数字 

一を以て之を貫く :
(1をもってこれをつらぬく):

参乎、吾道一以貫之:

【『論語』】:

一つの道理をもって、事のすべて、生涯の全てを貫く。 孔子が、その弟子、曽子を通して、その生活姿勢を示した言葉。

[出典] 「参乎、吾道一以貫之」 (『論語』−「里仁」)



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一を挙げて百を廃す :
(1をあげて100をはいす):

所悪執一者:

【『孟子』】:

一つのことにこだわって他の大事をおろそかにすることの謂い。

[出典] 「所悪執一者、為其賊道也。挙一而廃百也」 (『孟子』−「尽心・上」)


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一を聞いて十を(万を)知る :
(1をきいて10を(ばんを)しる):

回也、聞一以知十:

【『論語』】:

少しのことを聞き知っただけで、他の全てのことがわかる。理解の早さ、洞察力の鋭さをを形容していう。

[出典] 「回也、聞一以知十、賜也聞一以知二」 (『論語』−「公冶長」)



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一華開けて天下の春 :
(1げひらけててんかのはる):

抑一華開者天下皆春:

【『往生講式』】:

心眼が一度開けると、この世がそのまま仏法世界の妙なる姿を現していることに気付くという譬え。転じて、一つの兆しによって、全体の動向を察知する譬えにもいう。

[出典] 「抑一華開者天下皆春。一発心者法界悉道。身雖人身、心同仏心」 (『往生講式』)



一葉落ちて天下の秋を知る

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一巻の終わり :
(1かんのおわり):

:

【−】:

《昔、活動写真の、一巻の終わり毎に弁士がこう叫んだことから》それでまで続いてきた物事の始末がついてしまうことの譬え。また、既に、手遅れであることの譬え。



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一竿の風月 :
(1かんのふうげつ):

回首壮遊真昨夢:

【『陸游』】:

一本の釣り竿を友として、俗事を忘れて自然の風物を楽しむこと。

[出典] 「回首壮遊真昨夢、一竿風月老南湖」 (『陸游』−「感旧」)


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一眼の亀浮木に逢う :
(1げんのかめふぼくにあう):

仏難得値:

【『法華経』】:

出会う機会がきわめて希であること。また、めったにない幸運に巡り逢うことに云う。もともとは、仏、または仏の教えにかなうことの難しさを譬えていう。

[出典] 「仏難得値、如優曇鉢羅華、又如一眼之亀値浮木孔」 (『法華経』−「妙荘厳王本事品」)


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一期一会 :
(1ご1え):

抑茶湯の交会は、一期一会といひて:

【『茶湯一会集』】:

一生に一度会うこと。また一生に一度限りであること。千利休の弟子であった、宗二の著、「山上宗二記−茶湯覚悟十体」にある、「一期に一度の会」から出た、茶会の心得をいうことば。



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一気呵成 :
(1きかせい):

:

【−】:

《「呵」は、息を吐く意》ひといきに詩や文章を作り上げること。また、大急ぎでものごとを成し遂げること。





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一貴一賎交情すなわち見わる :
(1き1せんこうじょうすなわちあらわる):

一品一富迺知交態:

【『漢書』】:

富貴なれば近づき、貧賤になれば遠ざかる、それによって世人の人情のうつろいやすさがわかることをいう。

[出典] 「一品一富迺知交態、一貴一賎交情迺見」 (『漢書』−「鄭当時伝」)


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一挙手一投足 :
(1きょしゅ1とうそく):

如有力者:

【『韓愈』】:

《一度だけ手を挙げ足を動かす 意から》僅かばかり骨を折ること。少しの努力。

[出典] 「如有力者、哀其窮而運転之、蓋一挙手一投足之労矣」 (『韓愈』−「応科目時与人書」)


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一隅を挙げて三隅を以て反せざれば、則ち復びせず :
(1ぐうをあげて3ぐうをもってはんせざれば、すなわちふたたびせず):

挙一隅不以三隅反:

【『論語』】:

四角のうちものの中で、一つの角を示され時に、他の三つの角についても類推して答えを返してくるようでなければ、二度と教える必要はない。例えば、”あちらが「北」だよ”と、教えてやった時、”それでは、こちらが「東」ですね。こちらが「南」、こっちの方が「西」ですね”と、答えることが出来ないようなものには、二度と再び教えてやる必要はない。 孔子の言葉で、一端を示して、その他の事は自ら悟らせようようする教育法。

[出典] 「挙一隅不以三隅、反則不復也」 (『論語』−「述而」)


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一犬形(影)に吠ゆれば百犬声に吠ゆ :
(1けんけい(かげ)にほゆればひゃくけんこえにほゆ):

諺曰、一犬吠形百犬吠声:

【『潜夫論』】:

《一匹の犬が物の形(影)を見て、あるいは何かの拍子に怯えて吠え出すと、百匹もの犬がその声を聞いて、いっせいに吠え出す と、云う意から》一人がいい加減なことを言い出すと、世間の人々がそれを本当のことして次から次へ伝え広めてしまうこと を云う。 「百犬」のところを、「千犬」;「万犬」とも云う。

   Like dogs when one barks all barks .

[出典] 「諺曰、一犬吠形百犬吠声。世之疾、此固久矣哉」 (『潜夫論』−「賢難」)



Like dogs when one barks all barks .

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一言半句 :
(1ごんはんく):

一言半句:

【『朱熹』】:

ほんのちょっとしたことば、多く否定文に使う。

[出典] 「一言半句、亦自可見」 (『朱熹』−「答陳安卿書」)

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一視同仁 :
(1しどうじん):

天者日月星辰之主也:

【『韓愈』】:

全てのものをわけへだてなく同等のものと視て、同じように仁愛を施すこと。

[出典] 「天者日月星辰之主也。地者草木山川之主也。人者夷狄禽獣之主也。主而暴之、不得其為主之道矣。是故聖人一視而同仁、篤近而挙遠」 (『韓愈』−「雑著・原人」)


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一事が万事 :
(1じがばんじ):

:

【−】:

一つのことを見るだけで、他の全てのことが推しはかられる。あまりよくない現れを見て、他の面でも同様悪いはずだと推察する場合に用いることが多い。


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一字千金 :
(1じ千きん):

:

【『史記』】:

@一字だけでも千斤の金に値する。詩文の表現や筆跡が非常に優れていることを尊んでいう。
A師の恩の深いことを譬えていう。

[出典] 秦の呂不韋(りょふい)が、「呂氏春秋」を著した時、咸陽の市門に千金と共に掛け、一字でも添削できた者にはその金を与えようといったという、『史記』−「呂不葦伝」にある故事による。


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一将衡成りて万骨枯る :
(1しょうこうなりてばんこつかる):

沢国江山入戦図:

【『曹松』】:

一人の将軍が功名を成すその蔭には、屍を戦場に晒す多くの兵士の犠牲があってこそ成り立つものである。縁の下の力持ちとして、蔭で多くの犠牲を払っている人たちのことを忘れ、功績を、指導者、代表たちにだけ帰して褒めそやすこと、そのような風潮を怒っていうことば。

[出典] 「沢国江山入戦図、生民何計楽樵蘇。憑君莫話封候事、一将功成万骨枯」(『曹松』−「己亥歳」)


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一触即発 :
(1しょくそくはつ):

:

【−】:

ちょっとした小さなきっかけで、直ぐも、戦争や乱闘などの起こりそうな緊迫した状態を指していうことば


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一心同体 :
(1しんどうたい):

:

【−】:

複数の人間が身も心も一つになって、まるで一人の人間のように行動すること。また、そのような状態。

     ※ 「一身同体」 と、誤用されることが多いが、「身」ではなく、「心」であるから、注意すること。


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一寸の光陰軽んずべからず :
(1すんのこういんかろんずべからず):

少年易老学難成:

【『朱熹』】:

(「光」は、昼、日を、「陰」は、夜、月を顕す。)僅かな時間でも、無駄にしてはいけない。時の経つのは早いものであるから、少しの時間もおろそかにせず、惜しんで努力すべきである と、戒めたことば。

[出典] 「少年易老学難成、一寸光陰不可軽」 (『朱熹』−「偶成」)


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一石二鳥 :
(1せき2ちょう):

:

【−】:

(「一個の石を投げて、二羽の鳥を同時に撃ち落とす」 意から)一つの行為によって、同時に二つの利益を得ることの譬え。

     To kill two birds with one stone.


To kill two birds with one stone.

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一切の男子をば生々の父とたのみ、よろずの女人を生々の母と思え :
(1さいのなんしをばしょうじょうのちちとたのみ、よろずのにょにんをしょうじょうのははとおもえ):

一切男子是我父:

【『梵網経』】:

すべての男を父と思って敬い、すべての女を母と思って大切にせよ。他を敬い愛することに心がけよよ という教え。

[出典] 「一切男子是我父、一切女人是我母、我生生無不従之受生」 (『梵網経』−「下」)



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一日三秋 :
(1にち3しゅう):

彼采蕭兮:

【『詩経』】:

「一日千秋」と同意。

[出典] 「彼采蕭兮。一日不見、如三秋蕭兮」 (『詩経』−「王風・采葛」

一日千秋

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一日千秋 :
(1にち千しゅう):

:

【−】:

《「千秋」は、千年に意》一日が千年もの長さに感じられること。思慕の情や期待の念から、相手を待ちこがれる気持ちの切なる様を云う。


一日三秋

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一念岩をも徹す :
(1ねんいわをもとおす):

:

【−】:

《石を虎と思って放った矢が石を貫き通したという、「韓詩外伝−六」などに見える故事から》心を集中して、思いを込めて信念で当たれば、如何なることでも成し遂げることが出来る、強固な信念で事に当たれば成し難いと思われていたことでも成し遂げることが出来る という譬え。


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一富士二鷹三茄子 :
(1ふじ2たか3なすび):

:

【−】:

夢見、特に初夢で見ると縁起がよいもとされる順位。江戸時代からの諺で、何れも、徳川将軍家に縁の深い、駿河の国と結びつけられているという解釈が多く採られている。富士(山)は云うまでもなく、鷹も、茄子(早生)も何れも駿河の名産。
吉夢 とする理由としては、「富士」は、”広大”。「鷹」は、”つかみ取る”、「茄子」は”成す”また、”無駄花がない”などが挙げられている説が多い。


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一別以来 :
(1べついらい):

:

【−】:

別れてこの方。この前会って以来。


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一望千里 :
(1ぼうせんり):

:

【−】:

一目で千里の彼方まで見わたされること。眺めが良く広々としていること。



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一味同心 :
(1みどうしん):

:

【−】:

同じ目的の下に力を合わせ、心を一つにすること。mじゃた、その人々。


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一面の網 :
(1めんのもう):

:

【−】:

((殷の湯王が、四面に網を張って鳥獣を捕らえるのを見て、逃げ場のないのをあわれみ、三面の網を解かせて一面だけにしたという「呂氏春秋−孟冬紀・異用」の故事から))仁政を施して法律の適用を緩やかにする譬え。


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一面旧の如し :
(1めんきゅうのごとし):

:

【『晋書』】:

初めて会って、古くからの知り合いのように親しむ。

[出典] 「陸機兄弟 <略> 見華一面如旧」 (『晋書』−「張華伝」)


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一盲衆盲を引く :
(1もうしゅうもうをひく):

抃身能捨命:

【『無門関』】:

((一人のめくらが大勢のめくらを案内する、意から))一人の愚者が他の多勢の愚者を指導して破滅に到らせることの譬え。

[出典] 「抃身能捨命、一目引衆目] (『無門関』−「竿頭進歩」)


          ※ 「出典」に、掲げた、「抃」の字は、本来は「てへん」に、「弃」だが、補助漢字のため、表記出来ず、同意文字を宛てた。



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一網打尽 :
(1もうだじん):

造謗者公相慶曰:

【『宋史』】:

((一度の網で多くの魚を取り尽くすことから))一挙に一味の者を残らず捕らえること。

[出典] 「造謗者公相慶曰、一網打尽」 ((『宋史』−「范純仁伝」)



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一葉落ちて天下の秋を知る :
(1ようおちててんかのあきをしる):

唐人有詩云:

【『文録』】:

《他の木より早く落葉するあおぎりの葉、一枚が秋が来たのを知る意から》僅かな現象をを見て、その大勢をを予知することの譬え。
[出典] 「唐人有詩云、山僧不解数甲子、一葉落知天下秋」 (『文録』)



一華開けて天下の春

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一陽来復 :
(1ようらいふく):

又自五月(女后)掛:

【『易経』】:

《”陰暦十月に陰気が極まり十一月の冬至から陽の気が初めて生ずる”の意から》冬が去って春が来ること。また、悪いことが続いたあと、ようやく好運に向かうこと。

[出典] 「又自五月(女后)掛、一陰始生、至之七爻、而一陽来復、乃天運之自然」 (『易経』−「復・本義」)

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一粒に百手の功当たる :
(1りゅうにももてのこうあたる):

:

【−】:

米一粒が作られるまでには、百回もの手間がかかっている。大変な苦労の末に生産されていることをいう。


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一蓮托生 :
(1れんたくしょう):

:

【−】:

《極楽浄土で同じ蓮華の上に生まれる の、意から》死後までも変わらぬ愛情を契ること。 また、転じて、ものごとの善悪や結果のよしあしに関係なく、行動や運命を共にすること。 専ら、こちらの意味に使われることが多いようだ。

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一攫千金 :
(1かく千きん):

:

【−】:

ひとつかみで千金をつかみ取ること。一度に巨額の利益を得ること。


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一瀉千里 :
(1しゃせんり):

儼然峡裡軽舟:

【『福恵全書』】:

((「瀉」は、水が下へ流れそそぐ意。川の水が一気に千里も流れ下る意から))物事の進み具合が勢いはげしく、よどみなく、速やかにはかどること。また、詩や文章がよどみなく一気に出来上がること、弁舌さわやかで明快に一気に論じ立てることの譬えにいう。

[出典] 「儼然峡裡軽舟、片刻一瀉而千里」 (『福恵全書』−「二九」)


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一簣の功 :
(1きのこう):

:

【−】:

《「簣」は土を運ぶかごの類。もっこ。『書経』−「旅ごう」の「為山九仞、功虧一簣」=(九仞の山を築くのに、最後の一杯の土を欠けば完成しない、の意から出た語》最後の一骨折り。完成直前の努力。事業を完成させるために積み重ねる一つ一つの努力の大切さを謂う。



九仞の功を一簣に虧く

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九仞の功を一簣に虧く :
(9じんのこうを1きにかく):

不矜細行:

【『書経』】:

《「仞」は、中国の周代の尺で八尺(約1.8メートル)、一説に七尺、五尺六寸ちも四尺ともいう。「簣」は土を運ぶ竹かご。もっこ。》九仞の高い築山をきずき上げる際に、最後の簣(もっこ)一杯の土を欠けば、その山は完成されないの意で、長年の努力も最後のわずかな失敗で、不成功に終わってしまうことの譬え。

[出典] 「不矜細行、終累大徳、為山九仞、功虧一簣」 (『書経』−「旅ごう」


   ※ 「旅ごう」 の「ごう」が、第三水準文字のため、標記出来ず、解字 表示も出来にくい為已むを得ず 仮名書きにした


一簣の功

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五日の風 :
(5かのかぜ):

太平之世、五日一風:

【『論衡』】:

五日一度、風が吹くこと。気候が順調な様。多く、「十日の雨」を付加して使われることが多い。

[出典] 「太平之世、五日一風、十日一雨、風不鳴枝、雨不破塊、雨必至夜」 (『論衡』−「是応」)




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 B 

Bad maney dives out good. :
(バッド マネー ダイヴス アウト グッド ):

-:

【-】:

品質の悪い貨幣が出回ると、良い品質の貨幣は、貯蔵されてしまい、市場に出なくなる。 所謂、「グレシャムの法則」と、呼ばれるもの。 悪人が蔓延ると、善人の活躍する場が無くなる という意味にも使われようになった、


悪貨は良貨を駆逐する

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 D 

Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Daemmerung ihren Flug :
(Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Daemmerung ihren Flug):

Die Eule der Minerva:

【『法の哲学』】:

Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Daemmerung ihren Flug.

ディ オィレ ディア ミネルヴァ ベギネット イーレスト ミット デァ アインブレチェンデン ダエマールング イーレン フルーク

ミネルヴァの梟は 夕暮れを待って 飛び始める。

ヘーゲルの『法の哲学』序文にを締めくくる詞。 「ミネルヴァの梟」はローマ神話の女神:ミネルヴァの使い召 として擬されており、「智慧」の象徴。
 『法の哲学』でヘーゲルは、「哲学」「哲学者」の使命として、この「ミネルヴァの梟」を見立てている。
則ち、哲学は社会現実離れしているように捉えられがちだが、実際は最も現実的な学問であること。しかしながら、「哲学」の使命は、本質的に、「観想」であり、「実践」ではない。「哲学」は”世界を認識する”学問であり、”変革”の任を帯びたものではない。従って、哲学者は時代の先駆者として、現実の(謂うならば「歴史」の)進行に先んじて、また先導して、それに「予言」を与えたり、「方向」を示したり、それに対して、感情的乃至は実践的に反応するのではなく、現実の進行が終わって後、その過程を静観し、そこにあるものを、「本質的なもの」と、「偶然的なもの」を弁別し、「本旨的なもの」に対して、これを概念的思惟によって把握し、これを学の体系の中に位置づけするのが役目であること。
 このことの表出として、「ミネルヴァの梟は〜」を用いている。


→(その他の用語)、 ミネルヴァの梟は黄昏の降りるのを待って飛び始める

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Durch Leiden Freude !! :
(ドゥルフ ライデン フロイデ):

Durch Leiden Freude:

【-】:

Durch Leiden Freude !! 

苦しみを突き抜けて 歓喜へ至れ !!    (ベートーヴェン の言葉)

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 I 

Ich denke also, bin Ich :
(イッヒ デンケ アルゾ ビン イッヒ):

Ich denke:

【『方法序説』】:

Ich denke also, bin Ich 


    吾 思う  故に  吾 在り

Cogito, ergo sum. (羅)
I think, therefor I am. (英)
Je pense, donc je suis. (仏)


デカルトが方法的懐疑の末に到達した、「哲学の出発点」となるべき、第一原理。
あらゆるものを疑うことができ、”一切が虚偽である”と考えるとしてもなお、斯く疑い、斯く考えている「自分」が存在していることは疑う余地がない。
そのように考え、疑いの目で万物を見つめている「吾」の「自己確実性」を表現したのがこの「辞」の命題。
その意味からすると、
   Cogito, cogito, ergo cogito sum. (吾有りと吾思う。故に、吾有りと吾思う)
と、表現した方が、より解りやすいかも知れない。




   ※ 因みに、編集子は、仏語については 一切解せず、掲載したのは、文献から転記したのみであり、羅語も この辞、一部の「単語」を知るのみ です。

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 L 

Like dogs when one barks all barks . :
(Like dogs when one barks all barks .):

:

【−】:

Like dogs when one barks all barks .

