Akikoが亡くなってもうじき1年

月日の経つのは早いものです。たくさんの方に見送られ、天国に旅立ってから、もうすぐ1年が経ちます。その後もお花が届いたり、お参りいただいたり、私たち家族を心配していただいたり、とても感謝の気持ちでいっぱいです。この一年の記録です。

2月  四十九日法要  三重県の田舎で行いました

4月  100日法要  自宅でお経を上げてもらいました

    101日参り  翌日、この地域の風習の大山参りに行きました

     100日目に大山に登ると亡くなった人そっくりな人に会えるのだそうです。           
5月  お墓参り    義父の17回忌のため帰省しました

7月  親孝行&お墓参り 
    元
Akikoのヘルパーさん、現在は私のよき友人となったSさんと田舎    に行きました。                       
93歳で一人暮らし(近くに長男夫婦がいる)の義母を近くの温泉に連れて行ってきました     

7月  初盆  自宅でお経を上げてもらいました若いお坊さんで、お経を唱える声が、 声量があって、すばらしくいい声で、とても気持ちよかったです。俳優さんみたい だね。と皆の感想でした。
8月   田舎での初盆 
この地独特の風習のお盆です。白提灯などのお炊き上げをしてもらいました。 
踊りのあと、新盆の家族が吹流しのような大きな提灯・たいまつ・長い線香を持って行列になって近くの川まで行進します。
河原に下りてそこで提灯などのお炊き上げをします。とても幻想的な感じです。
真っ暗な空に月がきれいに見えました

自宅には、お友達からお花が届きました
10月  Akikoを偲ぶ会&親孝行 鳥羽に義母やお世話になっている田舎の親戚を招待しました。義母のにこやかな顔がうれしかったです。 賑やかな宴会となりました。
12月 一周忌法要   
18日に自宅で行いました。
早いもので23日が祥月命日です。当初4日の予定でしたが私の父が2日未明入院先の病院で亡くなりお通夜が5日になったので急きょ延期しました法要には親戚家族、友人が参列してくれました。


家族で、今年一年
Akikoのために心をこめて法要をおこなってきました。向こうの世界でAkikoはアイドルになっているかもしれません。きっと可愛がられているでしょう。おっちょこちょいのあの子のことだから任務は時々間違えているかもしれませんね。  
12月末 お礼状の発送  お世話になった皆さんに心からのお礼状を送らせていただきました。   

日本せきずい基金ニュース第51号 2011年12月刊行 第1版

〔追悼〕樋口暁子さんを 偲んで

神奈川県で在宅呼吸療法で暮らしていた樋口暁子さんが
2010年12月23日、呼吸器のトラブルのため亡くなられました
(享年39歳)。暁子さんは医療機器商社の東機貿が開催する
「患者さんのお話を伺う会」で講演をする予定であったが叶
わず、お母様のふみ子さんが代わって報告した内容を以下
に掲載させて戴きます。〔せきずい基金事務局〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▼ 娘はこの会のお話を頂いてから原稿を考えるより先に
どこで食事しようかと、会場の六本木に出かけることを楽し
みにしておりましたのに、このような結果になってしまったこ
と悔やまれてなりません。

米国で交通事故

12年前、アメリカ・カルフォルニアに留学中のある夜、学
校帰りの信号のない歩道を横断中に100km近いスピード
の乗用車に跳ね飛ばされました。背負っていたリュックが窓
ガラスを破って助手席に飛び込んだそうです。相手はベト
ナム人で失業中の21歳の男性――
事故直後より後続のドライバーが人工呼吸を施してくれ、
病院に運ばれた時には反応はなかったそうですがICUで
蘇生したそうです。すぐに家族は英語が話せる姪を伴って
アメリカに飛びました。大きく立派な病院で、ドラマで見るよ
うな光景が私たちを待っていました。「一生呼吸器が必要」
と告知され、気管切開をしました。私は娘に付き添いアメリ
カで生活、夫は日本で病院探し。受け入れ病院がなかな
か決まらず、とても大変でした。いったん受け入れをOKし
てくれた病院もレポートを見たとたん断ってきました。やっと
受け入れ病院が決まり1ヶ月後に帰国できました。

