若合春侑

腦病院へまゐります。 無花果日誌    

腦病院へまゐります。 2005年6月29日(水)
 昭和の初期、カフエーの帳場で働いていた主人公は、手伝いで女給についた時、初めてだという帝大生の相手をして、年を10歳ごまかしたことがきっかけで、戦地に出征している夫がある身ながら付き合いだす。この男にも許嫁がいて、男が求める性愛は凌辱的なものだった。
 「おまへさま、まうやめませう、私達。私は、南品川のゼエムス坂病院へまゐります。苦しいのは、まう澤山だ。」この作品は、主人公が男へ書き綴った別れの手紙という体裁をとっていて、恨み言、悔やみ言、男を軽蔑する言葉の中に、気が狂うほどに愛しいという情念が、古風な仮名遣いと異様な言葉遣いの中から伝わってくる。文學界新人賞受賞作。
 「カタカナ三十九字の遺書」も、お手伝いの奉公先の同い年の息子に陵辱され、何度も堕胎してきたおばあさんが主人公。ラスト意外な事実がわかるが、結局なにもなく終わってしまうのが物足りない。
 2つの作品に共通するテーマというのが、あまり関心のある世界ではないので、ただ読んだというだけ。どちらも芥川賞候補作。

無花果日誌 2008年6月30日( 月)
 私は今、十七歳。臭い港町の八百屋の娘だが、三十分電車に乗って県庁所在地にある学校では、カトリック系のお嬢様高校の生徒に変身する。母さんは乳がんで亡くなっていた。その時病院で同室だったのが高校の同級生だったという加代子さんで、その息子が一歳年上の郁クン。わずか駅三つ分の間だが、毎朝同じ車両の同じドアで待ち合わせている…。
 主人公桐子は、学校や教師や同級生や大人の世界の矛盾や愚かさを指摘しつつ、そうした自分をはしたないとわきまえる分別も持っている。「腦病院へまゐります。」は、旧い仮名遣いによる強烈で異様な作品だったが、こちらは軽いお嬢様言葉による姫野カオルコとか嶽本野ばら風の軽い、ユーモラスな文体の作品。作者の出身地や出身校を思わせる背景で、だからと言って自伝的な要素はそれほどないのかもしれない。たわいもない青春小説と言えなくもないが、おもしろかった。