一匹の犬が吠えると、全ての犬が吠える出す。


一犬形(影)に吠ゆれば百犬声に吠ゆ



一犬形(影)に吠ゆれば百犬声に吠ゆ

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 T 

THe more haste , the less(worse) speed. :
(ザ モア ヘイスト 、ザ レス(ワー) スピード):

:

【−】:

THe more haste , the less(worse) speed.

より火急な用事なら、より、条件の劣ること少ない手段を選べ。

急がば回れ


急がば回れ

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To kill two birds with one stone. :
(トウ キル ツー バーズ ウィズ ワン ストーン):

:

【−】:

To kill two birds with one stone.

一個の石で、二羽の鳥をしとめる。

 一石二鳥。


一石二鳥

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 W 

Was vernunftig ist, das ist wirklich;unt was wirklich ist, das ist vernunftig. :
(Was vernunftig ist, das ist wirklich;unt was wirklich ist, das ist vernunftig.):

Was vernunftig ist, das ist wirklich;unt was wirklich ist, :

【『法の哲学』】:

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である



理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である

「ミネルヴァの梟」と同じく、ヘーゲルの『法の哲学綱要」(Grundlinien der Philosophie des Rechts)序文にみられる詞。
ヘーゲル哲学の根幹を成す命題。
ヘーゲルにとって、「哲学」とは、”理性的なものを基礎付け、現在的、現実的なものを把握すること”(この意味からして、哲学(者)は「ミネルヴァの梟」でであらねばならぬ)であった。
ヘーゲルにとって、”あるものを理解することが「哲学」であり、その「あるもの」は「理性」に他ならない。此処に置いて、「現実」との和解が果たされ、「現存する」=「国家」を「理性的なもの」として肯定するところから、ヘーゲルの国家論は立脚している。

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である

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Where there is a will, there is a way. :
(Where there is a will, there is a way.):

-:

【-】:

精神一到、何事かならざらん。
”やろう”とする強い意志をもって、事に当たれば、道は必ずや、拓けてくるものだ。 の、意。




意志のある所には道がある

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 あ 

あけの涙 :
(あけのなみだ):

-:

【-】:

涙が出尽くした後に出る、「血の涙」。特に、女性の流す涙についていう。

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あざなえる縄 :
(あざなえるなわ):

:

【-】:

「あざなう」は漢字で書けば、「糾う」と書く。縄などをよる。なう。あざう。というの動詞(他動四段)。
なっている縄が、交互に互いにつきまとっていることから、”災いと、幸福は、そのように交互にやってくるものだ”という譬えとして用いる。

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いざ鎌倉 :
(いざかまくら):

:

【『謡曲』−「鉢の木」(と目される)】:

さあ大変だ、一大事が起こった、直ぐにでも駆けつけねば・・・・の意。
鎌倉時代、大事件が起こると、諸国の武士が、幕府のある鎌倉に招集されていたところから出ている。
謡曲、「鉢の木」の中で、佐野源左衛門常世が、僧に身を窶した、時の執権、北条時頼を、それと知らず、遇したときに、
「是は只今にてもあれ、鎌倉に御大事あらば、ちぎれたりとも此具足取って投げかけ、錆びたりとも長刀をもち、痩せたりとも、あの馬にのり、一番にはせ参じ・・・・」
と、謂っているとこが、直接の[出典]とする説が多い。


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いざ知らず :
(いざしらず):

:

【−】:

正しくは、「いさ知らず」と使うべき詞。福祉:「いさ」と、感動詞:「いざ」を混同して使ってしまっているうちに定着してしまった。
一つのことを取り上げて、”そのことについてはよくわからないが(解る;分かる;判る)の意で、後に続く別の事柄を強調するときの表現法。

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いずれ菖蒲か杜若 :
(いずれあやめかかきつばた):

:

【−】:

菖蒲と、杜若、どちら同じ科の花で区別が難しいこと。
元来は、「いずれ菖蒲」 単体で用いられており、こちらは、その由縁が伝わっている。それによれば、
 源頼政が、鵺退治の賞として、菖蒲前(あやめのまえ)という美女を賜る時、十二人の美女の中から見つけ出すように言われ、
     「五月雨に 沢べのまことも水たえて いづれあやめと ひきぞわづらふ」 (「太平記−二一」)
と詠んだということから、 どちらも優れていて、選択に困ることを謂う。



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いつまでもあると思うな親と金 :
(いつまでもあるとおもうなおやとかね):

:

【−】:

人に頼る心を戒め、倹約の大切さを説いたことば


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ヱホバ與へヱホバ取りたまふなり ヱホバの御名は讃むべきかな :
(エホバあたへエホバとりたまふなり エホバのみなはほむべきかな):

是においてヨブ起あがり外衣を裂き髪を斬り:

【『旧約聖書』−「ヨブ記」T-20〜22】:

是(ここ)においてヨブ起あがり外衣(うはぎ)を裂き髪を斬り地に伏て拝し
言我裸にて母の胎を出でたり又裸にて彼處(かしこ)に歸らん ヱホバ與へヱホバ取りたまふなり ヱホバの御名は讃むべきかな
この事においてヨブは全く罪を犯さず神に向かひて愚かなることを言ざりき

                                                  (『旧約聖書』−「『ヨブ記」T-20〜22)


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阿漕が浦に引く網 :
(あこぎがうらにひくあみ):

:

【−】:

隠し事も度重なると、人に知られてしまうと言うことの譬え。阿漕が浦は、伊勢の国安濃(あの)郡(現:伊勢市)の海岸。伊勢神宮の奉納する魚を漁するため、一般には、禁漁区域だったが、ある漁師が、この地で、度々密漁していて、終いにはとうとう悪事が他の知るところなり、捕らえられたという伝説に基づく。

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阿吽の呼吸 :
(あうんのこきゅう):

:

【−】:

「阿吽」(あうん):密教で、「阿」は悉曇(しったん)十二母音の初音で、開口音、「吽」は、終わりで、閉口音。 密教ではこの二字を一切のものの大初と、窮極を象徴するものとしている。転じて、吐く息と、吸う息。 神社の狛犬がこの「阿」の象徴として、口を半ば開いた形の像と、「吽」の象徴ととして、口を閉じた像で「一対」となっているのは、このことに由来する。

「阿吽の呼吸」:相撲の仕切など、二人がが同時にあることを為す時の両者間の微妙な呼吸、調子、またそれがピッタリ合うこと。互いが、かけ声に出さずとも、その息が相通じ合うようになることまたその状態。  ※向田邦子 の作品に 『あ・うん』 がある。


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阿闍梨死して事欠けず :
(あじゃりししてことかけず):

:

【『俚苑』】:

「阿闍梨」は、高僧。地位の高い人でも、実際の仕事をしていない人は、その人が死んでも、大勢に影響はない。「名」より「実」が大切だと言いたい時に使う。

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愛は屋烏に及ぶ :
(あいはおくうにおよぶ):

愛其人者、兼屋上之烏、:

【『説苑』】:

人を愛すれば、その人の住む家の屋根にいる烏までも好きになる。その人に関する凡てものまでも好きになるという譬え。この後に、その逆に、「その人を憎めば、その仲間たちも同じようになる」と、続くが、現在は専ら、前半部だけが使われている、

「臣聞、愛其人者、兼屋上之烏、憎其人者、悪其余胥」 [『説苑』−「貴徳」

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愛縁奇縁 :
(あいえんきえん):

:

【−】:

互いに愛し合うことになるのも、その時の巡り合わせによる縁によるという意。 元来的には”<愛縁>も<機縁>による”という意を取って、仏教のことばとする説もある。後には、「相縁機縁」、「合縁機縁」とも書かれるようになって、単に男女間の情愛に留まらず、夫婦、友人の仲について、和合するもしないのも、全て「因縁」によるという意味合いで使われるようなたった。

「それでも人は相縁機縁、破れ鍋に綴じ蓋だから」 [『勧善懲悪孝子誉−二幕]

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愛別離苦 :
(あいべつりく):

:

【−】:

そぞれ独立して使われることがおおいが、「会者定離(えしゃじょうり)」と連なって、”この世には、愛する者と別れるという苦があり、会った者とは、必ず別れが来るという運命にある” というこの世の悲しさを表す表現として使われる。 「愛別離苦」は仏教の、八苦のひとつ。

「愛別離苦、是故会者定離」[法華経−譬喩品]

会者定離

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悪衣悪食を恥ずる者は未だ 与に議するに足らず :
(あくいあくしょくをはずるものはいまだともにぎするにたらず):

:

【『論語』】:

衣服や、その食事が質素だからとか、粗末だからとといって、恥ずかしがるような者は、まだまだ精神的な修養について、語り合う資格がない。

[出典] 「子曰、志士於道、而恥悪衣悪食者、未足与議也」 [『論語』−「理仁」]

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悪貨は良貨を駆逐する :
(あっかはりょうかをくちくする):

:

【】:

質の悪い粗悪な貨幣が流通するようになると、質の良い良貨は、貯蔵されてしまい、市場に出回らなくなり、悪貨だけが市場を出回るようなってしまう。という、「グレシャムの法則」と呼ばれる理論。 転じて、悪人が蔓延る世の中では、善人は不遇であるという意味にも用いられるようになった。 グレシャム(Thomas Gresham)は16世紀のイギリスの財政家、貿易家。貨幣の改鋳に努力し、その意見をエリザベス(T世)女王に提出した意見書の中に、ここのことを述べている。
Bad maney dives out good.

Bad maney dives out good.

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悪事千里を行く :
(あくじせりをいく):

:

【『北夢瑣言』】:

「悪事千里を走る」とも言う。悪い行いや、悪い評判は、すぐに世間に知れ渡るということ。戒めとして使われる事が多い。「悪事千里」

「扨も悪事千里をはしるならひにて、伊豆二郎未練なりと鎌倉中に披瀝有ければ 〔曾我物語-10〕

<出典>[好事不出門、悪事行千里] [北夢瑣言]


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悪女の深情け :
(あくじょのふかなさけ):

:

【−】:

美人はとかく、情が薄いが、醜い女は愛情や嫉妬心が特に強いということ。これより転じて、専ら、”ありがた迷惑”の場合の譬えとして使われる事が多い。

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悪人に褒められるより善人に笑われよ :
(あくにんにほめられるよりぜんにんにわらわれよ):

:

【−】:

悪人に、褒められるようとすよりも、善人に笑われるようになりなさい。悪人と交わるような事をせず、善人と交わるようにすべきである。 の意。

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悪銭身に付かず :
(あくせんみにつかず):

:

【−】:

不正な手段で入手した金銭は、とかくつまらないことに使われてしまいがちで、残らないものである の意。

「もし悪銭身に付かずとはよく申したもの、僅二月たつかたたぬにみな耗(す)つてしまひました」 [歌舞伎:「三人吉三廓初買−序幕]


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悪法も亦法なり :
(あくほうもまたほうなり):

:

【−】:

悪い法律であっても、現行施行中の法律である以上、守らなければならない。 こう言って、逃亡の機が充分にありながら、毒杯をあおって、「死刑」の途に着いたソクラテスの言葉として知られている。


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悪木盗泉 :
(あくぼくとうせん):

:

【『周書』】:

古代中国での教えのひとつ。清廉潔白な人は、悪い樹の蔭に少しでも休むと身が汚れ、盗泉という名の泉の水を飲むとこれまた身が汚れるとして、飲んだりしなかったということから、高潔な人が、汚れに接近しないように、身の保持を図るようにと戒めとした。因みに、「盗泉」は、中国、山東省泗水県に実在する泉の名前で、孔子はそこを通った居りに、「名前が悪い」と言って、弟子が用意したその水を飲むのをやめた:「渇しても盗泉の水は飲まず」

「渇不飲盗泉水、熱不息悪木蔭」 [陸機−猛虎行]

「悪木之蔭不可暫息、盗泉之水無容(*)飲」 [周書−寇儁(しゅん)伝]   ★:「*」部分。第3水準のため表記できず。 現在文字に当てるなら、さしずめ「快」か?


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虻蜂取らず :
(あぶはちとらず):

:

【−】:

《取ろうとした虻も蜂も、両方とも取り逃がしてしまう》意から、あれもこれもと両方を狙って、どちらも駄目になる。欲を出したために却って失敗してしまうこと。二兎追う者は一兎も得ず。

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安心立命 :
(あんしんりつめい):

主人公、畢竟在其麼処:

【『天目高峰禅師』】:

儒教で、人力を尽くしてその身を天命に任せ、どんな場合にも落ちついていること。天命を知って心を平安に保ち、くだらないことに心を動かさないこと。仏教では、「あんじんりゅうみょう」と、読ませる。
     ※ 原点では、「麼」の字の、「幺」の部分は、正字では「ノム」であるが、第3水準文字で、このアプリでは表示出来ないため、異体字の、「麼」を充てた。

[出典] 「主人公、畢竟在其麼処、安心立命」 (『天目高峰禅師』−「示衆語」)


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暗中に模索す :
(あんちゅうにもさくす):

許敬宗性軽傲:

【『随唐嘉話』】:

闇の中で、手探りで探し求めること。これから転じて、手がかりが、全く無いのに、いろいろ探ってみる様子を謂う。 暗中模索。

[出典] 「許敬宗性軽傲、見人多忘之、或謂其不聡、曰卿自難記、若遇何劉・沈・謝、暗中模索著、亦華識」(『随唐嘉話』−「中」)

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闇を以て疵を見る :
(あんをもってきずをみる):

道在不可見:

【『韓非子』】:

暗いところから明るい所を見れば、よく見える。自分の身を人から窺われないように晦(くら)まして、その立場から人を見ると相手の欠点がはっきり見える。 元来的には、人君がその臣下をを察する道を説いた詞。

[出典] 「道在不可見、用在不可知。虚静無事、以闇見疵」」 (『韓非子』−「主道」)

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以心伝心 :
(いしんでんしん):

仏滅後、付法於迦葉:

【『伝灯録』】:

1)言葉で表現できない悟りや真理を、心から心へ伝える意の仏語。主に禅宗で用いられる。

[出典] 「仏滅後、付法於迦葉、以心伝心」 (伝灯録−一三)


2)わざわざ口で説明しなくても、自然と心が通じ合うこと。


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意を得る者は言無く、知を進す者も亦言無し :
(いをうるものはげんなく、ちをつくすものもまたげんなし):

子列子曰、得意者無言:

【『列子』】:

物事の意義・道理を弁えた者や、物事を知り尽くした者は、自分の知識や考えなどを軽々しく口にはしない。 何処かの誰かに聞かせたい詞であり、編集子の日頃には耳の痛い詞でもある。

[出典] 「子列子曰、得意者無言、進知者亦無言。用無言為言亦言、無知為知亦知」 (『列子』−「仲尼」)

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意気軒昂 :
(いきけんこう):

:

【−】:

意欲が盛んなさま。元気の良い様子。


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意気天を衝く :
(いきてんをつく):

:

【−】:

意欲、意気込みが大変高まっている様子。


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意気揚々 :
(いきようよう):

:

【−】:

いかにも誇らしげに振る舞うさま。得意げな様子を表す詞。

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意見三両、堪忍五両 :
(いけんさんりょう、かんにんごりょう):

:

【−】:

他人の助言忠告には三両の価値があり、耐え忍ぶ態度には五両の価値がある。他人の意見と、堪忍する心は友に尊重して守るべき価値があるということを教えた詞。

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意志のある所には道がある :
(いしのあるところにはみちがある):

:

【−】:

やろうとする意志を強くもって当たれば、必ず道は拓けてくるものだ。 「精神一到何事か成らざらん」

Where there is a will, there is a way.


Where there is a will, there is a way.

