「残り香」
 普段憎たらしくなるくらいピンピンしている奴ほど、倒れると重病に見えるものらしい。

 クイーンの異変に初めに気付いたのはエースだった。
 常日頃、エース、ジョーカー、クイーンの三名は朝食を酒場で取る事にしていた。
 日に一度、その時には互いに顔をあわせて、戦況や出撃予定についての情報を交わすのである。その時それぞれの手に透明な液体の入った杯があっても、それなりに意義がある習慣だった。
 その後は引き続き酒場に入り浸るなり、気になる女の顔を見に出かけたり、雑用を済ませたりする。が、必ず朝一番(面子が二日酔いの場合は昼過ぎ)に酒場に集うようにしていたのだ。
 だがその日の朝、いつまで待ってもクイーンは姿を見せなかった。
 ジョーカーはさほど心配する様子もなく、朝食代わりと称して一杯引っ掛けた後、さっさと席を立ってしまった。
 エースはいらいらと貧乏ゆすりをしながら、じっと椅子に腰掛けていたのだが、ジョーカーの姿が酒場から消えた瞬間、乱暴に立ち上がった。
 杯に半分以上残っていた酒を一気に飲み干して、杯をテーブルに戻すと、エースも酒場の出口に向かった。



 クイーンの私室の前までやってきて、エースはわざとらしく咳払いをした。周囲の廊下に人影はない。無意識にそれを確認してしまってから、エースは勢い込んで扉をノックした。
「おい、クイーン!いつまで寝てりゃ気が済むんだ」
 ノックすると同時に声を上げたが、返答はなかった。
 一瞬、まず有り得ない想像が脳裏をよぎりかけて、エースは頭を振ってそれを払い落とすと、再度扉を叩いた。
「まだ寝てるのかー?」
「……煩いね、起きてるよ」
 扉越しに籠もった返答があり、それと同時にゆっくりと扉が内から開かれた。
 その向こうにあった見慣れた女の顔を、エースは思わず凝視してしまった。
「……ちょっと、まじまじと見ないでおくれよ」
 だるそうに顔を背けたクイーンは普段以上に化粧気がなく、ほんのりと顔が上気していた。髪は乱れて、汗の滲んだ額に張り付いている。目はうっすらと涙目で、耳朶も赤く染まっていた。
「おい、何だよその顔は」
「何だって…、見りゃ解るだろ、風邪だよ」
「風邪だあ?」
 俄かに信じがたくて、エースはおうむ返しに聞き返してしまった。それに応えようとしたクイーンが軽く咳き込むのを聞いて、喉元まで出てきかけた軽口も胸の中に引き返してしまった。
「おいおい、大丈夫かよ」
「そんなわけないだろ…。だるいんだから、もう寝かせておくれ。じゃあね」
 クイーンはそのまま扉を閉めようとする。エースは慌てて扉を押さえ、クイーンの顔を見直した。
「ちょっ、待てって。熱あるのか?薬は飲んだか?水はあるのか?」
「……いいって、そんなの」
 口をまともに利く気力もないらしく、クイーンはかすれ気味の声で投げやりに答えてくる。
「良くねえって。いいか、今から医者のところに行って薬を貰ってきてやるから、大人しく寝てろよな」
 クイーンの返答を待たずに、エースは踵を返して早足に歩き出した。行く先は階下の医務室である。
 今まで見たことがないほど弱ったクイーンの姿に、エースは本人以上に慌ててしまっていたのである。



