手佐川ミツオによってリバイバルされ再ヒットした。


明治一代女

エキゾチックな顔立ちの新橋喜代三《鹿児島小原節》が有名だが、この《明治一代女》もよく歌った。この歌の主題は凄惨な恋の忍傷沙汰であることはもうお馴染みである。作詞、藤田まさと作曲、大村能章。この《明治一代女》は、柳屋三亀松浅草花月劇場で得意の三味線を弾きながら歌った。都々逸のアタマ出しで始まり、〈浮わ気家業の女に迷い〉の「イ」を長くひいて〈浮いた浮いた〉と歌に入る。活弁と新内を交え、お梅と箱屋の巳之吉の悲劇を語るのである。特に活弁調の声はふりしぼるような声で、別れる別れないのやりとりは絶妙だった。三亀松の三味線を弾きながらの「映画と小唄模写」は彼独特の芸であり、かなりウケた。芝居や映画の筋を知らなくても、「夜は次第にふけ渡る浜町河岸」の名調子から、明治期の江戸情緒が浮かんでくる。流行歌の方の喜代三は実に華やかな存在感があった。彼女は後に大御所中山晋平と結婚し、最盛期中に引退している。


緑の地平線


この歌は日活映画『緑の地平線』の主題歌である。朝日新聞が募集した小説の当選作品が映画化されたのだった。原作は横山美智子。映画には、岡譲二、、星玲子が主演した。主題歌の作詞は佐藤惣之助、作曲は古賀政男、テイチクから昭和十年十一月新譜で発売され楠木繁夫の歌によってヒットした。楠木繁夫は、この歌でスターダムとなった。初代ミスターテイチクに相応しい歌唱だった。まるで、新興テイチクの全盛期を呼ぶかのようになめらかな楠木繁夫の美声がこの曲に乗った。楠木繁夫の生涯最大のヒット曲でもある。楠木は大変な酒豪である。ウイスキーの角ビンをあけるのは朝飯前で関西レコード時代から底なしでもあった。彼は酔うとあたりかまわず、リクエストがあると歌った。カフェーはもちろんのこと新橋、神楽坂の待合でも歌ったのだ。或るときは、自分の歌に酔って涙を流し続けながら歌うこともあった。作曲者の古賀政男はコロムビアからテイチクから移籍しようやくヒット量産にエンジンがかかった。テイチク黄金時代に弾みをつけさせる一曲といえる。


忘れちゃいやヨ

この歌は流行歌の歌唱の技法からすれば一大進歩だが大きな問題を提供した。《月が鏡であったなら》と改題して発売したがあまりにもその波紋は大きかった。問題はこの歌のリフレーンである。〈ねえ、忘れちゃいやよ、忘れないでネ〉をしなだれかかたように歌ってしまった。歌手の渡辺はま子は、武蔵野音楽学校出身オール日本新人演奏会ドボルザークを独唱した。吹込みのとき泣きながら「いやーンよ」とやってしまったのである。横浜で女学校の先生をしていた渡辺にはお色気残酷物語になってしまったといえる。「あたかも婦女の媚態を眼前に見る如き官能的歌唱」とは内務省の役人の言葉。当然、レコードは発禁処分となった。それでも、発禁になるまでの三ヶ月間で十万枚のレコードが売れた。レコードを聴く人々はある種の感覚を刺激されながら、口の端に載せたのだろう。渡辺はま子自身はこの歌をあまり好まない。むしろこの話題を避けたがっていた。だが、好むと好まざるにかかわらず、渡辺はま子を世に知らしめた歌である。


二人は若い

この歌は日活映画、『のぞかれた花嫁』の主題歌である。レコードは昭和十年七月新譜テイチクから発売された。テイチクに迎えてられた古賀政男がそろそろヒット量産にエンジンがかかり始めた頃でもある。作詞の玉川映は、サトウ・ハチローの変名。ポリドール専属でありながら、日活撮影所文芸部にも属していたのでポリドールの了解をえて詩を書いた。この歌は蜂蜜のような甘さがあった。古賀政男の楽想は明るく軽快でモダンライフを巧みに表現している。各節に「あなた」「なーンだい」「ちょいと」「なーによ」「アノネ」「なーにさ」という言葉をならべ、新婚夫婦の嬉しさを歌う男女にお互いに呼びかけさせながら、実に歌のもつ雰囲気を効果的にしている。天皇機関説問題相沢事件、翌年の二・二六事件など世の中は暗く物騒となってきたが、ジャズシンガーのディック・ミネ星玲子のかけあいソングは甘いモダンライフそのものだった。