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意馬心猿 :
(いばしんえん):

如其心猿不定:

【『参道契』】:

仏語で、煩悩や情欲のために、心の乱れを押さえがたいのを、馬が走ったり、猿が騒ぎ立てるのを押さえにくいのに譬えたことば。

[出典] 「如其心猿不定、意馬四馳、則神気散乱于外、欲望結成還丹、其可得乎」 (『参道契』−「発揮中」)



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意表に出る :
(いひょうにでる):

憲常招引書生:

【『南史』】:

相手が考えていないこと、意外なことをする。

[出典] 「憲常招引書生、与之談論、新義出人意表」 (『南史』−「袁憲伝」)


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緯武経文 :
(いぶけいぶん):

自家刑国:

【『晋書』】:

武を緯(よこ糸)、文を経(たて糸)として国家を織りなすこと。国家の政治を司ることを織物に例えて、文武両道の重要性を説いたことば。

[出典] 「自家刑国、緯武経文」 (『晋書』−「宣五王六王伝・賛」)




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衣、新を経ずば何に由りて故ならん :
(い、しんをへずばなによりてこならん):

桓車騎不好着新衣:

【『世説新語』】:

どんなものでも初めは新しく、いきなりは古くはならない ことの譬え。

[出典] 「桓車騎不好着新衣。浴後、婦故送新衣与。車騎大怒、催使持去。婦更持還、伝語云、衣不経新、何由故。桓大笑着之」 (『世説新語』−「賢媛」)

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衣は新に如くは莫く、人は故に如くは莫し :
(いはしんにしくはなく、ひとはこにしくはなし):

:

【『晏子春秋』】:

衣服は新しいのが良く、友人は、古くからの友人ほどよい。

[出典] 「景公与晏子立于曲(※)之上、晏子称曰、衣莫若新、人莫若故」 (『晏子春秋』−「雑上」)

        ※ 第三水準文字のため表出出来ず、解字、置き換えも出来なかった。「さんずい」に「黄」に近い文字


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衣を解き食を推す :
(いをときしょくをおす):

漢王授我上将軍印:

【『史記』】:

自分の衣服を脱いで人に着せ、自分の食べ物を譲って人に食べさせる。人に厚く恩を施す譬え。

[出典] 「漢王授我上将軍印、予我数万衆、解衣衣我、推食食我」 (『史記』−「准陰候伝」)

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衣食足りて、礼節を知る :
(いしょくたりて、れいせつをしる):

倉廩実即知礼節:

【『管子』】:

生活に困ることが無くなってはじめて、人は礼儀に心を向けることが出来る余裕が出来るものである。

[出典] 「倉廩実即知礼節、衣食足則知栄辱」 (『管子』−「牧民」)


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衣鉢を継ぐ :
(いはつをつぐ):

:

【−】:

((「衣鉢」は法を継承する証拠として師僧から伝えられる袈裟と鉢))師からその道の奥義を受け継ぐ。また、前人の事業などを受け継ぐ ことをいう。


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遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴く :
(いあいじのかねはまくらをそばだててきく):

日高足睡猶慵起:

【白居易】:

《白居易が、盧山、香炉峰の麓に草庵を作った時の詩の一節にある、”遺愛寺の鐘の音は、寝たまま、枕を傾けて聴く”とあることから》静かでなにもにも煩わせられない生活また、悠々自適の生活を送ることを模す。

[出典] 「日高足睡猶慵起、小閣重衾不怕寒。遺愛寺鐘欹枕聴、香炉峰雪撥簾看」 (白居易−「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」)


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医は仁術 :
(いはじんじゅつ):

:

【−】:

医は仁愛の徳を施す術である。病人という、謂わば弱者の立場にある人を救うのが、医者の道であり、単なる金儲けの手段となってはいけない。という医者の道を戒めることば。

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医者の不養生 :
(いしゃのふようじょう):

:

【−】:

《患者に養生を説く医者が、自分では意外と不養生のことをしている意から、》他人に立派なことを教えながら、自分自身は実行が伴っていないことの譬え。
  「医者の不養生、坊主の不信心、昔よりして然り」(講談−風流志道軒伝−二)


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井の中の蛙大海を知らず :
(いのなかのかわずたいかいをしらず):

井蛙不可以語於海者:

【『荘子』】:

自分の狭い知識や見解にとらわれて、他に広い世界があることを知らないで得々と振る舞うことの譬え。非常に見識の狭いこと。「井の内の」という言い方もされる。
[出典] 「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」 (『荘子』−「秋水」)

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磯の鮑の片思い :
(いそのあわびのかたおもい):

:

【−】:

《アワビ」は、貝殻が片方だけであるところから》一方だけが恋い慕うことを謂う。 やや、揶揄的使うことが多いようだ。


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一握の砂 序文 :
(いちあくのすな じょぶん):

函館なる郁雨宮崎大四郎君:

【『一握の砂』】:

函館なる郁雨宮崎大四郎君
同国の友文学士花明金田一京助君
 この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前
 に示しつくしたるものの如し。従って両君はここに歌は
 れたる歌の一一について最も多くを知る人なるを信ずれ
 ばなり。
 また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書
 肆の手に渡したるは汝の生まれた朝なりき。この集の稿
 料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の
 閲したるは汝の火葬の夜なりき。
                      著 者

     明治四十一年夏以後の作一千余首より五百九十
     一首を抜きてこの集に収む。集中五章、感興の
     来由するところ相ちかきをたづねて仮にわかて
     るのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一
     年秋の紀念なり。

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鰯の頭も信心から :
(いわしのあたま(かしら)もしんじんから):

:

【−】:

鰯の頭のようにつまらないものでも、それを信仰する人には尊く、神仏同様の霊験を持つに至る。信仰心が不思議な力を持つことを指して言う。また、頑固に信じ込んでいる人をからかっていう場合にも使われる。風習として、節分の夜、鰯の頭を柊の枝に刺して、門口に掲げ、悪鬼を追い払うというのがあるので、そこから出たことばでもある。「信心から 」は、「信じがら」が転じたという説もあり、”信じ方次第”といいう意にも使われる。




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因果応報 :
(いんがおうほう):

:

【−】:

善悪の因果に応じて吉凶禍福の果報を受けること。善因には富や楽しみなどの善果をを受け、悪因には貧苦などの悪果を受けるということ。現在では、悪い意味に言うことが多い。


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引導を渡す :
(いんどうをわたす):

:

【−】:

((葬式の祭、導師の僧が死者に悟りを開くよう説き聞かせる意から))相手に教え諭すような態度で言い聞かせる。また、縁を切ること、相手の命が間もなく無くなることを宣告することなどにも使う。

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陰公左伝桐壺源氏 :
(いんこうさでんきつぼげんじ):

:

【−】:

((『春秋左伝』を読み始めた者が、第一巻の陰公部分で止めてしまい、『源氏物語』を読み始めた者が、最初の桐壺の巻で投げ出す 意から))忍耐力がなく、學問が長続きしないことの譬え。 「桐壺源氏」 とだけで謂うこと多く、此の場合は、この人が、恰も『源氏 五十四帖』を読み上げたような振りをするをあざけっていうときに使われる。 他に、「三月庭訓」、「公冶長(こうやちょう)論語」なども同じ意で使われる。

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陰行あれば昭名あり :
(いんこうあればしょうめいあり):

夫有陰徳者:

【『准南子』】:

隠れた善行のある者は、必ず何時かは輝く名誉が与えられる。

[出典] 「夫有陰徳者、必有陽報。有陰行者、必有昭名 (『准南子』−「人間訓」)


陰徳あれば陽報あり

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陰徳あれば陽報あり :
(いんとくあればようほうあり):

夫有陰徳者:

【『准南子』】:

人に知られずひそかに善いことを行えば、必ず善い報いを受ける。

[出典] 「夫有陰徳者、必有陽報。有陰行者、必有昭名」 (『准南子』−「人間訓」)



→陰行あれば昭明あり、 陰行あれば昭名あり

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雨降って地固まる :
(あめふってじかたまる):

:

【−】:

雨が降った後に地面が固まるように、困難や、悪いことが起こった後に、その試練に耐えることによって、却って、以前より良い状態に向かうこと。

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雨垂れ石を穿つ :
(あまだれいしをうがつ):

泰山之霤穿石:

【『枚乗』】:

(雨垂れも長い間同じ所に落ちると、下の石に穴をあけるという意から)小さなことでも続ければ大きなことが出来る。根気よく続ければ、成功につながる ことを指して使う。泰山の霤(あまだれ)は石を穿つ。

[出典] 「泰山之霤穿石、単極之(糸亢)断幹、水非石之讚、索非木之鋸、漸摩使之然也」 (枚乗−諫呉王書)


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鵜の丸呑み :
(うのまるのみ):

:

【−】:

((鵜が魚を丸呑みすることから))早呑みこみ、早合点を謂う。単に、「鵜呑み」として使われることが多い。



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鵜の真似する烏は水を呑む :
(うのまねするからすはみずをのむ):

:

【−】:

「鵜の真似する烏は水におぼれる」とも言う。一般には、後段を省いて、「鵜の真似する烏」とだけで使われることが多い。
((烏が鵜の真似をして水に溺れてしまう意から))自分の能力や身の程を顧みず、人まねをして失敗する者を譬えていう。



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鵜の水離れ :
(うのみずばなれ):

:

【−】:

((鵜が水を離れて陸に上がったときのように))環境が変わったため能力を十分に発揮できない譬え。「陸に上がった河童と、同意」。


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鵜の目鷹の目 :
(うのめたかのめ):

:

【−】:

鵜や鷹が獲物をあさるときのように、鋭く物を探し出そうとする目つき。またそのような様子。

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家に諫むる子あれば其の家必ず正し :
(いえにいさむるこあればそのいえかならずただし):

:

【『孝経』】:

父の不義を諫める子がいれば、その家は正に安泰である。
  ※ 「国に諫める臣あれば、其国必ずやすく、家に諫る子あれば其家必ずただしといへり」 (『平家物語』 2)

[出典] (『孝経』−「諫諍章」)の、「父有争子、則身不陥於不義」  から出てきた語 と観られる。


家に諫子なければ其の家必ず滅ぶ

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家に諫子なければ其の家必ず滅ぶ :
(いえにかんしなければそのいえかならずほろぶ):

:

【−】:

親の不義を諫める子がいなければ、その家は必ず滅びる。  「家に諫むる子あれば其の家必ず正し」 の逆を言った詞



家に諫むる子あれば其の家必ず正し

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家は一代、名は末代 :
(いえはいちだい、なはまつだい):

:

【−】:

家と人の関わりは、良くも悪くも一代限りのものだが、名は後世まで残るものだ。 従って、言動には慎みを持って当たらねばならないと、戒めたことば。「人は一代、名は末代」とも云う。

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家を移して妻を忘る :
(いえをうつしてつまをわする):

哀公問於孔子曰、寡人聞、忘之甚者:

【『孔子家語』】:

引っ越ししたはいいが、その妻を元の家に置いてきぼりにしてきてしまった ということから、大層忘れっぽいことをいう。健忘症の譬え。

[出典] 「哀公問於孔子曰、寡人聞、忘之甚者、徒家而忘其妻、有諸。孔子対曰。此猶未甚者也。甚者乃忘其身」 (『孔子家語』−「賢君」)


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家貧しくして孝子顕わる :
(いえまずしくしてこうしあらわる):

家貧顕孝子:

【『宝鑑』】:

家が貧乏だと、子供も家のために働かなければならず、その善行が、孝行な子としてはっきり人に知られるようになる。逆境の時にこそ、立派な人物が表面に出てくるようになる。

[出典] 「家貧顕孝子、世乱識忠臣」 (『宝鑑』)


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家貧しくて親愛散じ身病みて交遊罷む :
(いえまずしくしてしんあいさんじみやみてこうゆうやむ):

家貧親愛散:

【白居易】:

貧乏になると、親友も去っていき、病気をすると、交際も途切れる

[出典] 「家貧親愛散、身病交遊罷」 (白居易−「冬夜」)


家貧にしては親知少なく身賤ししくては故人疎し

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家貧にしては親知少なく身賤ししくては故人疎し :
(いえひんにしてはしんちすくなくみいやしくてはこじんいうとし):

:

【−】:

貧乏すると親友も少なく、落ちぶれてしまうと旧友も寄りつかなくなる。


家貧しくて親愛散じ身病みて交遊罷む

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花魁、そりゃあ、ちつと、そでなかろうぜ :
(おいらん、そりゃあ、ちつと、そでなかろうぜ):

花魁、そりゃあ、ちつと、そでなかろうぜ:

【歌舞伎−『籠釣瓶花街酔醒』】:

花魁、そりゃあ、ちつと、そでなかろうぜ。夜毎に変わる枕の数、浮川竹の勤めの身では、昨日に勝る今日の花と、心変わりしたか知らねど、もう表向き今夜にも、身請けの事を取り決めようと、夕(ゆうべ)も宿で寝もやらず、秋の夜長を待ちかねて、菊見がてらに廓(さと)の露、濡れてみたさに来てみれば、案に相違の愛想づかし。

                         (『籠釣瓶花街酔醒』(かごつるべさとのえいざめ) 花魁・八つ橋に愛想づかしを告げられた、佐野の絹商人・次郎左右衛門の恨み科白)

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過ちて改めざる、是を過ちと謂う :
(あやまちてあらためざる、これをあやまちという):

子曰、過而不改、:

【『論語』-「衛霊公篇」】:
New!!

子曰、過而不改、是謂過矣

 子曰わく、過ちて改めざる、これを過ちと謂う。


   先生が仰った。
    「誤りと解っていて、これを改めない。これが、「過ち」ということなのだ。  



過てば則ち改むるに憚ること勿かれ忠信に主しみ、己に如かざる者を友とすること無かれ

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過ちを見てここに仁を知る :
(あやまちをみてここにじんをしる):

人之過也、各於其党:

【『論語』】:

人の過失もその同機をよく見ることによって、却ってその人が仁者であることを知る機会にもなる。人の過ちにも、その人が人情に厚すぎて犯してしまう過ちもあれば、情け知らずから犯す過ちもある。そこを見極めればその人の本当の姿が分かるというものだということの譬え。

[出典] 「人之過也、各於其党、観過其知仁矣」  (『論語』−里仁)

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過てば則ち改むるに憚ること勿かれ :
(あやまてばすなわち、あらたむるに憚ること勿かれ):

子曰、主忠信、無友不如己者:

【『論語』-「子罕篇」】:
New!!

「子曰、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改」

   子曰わく、忠信に主しみ、己に如かざる者を友とすること無かれ、過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。


先生が仰った。
 「律儀で、約束を違えない人に昵懇を願い、自分に及ばないものとは友だちにならないこと。
  また、過ちがあれば、素直に認め、すぐに訂正出することだ。」



   

忠信に主しみ、己に如かざる者を友とすること無かれ過ちて改めざる、是を過ちと謂う

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会うは別れの始め :
(あうはわかれのはじめ):

:

【−】:

会えば必ず、後日別れの時のが来る。会ったものとは、いつか別れねばならない時が来るものだの意。人生の無常を言う。

「愛別離苦、是故会者定離」 (法華経−譬比喩品)

「合者離之始、楽兮憂所伏」 (白氏文集−巻14)

会者定離

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会者定離 :
(えしゃじょうり):

-:

【『遺教経』】:

この世は無常であるから、出合った者には必ず、「別れ」という運命がつきまとうという意。 法華経では、「愛別離苦」と並べて記し、その無常観を説いている。

「世皆無常、会必有離] [遺教経]

愛別離苦会うは別れの始め

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灰汁が強い :
(あくがつよい):

:

【−】:

渋みが強い。之より転じて、人の性格や物の考え方、行動n動機等に、一種のしっこさやあくどさがあることをいう。「あく」は、煮炊きの時に出る、苦味分等の部分で、「灰汁」であるから、これを、「悪」と間違えて、”彼は「悪が強い」男だ”などと書くのは、明かな誤りであるが、この誤用を犯す人が多い、間違いやすい使い方でもある。


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開いた口がふさがらない :
(あいたくちがふさがらない):

:

【−】:

@あきれ返って、ものが云えないさまを 表す。
Aうとりと、夢見心地になっているさま を表す。

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開けて悔しき玉手箱 :
(あけてくやしきたまてばこ):

:

【−】:

昔話の、「浦島太郎」の伝説から、期待はずれで、がっかりした時の様子、心持ちの譬え。

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敢えて後れたるに非ず、馬進まざるなり :
(あえておくれたるにあらず、うますすまざるなり):

:

【『論語』】:

魯の大夫の孟之側(もうしそく)が、味方の退却の時、殿(しんがり)引き受け、出来る限り遅れて引き上げるように努め、自軍の退却を助ける功を上げたが、「わざと遅れたのではない。馬がすすまなかっただけだ」と言って、その手柄を誇らなかったという故事に拠る。

 「子曰、孟之反不抜、奔而殿、将入門、策其馬曰、、非敢後、馬不進也」 [論語-雍也]

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敢えなくなる :
(あえなくなる):

:

【−】:

「死ぬ」を婉曲的に言う言い方。はかなくなる。死ぬ。

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汗の如し :
(あせのごとし):

:

【−】:

(汗は一旦流れ出ると、もう体内に収めることができないことから)ことばは、一度口に出してしまった以上、取り消すことが出来ないということの譬え。昨今の政治家には、耳の痛い、ことであろうが、全くこのことを弁えない面々が多すぎる。

綸言汗の如し

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危うきこと累卵の如し :
(あやうきことるいらんのごとし):

:

【『史記』】:

危険が迫っているさまは、積み上げた卵がいつ崩れるか分からないに似ている。

[出典] 「秦王之国、危於累卵」 (『史記』−「范雎伝」)


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鬼は都にありけるぞや :
(おにはみやこにありけるぞや):

武士はもののあはれ知るというは偽り:

【歌舞伎−『平家女護島』−】:

武士(もののふ)はもののあはれ知るというは偽り、虚言よ。鬼界ヶ島に鬼はなく、鬼は都にありけるぞや。

                         (『平家女護島』(にょこがしま) 成経の妻・千鳥の怨み言)

思い切っても凡夫心

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蟻の這い出る隙もない :
(ありのはいでるすきもない):

:

【−】:

ほんの一寸したすき間もない。四方八方、厳重に囲まれて、どこにも逃れ出るすき間がないことを言う。

     ※「蟻の這い入る」と、書くのは、誤用だが、この誤用は、よく見かける。注意を要する。


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仇野の露、鳥辺野の煙 :
(あだしののつゆ、とりべののけむり):

:

【−】:

「仇野」は、京都市嵯峨の奥の方ににあった地名、「鳥辺野」は京都市東山にあった地名で、どちらも、墓地や火葬場があった。「露」も「煙」もどちらも儚く消えてゆくものから、その地名、そこにあったものととの”かけ”で、人生の無常、はかなさを喩えて言った言葉。

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急がば回れ :
(いそがばまわれ):

:

【−】:

急ぐ時には少しくらい危険でも近回りの道を通りたくなるのが人情ではあるが、それが却って失敗を招く原因になりやすい。多少時間や手間がかかっても、安全な方法を選んだ方が結局は得策である ということの譬え。

THe more haste , the less(worse) speed.


THe more haste , the less(worse) speed.

