弥生都市? 唐古・鍵遺跡

  2003年5月、平城宮跡やホラント遺跡へ行った翌日の午前中、、この時の旅のそもそもの
目的であった唐古・鍵遺跡へ向かいました。とても天気のいい暑い日でした。ガイドブックなど
では唐古・鍵遺跡へのアクセスをバスで「唐古」または「鍵」下車と書いてあるものもあります
が、このバスはもう走っていないようなのです。近鉄で大和八木駅から4駅ほど北、各駅停車し
かとまらない小さな駅、石見(いわみ)で降りて、道なりに東へ歩きます。
 間もなく、右側にちょっと不気味な感じの神社。鏡作(かがみつくり)神社です。この周辺には

寺川。今里の浜あたり
「鏡作」と名のつく神社がいくつもあるそうで、鏡をつくる技術者たちが多く住んでいた地域のようです。……とすると「鏡王の娘」である額田王との関連も気になったりしますね。

 もう少し歩くと寺川を渡ります。この寺川沿いを少し南へ。すると、このあたりが「今里の浜」という江戸時代から明治中ごろまでの船着場で、奈良盆地へ物資を運ぶ重要な拠点だったという説明板を見つけました。寺川は大和川の支流。大和川はこの少し下流で枝分かれして大和川(初瀬川)、寺川、飛鳥川などに分かれるのです。川は重要な交通手段。古代と川筋は違うでしょうが、唐古・鍵遺跡はこの寺川と大和川に挟まれ
た地域にあるのです。今里の浜から寺川を離れて古い住居と
新しい住居が混在する集落の中を東へ。集落を出て視界が
パッと開けたところに復元楼閣が見えるのです。旅をしている
と、こういう瞬間がうれしい……!

 石見駅から歩き始めて20分くらいでしょうか。明日香の丸山
古墳から平城宮の朱雀通りへ通じる下ツ道にほぼあたるで
あろう国道24号線を横断。この国道でちょうど奈良県警がも
のすごい勢いで「ねずみ取り」をやっていて、つかまえた車を
唐古・鍵遺跡の広い駐車場に引き入れていました。私たちは
罰金を払わされる人々の間を通り抜け、奥の階段を上ると大

国道から見た復元楼閣

 道路にはめこまれた小さ
なプレート。環濠と土器片に
描かれた楼閣の絵です。
きな唐古池。唐古・鍵遺跡の説明板。そして池の南西端に復元楼閣がたっています。ちなみに目の前にある唐古池そのものは江戸時代になってからつくられた灌漑用のため池で、弥生時代の遺跡そのものとは関係ありません。こんな場所に他に人はいないだろうと思いきや、意外にも池で釣りをしているおじさん達が数人。

 唐古・鍵遺跡は楼閣を描いた土器片が見つかって話題になったのが1992年。だから比較的新しい遺跡のように思ってしまいますが、遺跡そのものの存在は明治時代から知られていました。当時はまだ弥生時代の実像がわかっていませんでしたが、ここで発掘された土器についた籾のあとから「弥生時代は米作りを始めた時代」との説をたてたのが森本六爾という1936年に33歳の若さで亡くなった考古学者
でした。その直後、いわゆる「皇紀2600年」記念事業の一環として橿原神宮
への道(今の国道24号線)を建設したとき、それに伴ってなされた1936(昭和
11)年から1937年にかけての発掘調査でここが弥生時代の大集落であった
という遺跡の重要性が確認されました。その後も発掘は続けられ、国の史
跡に指定されたのは意外に新しくて1999年のこと。

 最近、弥生時代のはじまりが500年くらいさかのぼるかも……という説が
出ていますが、今そこまで考えると混乱するので、とりあえず弥生時代が従
来の説でだいたい紀元前4世紀くらいから紀元3世紀くらいまでと考えて、
ちょうど弥生時代全期間を通じて営まれた集落の跡です。何せ600年以

