受難



部屋に控えめに鳴るコール音。淹れたばかりの紅茶のカップをテーブルに置き、セレインは液晶パネルの中で光り続ける『Internal』に手早く触れた。

「…フロイライン。今いいか?」

 相手の顔が画面に映し出されるなりそう呼ばれて、セレインは微かにその顔を睨みつけた。
 女性に対して敬意を払うのは悪い事ではないと思う。しかしそれを自分に向ける必要はないと、彼女は常日頃言っていた。が、相手の習慣なのか性分なのか、どうしても直らない人間が少なくとも二人いる。その内の一人が、今画面の向こうにいる男というわけだ。
「シュターゼン…そう呼ぶのはやめろと」
「文句なら後で聞く。単刀直入に頼みがある」
 睨みつける視線がますます鋭くなる。この男…エルリッヒが持ち込んでくる頼みごとは、想像を超える厄介事であることが多い。加えてそれが彼の同僚、つまり自分を日がな一日追い掛け回してくる銀髪の男がやらかしたものがほとんどなのだ。
 今回もそうなのであろう。映っている顔はエルリッヒであっても、液晶の隅に表示された内線番号はあいつのもの。既に不吉を通り越して悲しい現実を突きつけられたような気分であった。
「一つ聞きたいのだが、お前わざと私に話を持ち込んでないだろうな?」
「そんな趣味はない。ただ君に頼めば物事が早く済むからだ。あいつが大人しくなるだけでもこちらは楽になる」
「……」
 セレインは諦め気味に短くため息をついた。確信犯であったとしても、ここまでバカ正直に言われてしまうとかえってぐうの音も出ない。
「全く、一体何が…」
 自分の運のなさを呪いつつセレインが言葉を続けようとした時、突然内線のスピーカーがけたたましい音を拾った。
「セレインちゃーん!できればっつーか是非ともちょっと来てくんねぇかなー?」
「あーもうあんたさっきっからうるさい!いっそ永眠してろよ!ホントに!」
「てゆうか何で坊主がいつまでもここにいんだよ!ここは俺の部屋だっての!お前が帰れ!」
 一瞬、画面の片隅に見慣れた銀髪と、その顔面を張り倒そうとした黒い髪の少年が映った、気がした。いや、気がしたのではなく、事実だろう。しかしどうしてこれが事実なのか。セレインは肩が重くなるような感覚すら覚える。
「とりあえずこれが現状だ。何とか君の力を貸して頂きたいんだがな」
「貸して頂きたいなんて遠慮がちに言うなよ。セレイン、今すぐ来てよ。俺すっげー迷惑してんだからさ」
 エルリッヒをなかば押しのけ、先程の黒髪の持ち主…アークライトが入れ替わりで映った。
「おっさんここまで引きずってくるの大変だったんだからな。ああもう三日三晩徹夜でアシュクリーフのメンテやってた方がよっぽどマシ」
 大げさに頭を振ってアークはうなだれた。だがそれよりも。
「おいアーク、そのバカを引きずってきたと言ったな。どういう事だ」
「ああ、それは…ってうわあっ!」
「坊主!それ言ったらマジで殺す!絶対ころ…いだだだっ!」
「……」
 モニターに映し出されるものは、最早地獄絵図と表現してもいいだろう。何かを言いかけたアークは後ろからリッシュのタックルをくらい、画面の外に消えた。加えてタックルを食らわせた張本人はらしからぬ苦悶の表情を浮かべていたが、なんとか取り繕うようにモニターに向かってヒラヒラと手を振る。
「まあとにかく来てくれや。これでも実は問題抱えちまっててさ。じゃ、待ってるぜ」
 プツリと音がして、モニターが黒に戻った。リッシュが一方的に内線をオフにしたのだろう。
 …いっその事無視してしまおうか。そもそも行かなくてはならないというわけではないのだから。あいつの部屋で何が起きているのか多少気にはなるが、そんなものはささいな好奇心に過ぎない。大体奴の部屋に行ったというだけで、毎度の如く自分に不本意な噂が沸き起こっているのだ。
「…勝手に困ってるがいいさ」
 一人呟いて、彼女は紅茶を淹れなおそうと立ち上がった。が、
「無視されては困るな。フロイライン」
 ノックとほぼ同時に、微かに嫌味を込めたような声。突然の来訪と想像していなかった展開に驚いたのか、セレインはすぐさまドアを開ける。
「シュターゼン!どうして」
「どうしてではない。私とて少年があいつとやりあってるスキにやっと抜け出したのだ。来てもらわんと困る」
「な…必ず私が解決しなければならない事ではないだろう!それにお前達だって無理にあのバカに付き合う必要はないんじゃないのか?」
 一気にまくしたてるが、エルリッヒがそれに動揺した様子はなかった。
「君の言い分もわかるがな。しかし長い目で見ればマーチウインドの戦力低下にも繋がりかねん。とにかく来てくれ」
 そう告げ、彼はセレインがついてきているかも確認せずに来た道を引き返しはじめる。