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居候三杯目はそっと出し :
(いそうろう三ばいめはそっとだし):

:

【川柳】:

居候は、世話になっている手前、食事の際にも遠慮がちになることを風刺いた句。


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穴があったら入りたい :
(あながあったらはいりたい):

李孫聞之慙曰:

【賈諠新書】:

身の置きどころがないほど、大変に恥ずかしいという気持ちを表すときに使うことば。穴に隠れてしまいたいほど恥ずかしい。

[出典] 「李孫聞之慙曰、使穴可入、吾豈忍見(ウ+心)子哉」  (『賈諠新書』−「審微」)

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穴を掘る者は自らこれに陥る :
(あなをほるものはみずからこれにおちいる):

坑を掘る者はみづからこれにおちいり石垣を毀つ者は蛇に咬むれん:

【『旧約聖書』−「傳道之書]8〜11」】:

人を陥れようと図る者は、また自らもその落とし穴に陥る。自分のした行為によって、自ら災いを招く譬え。

[出典] 
「坑を掘る者はみづからこれにおちいり石垣を毀つ者は蛇に咬むれん
石を打ちくだく者はそれがために傷を受け木を割る者はそれがために危難(あやうき)に遭はん
鉄の鈍くなれるあらんにその刃を磨(とが)ざれば力多く之にもちひざるを得ず 智慧は功を成すに益あるなり
蛇もし呪術(まじない)を聽ずして咬ば呪術師は用なし」
                               (『旧約聖書』−「傳道之書]8〜11)

石を打ちくだく者は、それがために傷を受けん

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犬が西向きゃ尾は東(向く) :
(いぬがにしむきゃおはひがし(むく)):

:

【−】:

当たり前卓程当たり前の話だ と揶揄していうときに使うことば。


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犬も歩けば棒に当たる :
(いぬもあるけばぼうにあたる):

:

【−】:

@何か物事をしようとする者は、それだけに何かと災難に遭うことも多いものだという意。
 積極的に行動しようとすれば、わけもなく犬が棒で打たれるように、損な目に遭うことがおおいということ。

A例え才能や運が無くても、何かやっているうちに、思いもよらない好運に恵まれることもある の意。また、単に出歩けば、意外な幸運に恵まれることもある という意にも使う。



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言うなかれ、今日学ばずして来日ありと :
(いうなかれ、こんにちまなばずしてらいじつありと):

勿謂今日不学而有来日:

【『朱熹』】:

今日、学ばないでいて、”明日があるから”と、言ってはならない。宋のの朱熹が、若者に、勉強をするように勧めた言葉。

[出典] 「勿謂今日不学而有来日。勿謂今年不学而有来年」 (『朱熹』−「勧学文」)


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言うに落ちず、語るに落ちる :
(いうにおちず、かたるにおちる):

:

【−】:

口に出して、はっきりとは言ってはいないが、その語る口ぶりの中に自然と現れてしまっているということを指す。ある事柄を意識的に隠そうとし手いるつもりでも、話しているうちに自ずからそのことを喋ってしまっているというようなときに使う。

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言うは易く行うは難し :
(いうはやすくおこなうはかたし):

言之易:

【『塩鉄論』】:

口で言うのはたやすいけれど、いざそれを実行するとなれば難しものだ。言うことと行うことは別問題であるということを指して言う言い方。

[出典] 「言之易、而行之難」 (『塩鉄論』−「利議」)


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言わぬ(=ねば)腹膨れる :
(いわぬははらふくれる):

:

【俚諺】:

言いたいことを云わずに我慢していると、不満がつのってくる。  編集氏は、いつもこの姿勢とぴうか、一つのポリシー的に、ずけずけと物言いをするときの、事前の言い訳にしている。

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言わぬが花の吉野山 :
(いわぬがはなのよしのやま):

:

【−】:

「言わぬが花」:口に出して言わない方が却って趣が深く、差し障りが無くてよい という俚諺に、花(桜)の名所=吉野山をくっつけて、洒落た言い方にした。

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言わぬは言うにまさる :
(いわぬはいうにまさる):

:

【俚諺】:

ことばに出さずに、黙っていた方が、ことばでいうよりも雄弁にその気持ちを伝えることが出来る。沈黙を守っている方が効果的、また、安心も出来る の意。

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言わぬより思うな :
(いわぬよりおもうな):

:

【俚諺】:

心の中は、たとえ口に出さなくても、面に表れてくるものであるから、ことばを慎むより先にまず、思わないことの方がより大切である。  編集氏にはこれが仲々出来ません。

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後の雁が先になる :
(あとのかり(がん)がさきになる):

:

【−】:

(雁がが一列に並んで飛行する様子から)、後から来たものが先を行く仲間を追い越して行くことを譬える。後からいった者が、先に進んでいる者を追い抜く。後輩の学識や地位、力量、また権力や財産などが、先輩のそれを凌ぐことの意。 また、年齢の若い者が先に死んだりする時にもつかう。
地方によって、”後の馬が先になる”、”後の烏が先になる”(という言い回しもある。

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後は野となれ山となれ :
(あとはのとなれやまとなれ):

:

【−】:

”後のことは野となるなるなら、野となればいいし、山となるなるなら、やまとなればいい。もう自分には関係がない”との意から、自分にとって大事なことが終わった以上は、それから先はどうなろうと構わない。自分はするだけのことはしたのだから、乃至は、自分には直接利害が及ばないことだから、どうなろうと構わない。勝手にするがいい という気持ちをもって云うことば。

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後足で砂をかける :
(あとあしですなをかける):

:

【−】:

(犬や馬などが駆け去るとき、後ろ足で砂をけ散らしていく様子から、)世話になった人の恩誼を平気で裏切るばかりか、去り際に、更にひどい振る舞いをする譬え。

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今泣いた烏がもう笑う :
(おまないたからすがもうわらう):

:

【−】:

今まで泣いていた者が、すぐに機嫌を直して笑うこと。主に、子供の喜怒哀楽の感情の変化が変わりやすいことを指して使う。


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恨みがあるなら金に言え :
(うらみがあるならかねにいえ):

ちょうど時刻も寅の刻:

【歌舞伎−『勧善懲悪覗機関』】:

ちょうど時刻も寅の刻、千里一飛び闇雲に、後をつけたる暗まぎれ、篠突く雨に往来の、ないを幸いばっさりと、夜網にあらぬ殺生も、わずか五十に足らねえ金、人の命も五十年、長い浮世を長袖の、小袖ぐるみで交際(つきあい)も、丸い頭を看板に、医者というのが身の一徳、しかし十徳を着る長棒に、しょせん出世の出来ねえのは、言わずと知れた籔育ち、蚊よりもひどく人の血を、吸い取る悪事の配剤は、数年馴れたるわが匙先、現在妹の亭主ゆえ、いわば義理ある弟だが、金と聞いては見逃されず、手荒い療治の血まぶれ仕事、酷い殺しも金ゆえだ、恨みがあるなら金に言え。

                         (勧善懲悪覗機関(のぞきのからくり)』 村井長庵、義弟の重兵衛を殺し、姪を吉原に売った金を奪う場面)

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思い切っても凡夫心 :
(おもいきってもびんぷしん):

思い切っても凡夫心:

【歌舞伎−『平家女護島』−】:

思い切っても凡夫心、岸の高みに駆け上がり、爪立って打ち招き、浜のまさごのに臥し転(まろ)び、焦れても叫びても、哀れとぶらう人とても、鳴く音は鴎*天津雁、誘うはおのが友鵆(ちどり)、独りを捨てて沖津波、幾重の袖や濡らすらん

                         (『平家女護島』 己の身代わりに「千鳥」を乗船させ、島に残った、俊寛の、船を見送る 段)

鬼は都にありけるぞや

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思えば思えば、ええ恨めしい :
(おもえばおもえば、ええうらめしい):

今をも知れぬこの岩が:

【歌舞伎−『東海道四谷怪談』−】:

今をも知れぬこの岩が、死なば正しくその娘、祝言さするはこれ眼前、ただ恨めしきは伊右衛門殿、喜兵衛一家の者どもも、なに安穏におくべきや。思えば思えば、ええ恨めしい。

                         (『東海道四谷怪談』お岩様の執念)

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至れり尽くせり :
(いたれりつくせり):

至矣尽矣:

【『荘子』】:

充分に行き届いていて、申し分のないさま。

[出典] 「至矣尽矣、不可以加至矣尽矣」 (『荘子』−「斉物論」)



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秋茄子は嫁に食わすな :
(あきなすはよめにくわすな):

:

【−】:

嫁に対する、姑の、「嫁いびり」として用いられるのが、尤も一般的用法。つまり、”秋茄子は味がよいから、嫁には食べさせるな”の意。又。この逆の意で、”秋茄子は体を冷やして毒だから、嫁に食べさせると(産に障るから)よくないから、食べさせるな”とか、”秋茄子は種子が少ないから、子種(こだね)が少なくなるから”という説もある。
同様の表現で、地方によって、「秋鰤(あきかます)は嫁に食わすな」、「秋鯖は嫁に食わすな」、「秋たなご*(第4水準漢字のため表出できず)嫁に食わすな」、「五月わらびは嫁に食わすな」、「夏蛸嫁に食わすな」等々ある。

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出でては将、入りては相 :
(いでてはしょう、いりてはしょう):

出将入相:

【『旧唐書』】:

外国との戦いでは将軍となり、内政では宰相となって、文武両道に秀でた人を指す。

[出典] 「出将入相三十年」 (旧唐書−李徳裕伝)


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暑さ寒さも彼岸まで :
(あつささむさもひがんまで):

:

【】:

残暑の暑さも秋の彼岸まで、余寒も寒さも春の彼岸まで の、意で、その後は、気候も穏やかに凌ぎやすくなるっちう、挨拶言葉によく使われる。暑さの厳しさ、寒さの厳しさを”耐える”という励ましの意からにも、それを名残惜しむ意からも、両面からつかわれている。

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暑さ忘れて蔭を忘る :
(あつさわすれてかげをわする):

:

【−】:

「暑さが過ぎると、涼しかった、物陰の有難味を忘れてしまう」と言う意から、どうにもならなかった苦しみも、それが過ぎ去ってしまえば、その時助けてくれた人の恩誼をもたちまちにして忘れてしまう。与えられた恩恵をも忘れて、いけしゃーしゃーとしている様子を言う。似たような言葉として、
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」;「雨晴れて、笠を忘る」;「病治りてくすし忘る」 などがある。

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女同士の義理立たぬ :
(おんなどしのぎりたたぬ):

この人を殺しては:

【歌舞伎−『心中天網島』−】:

この人を殺しては、女同士(どし)の義理立たぬ。まずきなさん早う行って、どうぞ殺してくださるな。

                         (『心中天網島』 小春を思いやる、おさんの科白)

魂抜けて、とぼとぼうかうか

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上がったり大明神 :
(あがったりだいみょうじん):

:

【−】:

商売に失敗して、他人から全く相手にされなくなる事まt。その状態。特に、職人などが失職して、収入の道が無くなる(=”上がったり”)のじょうたいになることを、神名のように読んだもの。 豊臣秀吉を祀った、「豊国大明神」が徳川全盛の時代になって、全く顧みられなくなった事に由来する、


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色に耽ったばっかりに :
(いろにふけったばっかりに):

いかなればこそ勘平は:

【歌舞伎−『仮名手本忠臣蔵』−】:

いかなればこそ勘平は、三左衛門が嫡子と生まれ、十五の年より御近習勤め、百五十石(せき)頂戴致し、代々塩冶の御扶持を受け、束の間御恩は忘れぬに、色に耽ったばっかりに、大事の場所にも居(お)り合わさず、その天罰で心を砕き、御仇討の連判に、加わりたさに調達なしたる、金も却って石瓦、(易鳥)(いすか)の嘴(はし)とくい違う、言いわけなさに勘平が、切腹なしたる身の成り行き、御両所方、御推量下されい。

                         (『仮名手本忠臣蔵』 六段目 おかると棲んでいる場に舅の死骸が運び込まれ、自分が誤って舅を殺した早合点した勘平が訪ねてきた赤穂浪人二人の前で切腹する時の科白)



魂魄この土に留まって馬鹿ほど怖いものはないまだ御料簡が若い若い

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色の白いは七難(十難)隠す :
(いろのしろいは七なん(十なん)かくす):

:

【−】:

色白の女性は、他に少しぐらい醜い点があっても目立たない。



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色眼鏡で見る :
(いろめがねでみる):

:

【−】:

偏見や先入観にとらわれてみる物事をみる ことを云う。


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色男金と力は無かりけり :
(いろおとこかねとちからはなかりけり):

:

【−】:

女に好かれるような美男子には、とかく金と腕力はない。色男をからかって云う。 川柳の句。


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新しき葡萄酒は新しき革嚢に :
(あたらしきぶどうしゅはあたらしくかわぶくろに):

誰も新しき布の裂(きれ)を舊き衣につぐことは爲じ:

【『旧約聖書』−「マタイ傳」\-16〜17】:

誰も新しき布の裂(きれ)を舊き衣につぐことは爲じ、補ひたる裂は、その衣をやぶりて、破綻(ほころび)さらに甚だしかるべし。
また新しき葡萄酒をふるき革嚢に入るることは爲じ、もし然せば嚢はりさけ、酒ほどばしり出でて、嚢もまた廢(すた)らん。新しき葡萄酒は新しき革嚢にいれ、斯て兩(ふたつ)ながら保つなり。

                                                  (『旧約聖書』−「マタイ傳」\-16〜17)



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青は藍より出でて藍より青し :
(あおはあいよりいでてあいよりあおし):

青出之藍:

【『荀子』】:

(青い色の染料は藍から取るが、原料の藍よりも青い意)から転じて、教えを受けた人が、教えた人より優れていることを意味する。 出藍の誉れ
この後に、「氷は水より出でて水より寒し」と続くが、一般的には、前半部分だけをもって使われることが多い。

「学不可以己、青出之藍、而青於藍、冰水為之而寒於水」[『荀子』−「勧学」]

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青柳の眉 :
(あおやぎのまゆ):

:

【−】:

美しい女性の眉を、青柳の細い葉になぞらえていう時に使う。 柳眉(りゅうび)

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石に口漱ぎ流れを枕とす :
(いしにくちすすぎながれをまくらとす):

:

【『晋書』】:

負け惜しみが強く、自分の誤りに、屁理屈を付けて言い逃れることの譬え。
『晋書』−「孫楚伝」に出てくる故事による。それによると、
 晋の孫楚は、隠遁するに当たり、王済に今後の生活について、「流れに口漱ぎ、石を枕とする」と、言うべきところをうっかりと、「石に口漱ぎ、流れを枕とす」と、言ってしまった。王済がすぎにその誤りを指摘すると、孫楚は、「石で口を漱ぐのは、歯を磨くためであり、流れを枕とするは、耳を洗うためです」と、うまくこじつけて言い逃れたという。
 ここから、上記の詞が出たと、伝えられる。因みに、夏目漱石 の「漱石」、「流石」と書いて、「さすが」と読む のもここからきている。

石に枕し流れに口漱ぐ

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石に布団は着せられず :
(いしにふとんはきせられず):

:

【−】:

「石」とは、「墓石」を指す。 父母が死んでからでは孝行しようとしても遅い ことを戒める詞。

因みに、”墓石にどんな立派な布団を被せたって、何の孝養にもならやせん” というのは編集子の口癖の一つではあるが、その、”布団を被せることすら出来ない”己への、自嘲も大きい。

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石に枕し流れに口漱ぐ :
(いしにまくらしながれにくちすすぐ):

枕石漱流:

【『蜀志』】:

浮世を遠ざかり、山野の景勝の地に隠遁して自由に生活を送る様子。
晋の孫楚が、この詞を、王の前で、言い損なったことから、他の故事も生まれている。

石に口漱ぎ流れを枕とす

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石の上にも三年 :
(いしのうえにも3ねん):

:

【−】:

”冷たい石の上でも三年も座り続ければ暖まる”の、意から、辛いことでも我慢強くやり通していると、きっと報われる日が来ると、教え諭す時に使われる詞。

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石を打ちくだく者は、それがために傷を受けん :
(いしをうちくだくものは、それがためにきずをうけん):

坑を掘る者はみづからこれにおちいり石垣を毀つ者は蛇に咬むれん:

【『旧約聖書』−「傳道之書]8〜11」】:

人を陥れようと図る者は、また自らもその落とし穴に陥る。自分のした行為によって、自ら災いを招く譬え。

[出典] 
「坑を掘る者はみづからこれにおちいり石垣を毀つ者は蛇に咬むれん
石を打ちくだく者はそれがために傷を受け木を割る者はそれがために危難(あやうき)に遭はん
鉄の鈍くなれるあらんにその刃を磨(とが)ざれば力多く之にもちひざるを得ず 智慧は功を成すに益あるなり
蛇もし呪術(まじない)を聽ずして咬ば呪術師は用なし」
                               (『旧約聖書』−「傳道之書]8〜11)



穴を掘る者は自らこれに陥る

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石を抱きて淵に入る :
(いしをいだきてふちにいる):

君子行不貴苟難:

【『韓詩外伝』】:

自ら好んで、大きな危険を冒すこと。意味もなく命を失ったり、災難を招くことの譬え。

[出典] 「君子行不貴苟難。<略>夫負石而赴河、行之難為者也。而申徒狄能之。君子不貴者、非礼義之中也」 (『韓詩外伝』−巻−三)


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石部金吉金兜 :
(いしべきんきちかなかぶと):

:

【−】:

元々は、「石部金吉」で、一つの、擬人名。石と金の二つの堅いものを並べて、道徳的に堅固で、金銭や女色に惑わされない人、また、生真面目すぎて融通の利かない人、男女間の情愛を理解出来ない人を揶揄した呼び方。その、石部金吉に金兜被せて、より一層強調して、極端な堅物を呼ぶのに使われる。

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赤子の腕を捩る :
(あかごのうでをねじる):

:

【−】:

「赤子の手を捩る」とも言う。赤ん坊には、抵抗力がないから、簡単にその腕をねじ上げる事が出来る。つまり、たやすく相手を、意のままに出来る子との譬え。転じて、それを見越して、弱者を苦しめることを言う


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足を向けて寝られない :
(あしをむけてねられない):

:

【−】:

「恩人に足を向けることは失礼に当たる」とうう教えから、恩を受けた人に対して、感謝の気持ちを忘れないことの譬え。

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足を折り(食束)を覆す :
(あしをおりそくをくつがえす):

:

【『易経』】:

[食束]*(そく)は、鼎に盛った食べ物。鼎の足を折って、そこに盛られた食べ物をひくり返して、ダメにして仕舞う意から、その任に堪えられないような人物を宰相にしてしてしまうと、国を滅ぼすことになることの喩え。

[出典] 「鼎折足覆公[食束]、其形渥。凶」 (易経−鼎)   
     註:*「第3水準文字のため表記出来ない上に、「食」の遍の方も、正しくは「食」ではなく、<横2線>の方だが、これがまた、第4水準のため、分解して充てることができなかった。

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足を万里の流れに濯ぐ :
(あしをばんりのながれにそそぐ):

:

【『左思』】:

<一万里もの長い川で、足の汚れを洗う>という意から、ゆったりとして、俗事にとらわれない様子を喩える。

[出典] 「被褐出閭闔、高歩追許由、振衣千仞岡、濯足万里流」 (左思−詠史八首)


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足寒ければ心を傷む :
(あしさむければこころをいたむ):

:

【『古詩源』】:

足が冷えると、心臓を病むる という意から、国民の不満が国を危うくするということの譬え。

[出典] 「足寒傷心、民怨傷国」 (古詩源−史照通鑑疏引諺)


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朝、夕べに及ばず :
(あした、ゆうべにおよばず):

朝不及夕:

【『春秋左伝』】:

朝に、事が切迫していて、夕方のことまで考えることが出来ない。先々のことを考える余裕がない。

[出典] 「朝不及夕、又何以待君」 (『春秋左伝』−「僖公七年」)

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朝には富児の門を扣き、夕べには肥馬の塵に随う :
(あしたにはふじのもんをたたき、ゆうべにはひばのちりにしたがう):