ああそれなのに

ペーソス溢れるモダンライフをテーマにした流行歌の傑作である。この頃は、都会を中心に結婚ブームが起こった。当時のは、ホワイトカラーのサラリーマン全盛時代を迎えていた。新婚家庭は、形ばかりの門に格子戸に二階のひと間ついた一戸建てカラ、マンション風のアパートメントへ。新宿区の江戸川アパートは当時の憧れのマトであった。夫は丸の内の会社に出勤。奥さんは針仕事をしながら寂しく夫の帰りを待つ。なのにご亭主は毎晩、酒を飲んで深夜に帰宅。ついに奥さんの怒りが爆発という当時のモダンライフを盛り込んだ。作詞の星野貞志サトウ・ハチローのペンネーム。この歌が流行った年は二・二六事件が起こり、「勅命下る 軍旗に手向かうな」のアドバルンを大衆は不安な表情で眺めた。作曲者の古賀政男はその辺の大衆心理をうまく表現した。歌手の美ち奴は艶のある声で歌った。美ち奴は旧樺太出身の浅草芸者である。レコードデビューは,昭和九年三月新譜の《桜ばやし》だった


東京ラプソディー

ビクター専属テナー藤山一郎テイチクへ移籍するニュースは、新聞紙上でも大きく取り上げられ話題だった。そのような理由で古賀政男は、藤山一郎入社第一作に相応しい曲を作った。それが《東京ラプソディー》である。当時のモダン都市東京の風景がふんだんに登場してくる。銀座、ティールーム、エキゾチックなニコライ堂、ジャズの浅草、新宿、ダンサー等々。作詞者の門田ゆたかは、そのようなモダン風景を見事に盛り込んだ。古賀政男は、神宮外苑をドライヴしながら楽想を練ったそうだが、原曲はマンドリンの合奏曲《スペインの花》である。このことからも、古賀政男がマンドリン音楽にいかに精通していたことがわかる。旋律の類似性が多いが、《東京ラプソディー》はあくまでも古賀政男の流行歌としてのオリジナル作品として発表されたことにはかわりはない。歌唱者の藤山一郎は流行歌とクラシックを歌う声楽家増永丈夫の二刀流だったが、この《東京ラプソディー》のヒットによって、流行歌手としての頂点を極めた。豊かな声量と確実な歌唱は正格歌手藤山一郎の声価を高めた一曲ともいえた。


男の純情

日活映画『魂』の主題歌で、佐藤惣之助・作詞、古賀政男・作曲藤山一郎の歌唱でテイチクから発売されヒットした。藤山一郎が格調高くメロディーの美しさを歌い上げている。昭和十四年八月三十一日NBC放送から全世界に向けて古賀メロディーが放送されたが、この《男の純情》は高い評価を受けた。全体のメロディーはメジャーだが、二小節マイナーの旋律にしている。そこをアメリカでかなり絶賛された。歌詞は通俗的な部類に入るが、藤山一郎の歌唱は品を落さずメロディーの美しさを保っている。この頃、藤山は、或る音楽記者に流行歌をやめてクラシック一本にしろと食い下がられた。その記者は、藤山一郎が本名の増永丈夫で独唱したベートーヴェンの《第九》のバリトンが忘れられなかったのである。テノールの美しい響きのあるバリトンは流行歌でも十分に生かされている。クラシックと流行歌を両立させている藤山にしてみれば複雑な心境だった。《男の純情》は夜空の星を眺めながら男の生きる途を誓うという男の真実があった。


