オバさんの主張

  博物館に仮眠室を!!!     

 博物館とか美術館とか大好きです。
 ま、出不精ですので(旅行以外は)、頻繁に、というわけにはまいりませんが、たまにはあの文化的な香りがいいの
でしょう。最近行ったものは、東京国立博物館「韓国の名宝展」、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)「文字のある
風景」、奈良国立博物館「東大寺のすべて」、京都国立博物館「建仁寺展」、横浜市歴史博物館「東へ西へー律令
国家を支えた古代東国の人々」、といったところでしょうか。しかし、ジャンルが偏ってるなあ……。
 で、特に大きな企画展に行くといつも思うのです。仮眠室があったらなあ、と。バカなことをお言いでない、と思われ
るでしょうが……。だって、一生懸命に展示を見ていると、この年になると目だけでなく頭が疲れます。半分くらい見
たところで「もうキャパシティーオーバーだ」と頭が叫ぶのです。それで、ちょっとでいいから眠れたらリフレッシュする
のに、と思うわけです。
 そりゃ、博物館側にすれば「もう一度来てください」ということになるんだろうけど、地理的に、時間的に、なかなかそ
うはいかないってことも多々あるじゃないですか。
 確かに展示室に椅子はたいていありますけど、あんなもんじゃだめ。眠れないもの。東京国立博物館の平成館の
一階には、いかにも眠れそうなゆったりしたソファーがたくさんあるけど、あそこは展示室の外で再入場禁止だからも
う一度チケットを買わなきゃいけない。ケチな私はそこまでするくらいなら頑張って見ちゃおうということになり、結局後
半のほうは頭の中で流れてしまう。奈良国立博物館の場合、新館一階の資料がおいてあるコーナーで机につっぷし
て寝ちゃおうか、と思うこともあるけど、あそこは周囲ガラス張りでけっこう目立ちそうだから、ちょっとねー、てなことに
なって、せめて地下のレストラン「葉風泰夢」でガトー・ドボアのケーキでも食べてエネルギーを補給する。けど、本当
は眠りたい……。
 ベットが欲しいとまではいいません。せめてリクライニングシートかゆったりしたソファーで寝ていてもよい場所を!有
料でもいいから(でも300円くらいね)。それとレストランがあれば、もう一日中楽しめるのに。それにお風呂もあれば…
…なんていいませんからあー。
 ……なんてことを考えるのは、ひ弱でグータラな呉女だけでしょうか……?

 ついでに、ってここからのほうが大事な話なんだけど、国立博物館の友の会ってお得ですよー。だって、
東京、京都、奈良の3館どこで入会しても年会費3000円で、3館とも平常展はフリー。企画展は各企画一回はフリー
(2003年から企画展は6回までという制限がつきました。)私なんて4月に奈良で入会した分、もうモトがとれちゃいま
したよ。
 国立博物館は独立行政法人になって、けっこうたいへんなのだと聞きます。ある程度稼がないと予算が足りなくな
ってしまうわけですから。そんなときにこんなにお得でいいのかしら、と思いつつ、せめてミュージアムショップでの買
い物などで微力ながらご協力させていただこうと思っています。みんなで博物館にいきましょう!!!
2002年7月記
後に補追



  教師の夏休み

今回はちょっと怒ってます。機嫌悪いです。だから吐き出します。かなりマジです。
旅行に行けなくなる、なんてことはともかく、
「世間の目」で意味のないことをするのに、やりきれない思いなんです。