在宅生活へ

一生病院から出られないと思っていたら担当の医師から
「自宅が一番いいですよ」と言われ自宅に戻ることが出来る
ことを知り、在宅介護を決心しました。

アメリカで1ヶ月、県立病院で5ヶ月、リハビリ病院で5ヶ月
と、計11ヶ月間の入院生活を経て在宅生活に入りました。
私たちは当時マンション住まいだったため、在宅介護に向
けて、家探し・改装・引越し、退院の準備などなど夢中でした。

受傷直後は当たり前ですが、娘は「呼吸器をはずして欲
しい」と看護師や私に訴えました。友達の見舞いも拒否して
いました。私たちが娘の「口パク」を読み取ることが出来な
かったため言いたいことが伝わらず、伝えることを諦めるこ
とも多かったです。意志を伝えるのに時間がかかるため、
娘は周りの会話を聞くだけということも多かったと思います。

声を出したい!

それでもロパクで必死にしゃべり、看護師さんと仲良く
なっていきました。声を失った辛さ、まどろっこしさに、何と
か声を、せめて声をと先生に訴え、本人の必死さもあって

カニューレのカフを抜いて空気の漏れを利用して声を出せ
るようになりました。

しかし7〜8年経った頃から徐々に切開孔が大きくなって
声が出にくく、息が苦しくなりました。医師からは「声を諦め
てください」と…… おしゃべり好きな娘が声を失うことは諦
めきれず、リハビリ病院の先生に相談し試行錯誤の末、内
筒付きのカニューレに穴を開けて空気を漏らすことで再び
声が戻りました。

NPPVへ変更

それでも、2〜3年後にはふたたび切開孔の広がりで声が
出にくくなりました。この頃、NPPV〔非侵襲的呼吸療法〕のこと
を思い出し、ワラをもすがる思いで関西の病院へ受診し、
手術をすることになりました。

ここで呼吸器の機種変更をすることになりました。呼吸器
を選ぶ条件は、飛行機に乗れること・バッテリーが長時間
持つこと、これが「東機貿」さんとの出会いでした。

以前は、タイコーヘルスケアのアチーバでした。担当者
が、毎月消耗品(人工鼻)を持って器械の点検にきてくれて
いました。穏やかな方で情報を頂いたり、私の愚痴を聞い
てもらったり、娘の話し相手になってもらったり……

業者が代わり今度の担当者はどんな人だろうと不安な思
いでした。自宅に戻り、新たな担当者として東機貿の内田
さんにお会いしました。内田さんはとても好感が持てる方
で、声を取り戻した娘はよくおしゃべりをして、内田さんは
娘の中ではお気に入りに入っていましたよ。

コミュニケーションを深め、生活を拡げる

呼吸器利用者によるピアカウンセリングは、私たちにとっ
てとても大切でした。ほかの人はどんな生活しているのか?
どんな工夫をしているのか?どんなものを使っているのか?
直接話を聞きたい。ほかの方々はどうしているのか、情報
が欲しかった。個人情報保護法がとてもじゃまでした。

日々の生活ですが、訪問看護・訪問ヘルパー・入浴サー
ビス・マッサージ治療等のサービスを受けていました。病院
への通院・リハビリ病院での訓練に出かけます。普段はお
笑い番組や映画番組・芸能情報などのテレビがお友達。

パソコン・ボランティアさんとHPの更新をしたり、お友達が
遊びに来てくれておしゃべりしたり。最近ではパソコンを自
分で出来るように音声入力のソフトを導入して大分なれてき
たところでした。美味しいものが大好きで、テレビ情報だっ
たり誰かから聞いたりしたら、買ってきてもらったりお取り寄
せしたり、予約をして外食をしたりと楽しんでいました。

車椅子の方たちの交流会を利用して旅行をしていまし
た。勢いで北海道やハワイにも行ってしまいました。交流会
等で知り合った車椅子の方々から直接話を伺うことで、自
分たちでも出来ること、使えるもの等を知ることが出来ました。

私たちは「話す」というコミュニケーションがとても大切なこ
とだと知りました。不便な身体になりましたが大勢の人と関
わり、人の温かさを親子で感じていました。本人の言葉で
お話できませんでしたが、写真から感じ取って下さい。

追記:講演後の東機貿の佐多保彦社長からの礼状には、
「暁子さんのメッセージを受け止め、声を出すことが出来る
人工呼吸器の開発にも重要なテーマとして取り組んで行きた
い」としたためてあった。■


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