:

【『杜甫−「奉贈韋左丞丈二十二韻」』】:

朝、富貴の人の門を叩いてご機嫌伺いをし、夕方には、その人の外出のお供をして、その人の乗る肥えた馬の塵をかぶる。と、言った具合に、いつも富貴の人に追従すること。後塵を拝す。 杜甫の詩から出た言葉。

[出典] 「朝扣富児門、暮随肥馬塵、残杯与冷炙、到処潜悲幸」 (杜甫−「奉贈韋左丞丈二十二韻」)


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朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり :
(あしたにみちをきかばゆうべにしすともかなり):

:

【『論語』】:

朝、人間として生きるべき道を聞き、会得することが出来たなばなら、その日の夕方に死ぬことになっても、心残りはない。道理・真理の重要なことを強調した文言。

[出典] 「子曰、朝聞道、夕死可矣」 (論語−里仁)

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朝題目に宵念仏 :
(あさだいもくによいねんぶつ):

:

【−】:

「題目」は、日蓮宗で唱える、「南無妙法蓮華経」。「念仏」は、浄土宗;浄土真宗で唱える、「南無阿弥陀仏」。朝には、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」を唱え、夕には、浄土宗・浄土真宗の「南無阿弥陀仏」を唱えることから転じて、定見のないことを喩える。

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痛し痒し :
(いたしかゆし):

:

【−】:

《掻けば痛く、掻かなければ痒いの、意から、》二つの事柄が互いに差し障りがあって、一方を立てれば、他方に差し障りが出る状態になり、どちらを採っても、結局は自分には都合が悪くなり、利害損得が入り交じって、判断が付かなくなる状態を譬える。

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怒りには則ち理を思い危うきには義を忘れず :
(いかりにはすなわちりをおもいあやうきにはぎをわすれず):

吾聞、古之士、怒則思理:

【『設苑』】:

腹立たしく思うときには特に、理性的に物事を考えるようにし、危機に直面したときに道義にはずれた行いをしないように注意しなければならない という戒めを語った詞。

[出典] 「吾聞、古之士、怒則思理、危不忘義。必将正行以求之耳」 (『設苑』−「立節』)


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怒りは逆徳なり、兵は凶器なり、争いは末節なり :
(いかりはぎゃくとくなり、へいはきょうきなり、あらそいはまつせつなり):

且怒者逆徳也:

【『漢書』】:

「怒り」は道徳に外れたものであり、武器は人を殺傷する邪悪な道具であり、争いは最もつまらないものであるから、此を避けるようにしなければならないと戒めた詞。

[出典] 「且怒者逆徳也、兵者凶器也、争者末節也」 (『漢書』−「主父偃伝」)


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怒りは敵と思え :
(いかりはてきとおもえ):

:

【家康遺訓】:

怒りが基で、わが身を滅ぼすことは多いものだ。怒りは「敵」と思って、抑えなければならない。
徳川家康の遺訓の一つにみられる詞。

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怒れる拳笑顔に当たらず :
(いかれるこぶしえがおにあたらず):

泉州雲台因禅師:

【『五灯会元』】:

(怒りにまかせて振り上げた拳でも、笑顔の相手にはそれを振り下ろすわけにもいかず、やり場に困ってしまう の意から)強い態度に出てきた相手には、、優しい態度で接した方が効果ある。ことを教える辞。 柔よく剛を制す。

[出典] 「泉州雲台因禅師、僧問、如何是和尚家風、師曰、嗔拳不打笑面」 (『五灯会元』−「一五・智門祚禅師法嗣」)



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当たらずと雖も遠からず :
(あたらずといえどもとおからず):

:

【】:

的中はしていないが、それど同じほど当たっていること。

[出典] 「心誠求之、雖不中不遠矣」 (礼記−大学)


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当たるも八卦あたらぬも八卦 :
(あたるもはっけあたらぬもはっけ):

:

【−】:

占いは、当たることもあるし、はずれることもある。占いのその結果の吉凶に一々囚われることはないということを云う。

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痘痕も靨 :
(あばたもえくぼ):

:

【−】:

《好きなると、相手のあばたでも、えくぼのように見える意から》惚れた欲目で見ると、相手の欠点でも欠点とは見えず。却って長所のように見えてしまうものだというときに使う。まあt、贔屓目に見ると見にくいものでも美しいものに見えるという意に使う


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頭剃るより心を剃れ :
(あたまそるよりこころをそれ):

:

【−】:

剃髪(頭髪を剃って)して、外見だけ、「僧」になるよりも、まず内心を清浄にすることが大切である の意。外形より、精神が大切だと 戒めたことば。

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入りては即ち孝、出でては則ち悌 :
(いりてはすなわちこう、いでてはすなわちてい):

子曰、弟子入則孝、出則悌:

【『論語』-「学而篇」】:
New!!

「子曰、弟子入則孝、出則悌、謹而信、汎愛衆而親仁、行有餘力、則以学文」

   子曰わく、弟子入りては則ち孝、出でては則ち悌、謹みて信あり、汎く衆を愛して、仁に親しみ、
   行いて餘力あれば、則ち以て文を学べ。


先生が仰った、
  「若い諸君よ、君たちは家の中では、父母に孝行を尽くし、家の外、つまり、村の寄り合いの席では、
   年長者に、従順に仕え、発言は慎重にし、言ったことは必ず果たし、村の人たちとは分け隔てなく付き合い、
   村の人格者には昵懇を願わねばならないよ。
   これだけのことことが出来た上で、尚、餘力があれば、そこで初めて、書物の勉強をなさい。」



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入り鉄砲に出女 :
(いりでっぽうにでおんな):

:

【−】:

江戸時代、関所を通り抜けて江戸に持ち込まれる鉄砲と、反対に、江戸から出て行く女のことを指した詞。
江戸幕府は、関八州の関所、特に箱根の関所でこの二つを厳しく取り調べた。鉄砲は謀反・反乱を防ぐためであり、女は、人質として、江戸住まいをさせていた大名の妻子を指して、これらが返送して出奔、国元へ帰ることで、諸大名の幕府への反乱を易くさせることを防ぐ意味合いがあった。


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能わざるにあらず為ざるなり :
(あたわざるにあらずせざるなり):

:

【『孟子』】:

「能(あた)う」は「可能」の意。「出来る」。ものごとを達成、成就出来ないのは、それが、「不可能」だからではない。”やろう”とする心持ちが足りないからである。と、実行力、意志の不足を戒めたもの。

[出典] 「王之不王、不為也、非不能也」 (孟子−梁恵王・上)


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板に付く :
(いたにつく):

:

【−】:

「板」は、舞台のことを指す。役者が舞台に慣れ、芸が身に付いてきた状態をいう。転じて、総体的に、その仕事、役目になれ、身に付いてきた状態をいう。



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板垣死すとも自由は死せず :
(いたがきしすともじゆうはしせず):

:

【板垣 退助】:

自由民権運動の指導者板垣退助が、明治45年4月、岐阜市での演説中、暴漢に刺された時に叫んだといわれることば。「退助死すとも自由は死せず」といったと という説もある。


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板子一枚下は地獄 :
(いたご1まいしたはじごく):

:

【−】:

「板子」は、船の底に敷く板。船乗りは危険な商売で、海が荒れたり、海に落ちたりする「死」が隣り合わせのものであると、いうことを指す。



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彼方立てれば此方が立たぬ :
(あちらたてればこちらがたたぬ):

:

【−】:

一方に義理を立てると他方への義理を欠くことになる。良いと思ってしたことが、一方には良くても、他方にも良いとは言えない。双方の利害や感情などを同時に満足させることは難しいことの譬えとして用いる。また、両方に良いように図ろうとすると、今度は自分自身の立つ瀬が無くなることから、これに続けて、 「双方(両方)立てれば、身が立たぬ」 と使うことも多い。

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文目も知らず :
(あやめもしらず):

:

【−】:

心の乱れから、物の道理、善悪の区別などがわからない。

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未だ事を聞かざる先に応うる者は愚かにして恥を被る :
(いまだことをきかざるさきにこたうるものはおろかにしてはじをおうむる):

自己を人と異にする者は己の欲するところのみを求めてすべての善き考察(かんがえ)にもとる:

【『旧約聖書』−「箴言 ][」】:

軽薄、軽率を戒めたことば。

[出典] 「自己を人と異にする者は己の欲するところのみを求めてすべての善き考察(かんがへ)にもとる。愚なる者は明哲(さとり)を喜ばず惟(ただ)おのれの心意(こゝろ)を顯(あらは)すことを喜ぶ。惡者(あしきもの)きたれば藐視(いやしめ)したがひてきたり 恥きたれば凌辱(はずかしめ)もともに來(きた)る。 人の口の言(ことば)は深水(ふかきみづ)の如し 湧きてながるゝ川 智慧の泉なり 惡者をを偏視るは善からず 審判(さばき)をなして義者(たゞしきもの)を惡しとするも亦善からず 愚(おろか)なる者の口唇はあらそひを起し その口は打るゝことを招く 愚なる者の口は己の敗壤(ほろび)となり その口唇はおのれの靈魂(たましひ)のわなとなる 人の是非(よしあし)をいふものの言はたはぶれのごとしといへども返つて腹の奥にいる。 その行爲(わざ)をおこたる者は滅すものの兄弟なり。 ヱホバの名はかたき櫓のごとし義者(たゞしきもの)は之に走りいりて救を得 富者(とめるもの)の資財(たから)はその堅き城なり これを高き石垣の如くに思ふ 人の心のたかぶりは滅亡(ほろび)に先だち謙遜(へりくだり)はたふとまるゝ事にさきだつ いまだ事をきかざるさきに應ふる者は愚にして辱をかうぶる 人の心は尚其疾(やまひ)を忍ぶべし されど心の傷める時は誰かこれに耐へんや

                                                  (『旧約聖書』−「箴言 ][−1〜14)





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命あっての物種 :
(いのちあってのもだね):

:

【−】:

((「物種」は、物事のもととなるもの、根源))何事も命があって初めて出来る。命がなくなればおしまいである の、意。


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命長ければ恥多し :
(いのちながければはじおおし):

多男子則多懼:

【『荘子』】:

長生きすれば何かにつけて恥をかく機会が多い。

『徒然草』の、一節に、
 「いのちながければ辱おほし、長くとも四十にたらぬほにて死なんこそ、めやすけるべけれ」 (「『徒然草』−七」)とあるところから、これを「出典」と見る人があるが、出典はもっと古くに、もっと世界的古典にある。 といっても、編集子は決して、『徒然草』の、古典的名作性を否定しているのではない。寧ろ、これを記した時の、兼好法師が、その古典を読み知っていたであろうということに、驚きと敬意を払うものである。

[出典] 「多男子則多懼、富則多事、寿則多辱、是三者非所以養徳也」 (『荘子』−「天地」)



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明日ありと思う心の仇桜 :
(あすありとおもうこころのあだざくら:):

:

【親鸞上人絵詞伝】:

明日があるとあると思っていると、翌日には楽しみにしていた桜の花がはかなく散ってしまっており、機会を失ってしまうことになる。世の中の無情を詠ったことば。「親鸞上人絵詞伝」に出てくる、上人作と言われる、「
  「明日ありと 思う心の 仇桜  夜半に嵐の 吹かぬものかは」
の上の句。世の無常さを伝え、仏教への帰依を説く歌とされている。



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明日のことを思ひ煩ふな。一日の苦勞は一日にて足れり :
(あすこのことをおもひわずらふな。いちにちのくろうは1にちにてたれり):

この故に我なんぢらに告ぐ、何を食らひ、何を飲まんと生命のことを思ひ煩ひ:

【『旧約聖書』−「マタイ傳」Y-25〜34】:

この故に我なんぢらに告ぐ、何を食らひ、何を飲まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を着んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや。
空の鳥を見よ、播かず、刈らず、庫に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや。
汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長(たけ)一尺を加へ得んや。
又なにゆゑ衣ことを思ひ煩ふや。野の百合は如何して育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。
然(さ)れど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服装(よそほひ)この花の一つにも及(し)かざりき。
今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。
さらば何を食ひ、何を飲み、」何を着んとて思ひ煩ふな。
是、みな異邦人の切に求める所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。
まづ神の國と神の義を求めよ。然(さ)らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。
この故に明日のことを思ひ煩ふな。明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。

                                                  (『旧約聖書』−「マタイ傳」Y-25〜34)

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明日の百より興の五十 :
(あすのひゃくよりきょうのごじゅう):

:

【−】:

朝になれば沢山手に入れることが出来るかも知れないが、不確実になことに期待するよりも、量は少ないかも知れないが、今日、確実に手に入るものの方がよいということ。似たような言い方として、
「末の百両より、今の五十両」;「聞いた百文より、見た一文」;「先の雁より、今の雀」 等々ある。


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明日は明日の風が吹く :
(あしたはあしたのかぜがふく):

:

【−】:

明日のことを心配しても仕方がない。なるようにしかならない。明日になれば、またどんなことが起こるか分からないから、くよくよ心配しても始まらない。小説・「風と共に去りぬ」(マーガレット・ミッチェル)の主人公=スカーレット・オハラの科白として有名。

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網、呑舟の魚を洩らす :
(あみ、どんしゅうのうおをもらす):

網漏於呑舟之魚:

【『史記』】:

(「呑舟の魚」とは、舟をも呑み込む程の大魚で、大罪人をさす)法の網が粗いため、大罪人を捕らえ、罰することができない。

[出典] 「網漏於呑舟之魚、而吏治丞丞不至於姦」 (『史記』−「酷吏列伝」)

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油を売る :
(あぶらをうる):

:

【−】:

《江戸時代、髪油を売り歩く者が婦女を相手に、話し込みながら商っていたことから》仕事中に怠けて無駄話をすることまた、その様。仕事の途中で時間を潰して怠けてること。


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有る袖は振れど無い袖は振られぬ :
(あるそではふれどないそではふられぬ):

:

【−】:

有る物(金)はどうにでも使いようがあるが、初めから無いものは、どうしよもない。 の意。単純に、後段の、「無い袖は振れぬ」のみで使われることが多い。

無い袖は振られぬ

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有れども無きが如し :
(あれどもなきがごとし):

有若無、:

【『論語』】:

自分の才能をひけらかすことなく、常に謙虚であること、を謂う。

[出典] 「有若無、実若虚、犯而不校」 (『論語』−「泰伯」)

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余り寒さに風を入る :
(あまりさむさにかぜをいる):

:

【昔話】:

目先のことにとらわれて、後先を考えずに行動し、却ってひどい目に遭うことの譬え。寒さに耐えかねて、軒や垣根の木をはずして燃やして暖をとっていた者が、そのために却って寒風に晒されることになったという昔話による。

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預かって力がある :
(あずかってちからがある):

:

【−】:

ある事柄に関わって、非常に大きな力や助けになることを言う。まあt、そのことに深い関係があることを示す時にも使う。「預かって力を尽くす」という言い回しをすこともある。

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倚閭の情 :
(いりょのじょう):

:

【−】:

((「閭」は村の入り口の門。転じて、村の、意))村の入り口の門に寄りかかって、我が子の帰りを待ち望む母親の情。 「倚門の望」。


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婀娜な素足も貧から起こる :
(あだなすあしもひんからおこる):

:

【−】:

「婀娜」は色っぽい様子。なまめかしい様を表す。色っぽい素足を見せてはいるものの、その実は、足に履く「足袋」がないからで、それだけ貧乏だということの現れでもある。 「伊達の素足も無いか起こる」 も同義に使われる。


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慇懃無礼 :
(いんぎんぶれい):

:

【−】:

むやみに丁寧すぎるのは誠意が感じられず、却って無礼であること。また、表面は極めて丁寧であるが、実は甚だ尊大であること。


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晏子の御 :
(あんしのぎょ):

:

【『史記』】:

中国春秋時代に、斉(せい)の宰相晏嬰(あんえい)の御者が、自分は宰相の御者であることが得意で、それに満足していたのを妻にたしなめられ、発奮したという故事(『史記』−「晏嬰伝」)から、他人の権威に寄りかかって得意になることを云う。


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殷鑑遠からず :
(いんかんとおからず):

殷鑑不遠:

【『詩経』】:

((殷(古代中国の国名)の国民が鏡(かがみ)とすべきものは、遠くに求めなくても。前代の夏(か:同様古代中国の国名)の滅亡がよい戒めであるの意から))戒めとすべき失敗の前例は手近なところにあるということを指して使う。

[出典] 「殷鑑不遠、在夏后之世」 (『詩経』−「大雅・蕩」)


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羮に懲りて膾を吹く :
(あつものにこりてなますをふく):

:

【『楚辞』】:

羮(あつもの)は、野菜や魚肉を熱く煮た吸い物。膾(なます)は酢などで味付けした冷たい和え物(韲)料理。熱い吸い物で舌などを火傷したものが、どれに懲りて、次から冷ます必要ない冷たい膾を食する時も、フーフーと息を吹きかけて冷ましてしている様子を風刺していることの意から、一度の失敗に懲りて、大層臆病になって、次から必要以上に馬鹿馬鹿しいような用心をするようになっている様子を風刺して言う。

[出典] 「懲熱羮而吹韲■、何不変此志也」 (楚辞−九章・惜誦)

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豈図らんや :
(あにはからんや):

:

【−】:

次にくる、文章表現される内容が、思いも依らぬものであるときに使う。慣用的表現法。 文末に、「……とは」とか、「……ことを」という言い回しが続き、反対の意味となる。 そんなことを、だれが想像しただろうか、(いや、だれもしなかった) など。


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蹇立つことを忘れず :
(あしうなえたつことをわすれず):

:

【『史記』】:

足の不自由な人は、健康な人人以上に”歩きたい”という気持ちを強く持っている。 といいううことから、普段満たされないことや本能の発揮を強く願うこと。常に、心にかけて願っているさまを いう。

[出典] 「僕之思帰、如痿人不忘起、盲目者不忘視也」  (『史記』−「韓王信伝」)

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韋編三度絶つ :
(いへんみたびたつ):

孔子晩而喜易:

【『史記』】:

((「韋編」は竹の札をなめし革で綴じた古代中国の書物。転じて、広く書物をいう。孔子がその晩年、易を好んで熟読したため、そのなめし革の綴じ紐が三度も切れてしまったという故事から))書物を繰り返して読むこと、熟読することの譬え。韋編三度絶。

[出典] 「孔子晩而喜易<中略>韋編三度絶」 (『史記』−「孔子世家」)



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 か 

こいつは春から縁起がいいわえ :
(こいつははるからえんぎがいわえ):

