・ 音 楽 の 喜 び 

               ………小・中・高等学校生活で  
                
◇「うちの子には、音楽はさせない。」 
                
 私の父は、邦楽囃子の笛方の演奏家であった。と言うと、六才の六月六日を
芸事はじめとして……といった、邦楽に囲まれた、特別な環境に育ったのでは
ないかと、思う人があるかもしれない。やっぱり、そんな人でないと「和楽器」な
んて、無理だと、思ってしまうかもしれない。         
 ところが、まるで違うのである。邦楽家の子として生まれたものの、父は、修
業の厳しさ、恵まれない経済生活、当時、邦楽家が、芸術家としての、社会的
地位を十分に得ていなかったこと、そして衰退の一途をたどる邦楽界の将来、
などを考え、子どもたちには、同じ道を歩ませようとしなかったのである。    
         
 その頃は、趣味で笛を習う人もなく、家で弟子を取って教えることもなかったの
で、私は父の演奏を聞くことは、ほとんどなかった。邦楽どころか、趣味として音
楽を習うことは、道楽ごとと決めつけ、当時、ピアノのおけいこに通う友達もいた
のに、私には、一晩泣いて頼んでも、習わせてもらえなかった。         
    
 このように、私は、邦楽はおろか、音楽に関する事は、何一つ仕込まれずに
育ったのだ。     
                
◇おもちゃの楽器を遊び道具として
                
 そんな、音楽シャットアウトの環境の中で、母のはからいもあり、おもちゃの楽
器は、ねだれば、買ってもらえた。おもちゃのピアノ、シロフォン、ブリキの鍵盤
のついたアコーディオン、大正琴、リコーダー……クリスマスのたびに、私がね
だって買ってもらったものである。そんな時、父が、おもちゃでも音律だけは良
いものと、買い物には、必ずついて来て、店をあちこち回り、選んでくれたこと 
が懐しく思い出される。     
 私は、手に入れたおもちゃで、耳にある歌を片っぱしからひいた。学校で習っ
た歌、流行歌(これをやると、よく叱られた)、盆踊りの「炭抗節」も、みんな楽譜
無しの探り弾きである。聞くと、父も、もともとは、郷里の愛知県犬山市の祭りの
囃子がきっかけで、この道に入った人である。竹を切り、笛を作って遊ぶという、
少年時代を送ったそうだ。
 要するに、私も、父も子どもの頃は、自分に与えられた環境の中でごく自然
に、音楽を生活化していた、普通の子どもだったのである。

◇みんなと一緒にする楽しさ
                       ……鼓笛隊で

 私が六年生の夏休み、五年生の子たちを対象に、鼓笛隊が結成され、練習
が行われていた。その練習につきまとい、ねばりにねばって、ついに仲間に加
えてもらうことができた。だから、私は、三宝小学校鼓笛隊の「O期生」なのであ
る。私が、初めて手にした、本物の楽器、鍵盤ハーモニカやアコーディオン。そ
れは、まぶしく、夢のようなものであった。
 ここで私は、みんなと一緒にすることの楽しさや、それを、他の人に聴いてもら
うことの喜びを味わうことができた。       
                
◇さまざまな楽器との出会い・音楽を通じての友情
                   ……ブラスバンドで 

 当時、中学校のブラスバンドには、男子しか入っていなかった。ここでも「女子
部員第一号」であった。顧問の先生は、入部を許可したものの、はじめの内
は、男子部員にソッポを向かれ、スカートだからと、パレードにも加えてもらえな
かった。男女平等が、強く叫ばれる今日ならば、大問題である。でも、そんなこ
とさえ懐しいエピソードとして話せる程楽しい仲間であった。この時のメンバー 
は、OBバンドとして「プールサイドコンサート」を行うなど、二十歳を過ぎる頃ま
で、その活動を続けた。            
 楽器不足もあって、欠席部員の補欠として、いろいろなパートをまわった。そ
の時、いろいろな楽器に触れたことや、修理までしたことは、教師となった今、
音楽室で即役立つ、とても貴重な経験であったと思う。