 教師の夏休みがお盆だけになるかもしれないという。いや、今年からすでに公立ではそうなっているところもけっこう
あるのだそうだ。確か東京都あたりが始めて、急速に全国に広まったらしい。それが私立にも波及しそうだということ
だ。
 休みがなくなる、といっても当然授業があるわけではない。(夏休みを短くして授業をする動きもあるけど、それとは
別の話) やることがあってもなくても午前中くらいは出勤していろ、ということらしい。理由は「週休2日になった上(実
際には週休2日になったのは生徒であって、先生もみんな休んでいるわけではないのだけれど)、夏休みもあるので
は、教師は休み過ぎだ」という世間の目なんだそうだ。少し前にも、教師にはたいてい平日に「研究日」というものが
あったのだが(オオアマさまの職場には存在しなかったけれど)「平日に先生が車を洗ってる」とかいう世間の声で廃
止された、なんてこともあった。こんどは夏休みである。夏休みは一応研修期間という名目になっているのだけれど、
「その夏休みに旅行に行ったりする教師がいる」という世間の風当たりなんだそうな。
 そもそも、企業などで経済活動をしている人、ものを作ったり、売ったりするのは時間をかければかけるだけ利益が
上がるということがあるから、それによって休みも制限されてくるのだろうが、教師の仕事は基本的には授業をするこ
とだ。夏休みは授業がない。したがって出勤する必要がないのだ。事務雑用はけっこうあるので仕事が全くないわけ
ではないが、毎日出勤するほどの必要はない。それなのにただ出勤させることに何の意味があるのだろう。
 それに、何と言っても夏休みは教材研究の絶好の機会だ。机の上だけではわからないことをフィールドワークして、
いろいろ体験することによって授業に幅が出る。同じことを話すにも、実際に見たり体験したことを話すのと、読んだり
聞いたりしただけのことを話すのでは全く違うのだ。そのために教師には夏休みがある。ウチの場合、すべてのとは
いわないけど、旅は研修の一環だ。たまたま歴史の教師だったから、ともいえるけど、今回のイタリアだって世界史
の担当にならなければ絶対に行っていない。そして行ったからには何かを吸収してこようと、どうやって授業に生かそ
うかと、それはもう必死の思いなのである。
 実際には「研修の場合はレポートを出せば出勤を免除」したりするそうだが、ウチの旅行のような場合を研修にして
らうのは無理だろう。どこまでが研修で、どこまでがただの物見遊山かは客観的には判断できないだろうから。
 「そんなこと言っても、ウチに夏休みなんてほとんどないわ。」という人もいるだろうが、そういう他との比較の問題で
はなくて、人間を育てる「教師」という職業そのものを考えてもらえないものだろうか。子供をはさんで身近にある職業
なので、つい比較したくなる気持ちもわからないではないが、企業の働き方のほうが実際には問題かもしれないの
に、その逆恨み(?)が教師の夏休みにくるのでたまらない。
 ひとくちに教師の夏休み、といってもその実態は個々によってかなり違う。オオアマさまも今年は比較的出勤が少
なかったけれど、例年は合宿や補修などで世間で思われているほどには休んでいないし、休んでいる間もけっこう仕
事に追われている。いちばんたいへんなのは運動部の顧問をしている先生方で、この方たちにはほとんど夏休みは
ないらしい。だからこの動きを運動部の先生方は歓迎する傾向があるらしいけど、問題なのは運動部の先生の働き
方のほうであって、ほかの先生がこれにならうのは筋が違うと思う。私は自分が運動をしないからそう思うのかもしれ
ないけれど、これに対しては別の解決方法を考えていくべきだと思う。
 そのほかにも、この流れを歓迎する先生方がいる。家庭や地域に居場所がなく、休みがあってもやることが見あた
らない。だから出勤していたほうがヒマつぶしができてよい、という先生方である。困ったことにこういう先生は確かに
いる。けれど、そういう先生と、休みは休みでいろいろなことを体験し生き生きとリフレッシュしてくる先生と、どちらの
先生に自分の子供を学ばせたいと思うのだろう?
2002年8月記