人生の並木路

日活映画『検事とその妹』の主題歌。昭和十二年テイチク二月新譜で発売。ジャズシンガーのデイック・ミネが歌った。このメロディーには作曲者・古賀政男の故郷喪失の体験が込められている。思い出深き故郷田口村を離れ、母と姉の後について幼い弟の手を引いて朝鮮半島へ渡った悲しみを生涯忘れることはなかった。故郷の風景と喪失が古賀メロディーの叙情核の一つを形成している。古賀が佐藤惣之助の詩を見て大粒の涙で五線紙を濡らしながら作曲したのもそのような体験があったからである。ディック・ミネは楽譜を渡されたとき、ジャズシンガーの自分にはフィーリングが合わないとして一度断ったが、古賀政男はどうしてもディックミネに歌わせたいと懇願した。ディック・ミネは吹込みのとき音域の広さに苦労したが、よくこなしている。古賀政男の眼力は見事であった。この歌は発売当時から爆発的なヒットではなかったが古賀メロディーの代表曲となり、ディック・ミネの歌謡曲歌手としての声価を決定した。

マロニエの木蔭

学生・インテリ層から成る都市文化を満喫する洋楽愛好者からに支持を得た。この歌は美しいピアノのカデンツァで始まる。哀愁のあるタンゴのリズムに乗せ甘くロマンティックなムードがある。この曲は、モダニズムの明るさと暗い不安な時代に生きる若者の心を慰めた。キング専属・松島詩子の最大のヒット曲になった。作詞・坂口淳、作曲・細川潤一。新譜発売は昭和十二年三月新譜。キングレコードの本格的なヒットである。



青い背広で

藤山一郎が軽快に哀歓を込めて歌った青春讃歌。昭和十二年三月新譜テイチクから発売されヒットした。ある日、藤山は新調したばかりの背広を着てテイチクの吹込み所に現れた。作詞者の佐藤惣之助はグリーンの背広でスタジオに入って来た藤山一郎を見てインスピレーションが湧いた。佐藤惣之助はその緑色の背広を見て青い背広というタイトルが浮かんだのだ。昭和十二年といえば、やがて盧溝橋事件勃発により日中戦争が始まった。これによって夢も理想も失ってゆく青年像が昭和モダンの余韻とともに盛り込まれた。日劇の地下にはニュース映画と短編映画を上映する小映画館があった。この頃、銀座では二人がコーヒーを飲みニュース映画を見ても五十銭あれば十分に足りた。B面には《青春日記》がカップリングされた。この美しく感傷的なワルツは好評だった。ここでもテナー藤山一郎の歌唱は美しい。古賀メロディーの優雅な旋律とワルツを十分に堪能できる。


妻恋道中

昭和に入ると、浪花節のレコード歌謡化の時代を迎えた。新しい艶歌唱法の歌手が必要となり、上原敏が登場した。この歌は、荒神山の血煙でお馴染みの侠骨・吉良の仁吉とその女房・お菊を主役にした映画の主題歌である。藤田まさとの詩想を得て作曲した阿部武雄の傑作である。映画は、吉良の仁吉が兄貴分の神戸の長吉の頼みで「荒神の徳」を討ちに行く実話をもとに、「徳」と義理のあるお菊を離縁するというフィクションを加味している。《妻恋道中》は、男女の情愛を深く浪花節的義理人情に盛り込んだ演歌系歌謡の傑作であった。《妻恋道中》は東海林太郎が吹込むことになっていたが、東海林と作詞の藤田まさととの感情のもつれから、秩父重剛の頼みもあり、上原敏が歌うことになった。ポリドール東海林太郎の登場によって、ヤクザ小唄、股旅歌謡の分野を確立したが、東海林太郎では表現しきれなかった、さらに泥臭い浪花節調の歌を艶歌唱法で歌う歌手で売り出すことに成功した。


別れのブルース

淡谷のり子が歌う《別れのブルース》は異国情緒が豊かで黒人霊歌にも似た深い哀愁があった。この歌は、最初《本牧ブルース》というタイトルだった。本牧は外国人相手の私娼窟が密集しエキゾチックな雰囲気がありながらどこか頽廃的でなところがあった。作曲者の服部良一は本牧の歓楽街ででジャズを聴きながらブルースの心情をそこに求めていた。それは作詞者の藤浦洸も同じ心境であった。藤浦洸の作詞には和製英語が必ず登場する。「メリケン波止場」もそうだ。ところがそれは神戸にもある。となると歌のタイトルが「本牧」ではまずい。どこか哀しい異国情緒をより普遍的にするために「本牧」を「別れ」という言葉にしたのである。淡谷のり子は妖艶なソプラノ歌手である山田耕筰に「十年に一人のソプラノ」と絶賛された声をすてこの低い音域を歌うために煙草を一晩中ふかして服部が要求する魂のこもった声にした。淡谷のり子はこれ以後《雨のブルース》を歌うなどブルースの心情を歌うようになる。


