「残り香」
 一日のうち、一度も隊の仲間の顔を見ずに終わる日もあるほどに、最近のゲドは忙しかった。
 真なる炎の紋章を継承してからというもの、日々新しい決断を求めてゲドの元には人が集い、また仕事が積もっていた。
 十二小隊の仲間を巻き込む結果になっていることには常にどこかで済まないと思いながら、彼らの暗黙の好意に甘えている日々であった。

 その日も、ゲドは朝から執務室に籠もってシーザーと今後について協議していた。
 目の前の机には書類が山積している。これが今日のゲドの仕事となる予定で、いささかうんざりとした気分でそれを眺めやりながら、年少の軍師とやり取りを交わしていた。
 と、人払いを命じていたはずの扉が数回ノックされた。こちらが会話に集中して一瞬反応が遅れたのをいい事に、勝手に扉を開いて顔を覗かせたのは、エースだった。
「大将、いますか…あ、いたいた」
 会話を中断された格好のゲドとシーザーは黙って侵入者を睨みつけた。
 「何だよコイツ」と顔に描いたまま沈黙しているシーザーの代わりに、ゲドが口を開いた。
「エース、何の用か知らんが、後にしてくれ。今は忙しい」
「あ、すぐに済みますから、ちょっと、ちょっとだけ」
 へこへこと軽く頭を下げながら、エースは勝手に部屋の中に入ってくると、冷たい視線のシーザーを避けて、無理やりゲドを部屋の隅へと引っ張っていった。
 さすがに憮然としたゲドの耳元に、エースは口を寄せて低く話し掛けた。
「大変なんすよ、大将」
「……だから、何がだ」
「大将の猫が鬼の撹乱起こして倒れてるんですよ」
 さりげなく聞き耳を立てているシーザーを気にして、エースは一層低い声でそう告げた。
「……」
 大将の猫。と言われても、そう呼ばれるほどに手をかけている猫はいない筈だが……言葉どおりに受け取ってそう考えかけ、ゲドはその真意に気付いた。
 ゲドの表情の変化に気付いたエースは、さらに身を乗り出してくる。耳元に男の息がかかるのを嫌がって、ゲドは僅かに身を逸らした。
「桃が食いたいって騒いで聞かないんですよ。後で様子を見に行ってもらえませんかね?」
「……考えておく」
「頼みます」
 それを告げるとほっとしたように、エースはシーザーに「お騒がせしました〜」とまた軽い調子で頭を下げ、さっさと部屋を出て行った。
 シーザーはそれを見送ると、くるりとゲドの方に向き直った。
「で?もう話の続きをしてもいいのかね」
「ああ、すまん」
 中断された会話を再開しながら、ゲドの意識は既に半分「猫」のことで占められていた。


 シーザーにはやっと昼食の休憩ということで猶予を貰い、ゲドは部屋を出て真っ直ぐに目的の部屋へと向かった。
 あまり足を踏み入れたことのない部屋の前で一旦止まり、閉ざされている扉を数度、軽くノックする。
 返答がないようだったので、もう一度同じことを繰り返したが、やはり応答はなかった。
 数瞬その場に立っていたが、ゲドは「入るぞ」と声を掛けて扉を開き、部屋の中へと足を踏み入れた。
 いつ見ても殺風景な部屋の隅に置かれた寝台の上で、「大将の猫」がシーツに包まって眠っていた。
 その傍に静かに歩みより、ゲドは体をかがめてその寝顔を見つめた。
 エースが何を考えてあんな呼び方をしたのかは解らないが、その「猫」、つまりクイーンはこめかみに汗の粒を浮かせて、僅かに乱れた寝息を立てていた。時折小さな咳も漏らす。
 これは撹乱ではなく風邪のようだと冷静に考えて、ゲドはその熱を測ろうとクイーンの前髪を左右に流してから額にそっと触れた。
 その感覚が、クイーンの意識を引き戻してしまったらしい。
 小さな声を漏らして、うっすらと開いた瞳が顔を覗き込むゲドの顔を見上げた。
「……エース?」
 寝起きで掠れながら、小さく呟かれたその言葉を、ゲドは聞き逃さなかった。
「俺だ」
 応えた声が、憮然としていなかったかどうかは、自信がない。
 途端に目が覚めたらしい。ぱっちりと目を見開き、クイーンがはっきりとした視線でゲドを見つめて、目を瞬かせた。
「ゲド?どうしてここに」
 クイーンの熱がさほど高くない事に内心安堵して、枕もとに落ちていた濡れタオルを拾い上げると、ゲドはテーブルの上の水盤にそれを浸して絞った。
「どこかの世話焼きが、俺のところに来てお前が倒れたから見に行けとせっついたんだ」
「ああ、余計な真似を…。あんたにはこんな格好悪いところは見られたくなかったのに」
 舌打ちして、クイーンは自分の頬に手をやった。
「化粧なんてまるでしてないし、汗だらけだしね」
「そんな状態では、当たり前だ」
 ゲドは絞りなおしたタオルを、クイーンの額の上に載せてやった。
「……やはり、俺のせいか?」
 心当たりがあるゲドがそう問い掛けると、クイーンはくすりと小さく笑った。
「そうかもね。どこかの誰かさんが、あたしの服を剥いだまま、一向に着直すチャンスをくれなかったんだから」
 明け方、クイーンがゲドの部屋を出るときに、しきりにくしゃみをしていたので気にはなっていたのだ。
「汗をかいて、体が冷えたんだろうね」
「すまん」
 同じ条件だった筈の自分はけろりとしているので、ゲドは申し訳なく思い、そう謝るとクイーンにさらに笑われた。
「馬鹿だね、誰も謝って欲しいなんて言ってないよ」
 さらりと応えたクイーンの声が案外しっかりしていることを確認して、ゲドは円卓の上に置かれた大きな桃に目を遣った。
 完熟しているらしく、傍にいるだけで甘い香りが漂ってくる。
「そういえば、エースが桃が何とかと言っていたが……」
「桃?」
 ゲドの視線の先にあるそれをクイーンも見つけ、怪訝そうに首を傾げた。
「お前が食べたいと言ったのか?」
「え?いや、あたしは……」
 かぶりを振りかけて、クイーンはふとその動作を止め、笑みを口の端に上らせた。
「ああ、でも、寝ぼけてそんな事をいったような気もするねえ」
「……本当か?」
「食べさせてくれるんだろう?」
 ゲドはずっしりとした重みのある桃を手に取り、クイーンを振り返った。
 クイーンが頷いてみせる。
 頭の中で、シーザーに与えられた猶予の残りを計算し、まだ時間があると判断したゲドは承諾した。円卓の前にあった椅子を寝台の前に移動させてその前に座り、腰のポケットから折りたたみナイフを取り出した。