    少子化対策に……ミュージカル!?
ちょっと今回は「主張」というのと違うのですが……。

 私には子供がいません。別に産まないことを選択したわけではありません。たまたま産まれなかっただけ。どうして
も子供がほしいという切実な気持ちもなかったし、幸か不幸か「子供まだ?」という周囲からのプレッシャーもなかっ
た。だから不妊治療を受けようとまでは考えませんでした。私は子供って「産む」ものではなくて「産まれてくる」もの
だと思っているんです。一つの「命」。そんな重いものを誕生させるには人間の作為の届かないような、それこそ「神
様の思し召し」みたいなものが必要な気がするんです。つまり私に授からないということは、その「思し召し」がないの
だからしかたないのかなって。
 現実には私の周囲にも不妊治療に通ってやっと妊娠した人とか、それでもだめな人とか、いろいろいます。どうして
もほしい人は頑張ってみればいい。「産む」「産まない」はあくまで個人の自由なのだから。政府は最近「少子化対
策」とかいっていろいろな方針を打ち出すのに必死だけど、結婚年齢が上がれば必然的に子供は産まれにくくなる
し、人数も減る。それだけの話であって、実際「私は子供を産みません」と積極的に選択する人なんてどれほどいる
の?という気が私はしているのです(産んだ後の世間の無理解による仕事との両立のしづらさはありますが)。
 そんな私には昨日観たファミリーミュージカル「パーフェクト・ファミリー」はちょっと刺激的でした。これは今全国各地
で上演されているもので、元劇団四季などのスタッフの人たちが、地元の子供たちをオーディションして、その素人の
子供たちだけでミュージカルを作り上げているんです。昨日は北関東のある町で上演されていました。私の高校時代
の友人の娘さん、小学校4年生のAちゃんが出演するというので、押しかけて見に行っちゃったのです。出演している
のは小学校4年生から高校生が中心の三十数人で、内容は親とけんかばかりしている子供たちが理想の家族を求
めて旅するうちに家族の大切さに気づく、というものです。普段オオアマさまの話などを聞いていると、今の子供の問
題点ばかりに目がいってしまいますが、舞台の上で生き生きと踊っている子供たちを見ていたら、子供ってなんてス
ゴイものなんだろう……と素直に思えました。小さな町でオーディションをしただけでこれほど個性的な子供たちが集
まるということにも驚きました。しかも友人の話によると、それほど長い時間練習できたわけでもないらしいのです。も
ともとダンスを習っていた子が多かったそうですが、Aちゃんに関してはそんな経験もなかった。しかもAちゃんのお母
さんのことはよーく知っています。私とそのお母さんは二人とも体育が苦手。体を動かすことはほとんどダメだから、ダ
ンスなんてとんでもない……。それが「Aちゃん、ちゃんと踊ってるじゃないっ!」。私と違ってお母さんは歌が大好き
でとてもうまかったから、その部分が似たのねー。……つまり、よく知っている友人の子供がそこで踊っているのを見
ただけに、そのスゴサが身にしみて、こんなスゴイものなら私も作ってみたかった……、と心から思って涙が出てきた
のです。私だってまだ産むのが不可能な年ではないけれど、もう半ば諦めています。これがもう少し若い時だったら
「頑張って産もう!」とか思ったかも……。実際にはこういうミュージカルを見るのは子供のいる人が多いだろうから、
私のような者が見る機会は少ないかもしれない。でも、政府の施策よりよほど少子化対策になるかもしれませんよ。
 でも……ね、世の論調では子供を産まない人はそれを選択しているように言われているけど、決してそうではなく
て、切実にほしいと思いながらも断念した本当につらい人や、そこまでいかなくても「少子化」といわれるたびに肩身
が狭かったり、子供がいないことを一生のコンプレックスとして持ち続けなきゃいけない人がいることも、つまり私にも
昨日涙を流したような「思い」があることも、少しはわかって……ね。
 Aちゃん、本当にかわいかった。よく頑張ったね。閉演後、出演者みんなで大泣きしてたんだって。昨日一日のため
に頑張ってきたのだから、その感動もあっただろうし、楽しくて楽しくてたまらなかったそうだから、仲間と別れるのも
つらかったんだろうね。きっといい思い出になって、そしてきっと将来の糧になると思う。オバさんは子供を産めなかっ
たけど、みんなのことを心から応援して見守っているから……。
2002年9月記




