出家を決心して4歳の娘を蹴落とす西行法師(義清)
公式設定集の東方求聞史紀には西行寺幽々子の父親として次のような記述がある。
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彼女の父親が、多くの人間に慕われた歌聖であり、自分の要望どおり桜の下で眠りについた。
死後も慕われつづけ、現在は神格化され天界に住む。
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この、「歌聖」は話の筋から見て、西行法師であることは間違いない。
従って西行寺幽々子は西行法師の娘である。
ただ、西行法師は西暦1118年の生まれであり現在生きていても900歳くらいである。
幽々子は1000年以上生きて(死んでるけど)いるので計算が合わない。
しかし、とりあえず求聞史紀の記事に従って、西行寺幽々子は西行法師の娘だと断定することにしよう。
西行法師には少なくともひとりの娘がいた。この娘は西行物語に少しだけ登場するので
その場面をピックアップして紹介したい。
なお東方ファンは文中の西行法師の娘を、幽々子さまだと
思って読むとよりいっそう楽しめると思います。
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娘を蹴落とす
ゆうべに及び宿所に帰りさし入れば、年頃いとほしく思ふ娘の四つになるが
振り分け髪も肩過ぎぬほどにて、よにらうたげなる有様に、何心なく縁に走り出でて
「父のおはしますうれしさよ。などや遅く御帰りありける。君の御許しなかりけるにや」
などいひて、よにいとけなき撫子の姿にて、狩衣のたもとにすがりけるを、類なくいとほしくは思へども
「過ぎにし方、出家を思ひとどまりしも、この娘ゆゑなり。されば第六天の魔王は
一切衆生の仏にならむことを障へむがために、妻子という絆を付け置き、出離の道を妨ぐといへり。
これを知りながら、いかで愛着の心をなさむや。これこそ陣の前の敵、煩悩の絆を切る初めなり」
と思ひて、この娘を情なく縁の下へ蹴落としたりければ、小さき手を顔におおひ、なほ父を慕ひ泣きければ
これにつけても心苦しく思へども、聞き入れぬさまにて内へ入りぬ。
傍らの女房、下部にいたるまで、よにあへなき事に思ひて
「こは、いかなる事やらむ」
と騒ぎ合へり。しかれどもかの女房は、かねてより父の出家の志あることを知りたければ
娘の泣き悲しむ事をも、驚く色なし。
これにつけてもあはれにおぼえて
露の玉
消ゆればまたもあるものを
頼みもなきは
わが身なりけり
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(現代語訳)
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夕方になって邸に帰り奥に入ると、長年いとおしく思っている娘で四歳になる子が
まだ振り分け髪も肩を過ぎない年頃で、まことに愛らしげな有様で、無心に縁まで走り出てきて
「お父様がお帰りになってうれしいわ。どうして遅くなったの。ご主人様の御許しが出なかったのかしら」
などといって、まったく幼い撫子のような愛児が、義清の狩衣のたもとにすがったのを
比べるものも無いほどいとおしく思うのだが
「過去において、出家を思いとどまったのも、この娘ゆえだ。だから第六天の魔王は
現世の人々が仏になる事を邪魔するため、妻子という拘束を人に付与し、出家の道をさまたげるという。
この道理を知りながら、どうして愛着にひきずられる心を持とうか。これこそ眼前の敵であり
迷いのしがらみをたつ最初なのだ」
と思って、この娘を無情にも縁から下へ蹴落としたところ、娘は小さな手を顔に当て
なお父を慕って泣いたので、これにつけても胸の張り裂ける思いだが、聞こえぬふりをして奥に入った。
そばにいた侍女や下男にいたるまで、まったくあきれ返った事と思って
「これはどうしたことだ」
と騒ぎあっていた。けれども義清の妻は、かねてより夫の出家の志あることを知っていたので
娘が泣き悲しむ事にも、驚く気配は無い。
このような妻子の反応を見るにつけ、しみじみ心に感じて
草木に置いた露は、消えてもまた生じるものなのに、わが身は消えればもはや頼みにならないのだ
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西行法師が出家を決心する際の話である。
西行法師の出家前の名は藤原義清(のりきよ)という。
文武両道はおろかあらゆる芸能に優れ、家は豊かで、すべてに満ち足りた生活をしていた。
しかしなぜか、仏道に心を傾けがちな人であった。
1127年10月10日ごろ友人佐藤憲康の急死に世の無常を感じた義清は、院に暇を申し出たが
許されない。しかし義清の決心は固く、家に帰ると娘を蹴飛ばして、泣く妻をも振り捨てて
西山の寺の聖のもとに参じ、出家して西行と名乗った。
それはさておき、西行物語のこの個所を読んだとき、蹴落とされて、なおも父を慕って泣く
4歳の娘が、幼いころの幽々子さまだと思って、なんか悲しくなってしまった。
この娘は何十年も後に西行と再開するまで、母親とも別れ、知人の宅に預けられ、親と会うことなく
別れてすごすのである。
そうして、ずっと後になって、西行は娘と再会するのだが、その話はまた項を改めて書くことにしたい。
というわけで、西行の娘の行方は次回に。
2007年9月16日
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