妖々夢のラストは幽々子の反魂である。これは逆に考えれば、幽々子の臨終の瞬間に
戻ろうとしているのである。つまり、妖々夢ラストは幽々子の臨終の場面だと言える。
幽々子復活の際に詠まれる歌。それは幽々子が死んだときに詠まれた歌なのである。
つまり身のうさを・・・は幽々子の辞世の句なのである。
では、妖々夢のストーリーから歌を解釈しなおしてみよう
身の憂さを、とは我が身の憂鬱な運命という意味なので、幽々子においては
人を死に誘う能力による苦しみの事だと解釈できる。背く習いの無き世とは
いろいろ解釈できる表現だが、あの世の事だと解釈しよう。
なぜならこの世は背く習い、つまり出家する習いのある現世なのであり、
背く習いの無き世となれば、それはあの世のことを指すのではないだろうか。
以上の解釈で訳してみよう。
我が身の運命による苦しみを知らないで済むのだろう
あの世へ行くのならば
さてこの歌は上段と下段で色が分かれている
上が赤く明るい色で、下が青く暗い色である。つまり上は明るい意味、下は暗い意味を持っていると
解釈できる。上段の意味は、もう苦しみを思い知らないでいいのだ、という解釈ならば確かに明るい意味である。
その結論が下段に表示され、自刃して命を断てば・・・と一転暗澹とした展開になる。上段と下段を色わけしているのは
そのような幽々子の悲しい暗い人生の結末を表現しているのではないだろうか。
●別解釈
西行の元の歌の意味は暗いものではない。従ってこの場面も、ポジティブな内容を持っていると
考えられる。その場合どう解釈できるだろうか。
西行の歌の意味は、苦しみを知ることが出来て良かった、という意味である。これに従って解釈すると、
幽々子は自分の運命に苦しんだが、その苦しみこそが、生きているという事であり、その苦しみを
知ることが出来たのは幸いであった、と自分の運命を肯定して死んだのではないか。
背く習いとは、西行妖の呪いの事だとして、そのような残酷な運命が自分に与えられなかったら、
生の苦しみというものも知らず、日々を生きてしまっただろう。不幸であった事はただ辛い事だったのではない。
それによって自分は悟ることが出来た・・・と、幽々子は死ぬ直前に気が付いたのではないだろうか。
生きるとは苦しみである、その事実を悟ることが重要であった。死後、亡霊となった幽々子は、生前とは
異なり、もう苦しむことも無く、気軽に人を死に誘うようになった。あれほど苦しんだ自分の能力に
もう苦しまなくなった。これは対比である。生きている時は苦しみだったのに、死後は苦しみを覚えなくなった。
苦しみは生きていればこそ悟ることが出来たのだ。輪廻から外れた亡霊幽々子はもう苦しみを知ることは無い。
最初の解釈の方が単純で、解り易く、もっともらしいと思うが個人的には、二番目の解釈を信じたい。
なぜなら、楽天家の幽々子は死人であり、未熟者の妖夢は生者だからである。幽々子と妖夢は
死と生の対比である。妖夢は六道の中にいて、迷い、苦しみ、焦り、もがいている。妖夢の姿は
極楽往生を目指し、迷い、焦り、生きる西行である。それが生の姿なのである。なぜ幽々子が
妙に楽天家になってしまったか、それは生とは苦であるという悟りを強調したい為であったと
思う。あと、個人的には神主は生の中の苦というものを重視しそうな気がするので。
2008年11月6日