  呉女的、夫婦別姓 その1

 年末は年賀状書きのシーズンですね。実は呉女は結婚当初からずっと2種類の年賀状を印刷しています。一つは
一般的な夫婦連名のもの。親戚関係や夫婦での付き合いの方に出します。私が出す大部分はもう一つの私だけの
個人名のもので、こちらは旧姓を使っています。呉女は別姓の通称使用の実践者なんです。グータラ主婦の呉女に
別姓が必要か? はっきり言って「必要」はないです。結婚して10年もたてば戸籍名にも慣れてきたし、私の大好き
な漢字が入っている戸籍名のほうが平々凡々で面白みのない旧姓より好きではありますけど、それでも出来る範囲
で旧姓を使っています。そこのあたりの話をちょっとさせてください(ってこの話をし出すとまた長くなりそう……)。 
 夫婦別姓というと、実績のあるキャリアウーマンだけの話のように思う方もいらっしゃるかもしれません。確かに、一
昔前は(今はどうだかわかりませんが)ある有名女性作家の先生でも、専業主婦はある意味自分で納得してそういう
道を選んでいるのだから、別姓なんていうのはおかしいと言う方もいらっしゃいました。専業主婦が「納得して」その道
を選んでいるかどうかの問題はここではおくとして、別姓の問題というのは、いわば基本的人権の問題であって、経
済的自立とかいう問題とは別だと思うのです。経済的に自立していないからといって、人間としての価値が否定され
るわけではありません。「人間は人間である限り、誰の奴隷にもだれの所有物にもならない自由(「ベルサイユのば
ら」より)」をもっているのです。むしろ、仕事をしている女性はそれだけで自分の世界がある。主婦は常に「〜の妻」と
か「〜の母」でしかいられないことで自己喪失感に陥りやすいわけですから、自分の名を持つ、ということで精神的に
救われたりするのです。そういう意味では主婦にこそ必要なものといえると思うのです。
 たかだか名前じゃない、という人もいます。確かにそういう考え方もありまが、そうは思えない人もいる。夫婦別姓
制度というのは、すべての人に別姓を強制するものではなく、同姓を強制する今の法律に意義を唱えて、別姓も認め
てほしいという動きです。まず、そこを踏まえてほしい。そもそもマスコミなどで「入籍」なんて言葉を多発するから誤
解している人も多いようですけど、結婚すると妻が夫の籍に入るのではありません。結婚したら、妻も夫も今までの籍
から抜けて新しい戸籍を造るのです。そのときに姓を同一にしなければならないことになっていて(同姓を強制する制
度は国際的にも珍しいのですが)その時、妻または夫どちらかの旧姓を使うことになっている。そして、慣習としてほと
んどの人が夫の姓を使うことで、なんとなく「入籍」した気分になってしまっているんです。ここにも基本的な問題はあ
ります。
 呉女がなぜ別姓にしようとしたか、というのをお話しをしなければいけませんね。あまり自慢できる話ではありませ
んが、呉女は多数のお見合いの経験の過程で婚約破棄をやらかしています。その元婚約者はまじめで教養も高く趣
味も合い、多分恋人どまりならとてもいい男性でした。ところが結納をあげたころから何かヘンと思いはじめたんで
す。一つ一つは細かいことだったりするので挙げませんが、結婚式や新居の準備のために彼や彼の両親と付き合う
間に感じた何ともいえない違和感。意識の問題だから、その違和感がなんなのか、その時はわからなかったので
す。でも何かにつけていちいち仲人さんを通じて「申し入れ」をしてきたりされるんで、何ヶ月かしてついに私だけでな
く両親まで爆発してしまったんです。価値観が全然ズレている。これはどうしようもないもので、いくら話しあったところ
で平行線なんです。後で冷静になって思い出すと、あれが「嫁」というものなんだなと思ったんです。あちらの態度は
すべて「あなたは嫁なのだから、ウチに合わせてくれればいいんです」というのが基礎になっていました。私という人
間がどういう人間で、それまで二十数年どのように生きてきたか、なんてことは全く無視。なんだか人間として扱われ
ていない、もしくは結婚後はまったく違う人間になることを求められているような、そういう違和感だったんです。恋愛
結婚だったら多分それでも結婚していたでしょう。幸いにも私はクールダウンできたんです。それでテンヤワンヤの
末、婚約破棄。
 そんなことがあった後、「夫婦別姓」という考え方に「これだ!」と思ったのです。もし、この考え方が世の中で認めら
れるような社会になれば、残存する「家」意識によって悩まなくてもいいことを悩み、苦しまなくてもいいことを苦しんで
いる人を減らすことができるのではないか。夫婦であってもお互いは別々の個人。妻であり夫である前に一人の人間
であることを認め合い尊重しあってこそ、いい関係が生まれるという意識ができてくるのではないか、と思ったので
す。制度そのものより、それによる意識の変革を期待し、その「意思表示」として自分も別姓を実践しようと思ったの
です。