遺跡の説明板

 復元楼閣を見上げる。
上も続いていますから、その間にかなり変遷はあったようですが、いちばん大きかった中期で直径400メートルほどの広さ、その周囲には幅5メートルもある環濠が4〜5重にも巡らされたという大環濠集落でした。案内板を見ながらその広さなどを想像してみます。今渡ってきた国道の向こう側からは、環濠ができるより前、弥生前期のものと思われる畳50畳規模の大型建物の跡も見つかっています。この池のほとりからは木棺墓も発掘されていて、その中の骨から弥生人の顔の復元も試みられています。日本各地(西は岡山から東は静岡まで)の土器も見つかっています。井戸の跡、ヒスイの勾玉、銅鐸の鋳型……。
 復元楼閣は池の中にたっているのでさわったりのぼったり
はできないのですが、近づいて見上げてみます。復元の高さ
は12.5メートル。唐古・鍵遺跡からは100点ほどの絵画土器
出土しているそうで、これは全国から見つかった絵画土器の3
分の1を占めるそうです。ここの人はお絵描きが好きだったの
か? そのうち建物の絵が20点ほど。そのひとつがこの楼閣
を描いたものなのですが、まあ斬新なデザインというか。2階
建て(高床だから3階か?)とはいえ弥生時代の絵で唯一の高
層建築。屋根には鳥らしきものが3羽。それもきちんと復元さ
れています。印象的な屋根のクルクルデザイン。中国の池の

 唐古池を東から

 唐古池東のあぜ道から鍵池付近。
ほとりなどによくそりあがった屋根の楼閣があるじゃないですか。呉女はあれを思い出しました。稲作だって大陸から伝わっているのだから、そんな影響もあったのでは?と想像のスケールは大きくなります。

 ……とはいっても、この遺跡そのもので目に見えるのはこの復元楼閣だけですので、ちょっと(30分くらいだったかな?)歩きますが、出土物などが展示されている田原本町の郷土資料展示室に行ってみましょう。というより行ってみてください。お願いします。コレ、今回のオススメ。絶対。車で行けばすぐなんですけどね。私たちはまず国道とは逆側の池の東側へ出
て。そしたらすぐ道がなくなっちゃったので、失礼ながら田んぼ
のあぜ道を歩かせていただいたりして。田んぼの南向こうに
小学校の校舎が見えるあたりが鍵池で、楼閣を描いた土器
片や環濠の跡がそのあたりから見つかっています。やっと普
通の道に出てビニールハウス(のぞきこんだら、多分イチゴ。
食べた〜い!)の間の道を抜け、またいい雰囲気の集落に入
ります。このあたりが多分法貴寺遺跡とよばれるあたりで、唐
古・鍵遺跡の周囲にはその分村とみられる集落の遺跡がいく
つもあるのだそうです。環濠の中だけでなくその周囲にも広が
りをもった遺跡であることがわかります。

 マンホールにも楼閣の絵!

 しきのみち展望公園の健康歩道 
 
 集落を抜けると大和川(初瀬川)。この川べりを南にたどれば資料室のある中央体育館にたどりつきます。ちょうど休憩したいな、と思ったところに「しきのみち展望公園」。ここの住所は磯城郡(しきぐん)田原本町(磯城皇子の「しき」ですね。近くにある高校は「志貴高校」)。小さな公園ですが屋根のかかったベンチあり、きれいなトイレもあり、自動販売機もありで、ありがたや〜。ついでにいろんな大きさの石を敷き詰めた一角もありますが、飛鳥の石敷遺構とは関係ないです。この上を歩いて足裏を刺激するのです。呉女とオオアマさまも靴をぬいで挑戦してみましたが、二人とも不健康なんで痛いのなんの。
そばにある足裏反射区の図を見ると二人とも肝臓が弱ってい
るかも……。それはともかく。
 「展望」といっても高くはなっていませんが、西を見れば二上
山。ベンチにすわって東を見ると山辺の道の山々。真正面の
山の麓は鏡が大量に見つかった黒塚古墳のある柳本のあた
りで、その右の方が三輪山の麓で箸墓古墳のある大和王権
発祥の地、纏向(まきむく)遺跡。こうして見ると唐古・鍵遺跡
と纏向遺跡はとても近い。しかも唐古・鍵遺跡が衰えるころに
纏向遺跡が出現するのです。各地の土器が出土して各地と
の交流のあとがうかがえるなど、共通した特徴もある。このふ

