Forest Elf
〜月の涙編〜
―― 第九話 ――




「気分はいかが、レンドラの騎士様?」

 男が意識を取り戻して、真っ先に聞いたのはその言葉だった。
 底なし沼に腰まではまっていた旅人の行く末のようにハッキリとしなかった意識がその刹那のうちに覚醒し、眼を押し開くと彼は強烈に体を跳ねおこした。
「……ッ!?」
 すぐに、自分が寝かせられているのがベッドの上だというのは解った。
 そしてその傍らの椅子に座っている、微笑を湛えたエルフの娘にも気がついた。
(…違う…)
 そういった意識が、真っ先に男の頭に浮かんだ。
 それは、失意の類の感情であったかもしれない。
 男の僅かな表情の変化を、眼前のルミは鋭敏に捕らえた。
「お姉様じゃなくて残念でしたか?」
「えっ…あっ、いやっ……」
 くすくすと笑みを漏らすルミに自分の心を見透かされた気がして、男の顔が一瞬のうちに赤く染まる。
 その羞恥にまみれる仕草がいかにも、まるで初恋をしたばかりの幼童のように見えてしまって、ふふっ、とルミは口元を綻ばせてしまう。
「初めまして、私はルミエール、ルミと呼んでください。見てのとおり、エルフ族の娘です」
「あっ…は、はじっっ……ッ!」
 ただでさえ思考がパニックの所に、不意打ちのように自己紹介をされて、男は発言の途中で舌を噛んでしまった。
 その痛みが、僅かばかり彼の頭をいつもの状態に近づけた。
「は、初めまして、僕…いや、私はレンドラ準聖騎士隊所属、ノエル・ハウゼル。出会えて光栄です、ルミエール殿」
 上ずった声が、後半にいくほど徐々に穏やかな口調に変わっていった。
 顔の紅潮もとれて、優しげな笑みと涼しげな雰囲気を携えた、絵に描いたような好青年に戻りつつあった。
 恐らくはこれが青年―――ノエルの本来の姿なのだろう、とルミは思う。
「殿、はやめてくださいます? それと、ルミ、で結構ですわ、ノエル様。」
「いや、しかしそれでは…」
 と、ルミの提案にノエルはいっぱしの騎士の面構えで異議を申し立てる。
 眼前の青年のそういった対応が、ルミにしてみれば可笑しくて仕方がなかった。
 エルフ族は人間より遙かに長命な生物だ、当然ルミもルカも眼前の男の祖父の祖父の祖父が生まれる前くらいには既に成人して今の姿となっていたのだ。 
 そういったルミから見れば、眼前の、まだ生まれて20才そこそこの男など、それこそ赤子にも等しく見えてしまう。
 それが、いっぱしの面構えで、先ほどの醜態を必死に包み隠そうと騎士の仮面を被れば被るほど、男のそういった行動がルミには面白可愛くて(可愛くて面白いの意)仕方がないのだ。
 それでも、ルミはさすが年上としての配慮、笑い声などは漏らしたりせず、青年と応対する。
「ノエル様、ここは私たち、エルフの森です。 私たちの言い分に従えないと仰るのでしたら、即座に森を退去していただかねばなりません」
 ルミは瞳を僅かに細め、ややキツイ口調で言い放った。
 勿論演技だ、しかしこういった口調のほうが、青年のほうも先ほどの醜態を忘れて真剣な話をしやすいのではないか、という配慮もある。
 青年―――ノエルはルミが思った通りに表情をさらに引き締め、微かに頭を下げた。
「…解りました。それでは…ルミ…さん、というのは…?」
 ノエルが、真面目な顔でその提案をしたとき、さすがのルミも口元をひくりと歪ませた。
 気を抜けばそのまま大爆笑にまでいっていたかもしれない、が、そこは何とか耐えた。
(呼び捨てでいいって言ってるのに……)
 そう思ったが、しかし礼儀正しい騎士様にしてみれば、会ったばかりの女性を愛称で、しかも呼び捨てにするというのは苦痛以外のなにものでもないのかもしれない、と思う。
「ノエル様がその方が楽だと仰るのでしたら、それで構いませんわ」
「…できればその、『ノエル様』というのもやめて頂けると……」
 ノエルは困ったような笑みを浮かべて、恐る恐る申し立てる。
「あら、お客様に敬意を払うのはエルフ族としての風習なのですけど、お気に召しませんか?」
 真っ赤な嘘だった。
 しかしこう言えば、ノエルも納得するだろうとルミは思ったのだ。
「いえ、そういうわけでしたら………」
 そしてその思惑通りに、ノエルは渋々承諾したようだった。
 ここで意を唱えれば、エルフ族の風習そのものを否定することになるかもしれない、と考えたのかもしれない。
 どちらにせよ、ルミの思うつぼなのであるが。
「それで、南の大国、レンドラの準聖騎士様がはるばるこんな辺境まで参られたのは、どのような御用向きで?」
「それは―――………?」
 ノエルが口を開こうとした刹那だった。
 ついっ、と何か透明なものが、彼の視線の先、ルミの背中の扉を通り抜けてきたのだ。
「あら…お姉様からね。何かしら…?」
 ルミはまるで背中に目でもあるように、それに気づき、振り返った。
 透明なそれは、よく見れば白っぽい、下半身が竜巻のようになっている人のようにも見えた。
 風の精霊に属するシルフだった。
 シルフはルミの耳元で何かをぼそぼそと精霊語で囁くと、即座に空気中に霧散していった。
「…どうか、なさったんですか?」
「いえ、ちょっと…」
 ルミの返事は、微かに怒気が含まれているようだった。
 笑みを浮かべたまま、ノエルの方を振り返るも、心中ただならぬ様子は隠しきれない。
「あの、すみません。用件を伺う前に…ちょっと、ノエル様の力を貸して頂けます?」
「えっ…ぁ、それは、私に出来ることなら何でも構いませんが…一体?」
 ベッドから立ち上がろうとしているノエルに、ルミは恥ずかしそうに、しかし痙攣する青筋も同時に浮かべながら、説明した。
「…木に登ったのは良いけど、高く上りすぎて降りられなくなった大バカさんを助けて頂きたいんです」
 


 

 
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