◇声楽の指導を受けて
                ……基礎の大切さ   
                
 高等学校では、かなり専門的に声楽を教わることができた。発声法や呼吸法
をはじめ、コーラスの楽しさを体験することができた。 
また、何よりの収穫は、これまで、耳からの音楽を取り入れる方が先で、五線譜
を読み取ることが苦手であった私が、コールユーブンゲンによる訓練によって、
それが、少しずつできるようになってきたことである。          
 私は、今でも楽譜を読むのが苦手で、これが私の音楽の上での、最大のコン
プレックスとなっている。もちろん読譜力(初見で演奏する力)と、演奏の素晴ら
しさとは、決して比例するものではないと思っている。しかし、自分の音楽をひろ
げていくためにも、こういった「基礎的な力」は、子どものうちに、できるならば、
それのみを取り上げる訓練でなく、楽しく演奏する中で、自然に身につけさせて
いきたいものである。   
 私の音感は、このときの訓練で、身についていき、高められていったと思われ
る。また、自分なりに、一人で歌を練習する方法や力も、身につけることができ
たようだ。最近、長唄の唄を歌うようになって、この時に得た、呼吸法や、音のさ
さえ方、ストレートな音のもっていき方などが、大変役立っている。
 私は、長い間の教師生活で、元気いっぱいの子どもたちを前に、つい大声(怒
鳴り声)を出し、常に声がかすれていた。しかし、音楽を教え、子どもとともに歌
うようになってからは、学生時代の声(声楽の声)が徐々に戻ってきた。それと
ともに、長唄の声も、不思議にも、出はじめてきたのである。声楽と長唄とは微
妙にノドの使い方がちがう。「邦楽的発声」を「ノドを痛める発声」と思っている人
がいるようだが、私には、そうは思えない。今、そのどちらをも、毎日のように使
い分けているからである。
 「地声」「胴声」「邦楽的発声」(邦楽の分野によって微妙な違いがある)、こう
いった言葉の定義も、よく明らかにされていない。 「発声法」については、まだ
まだ、科学的、専門的な研究の余地が残されているようである。これは、新指
導要領における、「楽曲による発声法の工夫」をしていく上での、重要な課題で
もあると考える。    
 音楽は一人でしても楽しい。なかまと一緒にやれば、もっと楽しい。それを全
身で感じとることのできる毎日であった。      
 私の中学・高校生活から、音楽を取り去ると、何も残らないと言っても言い過
ぎではないと思っている。それは、みんなと歌ったり、
合奏したりする中で、自分自身の「わがまま」や「ひとりよがり」な性格に、知ら
ず知らず気付き、音楽の歓びの中で、少しづつ心が磨かれていったと、実感し
ているからである。         
 
◇ピアノの壁は厚かった     
              ……音楽への挫折  
                
 高等学校卒業後、教職に就くまでの間、私が音楽を楽しめたのは、学校の礼
拝堂で、賛美歌を歌うときだけになってしまった。    
 教員免許を取るためのピアノのレッスンには、音楽を感じることが、できなかっ
た。音譜の順番どおりに、キーをたたきさえすれば、〇印をつけてもらい、次に
進む。まるで、タイプライターを打っているような、味気ないものとしか思えなかっ
た。         
 「性に合わなかった。」と言ってしまえば、それまでだが、原因は、いろいろ考
えられる。まずは、練習不足だろう。一時間五〇円出せば、ピアノを貸してもら
えたが、昼間、会社勤めをしていた私には、練習時間がなかなかとれなかっ
た。また耳ばかり肥えていたのが、災いして、一向に鳴らない自分のピアノに、
愛想がつきてしまった。 
 二十歳になり、ローンで資金が借りられるようになったので、ピアノを買った。
休日に、家での練習時間が確保されると、その成果は目に見えた。免許に必
要なピアノの単位は、間もなく取ることができた。
 この時、さすがの頑固親父もあやまった。「先生になるのに、ピアノがいると
は、思はなかった。苦労をかけてしまった。」と。今さら言っても、後の祭である。
私も、この後、何度「小さい時から、やっていたらなあ。」という思いにかられた
ことだろう。     
 そして、私は、ピアノで味わった挫折感から、「自分の音楽はダメなのだ。」と
思うようになってしまった。
 私と同じような子どもが教室にいるのではないだろうか。何か一つのことが苦
手なために、自分の音楽性を発揮できなくなってしまっている。そんな子はいな
いだろうか。
 子どもたちには、将来、自分の音楽を選択していくためにも、多くのことを経験
させていきたいし、挑戦もさせていきたい。だからといって、あれもこれも、全部
できるようにする必要はないのである。
 その子の、生涯音楽に通じる、持ち前のものをひき出し、大きな、音楽する心
で包み、磨いていってやることが、大切なのではないかと考える。