 そっと持っただけでも手形のつきそうな、脆く柔らかい桃の果実を細心の注意を払って扱って、ゲドはナイフを使って薄紅の皮を手早く剥いていった。
 皮を剥くごとに、中の白い実が露わになる。
 半分ほど皮を剥いたところで、ゲドはその実を一口大に切り取り、片手を空けてそれを摘むと、横になってゲドの様子を見つめているクイーンの口元に運んでやった。
 クイーンは躊躇わずに唇を開いて、桃を一口で飲み込んだ。
「腹に何か入れたのか」
「これが最初だよ。食欲がなかったから」
 ゲドが手際よく剥いて差し出す果実を頬張って、クイーンは満足げに笑った。
「美味しい。ゲド、あんたも自分で食べてみなよ。エースが良い桃を見つけてきてくれたみたいだ」
 クイーンが何気ない様子でエースの名を口にしたのを耳にして、先ほどの憮然とした気分が甦ったゲドはそれに返答せず、僅かに眉を寄せたのみだった。
 そのまま黙々と桃の皮を剥く。
 普段よりも無防備な姿でいるクイーンの私室に、風邪を引いているからとはいえ、エースが入り込んでいること自体が気になっていた。大体、何故エースが真っ先にクイーンの様子に気付いたのか。同じ隊の仲間同士で気の置けない間柄といえ、女の部屋に男が入るのには、それなりの理由が必要なのではないか。
 そんなことを頭の中で考えながら桃をいじっているゲドを、クイーンは首を傾げて見つめていたが、ゆっくりとした動作で起き上がると、ゲドの腕に手を置いた。
「ちょっと、ゲド。考え事をしながら刃物を扱うのは悪い癖だよ。あんたに限って手を切ることはないだろうけど…。そんなに、今、大変なのかい?」
 ゲドの身を気遣うクイーンの視線に我に返り、ゲドは自分の考えていた事に気付いてうろたえた。
「いや……」
 言葉を濁し、ゲドはナイフを円卓の上に置いた。最後の桃の欠片をクイーンに渡そうとして、その手を押し戻される。
「味見してないだろ。いいから食べてみなよ」
 促されて、ゲドは桃の実を口に入れた。
 甘い匂いが、鼻腔に広がる。クイーンの言うとおり、熟して甘すぎるほどの桃だった。
 甘味を口に入れた事によって自分の空腹も思い出したが、時間はもうそれほど残っていなかった。
 果汁の付いた手を水盤で洗おうと椅子から半分腰を上げたところで、ゲドはクイーンに手首を抑えられた。
 捉えたゲドの手を、クイーンは己の口元に持っていき、その指先から垂れそうな水滴を舌ですくい取った。
「勿体ないからね」
 手を離し、そう言ってクイーンは含み笑いをした。
 そして、水盤で手を洗うゲドの背に声を投げた。
「まさかと思うけど、妬いてるんじゃないだろうね」
「……何のことだ」
 図星を差され、ゲドが一瞬の沈黙を置いて言葉を返すと、クイーンは含んだ笑みに余裕を加えた。
「もし、昨日一晩付き合ってやってもそうなら、どうしようもないやきもち焼きだものねえ?」
「……」
「さ、仕事が残ってるんだろ?早く行きな、ゲド」
 振り返って抗弁しようとしたゲドを、クイーンはその言葉で急きたてた。
 確かに、休憩はもう終わりだった。大人しく扉に手を掛けたゲドは、肩越しにクイーンを見て、大分回復した様子を確認した。
「また後でくる」
 無理をするな、というクイーンの声を背に、ゲドは扉を後ろ手に閉めた。
 今頃、シーザーが自分が戻ってくるのを待っているだろう。急ぎ足になりながら、ゲドは何気なく手を上げて伸ばしっぱなしの前髪を払った。
 どこからともなく甘い香りが漂う。それが自分の手からだと知ると、ゲドは手の甲を口に寄せてその匂いを嗅ぎ、同じ匂いがするはずの女の唇を考えた。
 戻ってきた時に、それは確かめればいい。
 今はそう考える事にして、ゲドはシーザーの元へと急いだのだった。


 ・・・THE END・・・