裏町人生


《裏町人生》の原曲は《さすらいの唄》木村肇の歌である。阿部武雄は本牧の歓楽街以外に神田、新宿、浅草などの繁華街の裏町・酒場もイメージしながら作曲した。そして、この《さすらいの唄》島田磬也の哀傷が滲み出た人生詩を得ることによって、《裏町人生》となったのである。作曲者の阿部武雄は、暗い運命が重くのしかかるどん底人生に花咲く希望と明るさというモチーフは、モダンライフを歌いあげる古賀政男にない世界であり、昭和演歌の古典的名歌として人々に広く膾炙されたのである。歌唱は上原敏結城道子




人生劇場

映画『人生劇場』の主題歌《人生劇場》はテイチクから楠木繁夫の歌で昭和十三年七月新譜で発売された。作詞・佐藤惣之助、作曲・古賀政男古賀政男は賦邪魔一郎を迎えるなどをしてテイチクコロムビア、ビクターに比肩するまでするという驚異的な活躍をしたが、社長の南口重太郎と亀裂が生じ、テイチクを去ることになった。楠木繁夫の歌唱は技巧的だが線が細く背広を着た感じがした。戦後、昭和三十四年、浪曲界から転じた村田英雄がコロムビアで吹込みヒットさせた。村田の浪曲で鍛え上げた声がこの歌のイメージにあっていた。古賀政男《人生劇場》が誕生したその年の秋、外務省音楽親善使節としてハワイを経由してアメリカに向かって旅立った。テイチク取り締まりは当然辞任した。古賀の退社を惜しむ社員が集まり酒宴を催したが、その席で《人生劇場》が合唱された


流転

ポリドールでは東海林太郎と並んで日本調の股旅歌謡で上原敏が売り出されていた。《妻恋道中》《裏町人生》の一連のヒットにつづいて《流転》もヒットした。上原敏は専修大学出身の歌手だった。大学時代は野球部で活躍。わかもと製薬でもノンプロチームの選手であり、ポリドールの野球チームに関わりをもっていた。そこで、大学の先輩で野球好きの秩父重剛と知遇を得、歌手の途に入るのである。《流転》作詞・藤田まさと、作曲は阿部武雄。松竹の同名映画の主題歌である。頭髪をきれいに四分六分にわけて、ロイド眼がねをかけて細い上原が歌う《流転》から哀しみが十分に伝わってきた。日中戦争が拡大し不安が募りだした時代である。この歌は戦後日活の青春スター赤木圭一郎がリバイバルで歌った。赤木は撮影所でゴーカートを運転していて不慮の事故死を遂げた。一方、創唱者の上原敏は、応召され、太平洋戦争中、南方ニューギニアの地で戦死した。


旅の夜風

この歌は松竹映画『愛染かつら』の主題歌である。原作は川口松太郎が雑誌『婦人倶楽部』に連載した小説である。作詞・西條八十、作曲・万城目正、霧島昇とミス・コロムビア(松原操)が歌い嵐のような勢いでヒットした。霧島昇《旅の夜風》のヒットでスターとなり松原操とゴールインしたことは有名である。二人は昭和十四年十二月十七日、丸の内の東京会館で山田耕筰夫妻の媒酌によって華燭の祭典をあげた。この世紀のロマンスは世間の注目するところとなった。主人公の津村浩三(上原謙)は愛人の看護婦高石かつ枝(田中絹代)と別れ京都へ行く。その心境を花も嵐も踏み越えて雄々しく生きる男の人生にたとえたが、寂しい心情は隠し切れない。哀しい声を鳥の声にしようと「ほろほろ鳥」を配した。ところが京都には「ほろほろ鳥」がいないという物議をかもしだした。映画も歌もヒットし日本映画主題歌のある一つの型が決まった。


