絆〜don't forget〜 第一章 「鎖」 第三節
七月三日。
その日はめずらしいことに、悠の隣りにいつもいるはずの灰依慧がいなかった。
「そうかぁ……みんななんでもないように見えて、実はいろんな悩み事をかかえてるんだ……」
「そうだよ。あたしたちだってのほほんと生きているわけじゃないの。よくあることなんだから、少し灰依慧君とケンカしたくらいで落ち込まないで。ね、がんばろ」
「うん、ありがと。相談にのってくれたお礼に、今度カラオケでもおごるね」
悠は笑顔で友人たちに手を振り、軽い足取りで教室を出てゆく。
と、すぐに周りをきょろきょろと見回し、辺りに誰もいないことを確認してから物陰に隠れてメモ帳を取り出した。
「んと、美和と呉羽は恋愛の悩みあり、と」
そう書きこむとすぐに、メモ帳を制服のポケットにしまいこむ。
「悠さん」
「おひゃぁっ……と、なんだ灰依慧か。誰かに見られたかと思ったよ」
「どうですか、成果の方は?」
「それなりに、ってところかな。そっちは?」
「似たようなものです」
そう言いながら、灰依慧も悠とおそろいのメモ帳を見せる。
「悠さんとケンカしてしまって、どうしたら仲直りができるか。そう相談したら、逆にどうやったら彼女ができるんだって相談され返されましたけど」
「やっぱり恋愛に関する悩みが多いみたいだね。次いで受験や金銭面。今日のお昼はラーメン定食にするかサービスランチにするか真剣に悩んでいるってのもあったけど……本当にこんな悩み事を調べて、人が消える理由わかるのかな?」
「神羅さんの手紙から推測すると、不安や悩みが心を蝕んでいく、そういうふうに書かれているように思えるんですよ。手がかりが少ない今はできることをしましょう」
「うん。でも、あんまり大勢に相談とかしてるとややこしいことになりそうだから、今日はこのくらいにしとこうか」
二人はしばしの休息をえるため、紙パックのジュースを一つずつ買って、静かな屋上へと向かう。
「ふぅ、今日は一段と暑いねぇ」
ジュースを半分ほど一気に飲み、悠は空を見上げて息を吐く。
その言葉に、灰依慧が「もうすぐ夏休みですから」と合わせる。
「そっか、もうそんな時期なんだ。全然気がつかなかったよ」
ただわけもなく過ぎる日々の早さに、悠が笑う。
そして、思い出す。
「あれからもう一年がたつんだね。灰依慧がボクに告白してきて、恋人同士になってから」
「月日がたつのは早いものですね」
少し気恥ずかしそうに灰依慧が応える。
「今年の夏はどうしょうか? 去年は朔夜と雛姫も一緒だったけど……」
「二人だけで、どこか遠くに行っちゃいましょうか。どうせ来年は受験でそれどころじゃなくなっているわけですし」
「うん……」
風が吹き、流されそうになる髪をそっとおさえる。
そんなちょっとした悠の行動に、なぜかちょっとした距離を感じてしまう灰依慧。
「本当に僕なんかでよかったんですか? 悠さんならもっと良い人がみつか……」
ぐぎぃっ!
悠が灰依慧の首を引っ掴み、顔をむりやり自分の顔の前に持ってくる。
「灰依慧、もっと自信もってよ。ボクが認めたんだからさ。胸張って堂々と恋人だって言っていいんだよ」
「……それでは」
そう一言つぶやいて悠を抱きよせ、その唇に自分の唇を重ねる。
数秒の間、二人はそのままの姿勢をたもっていたが、やがて悠の足から力が抜け、へなへなとその場に座りこんでしまった。
「あ、あのね……灰依慧、ボクが顔を近づけたのはキスしてほしかったからじゃなくて……あ、別にしてほしくないって言ってるわけでもないけど……」
いつもの悠からは考えられないほど、非常に女の子らしい仕草。
それはなにも飾らない裸の心で接することができる灰依慧にしか見せないものだった。
「自信もって行動してみました」
悠に痛めつけられた首をさすりながら、笑顔で灰依慧が言う。
「でも悠さん。本当の僕はもっと強欲ですよ。このさき、キスだけじゃあすまないこともあ……」
不意に、灰依慧の言葉が消えた。
「……灰依慧?」
顔を上げた悠の視界に、灰依慧の姿はなく、ただ灰依慧の持っていたジュースのパックがそこに転がっているだけだった。
「灰依慧?」
もう一度呼んでみるが、やはり灰依慧からの返事はない。
いつまでたっても灰依慧が現れないことに不安をおぼえ、悠はあわてて屋上中を探しまわる。
しかし、屋上のどこにも灰依慧はおらず、まさかと思ってフェンスから身を乗り出して見た遠い地面の上にも灰依慧の姿はなかった。
「ち……ちょっと! やめようよこんな冗談! こんな時に……洒落になんないって……!」
叫ぶ悠の瞳から、一粒、涙がこぼれ落ちた。
ガチャッ。カンカンッ。
そのころ、朔夜と雛姫は更衣室で怪しい行動をとっていた。
「うにゅう、なんだか盗撮カメラを仕掛けている気分だよ……」
「やったことあるのか?」
「ないって。はぁ〜、これって結構重いんだよ。手伝ってよ〜」
ロッカーの一つに、理科室からパクってきた磁場測定器を取りつけながら、雛姫が愚痴る。
「男の俺が女子更衣室に入れるわけがないだろうが。それに、俺には見張りという崇高かつ重大な任務があるんだ」
「でも……」
「いいからやれ。あとで食堂でイチゴパフェでも奢ってやるから」
「了解しましたです小隊長殿! できればデラックス・イチゴヨーグルトパフェがいいであります!」
雛姫は朔夜に敬礼をしたあと、ふたたび作業に取りかかる。
ふっ、あいかわらずあつかいやすいやつ。一生安くこき使ってやろう。
「おーい、いつまでかかってるんだ。もうすぐ昼休み終わっちまうぞ」
「う、うん、あとちょっと……ここをこうして――うにゅ、できたよ」
途中、本物の盗撮カメラを発見するというアクシデントにみまわれたが、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る前に、なんとか作業は終了した。
「これで何かあったときには、学園の東西南北に仕掛けた磁場測定器に何らかの反応が現れるはずだ」
ボガンッ!