 再びクイーンの部屋の前に舞い戻ってきたエースの両腕にはそれぞれ一つずつ大きな紙袋が抱えられていた。中には薬やら食料やらがぎっしりと詰め込まれている。
 それを苦心して片腕に抱えなおし、エースは細心の注意を払って扉をノックした。
「おいクイーン…起きてるか?」
 が、返答はない。試しにノブを捻ってみると、ドアは簡単に開き、今まで入ったことのない部屋の様子を顕わにした。
 いくら仮住まいとはいえ、女の部屋とは思えないほど、何もない部屋だった。
 あるのは簡素な作りのベッドと、一人分のテーブルと椅子のみである。狭い部屋の向こうに一つだけある細長い窓は解放されていて、夏の微風が洗いざらしのカーテンを思い出したように揺さぶっていた。
 クイーンは寝台の上でシーツに包まって横になり、短い寝息を立てている。それを確認して、エースは足音を立てないように静かに室内に入った。
 横を通り過ぎるときに顔を見下ろすと、クイーンの額には汗が滲んでいた。僅かに眉を顰めて、半分開いた唇からは荒い呼吸が漏れている。
 エースはそっと紙袋をテーブルに置いたつもりだったのだが、その物音がクイーンを目覚めさせてしまったようだった。
「……エースかい?」
「おう」
「勝手に入ってくるんじゃないよ、まったく……」
 そう言いながら身を起こそうとするクイーンを、エースは慌てて手を差し伸べて支えた。手に伝わる背中の熱は高く、じっとりと衣服が汗ばんでいるのがわかった。
「馬鹿、大人しくしてろって。…ほら、とりあえず薬飲めよ」
「苦いんじゃないのかい、これ」
 寝台の上に身を起こしたクイーンは、エースが差し出した小鉢の中の緑色の液体に顔を近づけ、その強烈な匂いに顔を顰めた。
「医者に煎じて貰ったんだから効くんだよ。つべこべ言わずに飲んどけ」
 有無を言わさぬエースの物言いに、クイーンはぶつぶつと呟きながらも、大人しく小鉢の縁に口をつけた。そのまま一気に飲み干す。
 途端に顔をくしゃくしゃにしてむせ込んだクイーンに、エースはすかさずコップに満たした水を渡してやった。
「夏風邪は何とかが引くもんだっていうのは、案外本当かも知れねえなあ」
「煩いね、どうせ馬鹿だよ」
 ふい、と横を向いたクイーンの手から小鉢を受け取り、エースは思ったよりも元気そうな女の様子に内心でほっとしつつも、軽口を叩くのを止められずにいた。
 横を向いたクイーンの首筋から、一筋の汗が流れ落ちる。それは襟の開いたクイーンの衣服の間をすり抜け、胸の間へと流れていった。
 それを目で追ううちに、襟の隙間から覗く胸元の、かなり際どい場所にあるその「印」を見つけてしまい、エースは僅かに動揺して目を逸らした。
 クイーンはそれに気付かず、再びシーツの中に潜り込もうとする。
 エースはなるべくさりげなくクイーンの傍を離れ、持参した洗面用の水盤に水を張って、その中にタオルを浸して絞ると、それをクイーンの額に乗せてやった。
「飯は?食えそうなのか?」
「いや、もう少し後でいい。…少し、眠らせておくれ」
 小さく呟いて目を閉じた女の顔を複雑な気分で見やり、エースは寝台の傍を離れると、紙袋の中身をそっくりテーブルの上に移した。
 その中の一つを取り出したとき、エースはクイーンの顔を見やったが、女は瞼を下ろしたきり、エースの方を見ようとしなかった。
 必要な品々をそろえに店を回っているときに、畑にいたバーツから譲り受けたものだった。
 脆い形を崩さぬよう、甘い芳香を放つそれをそっとテーブルの上に置くと、エースは足音を忍ばせてドアのほうに向かった。
 扉に手を開けようとしたとき、寝言のように微かなクイーンの声がシーツの中からくぐもって聞こえてきた。
「……悪かったね」
「いいから病人は寝てろよ」
 じゃあな、と短く言い置いて、エースは扉を開け、部屋を出た。
 思わず、深く息を吐く。
 こきこき、と首を鳴らして、エースは顔をしかめた。
 自分の胸の内に、上手く言葉に出来ない何かがでんと腰を降ろしているのを自覚する。
 それは漬物石のように重くて硬く、砕いて飲み込むことも容易ではなさそうだった。
 掌には、先刻の甘い香りが残っている。
「さて、と……」
 もう一度の吐息と共に呟くと、エースは次なるお節介をやきに、目的地へと向かったのである。



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