写真

2002年4月30日設置

[メインページ] > [写真館]
2012/07/22(日) 千鳥ケ淵戦没者墓苑で考える沖縄基地問題とオスプレイ

今年の夏もまた千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花に行って参りました。
数十年近く、毎年夏に千鳥ヶ淵に来て献花をしているのですが
この場所に来る度にいろいろな事を考える。

使用
カメラ
OLYMPUS OM-D E-M5

使用
レンズ
M.ZUIKO DIGITAL ED
12-50mm F3.5-6.3 EZ

十数年前。
中国の盧溝橋に行った。
その当時はまだ中国は発展していなくて、古い車がたくさん走っていて
日中戦争が始まる契機になったこの場所には川岸に馬がいて、とても牧歌的な風景だった。
この盧溝橋にある抗日記念館にも行った。

少し意外に思ったのが、抗日記念館では「いかに日本人が残虐な行為をしたか」という展示よりも
「侵略者と勇敢に戦った中華人民共和国の歴史がここから始まった」という要素の強い展示だった。
私達にとっては第二次世界大戦は亡国の始まりであったが、中国にとっては
一致団結して戦った戦争であり、そして共和国の礎でもあった。
そんな立場の違いを思い知らされた。

例えばの話。日本人の私が
「2012年は開戦70年の誇らしい年である」

と言ったら、ただの無知か、経済的利益を優先するあまり魂を中国に売った非国民だと思われる。
日中戦争の始まりは、当時の日本、大日本帝国が滅びるきっかけになったのだ。
最終的に戦勝国になった中国の人が感じる「開戦」と
敗戦国の日本人が感じる「開戦」は全く意味が違う。

今日、千鳥ケ淵戦没者墓苑に行こうとして九段下駅を降りたら
靖国神社の入り口にこんな看板が立っているのを見た。
全く意味が理解できなかったが、ここまでして戦勝国の中国に迎合しなければならないほど
日本の国力が弱っているのかと思うと、あまりにも惨めで泣きたくなった。

この入り口の大鳥居の前で中国人観光客らしき人々三人連れが
両手Vサインで記念撮影をしていたが、彼らにとっての開戦は日本を打ち負かした始まりなのだ。
彼らと私達の間では認識が決定的に異なっている。

■靖国神社の入り口の看板
靖国神社の入り口の看板

70年前の大戦で日本は大敗を喫した。

事の始まりは大陸侵略だった。
宣戦布告すらなく、海を渡って中国大陸に侵略を開始し
その暴虐行為に対して列強各国の制裁を受け、それに耐えられず太平洋戦争に突入した。
後付けで「大東亜共栄圏」というお題目をつけ、ビルマ、ベトナム、フィリピン、その他、広大な地域を侵略し
太平洋沿岸の各地に兵士をばらまいた。

その結果として、ばらまかれた兵士達は孤立し、各個撃破され
満足な補給もなく多数が飢え死にし、玉砕していった。
国土は空襲で焦土と化し、多数の文化財が焼け、原爆が2発も落とされ
軍、民、合わせて日本国民が300万人近くも殺され
そして領土も現在の日本列島のみになった。
本土戦を戦い抜いた沖縄は一時アメリカ領になった。

■団体参拝者と千鳥ケ淵戦没者墓苑
団体参拝者と千鳥ケ淵戦没者墓苑

戦勝国の手によって「戦犯」達が裁かれた。
その戦勝国の裁きの内容の正当性・妥当性はいざしらず
敗戦国である以上、その力関係からして全く逆らえなかった。
それがこの国の歴史的現実だ。「勝てば官軍」の言葉通りだ。
敗北した国では何も裁けなかった。裁く意思も力も権利も無かった。

連合軍総司令部民政局局長のコートニー・ホイットニー中将の言葉。
「アトミック・サンシャインの中で、もう一度考えてみますか?」
この言葉は日本とアメリカの力関係を明確に表している。
もし不満があるならば、もう一度原爆の閃光の中で考えてみますか
という強烈な言葉は今の私たちにも通用する。

■団体参拝者と千鳥ケ淵戦没者墓苑
団体参拝者と千鳥ケ淵戦没者墓苑

北方領土にせよ、沖縄基地問題にせよ、そして現在のオスプレイ問題にせよ
その根底にはまず日本の大敗という決定的事実が存在している。
日米間の力関係に圧倒的な差が存在するところから、話が始まる。
日米安保による対等な同盟関係というのは妄想に過ぎない。
戦後から現在までの日米関係は極めて明確に、日本はアメリカの従属国家であった。

その中でこの国の主権を回復しようという努力が一体どれだけなされたのか。
どれだけの配慮をアメリカ軍基地を抱える地域にすることができたのか。
領土問題を解決するための努力をしてきたのか。
オスプレイが嫌ならば、それを断れるだけの対等な日米関係を築けたのか。

それらが中途半端なまま問題の先送りをし、何も結果を残せなかったから
現在の様々な外交問題が存在している。
これらの問題は敗戦国となった時からずっと存在するのだけれども、政治力が全く無いこの国でも
圧倒的な経済発展を遂げている間はその力関係から大きな問題にはならず
経済力が衰えたところからこの問題が目立つようになった。

時が経ち、この国が大敗したことの実感が国民から薄れたけれども
何度も書くが、根源は70年前の大戦の敗北である。300万人を超える国民が死んだ。
そこからの回復は戦後のこの国のありようによっている。

■千鳥ケ淵戦没者墓苑
千鳥ケ淵戦没者墓苑

沖縄戦で自決した海軍司令官の太田実中将の東京への打電。
「沖縄県民斯く戦へり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
私達は一体どれだけの配慮を沖縄に対してできたのか。
平和とは何か、日米安保とは何か、間違えたら最終的には
原爆の閃光の中で己が最後を嘆くことになる。

現在を生きる人々の都合だけではなく、まずは過去の事実をきちんと受け止め
その歴史的経緯を踏まえた上で、現在の外交政策の立案が必要だと思う。
敗戦国として決して卑屈になるのではなく領土問題はきちんと主張する必要があるし
この国の立場の回復に努める必要がある。
戦勝国の中国に迎合した大東亜戦争の開戦史観は、日本人として論外だ。
日米同盟は対等の立場であるという事実ではないにせよ「建前」はあるのだから
オスプレイが嫌ならまずは交渉をするべきだ。何もしないで口だけ好き勝手言って
結局受け入れるのはこの国が採るべき立場として間違っている。それはアメリカの属国だ。

この70年では解決できなかったけれども、これからの私達が
この国の国益のために、また先の大戦で亡くなった300万人の魂のためにも
領土問題も含めて粘り強く地道に交渉し続ける必要があると思うのです。

そんなことを千鳥ヶ淵戦没者霊園にある太平洋地域の死者数が記された地図プレートの前で
長いこと立ったまま考えていました。
このプレートに記されている死者の数は、ただの数字ではない。
日本から遠い異国で命を落としたたくさんの日本人の魂の数なのだ。
その重みを決して忘れてはならない。

[メインページ] > [写真館]