「……は?」
たったいま設置したばかりの磁場測定器が爆発を起こし、辺りがいやな煙に包まれる。
「……配線間違って設置したな?」
「そ、そんなことないよ! ちゃんと設置したもん」
「……とにかく逃げよう。誰かにみつかったら、停学になるかもしれん」
「ふにゃぁっ、まってよ! 私だって停学なんていやだよ!」
二人はダッシュでその場を去る。
「ま、まってよ、おいてかないで……」
「いやだ。最悪の場合、お前が囮になれ!」
じょじょに遅れはじめた雛姫を尻目に、朔夜は階段を一段とばしで駆け上がり――
ドズンッ。
三階まできたとき、誰かに内臓をえぐられるようなタックルをくらい、吹っ飛ばされる。
「げふぅっ……」
「うう……」
朔夜は何とか身を起こし、焦点の定まりきらない視線でぶつかった相手を確認する。
「だ……大丈夫か……? 悠……」
「朔夜……? 灰依慧が……」
「ゆ、悠……泣いているのか?」
涙声の悠に、どう対応していいのかわからず、戸惑う朔夜。
ちょうどそこに、雛姫が息を切らしてやってきた。
「ぁぅぅ……」
「雛姫、パス」
「ふぇ? 何を……あ、どうしたの悠?」
悠の異変にようやく気がついた雛姫は、おそるおそる声をかけてみる。
「灰依慧が……灰依慧が……」
「おちついて、おちついて何があったか話して」
「灰依慧が消えちゃったんだよ!」
ドクンッ。
涙をほとばしらせて叫ぶ悠の言葉に、朔夜の心臓が大きく鼓動し、同時に、心の中に言い表しようのない不安が生まれた。
「いやだよ……灰依慧がいないとボク……生きていけないよ……」
ふっ、と、一瞬悠の姿が揺らめいた。
少なくとも、朔夜と雛姫にはそう見えた。
だが、それは二人の錯覚ではなく、必死に身の震えを抑えようと自分自身を抱きしめる悠の姿が、まるで霧のように空気に溶けてはじめる。
「悠!」
「灰依慧……灰依慧ぇ……」
雛姫が悠に触れようと手を伸ばすが、悠を捕まえる直前、その姿は完全に二人の前から消えてしまっていた。
「……うそ……」
雛姫が呆然とつぶやく。
その瞳は、いままで悠がいたはずの空間を虚ろにみつめている。
「どうしよう……悠まで消えちゃったよ! どうすればいいの!? ねぇ、朔夜ぁ!」
朔夜は少しでもおちつかせようと、震える雛姫を後ろから抱きしめ、ささやくように、力強い言葉をかける。
「大丈夫だ、俺はちゃんとお前のそばにいるだろう? 今感じていることを、今のおまえ自身を信じるんだ」
「怖いよ……私消えたくない……まだやりたいことだってある……私まだ朔夜にちゃんとす……」
「雛姫!」
言いかけた言葉を残して雛姫が消え、朔夜の腕が空を抱く。
「まただ……また俺は何もできないのか……?」
心に広がる不安に蝕まれながら、朔夜は胸を押さえながら立ち上がる。
いやだ! 何もできないまま終わるのは優奈のときだけで十分なんだ!
「こらっ! そこで何をしている!」
突然、朔夜を呼び止めるキツイ声。
「先生……」
朔夜は声の主、自分のクラス担任の方を向いた。
「さっきの爆発はお前の仕業か?」
「先生……雛姫たちが消えちまった……」
「は? 何を言っているんだ? 人が消える? 馬鹿なことを言うんじゃない。とにかく学年とクラス、出席番号と名前を言いなさい」
「二年五組一番……綾部朔夜……」
苦しく、息を吐き出すように答える。だが、
「二年五組は私の担任するクラスだが……君のような生徒は知らないな。ちょっとこっちまできなさい」
その担任の険しい声と表情で朔夜は気がついた。
自分自身の存在も消えつつあることに。
ダメだ……俺の存在が忘れられてゆく……このままじゃ俺まで消えてしまう……!
「さあ、早くきなさい!」
「ダメだ! まだ消えるわけにはいかないんだ!」
叫んで、捕まえようとする担任の手をすり抜けて、朔夜は逃げ出した。
しかし、それも長くも続かない。
存在が消えてゆくのと同時に身体能力も失われているのか、ほんの数十メートル走ったところで倒れこんでしまった。
「……くそ……」
これが消えるってことなのか……? 身体が動かねぇ……
「ごめんな栞……約束、守れねぇかも……」
最後に、悲しそうな声でそういい残し、朔夜の存在はこの世界から消えてしまった。
「――センセー、何かあったんですかー?」
「いや、たいしたことはない。更衣室でボヤがあっただけだ。君たちは早く教室に戻りなさい、もうすぐ授業が始まるぞ」
「はーい」
ボヤ騒ぎに校内はしばらくの間ざわめいていたが、チャイムがなると生徒たちは教室に戻り、数人の教師たちが更衣室に向かった。
誰も、たったいま四人の人間が消えてしまったという事実に気がつかないままに。
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