◇鑑賞する側にまわってみて
            ……受け身だけでは不満足

 私は、実に多くの楽器に出会ったが、結局、少しはこなせるといったものは、
一つとして無かった。それで、演奏はプロにまかせ、それを鑑賞することで、自
分の音楽への気持を満足させようとした。
そういう形ででも、私は音楽好きのまままでいたかったのである。 名曲と言わ
れるものであっても、少し長いものであれば、初めて聞いたときには、どこがどう
良かったのか、正直なところよくわからない。何度も聞いて、メロディーが耳につ
きはじめて、ようやく興味がわいてくる。        
 後に長唄をするようになったときも、同じようなことがあった。 
初めての曲に取りかかるときに、私は「この曲をきっかけに、嫌気がさして、や
めてしまうのではないか。」と、何度も思ったものである。しかし、繰り返し練習
し、メロディーを覚えるにしたがって、徐々にその曲に、愛着がわいてくるのであ
る。          
 月に一枚程度のレコードを買い、それをあきるほど聞いた。そのため、曲数は
少いが、指揮者や演奏者によって、微妙に違う表現を、じっくり味わうことができ
たように思われる。そして、そのころ聞いた曲は、今も、心に深く残っている。 
            
 ところが、このように努力して聞き続けることが、だんだんしんどくなってきた。
長唄の場合は辛抱できたのに、なぜなのだろう。 
 それは、音楽を頭で分析し、理解しようとしたためではないかと思われる。音
楽を受動的な立場で楽しもうとするときは、特に、無理や辛抱は禁物である。あ
まり理屈っぽく考えず、もっと素直に、感じるがままに聞くことの方が幸せなよう
である。もちろん、自らが演奏する場合であっても、あまり理屈っぽくては、ただ
の独りよがりであることは、言うまでもない。              
 これに比べると、能動的な音楽の喜びは、「しんどさ」をも克服することができ
ると、言えるようである。後になって、私は、履歴書の「趣味」の欄に「音楽」と書
かずに「楽器いじり」と書いたものである。それは、「下手の横好き」であっても、
「doingの音楽」が好きだということを言いたかったからである。    
  
◇「邦楽」「和楽器」との出会い 
             ……きっかけは学校で 
                
 邦楽に興味を持った理由として、「門前の小僧、習わぬ経を読み」の例えのよ
うに、家庭環境も否定はできない。確かに、家には「しの笛」も「三味線」もあっ
たし、少しは触ってもみた。しかし、私にとって、それらは、知っている曲をドレミ
でふいたり、弾いたりすることのできない楽器でしかなかった。やはり、直接の
きっかけは、小、中学校で、わずか数曲の邦楽に出会ったことである。

◇長唄「元禄花見踊り」   ……鼓笛隊で

 楽譜に「長唄より」と、あるのを見て、母が「お父ちゃん、鼓笛隊で『元禄花見
踊り』を、するんだって!」と、感激の声を上げた。父も、「ほう、どれどれ」楽譜を
ながめていた。が、「こんな物『花見踊り』のサワリの内の、十分の一どころか、
ほんのひと節にも足りない。これで、よくも『元禄花見踊り』などと題をつけて、お
まけに『長唄より』なんて、厚かましいにも程がある。」と憤慨することしきりであ
った。
 私は、この時初めて、父が「長唄」という音楽をしていることを知ったのであ
る。そして、「今まで知っている音楽と、何かちょっと違うな。」と思いながらも、
わけのわからない嬉しい気持ちが、こみあげてきたことを覚えている。
                