月も朧に白魚の:

【歌舞伎−『三人吉三郭初買』−】:

月も朧に白魚の、篝も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽、塒へ帰(けえ)る川端で、棹の雫か濡れ手で泡、思いがけなく手に入る百両。(厄払い「お厄払いましょう。厄落とし」)ほんに今夜は節分か、西の海より川のなか、落ちた夜鷹は厄落とし、豆沢山に一文の、銭と違った金包み、こいつは春から縁起がいいわえ。
 
                         (『三人吉三郭初買』 女装したお嬢吉三、夜鷹のおとせから百両を奪い、彼女を川へ落とした後の、嘯き)

なるほど世間は難しい

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この世の名残、夜も名残 :
(このよのなごり、よもなごり):

この世の名残、夜も名残:

【歌舞伎−『曾根崎心中』−】:

この世の名残、夜も名残。死にに行く身を譬うれば、あだしが原の道の霜、一足ずつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ。あれ数うれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽(じゃくめついらく)と響くなり。鐘ばかりかは草も木も、空も名残と見上ぐれば、雲心なき水の音、北斗は冴えて影映る、星の妹背の天の川

                         近松門左衛門   『曾根崎心中』  「道行」の場

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悔改むる一人の罪人のためには、悔改の必要なき九十九人の正しき者にも勝りて、天に歓喜あるべし :
(くいあらたむるひとりのつみびとのためには、くいあらためのひつようなき九十九にんのただしきもにもまさりて、てんによろこびあるべし):

なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を失はば:

【『新約聖書』−「ルカ傳」]X-3〜10】:

 イエス之に譬を語りて言ひ給ふ、
『なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや。
遂に見出さば、喜びて之を己が肩にかけ、
家に歸りて其の友と隣人(となりびと)とを呼び集めて言はん「我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり」
われ汝らに告ぐ、斯くのごとく悔改むる一人の罪人のためには、悔改の必要なき九十九人の正しき者にも勝りて、天に歓喜(よろこび)あるべし。
 又いづれの女か銀貨十枚を有たんに、若しその一枚を失はば、燈火をともし、家を掃きて見出すまでは懇ろに尋ねxざらんや。
遂に見出さば、其の友と隣人とを呼び集めて言はん、「我とともに喜べ、わが失ひたる銀貨を見いだせり」
われ汝らに告ぐ、斯くのごとく悔い改むる一人の罪人のために、神の使たちの前に歓喜あるべし』

                         (『新約聖書』−「ルカ傳」]X-3〜10)

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教育ニ關スル勅語 :
(きょういくにかんするちょくご):

朕惟フニ我カ皇祖*皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳*ヲ樹ツルコト深厚ナリ:

【-】:

朕惟フニ我カ皇祖*皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳*ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體の精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ知能ヲ啓發シ徳*器ヲ成就シ進テ公益*ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖*先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖*皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵*守スヘキ所之を古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳*ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

      明治二十三年十月三十日

       御 名   御 璽


                   [註]  旧字体、第三水準文字で、標記不能な文字は、それぞれ、現代標記を当てた


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厳頭之感 :
(がんとうのかん):

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今:

【】:

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以って
此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等の
オーソリチィーを値するものぞ。万有の
眞相は唯だ一言にして悉す。曰く「不可解」
我この恨を懐いて煩悶終に死を決す。
既に巌頭に立つに及んで胸中何等の
不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。

     一高生 藤村 操   日光・華厳の滝における、投身自殺の際の、大樹の皮を剥いで墨書された 辞世

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巧言令色、鮮ないかな仁 :
(こうげんれいしょく、すくないかなじん):

子曰、巧言令色、鮮矣仁:

【『論語』-「学而篇」;「陽貨篇」】:
New!!

「子曰、巧言令色、鮮矣仁」

     子曰わく、巧言令色、鮮ないかな仁



先生が仰った。
   「弁舌爽やか、表情たっぷり。そんな<みてくれ>だけの人間には、
    如何に<本当の人間性>に、乏しいことでは無いか」



     
          ※ 学而篇」三章と、「陽貨篇」一七章   に、全く同じ形で掲載されている。


        

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香炉峰の雪は簾を撥げて看る :
(こうろほうのゆきはすだれをかかげてみる):

遺愛寺鐘欹枕聴:

【白居易】:

《「香炉峰」は、中国江西省九江県西南にある盧山の北峰の名》白居易の詩に出てくる一節。この前の、「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴く」と、対をなす。香炉峰の雪景色は、簾を高くはね上げて見る という意。清少納言の、『枕草子』の中にも、中宮:定子から、「香炉峰の雪いかならん」と問われて、御簾を高く上げて見せたという、この詩句に倣った一節が出てくる。

[出典] 「遺愛寺鐘欹枕聴、香炉峰雪撥簾看」 (白居易−「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」)

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魂魄この土に留まって :
(こんぱくこのどにとどまって):

仏果とは穢(けがら)わし:

【歌舞伎−『仮名手本忠臣蔵』−】:

仏果とは穢(けがら)わし。死なぬ死なぬ。魂魄この土(ど)に留まって、敵討ちの御供する。

                         (『仮名手本忠臣蔵』 六段目 "色に耽ったばっかりに" の科白で、切腹して瀕死状態の 勘平が、訪ねてきた、原郷右衛門(不破数右衛門)の、「仏果を得よや」の科白に対しての、科白)



色に耽ったばっかりに馬鹿ほど怖いものはないまだ御料簡が若い若い

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不具または蹇跛にて生命に入るは、兩手・兩足ありて永遠の火に投げ入れらるるより勝るなり :
(かたはまたはあしなへにていのちにいるは、りょうて・りょうあしありてとこしへのひになげいれらるるよりもまさるなり):

この世は躓物あるによりて禍害なるかな:

【『新約聖書』−「マタイ傳」][-7〜14】:

この世は躓物(つまづき)あるによりて禍害(わざわひ)なるかな。躓物は必ず來らん、されど躓物を來らす人は禍害なるかな。
もし汝の手、また足、なんぢを躓かせば、切りて棄てよ。不具(かたは)または蹇跛(あしなへ)にて生命に入るは、兩手・兩足ありて永遠の火に投げ入れらるるより勝るなり。
もし汝の眼、なんぢを躓かせば抜きて棄てよ、片眼にて生命に入るは、兩眼ありて火のゲヘナに投げ入れらるるよりも勝るなり。
汝ら慎みて此の小さき者の一人をも侮るな。我なんぢらに告ぐ、彼らの御使たちは天にありて、天にいます我が父の御顏を常に見るなり
(11節欠落:異本にはあり)
汝等いかに思ふか、百匹の羊育てる人あらんに、若しその一匹まよはば、九十九匹を山に遺しおき、往きて迷へるものを尋ねぬか。
もし之を見出さば、誠に汝らに告ぐ、迷はぬ九十九匹に勝りて此の一匹を喜ばん。
斯くのごとく此の小さき者の一人の亡ぶるは、天にいます汝らの父の御意(みこころ)に非ず。

                                                  (『新約聖書』−「マタイ傳」][-7〜14)

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恋と忠義はいずれが重い :
(こいとちゅうぎはいずれがおもい):

恋と忠義はいずれが重い:

【歌舞伎−『義経千本桜』−】:

恋と忠義はいずれが重い、かけて思いは量りなや。忠と信のもののふに、君が情けと預けられ、静に忍ぶ都をば、跡に見捨てて旅立ちて、作らぬなりも義経の、御行く末は難波津の、波に揺られて漂いて、今は芳野と人づての、噂を道の枝折りにて、大和路指して慕い行く。

                         (『義経千本桜』 四段目:「道行初音の旅」の場面)

腹が減っては出来ぬもの

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:
(げき):

われわれ楯の会は自衛隊によって育てられ:

【−】:

われわれ楯の会は自衛隊によって育てられ、
いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。
その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。
かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、
一片の打算もない教育を受け、またわれわれも心から自衛隊を愛し、
もはや隊の紫外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、
ここでこそ終戦後つひに知らなかった男の涙を知った。
ここで流したわれわれの汗は純一であり、
憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。
このことには一点の疑ひもない。

われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる
唯一の場所であった。
教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。
しかもなほ敢えてこの挙に出たのは何故であるか。
たとえ強弁と言はれようとも自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、
国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、
その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみささがられ、
国家百年の大計は外国に委ね、配線の汚辱は払拭されずにただごまかされ、
日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら
見ていなければならなかった。

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、
真の武士の魂が残されているのを夢見た。
しかも法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、
国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、
軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、
道義の頽廃の根本原因をなして来ているのを見た。
もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。
自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。
自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、
警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、
その忠誠の対象も明確にされなかった。

われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。
自衛隊が目覚める時こそ日本が目覚める時だと信じた。
自衛隊が自ら目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのを信じた。
憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、
真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に
大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。
楯の会の根本理念はひとへに自衛隊が目覚める時、自衛隊を国軍、
名誉ある国軍とするために命を捨てようといふ決心にあった。

憲法改正がもはや議会制度化ではむづかしければ、
治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、
国軍の礎石たらんとした。
国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。
政体を警察力を以て守りきれない段階に来てはじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。
日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。
国のねじ曲がった大本を正すといふ使命のためわれわれは少数乍ら訓練を受け、
挺身しようとしていたのである。

しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こったか。
総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終わった。
その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。
その日に何が起こったか、政府は極左勢力の限界を見極め、
戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、
敢えて「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。
治安出動は不要になった。

政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、
国の根本問題に対して頬っかぶりをつづける自信を得た。

これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしゃぶらせつづけ、
名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。
名を捨てて実をとる!
政治家にとってはそれでよからう。
しかし自衛隊にとっては致命傷であることに政治家は気づかない筈はない。
そこで、ふたたび前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

銘記せよ!
実はこの昭和四十五年*十月二十一日といふ日は、
自衛隊にとっては悲劇の日だった。
創立以来二十年に亘って憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、
決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、
相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が
非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。
論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は
「護憲の軍隊」として認知されたのである。
これ以上のパラドックスがあらうか。

われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。
われわれが夢みていたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、
どうしてこの事態を黙視しえよう。
自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。
男であれば男の矜りがどうしてkろえを容認しえよう。
我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば決然起ち上がるのが男であり
武士である。
われわれはひたすら耳をすました。
しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」
といふ屈辱的な命令に対する男子の声はきこえてはこなかった。

かくなる上は自らの力を自覚して、
国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、
自衛隊は声を奪はれたカナリヤやうに黙ったままだった。

われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。
諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。
しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、採取敵には日本からは来ないのだ。
シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。
しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。
日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、
党利党略に利用されることではない。

この上、政治家のうれしがらせに乗り、
より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐ったのか。
武士の魂はどこへ行ったのだ。
魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこへ行かうとするのか。
繊維交渉に当たっては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、
国家百年の大計にかかはる核停条約は、
あたかもかつての五・五・三の
不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、
抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかった。
沖縄返還とは何か?
本土の防衛責任とは何か?
アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。
あと二年の内に自主権を回復せねば、左派のいふ如く、
自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。

われわれは四年待った。
最後の一年は熱烈に待った。
もう待てぬ。
自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待たう。
共に起って義のために共に死ぬのだ。
日本を日本の真姿に、戻してそこで死ぬのだ、生命尊重のみで魂は死んでもよいのか、
生命以上の価値なくして何の軍隊だ。
今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。

それは自由でも民主主義でもない。
日本だ。
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。
もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう。
われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、
真の武士として蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである。



           [註] *:「昭和44年」の誤り か?


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 さ 

しがねえ恋の情けが仇 :
(しがねえこいのなさけがあだ):

しがねえ恋の情けが仇:

【歌舞伎−『与話情浮名横櫛』−】:

しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親には勘当受け、拠所(よんどころ)なく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても、面に受けたる看板の、疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸に、切られ与三(よぞう)と異名を取り、押借り強請(ゆす)りも習おうより、慣れた時代の源氏店(げんじだな)、しのしらばけか黒塀に、格子造りの囲いもの、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気がつくめえ

                         『与話情浮名横櫛』 与三郎の口上



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せまじきものは宮仕え :
(せまじきものはみやづかえ):

弟子子と言えば我が子も同然:

【歌舞伎−『菅原伝授手習鑑』−】:

弟子子と言えば我が子も同然、今日に限って寺入りしたは、あの子が業か母御の因果か、報いはこちらが火の車、押っ付け廻ってきましょうと、妻が嘆けば夫も目をすり、せまじきものは宮仕えと、倶に涙にくれ居たる

                         (『菅原伝授手習鑑』 4段目切「寺子屋」の場での源蔵と戸浪

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そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さま :
(そりゃきこえませぬでんべえさま):

そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さま:

【歌舞伎−『近頃河原達引』−】:

そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さま、お言葉無理とは思わねど、そも逢いかかる初めより、末の末まで言い交わし、互いに胸を明かしあい、何の遠慮も内証の、世話しられても恩に被(き)ぬ、ほんの女夫(めおと)と思うもの。大事の大事の夫の難儀、命の際にふり捨てて、女(おなご)の道が立つものか。不幸とも悪人とも思い諦め、これもうし、一緒に死なして下さんせ

                         (『近頃河原達引』 遊女・お俊の、独りで死のうとする伝兵衛に対しての科白)



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狭き門より入れ :
(せまきもんよりいれ):

狭き門より入れ:

【『新約聖書』−「マタイ傳」Z-13〜14】:

狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者はおほし。
生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出すもの少なし。

                                                  (『新約聖書』−「マタイ傳」Z-13〜14)




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山上の垂訓 :
(さんじょうのすいくん):

幸福なるかな、心の貧しき者:

【『新約聖書』−「マタイ傳」X-3〜12】:

幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者、天國はその人のものなり。
幸福なるかな、悲しむ者、その人は慰められん。
幸福なるかな、柔和なる者、その人は、地を嗣がん。
幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者、その人は飽くことを得ん。
幸福なるかな、憐憫(あはれみ)ある者、その人は憐憫を得ん。
幸福なるかな、心の清き者、その人は神を見ん。
幸福なるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と稱(とな)へられん。
幸福なるかな、義のために責められたる者、天國はその人のものなり。
我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐(いつは)りて各様(さまざま)の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。
喜びよろこべ、天にて汝らの報は大(おほい)なり。汝等より前(さき)にありし予言者等(たち)をも、斯く責めたりき。

                                                  (『新約聖書』−「マタイ傳」X-3〜12)



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死んでも褒美の金が欲しい :
(しんでもほうびのかねがほしい):

計る計ると思いのほか:

【歌舞伎−『鬼一法眼三略巻』−】:

計る計ると思いのほか、却って馬鹿に計られしか。たとえこのまま果てるとも、死んでも褒美の金がが欲しい。

                         (『鬼一法眼三略巻』 四段目 :常磐御前と、さの再婚相手で阿呆を装っている一条大蔵卿が清盛の調伏(ちょうふく=呪い殺し)を謀っていると知った八剣勘解由が清盛に注進に及ぼうとして見つかって斬られる場面での科白。まだ、勘解由は、大蔵卿が本当の「馬鹿」だと思いこんでいる 「ジワ」の場面)

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出師表[前] :
(すいしのひょう[ぜん]):

臣亮言:

【三国志】:

臣亮言。先帝創業未半、而中道崩(歹且)。
今天下三分、益州疲弊。此誠危急存亡之秋也。
然侍衛之臣、不懈於内、忠志之士、忘身於外者、蓋追先帝之殊遇、欲報之陛下也。
誠宜開張聖聴、以光先帝遺徳、恢弘志士之気。
不宜妾自菲薄、引喩失義、以塞忠諫之路也。

宮中府中、倶為一体。
陟罰臧否、不宜異同。
若有作姦犯科、及為忠善者、宜付有司、論其刑賞、以昭陛下平明之治。
不宜偏私使内外異法也。

侍中侍郎郭攸之、費(示韋)、董允等、此皆良実、志慮忠純。
是以先帝簡抜以遺陛下。
愚以爲、宮中之事、事無大小、悉以諮之、然後施行、必能裨補闕漏、有所広益也。
将軍向寵、性行淑均、曉暢軍事、試用於昔日、先帝称之、曰能。
是以衆議挙寵以為督。
愚以爲、営中之事、事無大小、悉以諮之、必能使行陣和睦、優劣得所。

親賢臣、遠小人、此先漢所以興隆也。
親小人、遠賢臣、此後漢所以傾頽也。
先帝在時、毎与臣論此事、未嘗不歎息痛恨於桓霊也。
侍中、尚書、長史、参軍、此悉貞亮、死節之臣也。
願陛下親之信之、則漢室之隆、可計日而待也。

臣本布衣、躬耕於南陽、苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯。
先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣草廬之中、諮臣以当世之事。
由是感激、遂許先帝以駆馳。
後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間、爾来二十有一年矣。

先帝知臣謹慎、故臨崩、寄臣以大事也。
受命以来、夙夜憂歎、恐付託不効、以傷先帝之明。
故五月渡濾、深入不毛、今南方已定、兵甲已足。
当獎率三軍、北定中原。
庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還於旧都。
此臣之所以報先帝、而忠陛下之職分也。

至於斟酌損益、進尽忠言、則攸之、(示韋)、允之任也。
願陛下託臣以討賊興復之効。
不効則治臣之罪、以告先帝之霊。
若無興徳之言、則責攸之、(示韋)、允等之咎、以彰其慢。
陛下亦宜自謀、以諮諏善道、察納雅言、深追先帝遺詔。
臣不勝受恩感激、今当遠離、臨表涕泣、不知所云。





      臣亮言(もう)す。先帝創業未だ半ばならずして、中道ににして崩(歹且)(ほうそ)す。
      今 天下三分すれども、益州は疲弊す。此れ誠に危急存亡之秋(とき)なり。
      然れども侍衛の臣、内に懈(おこたら)ず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇(しゅぐう)を追いて、之を陛下に報いんと欲すればなり。
      誠に宜しく聖聴(せいちょう)を開張して、以て先帝の遺徳を光(あきら)かにし、志士の気を恢弘(かいこう)すべし。
      宜しく妾(みだり)に自(みずか)ら菲薄(ひはく)なりとし、喩(たと)えを引き 義を失いて、以て忠諫の路を塞ぐべからざるなり。

      宮中府中は、倶に一体なり。
      臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょうばつ)し、宜しく異同すべからず。
      若し姦を作(な)し、科を犯し、及び忠善を為す者あらば、宜しく有司に附し、其の刑賞を論じて、陛下の平明の治を昭(あき)らかにすべし。
      宜しく偏私(へんし)して、内外をして法を異に使(す)べからず。