麦と兵隊

この歌は昭和十三年五月,中支派遣軍報道部員として除州作戦に従事した火野葦平(玉井勝利伍長)の小説『麦と兵隊』を歌曲にしたものである。陸軍報道部は藤田まさとに作詞依頼した。作曲は大村能章東海林太郎が歌った。このトリオは股旅歌謡でポリドールの黄金時代を形成した。藤田は原作に描かれたヒューマニスティックな場面を想定した。ところが、軍当局からこれに関してひどく怒られた。「軍人は生きるのが目的ではない。天皇陛下のために死ぬことが目的だ」ということであった。雄大な大陸を背景に《麦と兵隊》は広く歌われた。歌のなかでも果てしなく海のような麦畑が広がっていた。聖戦完遂のために国家権力によって利用された文学を素材にしたとはいえ、人気絶頂の東海林太郎の哀愁ある声は多くの人々に感銘をあたえた。この年は戦争の長期化に備えた経済統制とも言うべき国家総動員法が制定され、日中戦争は泥沼化していった。


支那の夜

これは美貌の渡辺はま子のコロムビアにおける初めての大ヒットである。昭和十三年十二月新譜作詞・西條八十、作曲・竹岡信幸である。竹岡は横浜のニュー・グランド・ホテルに行き、港のあかりを眺めながら曲想を練った。西條の最初の詩には「阿片の煙」という言葉があり、これは健全ではないと内務省の検察官の注意があり、「むらさきの夜」に「夢のジャンク」と「胡弓」を配した。西條は推敲につぐ推敲を重ね、竹岡もそれに合わせて旋律を何度も練り直した。渡辺はま子はこの歌のヒットでチャイナメロディーの第一人者となる。その後も《広東ブルース》《何日君再来》《いとしあの星》《蘇州夜曲》をヒットさせるなどこの分野では他の追随を許さなかった。ビクター時代、《忘れちゃいやよ》で不本意な人気がでたこともあり、このヒットは渡辺はま子の声価を決定したといえる。太平洋戦争中は海外放送にも使われ米兵も《チャイナナイト》と呼び愛唱した。戦後、アメリカ映画『零号作戦』《ゴールデンタイム》のタイトルで使われたkとおは有名である。


別れ船

昭和十四年、《島の船唄》ポリドールからデビューした田端義夫は、《大利根月夜》などをヒットさせ、翌昭和十五年の《別れ船》のヒットにより「船もの」において流行歌の新境地を切り開いた。作詞・清水みのる、作曲・倉若晴生で《島の船唄》と同じコンビである。この歌は軍部が期待するような内容ではなかった。離別の情がにじみ出る流行歌だった。田端義夫のバタヤン唱法は小舟が大波に揺れるような独特のバイブレーションで名残尽きない故郷や友人、母親、愛する人への離別の心情をいっそうかきたてた。田端は戦時歌謡の向くようなもともと歯切れのよい歌手ではない。田端義夫は、名古屋で旋盤工をしていたとき『新愛知新聞』名古屋中央放送局と共催した新人歌手コンクールで三位に入賞。これをきっかけにポリドールからデビューしたのである。デビュー当時は丸坊主で歌い、そのうらぶれた歌声は哀愁を帯農漁村や下町で人気があった。


長崎物語

この歌は《熱海ブルース》に続く由利あけみのヒットである。作詞・梅木三郎、作曲・佐々木俊一由利あけみ日本女子大から東京音楽学校(現東京芸術大学)の師範科を卒業した歌手である。加藤梅子の本名で三浦環オペラ《お蝶夫人》に出演し、女中の「スズキ」役で好評を博した。藤原義江と共演した《カルメン》もよかった。由利あけみは官能的な音色でジャガタラお春をからませた長崎を舞台に異国情緒を妖艶に歌いあげた。淡谷のり子が妖艶はソプラノならば、こちらは妖艶なアルトといったところである。レコードデビューは《恋のセレナーデ》、昭和十二年五月新譜でコロムビアからである。その後テイチクでも吹込み、ビクターでヒットに恵まれたのである。桜井潔が率いるタンゴバンドがこの《長物語》をよく演奏した。この楽団の重要なレパートリーだった。桜井はコルネット・ヴァイオリンをもって真紅のスカーフに粋なアルゼンチンスタイルのボレロにリズムにのってこの歌を演奏したのである。軽音楽が先行して歌がヒットするという面白い流行のしかたをした。