                
◇長唄「越後獅子」       
      ……中学校の音楽の時間に、 レコードで  

 教科書には、写真がのせてあって、舞台の真ん中で、サラシを振って踊ってい
る姿と、後ろで演奏する人たちが写っていた。私は幼い頃、日本舞踊の会に
は、何度か連れて行ってもらったことがある。「越後獅子」の衣裳にも、見覚え
があったので、親しみ深く聞くことができた。私の耳には、笛の音ばかり追いか
けていた。「何たら愚痴だえ、ぼたんは持たねど、越後の獅子は………」歌の
意味は、良くわからなかったが、その一節の楽譜がのせてあった。リコーダーで
ふいてみた。家に帰って、「学校で『越後獅子』を習ったよ。」と言って、ふいてみ
せると、母は口三味線を言いながら、嬉しそうに聞いてくれた。私は、いつか、
しの笛でふいてみたいものだと思った。             
 前にも書いたように、洋楽のレコードは何枚も持っている。けれども、私が、ス
テレオを手に入れてから初めて買ったレコードは、学校で聞かせてもらったの
と、同じジャケットに入った「越後獅子」であった。又、教科書の写真は、その
後、父の職業を説明する時に、とても役に立った。      
 
◇三味線との出会い
             ……ブラスバンドで  
                
 「日本民謡お国めぐり」をした時のことである。私のフルートと母の三味線を合
せたいと思い、やってみたが、調子がなかなか合わせられなかった。それで、
三味線の糸を巻いて、音を高くしていくと、一番細い三の糸は、切れてしまって
弾けなくなる。      
 民謡など、高い調子のものは、「短棹(たんざお)」という、短い三味線を使う
と、糸が切れなくてすむそうだ。しの笛の場合も、少しずつ長さの違う笛を何本
も、持って歩かねば、いろいろな高さの調子に合わせることができない。
なんと、原始的で、不便なんだろう。
 しかし、よくよく考えてみると、なるほど、フルートは一本あれば、どんな調子の
曲も、ふける。けれども、移調すると指づかいが変わり、私などは、しばらく練習
しないと、すぐにはふけない。それに比べると、一曲覚えると、調子が変っても、
同じ指づかいで演奏できるという、三味線や、しの笛は、とても便利と言えるの
ではないか。

◇三味線を習おう
             ……独学の限界を感じて

 ブラスバンドで、フルートをふいていた私は、先に、しの笛に興味を持った。父
には教えてもらえなかったが、父が笛で何をふいているのかを知りたいと思っ
た。長唄の中で、能管や、しの笛が登場するのは、ごく一部の決まった箇所だ
けである。そこで、どんな情景や、感情が表現されているのかそのためには、ま
ず、長唄の全体を知らねば、ならなかった。
 母に、三味線の譜の見方を教えてもらい、唯一つ、耳にある曲「越後獅子」を
弾いてみようとした。やっぱり、これは初歩の曲ではなく、難しすぎた。が、諦め
たくなかった。かといって、もう少し易しい曲は、聞いたこともなく、つまらなそう
に思えた。      
 これまでの楽器いじりで身にしみていた独学の限界を、改めて感じていた。私
は、せめて「越後獅子」を弾けるようになるまではと、目標を定めて、長唄を習う
決心をした。
 教師になって二年目、二十四才のときである。このときの、父のセリフが、私
には忘れられない一言となった。          
 「職業も決ったことだし、趣味でやるのに何も文句はない。二十四にもなれ
ば、どうせ、モノにはならないだろうから、間違っても、この道に入ろうなんていう
心配もなくなった。自分の甲斐性でやるのなら、好きにしなさい。」
 これから頑張ろうとしている者に向って、何と失礼ではないか。ひょっとして、
私が、こんなに長い間、長唄を続けられたのは、この一言があったからかもし
れない。
 学校での音楽に、邦楽が登場していなかったら、こんな環境に育った私でさえ
も、邦楽の世界を、のぞいてみる気になったかどうかも、わからない。まして、多
くの一や家庭においては、今や、和楽器は、かなり疎い存在であろう。だからこ
そ、公教育で、邦楽や和楽器を取り上げていかなければならないのでは、ない
だろうか。そうしなければ、悔しいけれども、うちの父の予測どうり、邦楽は、滅
びてしまうにちがいない。




トップへ
トップへ
戻る
戻る