公園ベンチから。三輪山はもっと右。

 大和川。中央遠く、ゴルフ練習場の
隣にボンヤリ見える建物が資料室の
ある中央体育館。
たつの遺跡が無関係とはとても思えないなあ。とすると唐古・鍵が大和王権発祥の前提になっているということ……?
 そんなことを考えながら再び大和川沿いを歩きます。この川は今はそんなに大きな川ではないけれど、この先を三輪山の麓あたりまで行ったところが古代の市であり交通の要所であった海柘榴市(つばいち)であるように、この川は重要な交通だったのです。この川を下ると、今は江戸時代に付け替えられて大阪市と堺市の境で大阪湾にそそいでいますが、古代にはもう少し北の河内潟にその端を発し、つまり難波と直結していたのです。外国の使節も都を造る物資もこの川をたどってきたりしたのかなあ……なんて考えると、このまま海柘榴市まで歩きたくなってしまいます。今日の午後相模まで帰るのでなければ、と。

 さて、中央体育館の大きな建物の隅っこの一室が郷土資
料館。妙なところにあるし、一部屋だけでさして広いとも感じな
いのですが、これがとても充実しているのです。しかも無料な
のに田原本町教育委員会作成のパンフレットなども気前よく
いただけます。先述の弥生人の顔の復元とか、楼閣を描いた
土器の復元とか、その他さまざまな絵画土器。各地から集ま
った土器の各地の特徴とか、石包丁などの石器。稲作に使っ
た木製品。米をより分ける箕。機織につかった道具。糸巻き。
銅鐸の鋳型。占いや祭りに使った動物の骨……。
 今まで行った弥生の遺跡で、吉野ヶ里では占ったり戦ったり
の弥生時代の厳しさを感じたし、静岡の登呂遺跡ではのどか

 資料館の近くまで来て川がカーブ。正面が三輪山。
な農村風景を思い浮かべました。今回の唐古・鍵遺跡では現場のスケールの大きさでは吉野
ヶ里にかないませんが、この資料室に来て今までにない面白さを感じたのです。私たちとさほ
どかわらない人間の生活感とでもいうのでしょうか。当時の大都会だったわけですから、いろい
ろな土地の人が出入りして生活して、それぞれに得意なものを作ったりして、いろいろなものを
やりとりして。目で見たものを土器に描いたり(誰かに何かを伝えようとしたのでしょうか?)。縫
い針が展示されていたのですが、ちょうどその直前に呉女は指にトゲをさして痛がっていたも
のですから、この当時の人もこの針でよく指をさしていたかな、とか……。当時の生活を生き
生きと思い浮かべられる、生活感、生命力にあふれた遺跡だなあ、と感じたのです。

 中央体育館から田原本の駅まではほぼ直線に歩いて、案内には徒歩30分と書いてあります
が、そんなに遠くないような。(バスもあるけど1日3本しかないのであまり使えない)。途中田ん
ぼの向こうに大和三山が見渡せる場所があったり、国道を渡って田原本の町中へ入ってしま
えば、元は陣屋町(城下町みたいなもの)であり宿場町であったというレトロな町並……。


 すっかり弥生人になった気分だけどお腹がペコペコの二人は近鉄で大和八木に出てデパー
トの上の二上山も畝傍山も見えるレストランでランチを食べ、再び近鉄に乗って名古屋へ、そ
して相模の国へ。関東に帰るのは京都経由が一般的ですが、八木まで南に下がっていればこ
のルートもオススメです。途中、名張とか桑名とか、壬申の乱ゆかりの地を通りますし。……
と、旅は最後の最後まで楽しむのが呉女流なのであります。


いにしえに漂う〜古代への旅へ戻る