2002年12月記
  呉女的、夫婦別姓 その2

 オオアマさまは私の気持ちを理解してくれました。でも10年前の結婚当初、周囲の人は私の「今後も旧姓で宣言」
に「ナンかおかしなことを言っているワ」という感じでした。「お見合いで相手の人を好きじゃないからそんなことを言っ
ているんでしょう」とか。それが結婚して半年くらいしてから新聞などにやっと大きく取り上げられるようになって、「さ
すがだねー」みたいな感じで周囲の態度はコロッというくらいに変わったんです。人の意識なんてそんなもの。だから
こそ法制化は意識を変えるのに意味があると思うのです。また、私のような者が実践することによって身近な問題に
思ってくれる人がいれば、それだけでも旧姓を名乗る効果はあったというものです。
手紙などで友人には旧姓で出す。戻ってくる場合に二通りあって、旧姓のまま返事がくる人と、わざわざ戸籍名に直
して返事をくれる人。これはその人の性格や考え方が反映していて面白い。「どうして私が旧姓で、と言っているのに
戸籍名に直すのよ」と聞いたら「だってダンナさんに悪いじゃない」という答えが返ってきたりします。私には悪くない
のかいっ? うれしかったのは男友達たちが「オマエらしいなあ」という感じで抵抗なく受けとめてくれたこと。彼らにし
ても、自分の妻には何ていうかわかりませんけどね。
で も実際、この数年で別姓に対する世間の意識はかなり変わってきています。結婚当初、人材派遣会社に登録し
た時に「旧姓で働きたいんです」「なんでですか?」「……そうしたいから、です」なんて会話を事務局の人としたもの
です。その時はそういう制度がなかったので旧姓だけで登録し、税務処理などは自分ですることにしたのですが、そ
れから何年かたってみたら、戸籍名で登録しても旧姓で働くことが可能になりました。その会社でも旧姓で働くのは
今や特別ではなくなっています。
 ただ、私も年配の方には年賀状も戸籍名で書いているように、どうしても古い意識が残っている方がいるのは、もう
文化みたいなものでしかたがないと思うのです(ただし日本でも同姓が強制されたのは明治からの短い期間だけのこ
とで、同姓が日本の伝統ではないのですけどね)。困るのは、その古い意識で別姓の法制化をはばむ自民党を中心
にした政治家のおじさんたち。「別姓にすると家族の一体感が薄れる」とか何とか言われていますけれど、そう思う人
は別姓にしなけりゃいいんで、別姓にしたほうがいい家族関係になれる、と思う人もいるんです。子供の姓はどうす
る、という議論もありますが、それは今親と子供は同じ姓でなければならないと思い込んでいるから問題のように思う
だけであって、姓が同じ親子もいれば違う親子もいることが普通になれば、別になんら問題はないと思うのですけど
……。
 そういう中で何とか法制化を実現しようと「家裁で認めた人だけ別姓を許可する」という制度案が浮上してきました。
法制化すればそれだけで一歩前進との考えのようですが、これには私は反対です。「家裁で認める」基準が仕事をも
っている人に限られたりすれば、私が考えるこの制度の本来の意味をなさないし、ただでさえ働く女性と専業主婦と
の間に無意味な溝があるのに、それをますます広げることになる。また「家名の存続」のために別姓を求める人もい
て、それは認める方向で考えられているようですが、それでは家制度の復活を認めるようなもので、まるで本末転
倒。これでは一歩後退になりかねないと思うのです。
それに対して、「通称使用」を国として認める、という案を出す議員もいるようです。私はまだこちらのほうがいいと思っ
ています。通称使用なら私のようにすでに実践している人がいくらでもいるのです。ただ実際にやってみて困ることと
いえば旧姓の住所や名前を確認できるものの提示を求められてもそれがない、ということだけなんです。旧姓の身分
証明さえ作ってもらえれば、何ら不便はない。それに通称使用の利点は、戸籍から別姓にするとなると(法律で認め
られていない現在は「事実婚」という選択しかないのですが)、親などの反対で実現できない場合がかなり想定され
ます。通称使用なら、極端な話たとえ夫が反対したって可能なんです。夫と妻の考え方が違う場合だって十分ありえ
ることで、そういう場合に妻が折れないで自分の意思を貫いたっていい。むしろそれができてこそ、別姓の意味はあ
ると思います。ただ通称使用の欠点は、戸籍上は夫の姓にすることで根本的な問題をあいまいにしてしまい、問題
の解決には至らないということ。ただ第一歩とするなら、こちらのほうがいいと思うんです。今年も法制化は実現はし
なかったけれど、今後どういう動きになるのか、見守っていきたいと思います。
 妻である、夫である、その役割意識にとらわれることが育児ノイローゼやドメスティックバイオレンスなどの問題の一
つの原因をつくっていると思います。妻や夫である前に一人の人間。それを認め合ってこそ、お互いを思いあえる。そ
んな意識の広がりへの期待が、呉女の別姓に対する思いなのです。

