「…失礼する」
場末の酒場に澄んだ声が響いたとき、その場にいた全員が思わず入り口の方に目をやった。
真っ昼間である。客はそれほど多くなかった。
円形のテーブルを3人ほどで囲み、賭博に声を荒げる者、麦酒のジョッキを片手にカウンターで春の陽気にうとうとしている者。
どちらにせよまっとうな人間ならばこんな時間に酒場で酒など飲まないし、飲みに来るわけがないのだ。
だから、酒場の入り口、両開きの木扉を押し開くときにご丁寧に『失礼する』などと断るような几帳面が現れたとき、皆がその方を見た。
一言で言えば、好青年だった。
風雨しのぎのマントから除く顔立ちはまだ幼さが抜けきらない。が、しっかりとした意志の感じられる眼孔と、その物腰は若いながらもそれなりの威厳が感じられた。
どれほどの旅をしてきたのだろうか、その綺麗な顔立ちには確かな旅の垢と埃がこびりつき、ブラウンの髪は少々泥で汚れていた。
腰には一本の長剣を差し、そのほかには武装らしい武装はしていなかった。マントの下は地味な色の旅衣で、黒く染められた皮のロングブーツもまた、彼の旅の長さを示すようにすり切れ、泥に汚れていた。
客達はひとしきり男の様子を眺め終えると、すぐにまた自分たちの楽しみを続行し始めたようだった。
テーブルで賭博をしていた三人組だけが、若者の腰にチラリと見えるその重そうな金貨袋をねたましそうに見たが、それだけだった。三人は物欲はあったが、幸か不幸か今日に限って丸腰に近い格好だった。
いや、たとえ武装をしていたとしてもはたして若者に対して三人は何もできなかったであろう。そう思わざるをえないものが、若者の長剣の鍔の部分に記されていたからだ。
それは菱形の、緑色の宝石だった。
無論ただの宝石ではない。薄暗い屋内で鈍く光りを放つそれは内に確かな魔力を秘めていた。
その宝石の埋め込まれた長剣を見た者は、余程の世間知らずでない限りはすぐにこう思うはずだ。
―――ああ、レンドラの準聖騎士様か。
と。
準聖騎士―――俗にレンドラ聖騎士団予備軍の騎士達のことをそう呼ぶ。
南の強国、聖レンドラ。そのお抱えの聖騎士団の勇猛さは海を一つ越えた先の大陸にまで届くほどだ。
人数は決して多くはない、100人にも満たないであろう。
それはひとえに聖騎士と認められるための難度が並々ならぬ事をしめしている。
武芸(剣、槍、棒、斧、弓、格闘等々)はもちろん、僧侶並の回復魔法を初めとする神聖魔法に加え、ちょっとした魔術師並みの攻撃魔法をもマスターしていることがまず前提条件。
そのうえで真剣を用いた実技試験、人格査定等々、諸々の試験をクリアした者だけが準聖騎士として認められ、さらに2年間の養成所生活を経て、ようやく”最終試練”へと進むことができるのである。
その最終試練の内容はそれぞれ様々で、早くて1年、普通は4,5年、容量の悪い者は一生かかっても達成できないと言われている。
そういう難関だからこそ、というべきか。大陸各地から、はたまた海を渡ってまでレンドラで聖騎士となるためにはるばるやってくる若者は、後をたたない。…もちろん、その中の9割以上は志半ばで挫折するか、実戦訓練で命を落とすかで無事聖騎士となれるものはほんの僅かなのであるが。
最終試練へと進んだ準聖騎士には、一振りの剣が与えられることになっていた。それが、柄に緑色の宝石が埋め込まれた魔法の長剣で、準聖騎士は試練中肌身離さずこれを携帯せねばならない。
もし試練半ばで剣を失うようなことがあれば、それだけで試練は失格となり、準聖騎士の資格も剥奪されてしまうのだ。
この魔法の長剣は、ただ単に準聖騎士の証というだけではなく、剣その物の価値もなかなか高い。故にそれを狙う輩もまた多い。
試練の最中、つねにそういった輩に対して神経を巡らし続けることも騎士としての修行のうちなのだ。
最も、聖騎士一人の力は小国の常時出撃可能な軍事力ほどにも匹敵すると言われている。その予備軍とも言うべき準聖騎士相手に喧嘩を売るような相手は余程の腕自慢の武芸者か、大勢力の盗賊団か、目端の利きに自信がある者くらいだろう。
酒場の三人組には、どれもが無かった。ただ、まるで敗者の如く身を寄せ合い、皺の刻まれた表情に一層の陰をおとすだけだ。
若い準聖騎士は視線だけを軽く走らせて酒場の中を見回した後、静かに歩を進めるとカウンターの席に腰を下ろした。
苦い顔でグラスを磨いていた老年のマスターが無言のまま持っていたグラスに水を注ぎ、男の前に置いた。
「ありがとう」
男は静かに礼を述べると、喉が渇いていたのか、すぐにグラスの半分ほどの水を飲み干した。
僅かに果実の汁が混ざっているのか、ほどよい酸味が乾いた喉に心地よかった。
「注文は?」
とは、寡黙なマスターは聞かない。ただ、静かに別のグラスを手に取ると、確かな手つきで磨き始める。
異様なほど茂った眉毛に隠れてその視線はどちらを向いているのか良く判断がつかなかったが、別段、男を見ているという訳ではなさそうだった。
男はしばし、バツが悪そうにきょろきょろと周囲を見渡したりして時間をつぶした。
その仕草、まるで酒場に入ったのは今日が初めてといわんばかりの幼稚さである。
やがて、意を決したようにその唇が開いた。
「……”月の涙”を探してるんだ」
「…ほう?」
まるでそういう呻きを漏らすような風に、マスターの唇がかすかに開いた。
とはいっても、たっぷりの口ひげに隠れていて、容易にはそれは確認できないのだが、それでも若い準聖騎士にはそれで十分だったようだ。
「この辺りに、エルフが住む森があると聞いた。…それを、教えて欲しい」
男は一息にそれだけ言うと、ジッとマスターの反応を見た。
若さと、確かな意志の宿った目だ。男のそういう視線をうけて、マスターはどことなく口を緩めたようだった。
やがて、グラスを磨く手を止めると、カウンターの下からなにやら古ぼけた紙の束を取り出し、男の前に置いた。
「これは………?」
男はすぐにそれを手に取り、見た。
それは、幾分相場より高めの金額が記されている、酒場のメニュー表だった。
|