湖畔の宿

この歌はもの哀しい失恋の孤独を歌ったブルースである。作詞・佐藤惣之助、作曲・服部良一松竹のスター女優高峰三枝子が歌って大ヒットした。松竹コロムビアが提携した歌謡メロドラマの主題歌《純情二重奏》につぐヒットだった。高峰は東洋英和女学校を卒業し三田小町といわれるほどの美貌だった。父は筑前琵琶の総帥高峰筑風。レコード界に入り彼女ほどヒットを出した女優はいない。それど銀幕とレコードに活躍した。この歌はあまりにも感傷的であると軍部から睨まれた。失恋したからといって、一人で山の湖に行ってラブレターを焼いたり、ランプの灯りの下で手紙を書いたり消したりするような軟弱な精神では銃後が護れるかということであった。歌に挿入されたセリフには乙女の孤独感が滲み出ている。ビルマからバーモーが来日し高峰三枝子東条首相と長官の前で歌い陸軍から賞状をもらっている。


燦めく星座


《燦めく星座》は野球映画『秀子の応援団長』の主題歌である。作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一灰田勝彦が歌い大ヒットした。彼は映画にもプロ野球の新人投手の役で出演した。誰もいない後楽園球場にユニフォーム姿の灰田勝彦が一人立ちバットを片手にヘイのもたれながらじっくりと暮れ行く夕空を眺めながら《燦めく星座》を歌った。このワンカットのシーンによってA面の《青春グランド》をB面の《燦めく星座》がしのぐことになりレコードは驚異的な売れ行きを見せた。この歌によって比較的都会偏重だった灰田勝彦の人気が全国的な広がりを見せた。それ以後、太平洋戦争にかけて個々の歌手の人気では灰田勝彦が最もあったと言われている。太平洋戦争の旗色が悪くなった頃、やはり、この歌が軍部の睨むところになった。陸軍の象徴である「星」に女を思いこんでの命がけとはけしからんということであった。灰田勝彦はハワイアンを中心にジャズなどのポピュラー歌手だったので余計風あたりが厳しかったといえる。



高原の旅愁

作曲者の八州秀章は十九歳で亡くなった恋人を思いつつ傷心の心をこの旋律に託した。関沢潤一の詩想に八州秀章の楽想が合致して見事な抒情歌を生み出した。舞台は北海道。エゾ冨士といわれた羊蹄山が聳え、悲しい夢は清らかな乙女ともに白樺林をかけめぐる。澄んだ湖水にもその悲痛な歌声が響いた。亡き恋人に捧げたこの歌は伊藤久男の叙情溢れる豊かな歌唱によってコロムビアから発売された。昭和十五年六月新譜伊藤久男《露営の歌》《暁に祈る》などの戦時歌謡で台頭してきたが、《白蘭の歌》以来、抒情歌でも豊かな歌唱力をしめした。その歌声は戦後ラジオ歌謡でも幾多の名唱を生み出している。八州秀章とのコンビでは《あざみの歌》《山のけむり》などの抒情歌の模範的名唱がある。また、八州秀章も他に《チャペルの鐘》《さくら貝の歌》などの名作を生み出している。



森の小径

わずか一オクターブの間を上下する短い旋律だが、ほのかな青春の夢が浮かぶような作品である。青春の甘さとモダニズムの余韻がたっぷりと感じられた。ハワイ生まれの灰田晴彦と勝彦の兄弟愛は非常に有名である。兄晴彦は慶応出身でモアナ・グリークラブを主宰していた。この楽団はハワイアンバンドのハシリである。弟勝彦は立教大学でサッカーの選手だったが、ゲストで歌っているうちにこの楽団のメンバーになっていた。兄の作曲した曲を弟灰田勝彦が歌い、兄がスチールギターで追いかけ、バンドの連中がハーモニーをつける。コーラスも入るのでさしずめマヒナ・スターズの先駆でもあった。この《森の小径》は灰田勝彦の重要なレパートリーだった。レコードは昭和十五年十一月新譜でビクターから発売された。人気絶頂の灰田の甘い歌声と美しい裏声が人々に青春の夢と喜びをあたえている