2002年12月記



  消費者と企業のコミュニケーション

 現在「経済広報センター」というところのモニターをしておりまして、その関係で先日、雪印乳業の社外取締役、日
和佐信子さんの講演を聞く機会がありました。日和佐さんは生協の理事などを長く務めてこられた方で、雪印の一連
の不祥事のあと、社外取締役に就任された方です。日和佐さんから見た雪印の問題点などを率直にわかりやすく話
してくださいました。消費者の立場と企業の立場のバランス感覚に優れた方で、とても好印象でした。私は「消費生
活アドバイザー」という資格をもっていることもあって、消費者と企業の問題に興味があり、今回の質疑応答にも参加
させていただきました。普通、企業のモニターは主婦が多いものですが、ここのモニターは男性も多くて、今回の参加
者も多くは男性でした。すでに企業をリタイアした男性からは「不祥事を起こした会社はつぶれればいいんです」とい
うような厳しい意見も聞かれました。
 昨年は特に食品に対する信頼を揺るがせる事件がいくつも起こりました。しかも、食品の安全性そのものだけでな
く、企業倫理が厳しく問われ、企業のコンプライアンス(法令遵守)という言葉が流行り言葉のように言われるようにも
なりました。もちろん、企業が倫理を守ること、情報を公開することなどが大事なことは当然として、ここではちょっと別
の角度からの私の思いを述べさせていただきます。
 私にとって昨年の食品に関する一連の事件の中で最も印象が深いのは、北海道のスーパーで偽装牛肉の払い戻
し騒動です。偽装したスーパーが悪いのは当然ですが、それに対してまるで仕返しのように返金要求(「偽装」も含め
て)する消費者の態度に「行き過ぎ」を感じた方も多いことでしょう。
 私は少し前まである企業で顧客と折衝する、つまり企業と消費者との接点になる仕事をしていました。「消費生活
アドバイザー」というのは消費者と企業の中間の立場に立つ、というスタンスがあります。派遣社員という立場でもあ
りましたので、企業側の論理に染まらずにお客様の立場にも立った対応をすることを自分に課していました。それで
も、それでもです。率直に言わせてもらえれば「お客はいいよねー。好き勝手なことを言えて」とつくづく感じました。つ
まり消費者が企業に対して苦情などを言う場合、ときには「ここまで言う必要があるのか?」と思うほど口汚くののし
ったりする人もいます。それでもお客様は許される。逆に企業側が発した言葉が少しでもお客様のお気に触ったりし
た場合は徹底的に責められるわけです。また、どう考えても何か勘違いをなさっていると思える場合でも、企業側は
それを直接的に指摘したりはできにくいのが現状です。そもそも消費者問題というのは、企業と消費者では商品やサ
ービスに関する情報量が圧倒的に企業側に偏っているという不平等から起こるものです。ただし、コミュニケーション
ということに関して言えば、これまた企業と消費者は不平等であって、消費者は何を言っても許されるし、企業は逆に
言いにくい。もちろん、消費者が意見を言うことは企業がよりよい商品・サービスを提供するために絶対必要なことで
す。ただ企業は敵であることを前提にした「正義の味方」のようなつもりで苦情をまくしたてる攻撃的な企業への接し
方は、かえって企業と消費者との健全な関係を阻害するのではないでしょうか。消費者が一方的に苦情を言い、企
業はひたすら謝る、というような関係ではなく、落ち着いて話し合い、企業は企業なりに誠意をもって説明することに
より、消費者が納得することもあると思うのです。なぜか企業側もホンネで消費者と話してはいけないような雰囲気
があって、それが消費者と企業の関係をますます悪くしているように思うのです。少なくとも私が仕事をしている上で
はそう思うことが多々ありました。