      侍中侍郎郭攸之(じちゅう)(じろう)(かくゆうし)、費[示韋](ひい)、董允(とういん)等、此れ皆良実にして、志慮忠純(しりょちゅうじゅん)なり。
      是(ここ)を以て、先帝簡抜して、以て陛下に遺せり。
      愚思へらく、宮中の事は事の大小を問わず悉く以て之に諮り、然かる後施行せば、必ず能く闕漏(けつろう)を裨補(ひほ)し、広益するところあらん。
      将軍向寵(しょうちょう)は性行淑均、軍事に曉暢(ぎょうちょう)して、昔日に試用せらる。先帝之を称して能と曰う。
      是(ここ)を以て衆議、寵を挙げて督と為す。
      愚思へらくは、営中の事は、事の大小無く悉く之に諮せば、必ずや能く行陣して和睦し、優劣の所を得せしめん。

      賢臣に親しみ小人をを遠ざくる、此れ先漢の興隆せし所以なり。
      小人に親しみ賢臣を遠ざくる、此れ後漢の傾城せし所以なり。
      先帝在りし時、毎(つね)に臣と此の事を論じ、未だ嘗て桓霊(かんれい)に嘆息痛恨せずんばあらざりしなり。
      侍中、尚書(しょうしょ)、長史、参軍、此れ悉く貞亮、死節の臣なり。
      願わくば、陛下、之に親しみ、之を信ぜば、則ち漢室の隆、日を計りて待つべし。

      臣は本(もと)布衣(ふい)、躬(みずか)ら南陽に耕(こう)す。苟(いやしく)も性命(せいめい)を乱世に全うし、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。
      先帝臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)し、臣を草廬の中(うち)に三顧し、臣に諮るに当世の事を以てす。
      是に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くち)も以てす。
      後(のち)傾覆(けいふく)に値(あた)い、任を敗軍(はいせん)の際に受け、命(めい)を危難の間に奉ず。爾来二十雄一年なり。

      先帝、臣が謹慎を知れり。故に崩ずるに臨みて、臣に寄するに大事を以てせり。
      命を受けて以来、夙夜憂歎(ゆうたん)し、付託の功あらずして、以て先帝の明を傷(やぶ)らんことを恐る。
      故に五月、濾(ろ)を渡り、深く不毛に入る。今、南方已(すで)に定まり、兵甲(へいこう)已に足る。
      当(まさ)に三軍を獎率(しょうそつ)し、北のかた中原を定べし。
      庶(こいねがわ)くは駑鈍(どどん)を竭(つ)くし、姦凶を攘除(じょうじょ)し、漢室を興復して、旧都に還(かえ)さんことを。
      此れ臣の先帝に報いて、而して陛下に忠なる所以の職分なり。

      損益を斟酌し、進んで忠言を尽に至りては、則ち攸之(ゆうし)、(示韋)(い)、允(いん)の任なり。
      願わくは陛下、臣に託するに賊を討ち興復するの効を以てせよ。
      効あらずんば則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げよ。
      若し徳を興すの言無くんば、則ち攸之(ゆうし)、(示韋)(い)、允(いん)らの咎(とが)を責め、以て其の慢(まん)を彰(あら)わせ
      陛下も亦宜しく自ら謀(はか)り、以て善道(ぜんどう)を諮諏(ししゅ)し、雅言(がげん)を察納し、深く先帝の遺詔(いしょう)を追うべし。
      臣、恩を受けて感激に勝(た)えず、今、遠く離るるに当たり、表に臨んで涕泣し、云う所を知らず

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絶景かな、絶景かな :
(ぜっけいかな、ぜっけいかな):

絶景かな、絶景かな:

【歌舞伎−『金門五三の桐』−】:

絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とは、小せえ小せえ、この五右衛門の目から見れば、価万両、万々両。日も西山に傾きて、雲とたなびく桜花、あかね輝くこの風情、はて麗(うら)らかなながめじゃなあ。

                         (『金門五三の桐』二幕目=「南禅寺山門の場せの、石川五右衛門の科白)

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知らざあ言って聞かせやしょう :
(しらざあいってきかさえやしょう):

知らざあ言って聞かせやしょう:

【歌舞伎−『青砥稿花紅彩画』−】:

知らざあ言って聞かせやしょう、浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人(ぬすびと)の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの児(ちご)ヶ淵、江戸の百味講(ひゃくみ)の蒔銭(まきせん)を、当てに小皿の一文字(いちもんこ)、百が二百と賽銭の、くすね銭せえだんだんに、悪事はのぼる上(かみ)の宮、岩本院で講中(こうじゅう)の、枕捜しも度重なり、お手長講(てながこう)を札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆(わかしゅ)の美人局、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた祖父(じい)さんの、似ぬ声色で小ゆすりかたり、名さえ由縁(ゆかり)の弁天小僧菊之助とは俺がこった。

                         (『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』 女装した弁天小僧が、「濱松屋」で万引現場で、女装を見破られての、啖呵)




問われて名乗るもおこがましいが

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 た 

つひにゆく道とはかねてききしかど :
(ついにゆくみちとはかねてききしかど):

むかし、男、わづたひて、:

【『伊勢物語』】:

    むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
つひにゆく道とはかねて聞きしかど
きのふけふとは思がざりしを

                                                  (『伊勢物語』 最終段:業平辞世)


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魂抜けて、とぼとぼうかうか :
(たましいぬけて、とぼとぼうかうか):

天満に年経る千早振る:

【歌舞伎−『心中天網島』−】:

天満(てんま)に年経(ふ)る千早振る、神にはあらぬ紙様と、世の鰐口に乗るばかり、小春に深く大幣(おおぬさ)の、腐り合うたる御注連縄、今は結ぶの神無月、堰(せ)かれて逢われぬ身となり果て、あわれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残の文の言い交わし、毎夜毎夜の死に覚悟、魂抜けて、とぼとぼうかうか、身を焦がす

                         (『心中天網島』 紙屋治兵衛 の科白)



女同士の義理立たぬ

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出合う所が百年目 :
(であうところが百ねんめ):

斎世親王、菅丞相、讒言によって御沈落:

【歌舞伎−『菅原伝授手習鑑』−】:

斎世親王(ときよしんのう)、菅丞相(かんしょうじょう)、讒言によって御沈落、その無念骨髄に徹し、出合う所が百年目と思い設けし今日ただ今。

                         (『菅原伝授手習鑑』三段目・口 桜丸の、松王丸への科白)



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地の鹽 :
(ちのしお):

汝らは地の鹽なり:

【『新約聖書』−『マタイ傳』X13〜16】:

汝らは地の鹽なり、鹽もし効力を失はば、何をもてか之に鹽すべき。後は用なし、外にすてられて人に踏まるるのみ。
汝らは世の光なり。山の上にある町は隠るることなし。
また人は燈火をともして升の下におかず、燈臺の上におく。斯て燈火は家にある凡てのものを照すなり。
斯のごとく汝らの光を人の前にかかやかせ、これ人の汝らが善き行為(おこなひ)を見て、天にいます汝らの父を崇めん爲なり。

                                                  (『新約聖書』−『マタイ傳』X13〜16)


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忠信に主しみ、己に如かざる者を友とすること無かれ :
(ちゅうしんにしたしみおのれにしかざざるものをともとすることなかれ):

子曰、君子不重則不威:

【『論語」-「学而篇」】:
New!!

「子曰、君子不重則不威、学則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改」

   子曰わく、君子重からざれば、則ち威あらず、学べば則ち固ならず、忠信に主(したし)み、
   己に如かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。



先生が仰った。
  「貴族たるものは、まずどっしりと構えることだ。そうしないと、威厳を失うし、学問させても、しっかりしたところが出来ない。
   次には、律儀で、約束を違えない人に昵懇を願い、自分に及ばない者と友だちにならないこと。
   最後に、誤りに気付いたら素直に認め、すぐに訂正出来ることだ。




過てば則ち改むるに憚ること勿かれ過ちて改めざる、是を過ちと謂う

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藤村詩集 序文 :
(とうそんししゅう じょぶん):

遂に新しき詩歌の時は来たりぬ:

【藤村詩集】:
Updated!!

遂に新しき詩歌の時は来たりぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の予言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いずれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。
うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民族の言葉を飾れリ。
伝説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帯びぬ。
明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壮大と衰退とを照せり。
新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆実なる青年なりき。その芸術は幼稚なりき、不完全なりき、されどもまた偽りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口唇にあふれ、感激の涙は彼らの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思想は幾多の青年をして殆ど寝食を忘れしめたるを。
われも拙き身を忘れて、この新しきうたびとの声に和しぬ。
詩歌は静かなるところにて想ひ起こしたるたる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。
なげきと、わづらひとは、わが歌に残りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に励まされてわれも身と心を救ひしなり。
誰か旧き生涯に安んぜむとするものぞ、おのがじゝ新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過ごしぬ。芸術はわが願ひなり。されどわれは芸術を軽く見たりき。
あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの巻とはなれり。われは今、青春の紀念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。

                                                藤  村

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問われて名乗るもおこがましいが :
(とわれてなのるもおこがましいが):

問われて名乗るもおこがましいが:

【歌舞伎−『青砥稿花紅彩画』−】:

問われて名乗るもおこがましいが、産(う)まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の、沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々(しゅくじゅく)で、義賊と噂高札に、廻る配符(はいふ)の盥越(たらいご)し、危ねえその身の境界も、最早四十に人間の、定めは僅か五十年、六十余州に隠れのねえ、義徒の首領日本駄右衛門 

                          (『青砥稿花紅彩画』 白浪五人男 勢揃いの場での、「名乗り科白」)

知らざあ言って聞かせやしょう

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 な 

なるほど世間は難しい :
(なるほどせけんむずかしい):

駕籠にゆられてとろとろと:

【歌舞伎−『三人吉三廓初買』−】:

駕籠にゆられてとろとろと、一杯(いっぺえ)機嫌の初夢に、金と聞いては見遁(みのが)せねえ、心は同じ盗人(ぬすびと)根性、去年の暮から間が悪く、五十とまとまる仕事もなく、遊びの金にも困っていたが、なるほど世間は難しい。友禅入りの振袖で、人柄作りのお嬢さんが、追落(おいおと)しとは気がつかねえ。

                         (『三人吉三廓初買』 お嬢吉三の、追い落とし(「こいつは春から縁起がいいわえ」)を目撃した、お坊吉三の、お嬢への恐喝)

こいつは春から縁起がいいわえ

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後なる者は先に、先なる者は後になるべし :
(のちなるものはさきに、さきなるものはあとになるべし):

天國は勞動人を葡萄園に雇ふ爲に:

【『新約聖書』−「マタイ傳」]]-1〜16】:

天國は勞動人(はたらきびと)を葡萄園に雇ふ爲に、朝早くに出でたる主人(あるじ)のごとし。
一日、一デナリの約束をなして、勞動人どもを葡萄園に遣わす。
また九時ごろ出でて市場に空しく立つ者どもを見て
「なんぢらも葡萄園に往け、相當のものを與へん」といへば、彼らも往く。
十二時ゴロと三時頃とに復いでて前の語と楠。
五時頃また出でしに、なほ立つ者等のあるを見て言ふ「何ゆゑに終日(ひねもす)ここに空しく立つか」
彼ら言ふ「たれも我らを雇はぬなり」主人いふ「なんぢらも葡萄園に往け」
夕(ゆうべ)になりて葡萄園の主人その家司(いへつかさ)に言ふ「勞動人を呼びて、後の者より始め先の者にまで賃金をはらへ」
斯て五時頃に雇はれしもの來りて、おのおの一デナリを受く。
先の者きたりて、多く受くるならんと思ひしに、之も亦おのおの一デナリを受く。
受けしとき、主人にむかひ呟きて言ふ、
「この後の者どもは僅かに一時間はたらきたるに、汝は一日の勞と暑さとを忍びたる我らと均(ひと)しく、之を遇(あしら)へり」
主人こたへて其の一人に言ふ「友よ、我なんぢらに不正をなさず、汝は我と一デナリの約束をせしにあらずや。
己(おの)が物を取りて往け、この後の者に汝とひとしく與ふるは、我が意(こころ)なり。
我が物を我が意のままに爲(す)るは可(よ)からずや、我よきが故に汝の目あしきか」
斯くのごとく後なる者は先に、先なる者は後になるべし』

                                                  (『新約聖書』−「マタイ傳」]]-1〜16)


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汝の右の頬をうたば、左をもむけよ :
(なんじのみぎのほうをうたば、ひだりをもむけよ):

人もし汝の右の頬を:

【『新約聖書』−「マタイ傳」X-38〜41】:

「目には目を、歯には歯を」と云へることあるを汝ら聞けり
されど我は汝らに告ぐ、惡しき者に抵抗(てむか)ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をもむけよ。
汝を訟へて下衣を取らんとする者には上衣をも取らせよ。
人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ。
なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな。

                                                  (『新約聖書』−「マタイ傳」X-38〜41)


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無い袖は振られぬ :
(ないそではふられぬ):

:

【−】:

実際に無いものは、どうして上げようもない。してやりたいと思っても、力が無くてはどにもならない。金銭、資金力に関わって使われることが多い。


有る袖は振れど無い袖は振られぬ

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無くてならぬものは多からず、ただ一つのみ :
(なくてならにものはおおからず、だたひとつのみ):

斯て彼ら進みゆく間に、イエス或村に入り給へばマルタと名づくる女おのが家に迎へ入る:

【『新約聖書』−「ルカ傳」]−38〜42】:

斯て彼ら進みゆく間に、イエス或村に入り給へばマルタと名づくる女おのが家に迎へ入る。
その姉妹にマリヤといふ者ありて、イエスの足下に坐し、御言を聴きをりしが、
マルタ饗應(もてなし)のこと多くして心いりみだれ、御許に進みよりて言ふ『主よ、わが姉妹われを一人のこして働かするを、何とも思ひ給はぬか、彼に命じて我を助けしめ給へ』
主、答へて言ひ給ふ『マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心勞(こころづかひ)す。
されど無くてならぬものは多からず、ただ一つのみ、マリヤは善きかたを選び足。此は彼より奪ふべからざるものなり』

                         (『新約聖書』−「ルカ傳」]−38〜42)

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 は 

一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし :
(ひとつぶのむぎ、ちにおちてしなずば、ただひとつにてあらん、もししなば、おおくのみをむすぶべし):

イエス答へて云ひ給ふ『人の子の榮光を受くべき時きたれり:

【『新約聖書』−「ヨハネ傳」]U-23〜28】:

イエス答へて云ひ給ふ『人の子の榮光を受くべき時きたれり。
誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし。
己が生命を愛する者は、これを失ひ、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠(とこしへ)の生命に至るべし。
人もし我に事(つか)へんとせば、我に従へ、わが居(を)る處に我に事ふる者もまた居るべし。人もし我に事ふることをせば、我が父これを貴び給はん。

                         (『新約聖書』−「ヨハネ傳」]U-23〜28)

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人の生くるはパンのみに由るにあらず :
(ひとのいくるはぱんおみによるにあらず):

偖イエス聖靈に満ち、ヨルダン河より歸り荒野にて四十日のあひだ:

【『新約聖書』−「ルカ傳」W-1〜13】:

偖イエス聖靈に満ち、ヨルダン河より歸り荒野にて四十日のあひだ御靈に導かれ、
惡魔に試みられ給ふ。この間なにも食(くら)はず、日數満ちてのち飢ゑ給ひたれば、
惡魔いふ『なんぢ若し神の子ならば此の石に命じてパンと爲らしめよ』
イエス答へたまふ『「人の生くるはパンのみに由るにあらず」と録(しる)されたり』
惡魔またイエスをたずさへのぼりて瞬間(またたくま)に天下のもろもろの國を示して言ふ、
『この凡ての權威と國々の榮華とを汝に與へん。我これを委(ゆだ)ねられたば、我が欲する者に與ふるなり。
この故にもし我が前に拜せば、ことごとく汝の有(もの)となるべし』
イエス答へて言ひたまふ『「主なる汝の神を拜し、ただ之にのみ事(つか)ふべし」と録されたり』
惡魔またイエスをエルサレムに連れゆき、宮の頂上(いただき)に立たせて言ふ、『なんぢ若し神の子ならば、此處より己が身を下に投げよ。
それは「なんぢの爲に御使達に命じて守らしめ給はん」
「かれら手にて汝を支へ、その足を石に打當つる事なからしめん」と録されたるなり』
イエス答へて言ひ給ふ『「主なる汝の神を試むべからず」と云ひてあり』
   惡魔あらゆる甞試(こゝろみ)を盡(つく)してのち暫くイエスを離れたり。

                                                  (『新約聖書』−「ルカ傳」W-1〜13)

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大初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき :
(はじめにことばあり、ことばはかみとともにあり、ことばはかみなりき):

大初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき:

【『新約聖書』−「ヨハネ傳」T-1〜8】:

大初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
この言は大初に神とともに在り、
萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。
之に生命あり、この生命は人の光なりき。
光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。
神より遣されたる人いでたり、その名をヨハネといふ。
この人は證(あかし)のために來れり、光に就きて證をなし、また凡てこの人の彼によりて信ぜん爲なり。
彼は光にあらず、光に就きて證せん爲に來れるなり。

                         (『新約聖書』−「ヨハネ傳」T-1〜8)

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豚に真珠 :
(ぶたにしんじゅ):

聖なる物を犬に與ふな:

【『新約聖書』−「マタイ傳」Y-25〜34】:

聖なる物を犬に與ふな。また眞珠を豚の前に投ぐな。恐くは足にて踏みつけ、向き返りて汝らを噛みやぶらん。

                                                  (『新約聖書』−「マタイ傳」Y-25〜34)



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馬鹿ほど怖いものはない :
(ばかほどこわいものはない):

あの小僧め、俺を斬る気とみえる:

【歌舞伎−『仮名手本忠臣蔵』−】:

あの小僧め、俺を斬る気と見える。馬鹿ほど怖いものはないなあ。
       
          (『仮名手本忠臣蔵』 三段目;桃井若狭助が去った後の、高師直 の科白)

色に耽ったばっかりに魂魄この土に留まってまだ御料簡が若い若い

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不義になって貸してくだされ :
(ふぎになってかしてくだされ):

いつぞやの野崎参り:

【歌舞伎−『女殺油地獄』−】:

いつぞやの野崎参り、着物洗うて進ぜたさえ、不義したと疑われ、言いわけに幾日かかったやら、疎ましや、疎ましや。帰られぬうち、その銭持って早う去(い)んでくさんせ、と言うほど傍へにじり寄り、不義になって貸してくだされ。

                         (『女殺油地獄』 お吉と、その親切につけいる与兵衛)

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腹が減っては出来ぬもの :
(はらがへってはできぬもの):

とかく軍というものは:

【歌舞伎−『義経千本桜』−】:

とかく軍(いくさ)というものは、腹が減っては出来ぬもの。そこらに茶屋があるならば、飯を炊かせろ、合点か。

                         (『義経千本桜』 「道行初音旅」の段逸見藤太の科白)

恋と忠義はいずれが重い

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 ま 

まだ御料簡が若い若い :
(まだごりょうけんがわかいわかい):

いま討ち死にして亡君が:

【歌舞伎−『仮名手本忠臣蔵』−】:

いま討ち死にして亡君が、何お悦びあるべきや。ササ御手向けになり申さぬぞ。血気に逸る猪武者、短慮功をなさずの譬え。まだ御料簡が若い若い

                         『仮名手本忠臣蔵』  四段目 大星由良助、若者達を諭す場の科白

色に耽ったばっかりに魂魄この土に留まって馬鹿ほど怖いものはない

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ミネルヴァの梟は黄昏の降りるのを待って飛び始める :
(みねるう゛ぁのふくろうはたそがれのおりるのをまってとびはじめる):

ミネルヴァの梟:

【『法の哲学』】:

Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Daemmerung ihren Flug.