鈴懸の径

太平洋戦争のさなか、青春の感傷と若き日の夢やロマンを思い出させるような歌が流れた。《鈴懸の径》である。鈴懸とはプラタナスの葉のことである。昔山伏が着た篠懸衣についていた飾りの玉の実がなるところからこの名称がついた。この歌の作詞は佐伯孝夫、作曲・灰田晴彦、灰田勝彦が豊かな歌唱でヒットさせた。灰田兄弟は慶応と立教、佐伯は早稲田、それぞれの青春がカレッジライフにある。レコードは昭和十七年十月新譜でビクターから発売された。翌年には学徒出陣が行われ学生はペンを銃に代えて尊い命を国家に捧げることになった。青春の想い出と若い日の夢を胸に秘め戦場へ向ったのである。戦後、《鈴懸の径》「楽団リズムエース」主宰者・鈴木章治のクラリネットでジャズファンを魅了した。また、日本でこの演奏を聴いたクラリネットの名手・ピーナッツ・ハッコーがアメリカに持ち帰り好評を博した。レコードはRCAから《プラタナス・ロード》という題名で発売された。



湯島の白梅

《湯島の白梅》のレコードは『婦系図』泉鏡花の小説を東宝で映画化した『婦系図』と並行して製作された。で昭和十七年十月新譜でビクターから発売された。新派の名狂言「婦系図』のなかの「湯島境内」が主題になっている。明治という時代を遠方から眺めるようなスローテンポな歌で「お蔦」と「主税」の悲恋を墨絵のように描いている。最初、歌のタイトルは《婦系図の歌》だったが、戦後《湯島の白梅》と改められた。作詞・佐伯孝夫、作曲・清水保雄、歌は小畑実と藤原亮子が共演した小畑実ポリドールから昭和十六年二月新譜の《成吉思汗》でデビューした。彼はテノールの永田絃次郎に憧れて朝鮮半島から渡ってきたて、日本音楽学校で声楽を学び歌手になったのである。ビクターでヒットを飛ばし、戦後、テイチク-キング-コロムビア-ビクターと渡り歩き《長崎のザボン売り》《高原の駅よさようなら》等のヒットを放ち昭和二十年代は人気歌手の名声を得た。



新雪

流行歌として格調高いタンゴのリズムに乗って灰田勝彦が歌った。人気絶頂歌手の渋いバリトンは好評を博した作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一のコンビはビクターのドル箱。数々のヒットを放ってきた。《新雪》は同名映画の主題歌である。原作は藤沢桓夫朝日新聞に連載した小説である。映画には宝塚から映画入りした月丘夢路が初主演し、水島道太郎が共演した。佐々木俊一はコンチネンタル・タンゴの《オー・ドンナ・クララ》のような楽想を念頭に作曲した。そのメロディーは山の峰々に処女雪が輝くようなきらめきがあった。曲の視聴のとき、あまりにも《オー・ドンナ・クララ》に似ていて周囲を唖然とさせたが、灰田の歌が入るとその想念はうちけされたてしまった。それほどこの歌は灰田勝彦の歌唱に合っていたのである。また、佐々木俊一の不思議な魔力の賜物でもあった。レコードは昭和十七年十月新譜でビクターから発売された。B面は《千代の唄》。これは映画主演の月丘夢路が歌った。



勘太郎月夜唄

この歌は戦中最後の大ヒットである。作詞・佐伯孝夫、作曲・清水保雄、歌唱・藤原亮子と小畑実。レコードは昭和十八年二月新譜でビクターから発売された。このヒットによって小畑実はスター歌手の第一歩を歩みだした。長谷川一夫が主演する東宝映画『伊那の勘太郎』の主題歌である。長谷川が演じる勘太郎が人目を忍んで生まれた土地の伊那に帰郷する。三度笠を下に向けた寂しい姿だった。勘太郎が峠の道で笠をあげて遠くに目をやり故郷の山並みを眺め、さらにその歩く姿をロングで追うシーンは多くの映画ファンを喜ばした。小畑実とこの歌と《湯島の白梅》でも共演した藤原亮子は、東洋音楽学校出身の歌手である。昭和十二年七月新譜スターレコードから《泣いて居る》を歌いデビューした。戦後、そのままビクターで活躍した。《誰か夢なき》《月よりの使者》竹山逸郎と共演しヒットさせた。