 先月、江戸東京博物館に「大江戸八百八町展」を見に行ったときのこと。この展覧会の目玉は「熈代勝覧(きだいし
ょうらん)」という絵巻物で、その手前だけに行列ができていました。私もその列に並んで絵巻物に近づけるのを待って
いましたが、長―い絵巻物の前では立ち止まってしまう人がいるため、なかなか列が進みません。そのうち立ち止ま
っている人の前の隙間に後ろから入りこむ人がいる。するとますます列は動かない。正直に並んでいる人はイライラ。
これは係員が「なるべく立ち止まらずにお進みください」と誘導するなりしないことには進むわけがないと、私など見る
のを諦めてその場を離れてしまいました。出口近くで係のお姉さんにくってかかっている年配の男性がいました。そ
の行列を誘導するなり何らかの対処をしてくれと訴えていたのです。男性があまりに興奮気味にガミガミ怒鳴ってい
るので、応対しているお姉さんは男性をなだめるのに精一杯。男性は怒ったまま会場を出ていきました。その様子を
見て、何だか沈んだ気分になってしまいました。男性の言うことはその通りなのです。ただ、あんなふうに怒鳴ってし
まったのでは真意が伝わるのだろうか、と。あとで考えたのですが、あの日は展覧会の最終日前日。それまでも混
雑していたと聞きますから、ああいう苦情は以前から出ていたはずです。もしかして誘導をしてみたら「ゆっくり見られ
ない」という逆の苦情が出たのかもしれない。会場の外にこの絵巻物のコピーの展示をしてあったのも、こういう苦情
に対処するためだったのかもしれず(でも普通実物を見たいですよね)、会場側も何も考えていなかったのではないの
かもしれません。そこで、たとえば係員の人に「すみませんが、あそこの行列が動かないのですが、こちらで誘導など
していただけないでしょうか?」と冷静に言うとします。それで係の人が「一度そうさせていただいたのですが、ゆっく
り見られないとのご意見をいただきまして……」と話してくれたとしたら、100%納得はできなくても、会場に対する不
信感はやわらぐはずです。こういうほうが健全なコミュニケーションだと思うのです。企業側は一方的に攻撃されて
は、それを対等に迎え撃つわけにはいかないのです。コミュニケーション上は不平等というような状態では、かえって
消費者側にも得るものが少ないと思うのです。消費者も企業も言うべきことは言い、対等に話し合えてこそ、お互い
がよい消費者、よい企業を育てるパートナーシップが生まれるのではないでしょうか。
 モニターなどをしていれば企業との懇談会などの機会があります。昨年もある自動車工場を見学し、意見も言わせ
ていただいたし、対等のコミュニケーションがとれたと思います。でもこういう機会をもてる人はほんの一部。消費者と
企業の接点の多くは販売店やコールセンターなどになります。そういう場でも、いつでも「お客様は神様」であること
が果たしていいことなのかどうか、考えてみていただきたいのです。
 今回の講演会でもこの点についての質問をさせていただいたところ、日和佐さんから「これからは企業も消費者に
対して言うべきことは毅然として言うべきだと考えています」とのお答えをいただきました。企業が失った信頼を取り
戻すためにも消費者と企業が新たなパートナーシップを構築することが課題ともおっしゃっていました。その通りだと
思います。
  ……ここまで書いて、ふと思ったのですが、最近の教育の場でも似たようなことがいえる気がします。生徒(親も含
めて)と教師が対等なコミュニケーションがとれているか、と。教師が生徒に対して失言すれば大々的に非難されます
が、先生も生徒の心無い発言に傷ついている場合がかなりあるようですよ。

2003年3月記


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