ミネルヴァの梟の梟は 夕暮れを待って  飛び始める。


ヘーゲルの『法の哲学』序文にを締めくくる詞。 「ミネルヴァの梟」はローマ神話の女神:ミネルヴァの使い召 として擬されており、「智慧」の象徴。
 『法の哲学』でヘーゲルは、「哲学」「哲学者」の使命として、この「ミネルヴァの梟」を見立てている。
則ち、哲学は社会現実離れしているように捉えられがちだが、実際は最も現実的な学問であること。しかしながら、「哲学」の使命は、本質的に、「観想」であり、「実践」ではない。「哲学」は”世界を認識する”学問であり、”変革”の任を帯びたものではない。従って、哲学者は時代の先駆者として、現実の(謂うならば「歴史」の)進行に先んじて、また先導して、それに「予言」を与えたり、「方向」を示したり、それに対して、感情的乃至は実践的に反応するのではなく、現実の進行が終わって後、その過程を静観し、そこにあるものを、「本質的なもの」と、「偶然的なもの」を弁別し、「本旨的なもの」に対して、これを概念的思惟によって把握し、これを学の体系の中に位置づけするのが役目であること。
 このこの表出として、「ミネルヴァの梟は〜」を用いている。

Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Daemmerung ihren Flug

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学んで時に習う、亦説ばしからずや :
(まなんでここにならう、またよろこばしからずや):

子曰、学而時習之:

【『論語』-「学而篇」】:
New!!

「子曰、学而時習之、不亦説乎、友朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎」
 
     子曰(のたま)わく、学んで時(ここ)に、習う、亦説(よろこ)ばしからずや。
     友朋(とも)、遠きより、方(なら)び来たる、亦楽しからずや。
     人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや。



先生が仰った。
   「ものを教わる。そして、あとからよくよく復習する。なんと、楽しいことではないか。
    友だちが、遠くから揃って遊びに来てくれる。なんと、うれしいことではないか。
    他の人が自分のことを認めないからといって、気にもかけない。なんと、奥ゆかしい人柄ではないか。」




     ※ 書き下しは、中学時代に、教わったのと、大分違っている。
       当時の記憶では、
          <学んで、時(とき)に、之を習う>
          <朋(とも)あり、遠方(えんぽう)より、来たる>
       と、教わったと、記憶する。  上記の説は、貝塚茂樹先生の、
        中公文庫版、『論語』に依った。委細は、先生の、左の書を参照されたい。

       また、「曰く」の、読みに付いてだが、昨今は、なべて、 <いわく> と読む風潮だが、
       そうして、愚姉二人は、両名とも、<国文> を専門として学んだが、恥ずかしながらこの類である。
         ”いまどき、・・・・・・” と言って憚らない。
        然しながら、編集子は、中学時代、最初に、「漢文」を教えて下さった、林冨士男先生、そうして、
       高二の時、講師としておいでで、私のクラスだけ、「漢文」はこの先生に教わった、
       旧制島原中学校でも、教鞭を執っておいでた、田近孝先生、両先生のお教えに従い、
             ”「子」 とある場合は、<のたまわく> と、読む”
       の、お教えを堅持したい。
       思えば、田近先生には、漢文の素読 については厳しくご薫陶を忝なくした。
       高二の時、もし、別なクラスであったなら、田近先生のお教えをうけることは無かったのだから、
       この、「偶然性」の賜りものを、有り難く思う。
       ただ、この不肖の弟子は、その後学びもどこへやら、専門は違う方面へ進んだし、
            <学んで、時(とき)に、之を習う>
       こともやらず、この体たらくが、恥ずかしい限りだが。

         尚、上記、貝塚茂樹先生の、同著では、「子」(孔子、『論語」で、単に「子」とある場合は、
         「孔子」その人を指す)の他に、弟子の中でも、有若(ゆうじゃく)、曽参(そうしん)のことばは
          『論語』でも、「有子」;「曽子」と記されてあることもあり、
             「孔子」の時同様、 「有子、曰く(のたまわく)」;「曽子、曰く(のたまく)」
         と、読む立場を執っておいでる。



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間夫がなければ女郎は闇 :
(まぶがなければじょろうはやみ):

今からがこの揚巻が悪態の初音:

【歌舞伎−『助六由縁江戸桜』−】:

今からがこの揚巻が悪態の初音。意休さんと助六さんを並べてみたところが、こちらは立派な男振り、又こちらは意地の悪そうな男つき、たとえて言おうなら雪と墨、硯の海も鳴門の海も、海という字は二つはなけれど、深いと浅いは客と間夫、間夫がなければ女郎は闇、暗がりで見ても、助六さんとお前と取り違えてよいものかいなぁ。

                         『助六由縁江戸桜』  揚巻 の雄弁


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求めよ、然らば與へられん :
(もとめよ、さらばあたへられん):

求めよ、然らば與へられん:

【『新約聖書』−「マタイ傳」Z-7〜12】:

求めよ、然(さ)らば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。
すべて求める者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。
汝等のうち、誰かその子パンを求めんに石を與へ、
魚を求めんに蛇を與へにんや。
然らば、汝ら惡しき者ながら、善き賜物をその子らに與ふるを知る。まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや。
然らば凡て人に爲(せ)られんと思ふことは。人にも亦その如くせよ。これ律法(おきて)なり、予言者なり。

                                                  (『新約聖書』−「マタイ傳」Z-7〜12)



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有てる人は、なほ與へられ、有たぬ人は、その有てりと思ふ物をも取らるるべし :
(もてるひとは、なほあたへられ、もたぬひとは、そのもててりとおもふものをもとらるるべし):

誰も燈火をともし器にて覆ひ:

【『新約聖書』−「ルカ傳」[-16〜18】:

誰も燈火をともし器にて覆ひ、または寢臺(ねだい)の下におく者なし、入り來る者その光を見んため之を燈臺の上に置くなり。
それ隱れたるものの顯れぬはなく、秘めたるものの知られぬはなく、明かにならぬはなし、
然れば汝ら聴くこと如何(いかに)と心せよ、誰にても有てる人は、なほ與へられ、有たぬ人は、その有てりと思ふ物をも取らるるべし』

                                                  (『新約聖書』−「ルカ傳」[-16〜18)

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 や 

よきサマリヤ人 :
(よきさまりやびと):

視よ、或る教法師:

【『新約聖書』−「ルカ傳」]-25〜37】:

視よ、或る教法師、立ちてイエスを試みて言ふ『師よ、われ永遠(とこしえ)の生命を嗣ぐためには何をなすべきか』
イエス言ひたまふ『律法(おきて)に何と録(しる)したるか、汝いかに讀むか』
答へて言ふ『まんぢ心を盡し、精神を盡し、力を盡し、思を盡して、主たる汝の神を愛すべし。また己のごとく汝の隣を愛すべし』
イエス言ひ給ふ『なんぢの答は正し。之を行へ、さらば生くべし』
彼おのれを義とせんとしてイエスに言ふ『わが隣とは誰なるか』
イエス答へて言ひたまふ『或人エルサレムよりエリコに下るとき、強盗にあひしが、強盗どもその衣を剥ぎ、傷を負はせ、半死半生にして棄て去りぬ。
或る祭司たまたま此の途より下り、之を見てかなたを過ぎ往けり、
又、レビ人も此處にきたり、之を見て同じく彼方を過ぎ往けり。
然るに或るサマリヤ人、旅をして其の許にきたり、之を見て憫み、
近寄りて油と葡萄酒とを注ぎ傷を包みて己(おの)が畜(けもの)にのせ、旅舎(はたご)に連れてゆきて介抱し、
あくる日デナリ二つを出(いだ)し、主人(あるじ)に與へて「この人を介抱せよ。費(ついへ)もし増さば我が歸りくる時に償はん」と云へり。
汝いかに思ふか、此の三人のうち、孰(いづれ)が強盗にあひし者の隣となりしぞ』
かれ言ふ『その人に憐憫(あはれみ)を施したる者なり』イエス言ひ給ふ『なぢも往きて其の如くせよ』

                                                  (『新約聖書』−「ルカ傳」]-25〜37)

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世に盗人の種は尽きまじ :
(よにぬすびとのたねはつきまじ):

石川や浜の真砂はつきるとも:

【−】:

石川や  浜の真砂はつきるとも  世に盗人の  種は尽きまじ

京都、七条河原で釜茹での刑にに処せられた盗賊、石川五右衛門 の、辞世の歌とされている。

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世の中よっぽどひねって来たわえ :
(よのなかよっぽどひねってきたわえ):

昔から、お姫様に思わるる男は:

【歌舞伎−『桜姫東文章』】:

昔から、お姫様に思わるる男は、公卿(くげ)の息子どのか、但しは色の生白(なまっちろ)い、紫の羽織を着て、一文字の編み笠で、大小差した美男でなくっちゃ、色男じゃあなかったが、流行すりゃあ、穴掘りに色男が出来るとは、世の中よっぽどひねって来たわえ。

                         (『桜姫東文章』 )


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良き地に落ちし種あり、或は百倍、或は六十倍、或は三十倍の實を結べり :
(よきちにおちしたねあり、あるひは百ばい、あるひは六十ばい、あるひは三十ばいのみをむすべり):

種播く者まかんとて出づ:

【『新約聖書』−「マタイ傳」]U-3〜9】:

視よ、種播く者まかんとて出づ
播くとき路の傍らに落ちし種あり、鳥きたりて啄む
土うすき磯地(いしぢ)に落ちし種あり、土深からぬによりて速(すみや)かに萌え出でたれど、
日の昇りし時やけて根なき故に枯る。
茨の地に落ちし種あり、茨そだちて之を塞ぐ。
良き地に落ちし種あり、或は百倍、或は六十倍、或は三十倍の實を結べり。
耳ある者は聴くべし。

                                                  (『新約聖書』−「マタイ傳」]U-3〜9)


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 ら 

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である :
(りせいてきなものはげんじつてきであり、げんじつてきなものはりせいてきである):

理性的なものは:

【『法の哲学』】:

Was vernunftig ist, das ist wirklich;unt was wirklich ist, das ist vernunftig.


理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である

「ミネルヴァの梟」と同じく、ヘーゲルの『法の哲学綱要」(Grundlinien der Philosophie des Rechts)序文にみられる詞。
ヘーゲル哲学の根幹を成す命題。
ヘーゲルにとって、「哲学」とは、”理性的なものを基礎付け、現在的、現実的なものを把握すること”(この意味からして、哲学(者)は「ミネルヴァの梟」でであらねばならぬ)であった。
ヘーゲルにとって、”あるものを理解することが「哲学」であり、その「あるもの」は「理性」に他ならない。此処に置いて、「現実」との和解が果たされ、「現存する」=「国家」を「理性的なもの」として肯定するところから、ヘーゲルの国家論は立脚している。

Was vernunftig ist, das ist wirklich;unt was wirklich ist, das ist vernunftig.

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綸言汗の如し :
(りんげんあせのごとし):

号令如汗:

【『漢書』】:

綸言:(「綸」は組み糸のこと)そのもとは糸のように細いが、これを下に達する時には、綸のように太くなるということから、天子の仰せごと。君主のことば、詔をさして言う。このことから、君主のことばは、汗が一度出たら二度と体内に戻すことが出来ないと同様、一旦、発せられると、取り消すことが出来ない。

[出典] 「号令如汗、汗出而不反者也、今出善令、未能踰時而反、是反汗也」 (漢書−劉向伝)


汗の如し

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 わ 

わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、則ち我に爲したるなり :
(わがきょうだいなるこれらのいとちひさきもののひとりになしたるは、すなわちわれになしたるなり):

人の子その榮光をもて、もろもろの御使を率ゐきたる時:

【『新約聖書』−『マタイ傳』]]X-31〜46】:

人の子その榮光をもて、もろもろの御使を率ゐきたる時、その榮光の座位(くらゐ)に座せん。
斯て、その前にもろもろの國人あつめられん、之を別(わか)つこと牧羊者(ひつじかひ)が羊と山羊とを別つ如くして、
羊をその右に、山羊をその左におかん。
爰(こゝ)に王その右にをる者どもに言はん「わが父に祝せらたる者よ、來りて世の創(はじめ)より汝等のために備へられたる國を嗣げ。
なんぢら我が飢ゑし時食(くら)はせ、渇きしときに飲ませ、旅人なりし時に宿らせ、
裸なりし時に衣(き)せ、病みしときに訪(とぶら)ひ、獄(ひとや)に在りしときに來りたればなり」
爰に正しき者ら答へて言はん「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飲ませし、
何時なんぢの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりしを見て衣せし、
何時なんぢの病み、また獄に在りしを見て、汝にいたりし」
王こたへて言はん「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、則ち我に爲したるなり」
斯くてまた左にをる者どもに言はん「詛(のろ)はれたる者よ、我を離れて惡魔とその使らのために備へられたる永久(とこしへ)の火に入れ、
なんぢら我が飢ゑしときに食はせず、渇きしときに飲ませず、
旅人なりしときに宿らせず、裸なりしときに衣せず、病みまた獄に在りしときに訪はざればなり」
爰に彼らも答へて言はん「主よ、いつ汝の飢ゑ、或は渇き。或ひは旅人、あるひは裸、あるひは病み、或は獄に在りしを見て事(つか)へざりし」
ここに王こたへて言はん「誠になんぢらに告ぐ、此等のいと小さきものの一人に爲さざりしは、即ち我になさざりしなり」と。
斯て、これらの者は去りて永遠の刑罰にいり、正しき者は永遠の生命に入らん』

                                                  (『新約聖書』−『マタイ傳』]]X-31〜46)



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わたしも女子の端じゃもの :
(わたしもおなごのはしじゃもの):

わたしも女子の端じゃもの:

【歌舞伎−『桂川連理柵』−】:

わたしも女子の端じゃもの。大事の男を人の花、腹も立つし、悋気のしようも、まんざら知らぬでなけれども、可愛い殿御に気を揉まし、煩いでも出ようかと、案じ過ごして何も言わず。六角堂へのお百度も、どうぞ夫に飽れぬよう、お半女郎と二つ名さが、立たぬようにと願立ても、儚き女子の心根を、不憫と思うていつまでも、見捨てず添うてくださんせ

                         (『桂川連理柵』 主人公=お絹 のクドキ)

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我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル :
(われわれがしんで しがいはみずにとけ、やがてうみにはいり、さかなをこやし、またひとのからだをつくる):

:

【松濤 明:『風雪のビヴァーグ』】:

1月6日 フーセツ
全身凍ッテ力ナシ、何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス
オカアサン
アナタノヤサシサニ タダカンシャ、一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。
何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ、
ツヨク生キテ下サイ、
井上サンナドにイロイロ相談シテ

   (二頁空白)

井上サン
イロイロアリガトウゴザイマシタ、カゾクノコトモタオネガヒ、
手ノユビトーショウデ思フコトノ千分ノ一モカケズ、モーシワケナシ、
ハハ、オトートヲタノミマス

有元ト死ヲ決シタノガ 6・00
今 14・00 仲々死ネナイ
漸ク腰迄硬直ガキタ、
全シンフルヘ、有元モHERZ、ソロソロクルシ、ヒグレト共ニ凡テオハラン、
ユタカ、ヤスシ、タカヲヨ スマヌ、ユルセ、 ツヨクコーヨウタノム、

   (十四頁空白)

サイゴマデ、タヽカフモイノチ、友ノ辺ニ スツルモモイノチ、共ニユク、(松ナミ)

父上、母上、私ハ不孝でした、おゆるし下さい
治泰兄、共栄君 私の分まで 幸福にお過ごし下さい
実態調査室諸士、私のわがまゝを今までおゆるし下さいましてありがとうございました
井上さん おせわになりま(六頁空白)した
荒川さん シュラフお返しできず すみません     有元

我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル
個人ハカリノ姿 グルグルマワル      松ナミ

   (十二頁空白)

竹越サン 御友情ヲカンシャ、
川上君 アリガトウ (松濤)


有元
井上サンヨリ 2000エンカリ ポケットニアリ、
松濤
西糸ヤニ米代借リ、三升分、



                                     (松濤 明 氏の遭難手記 最後の一日部分)


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吾、日に三度、わが身を省みる :
(われ、ひにみたびわがみをかえりみる):

曽子曰、吾日三省吾身:

【『論語』-「学而篇」】:
New!!

「曽子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、与朋友交而不信乎、伝不習乎」

     曽子曰く、吾、日に三度わが身を省みる。人のために謀(はか)りて忠ならざるか、
     朋友と交わりて、忠ならざるか、習わざるを伝えしか と。



曽先生が仰った。
   「私は、毎日三度、自分自身を反省している。
    他人の相談事を受けたときに、真心をこめて相談に乗っただろうか。
    友だちと付き合っていて、約束ごとを違えたりしなかっただろうか。
    先生(孔子)に教わったことを、自分では、十分復習し、理解もしないうちに、
    君たちに、教えたりはしなかったのではないだろうか。」




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Wordsworth - Version2.6.0 (C)1999-2002 濱地 弘樹(HAMACHI Hiroki)