 …その後ろには、重々しい足取りで後をついてくるセレインの姿があった。


「来てくれたんだ、セレインちゃん。やっぱり俺のこと心配してくれてたんだなぁ」
「やかましい。それよりなんだ、そのザマは」
 その不機嫌な口調を差し引いても、セレインの疑問はもっともであった。
 今回の(今回も)顛末の元凶である男は、彼女が来た事を心から喜び、迎え入れるように腕を広げながらも、半身を起こしたベッドの上から動こうとしない。その原因が彼の右足に巻かれた大仰な包帯である事は、セレインも部屋に入るなり気付いてはいたのだが。
「なあなあ、理由聞きたくない?つーか正直笑い話なんだけど」
 ニコニコと、明らかに他意のある笑顔でアークが彼女の顔を覗き込む。
「坊主…てめぇホントに殴るぞ。根も葉もない事言いますみたいな顔しやがって」
「別に、デタラメ言うつもりなんかないですよ。ただ『セレインのあと追っかけてステップで滑って転んで捻挫しました』って言うだけだから」
「…は?」
 一瞬、笑顔の少年が何を言ったのか、セレインは理解できなかったようだった。思わず助けを求めるように横にいたエルリッヒを見るが、しかめっ面の男はわざとらしいくらい淡々と述べる。
「少年の言う通りだ。これ以上説明のしようがない」
「……」
 あまりの馬鹿さ加減に声を失う彼女だったが、ふと先刻のおぼろげな記憶が蘇ってきた。それはいつも通りで、自分にとっては不本意ながらもありきたりなもの。

 …偵察任務を終え、特に何事もなかったのもあったせいか、セレインは足早に格納庫を後にしようとしていた。そして出入り口そばあたりまで行き着いた時、確かに『妙なモノ』が聞こえた。
 おそらく、というかリッシュがいつものように何かを言っていた。だが彼女はいつものように無視を決め込み、その場を立ち去ろうとしたのである。そして直後、大きなものが転げるような鈍い音が響いたのだ。しかしまさか。

 絶体絶命の窮地から生還する故の二つ名『アンデッドマン』を持つ男が、そんなくだらない事で怪我をするとは。大まかな事情を掴んだ途端、セレインの視線に軽蔑が込められ、当然のようにリッシュに向けられた。
「貴様…何故私のあとを追いかけた?」
「なんでって、そりゃあ一仕事のあとに彼女と二人ゆーっくりお茶飲みたかったから」
「ほう、そんな事で転げ落ちたとはな。そろそろ体力的にも精神的にも限界じゃないのか?さっさと永遠に休んだ方がいいぞ」
「うっわそいつぁ酷いぜ。俺はこれからの男だっての。ほら、こういう時にセレインちゃんが愛を込めて看病してくれれば、明日には普通に歩けるようになるって」
 …人間というものは、体に不調を抱えると多少なりとも落ち込むものではなかったか。そう思ったのは怪我をした本人を除く三人であり、その本人はというと普段と変わらぬ締まりのない笑顔のままだ。
「寝言も大概にしろ!貴様の失態になど付き合ってられるか。私は帰る!」
 当然というべきか、セレインが部屋を後にしようと踵を返す。が、それを何故かアークライトが素早く遮った。
「何をする、アークライト。今ならお前でも手加減はできないぞ」
「あのさ、このおっさんのデカい図体抱えてきた俺達の苦労に報いようとか思わないわけ?」
「なっ…」
「確かに。多少なりとも我々の努力を認めてもらいたいものだな、フロイライン」
 たたみ掛けるようにエルリッヒまでもがしたり顔で頷く。対して彼女は二人の言葉を受け入れられないでいるのか、肩を震わせたまま棒のように突っ立ったままだ。
「やー迷惑かけてすまねぇなぁお二人さん。今度お礼すっからさ、とりあえず今日はご苦労様って事で」
 その言葉に込められた『二人にさせろ』の意味。エルリッヒは嘆息するだけだったが、アークライトはどうにも腹に据えかねたらしい。一瞬眉をピクリと上げ、殊更に大きな声で嫌味を吐き出す。
「大体さぁ!医務室で大人しく寝てればいいのに、ここじゃセレインと二人っきりになりにくいーとかあんな事もこんな事もできねぇだのってごねてたんだぜ。いい歳して全く気持ち悪いったら!」
「お前な!それこそ根も葉もない事っつーか、後半まるっとウソじゃねぇか!ちょ、セレインも本気にすんなって!」
 リッシュが慌てるのも無理はない。アークの言葉を聞いて多少正気が戻ったのか、セレインの顔に明らかな怒りがリアルタイムで込められたからだ。足の融通がきかない今、さすがに彼女の堪忍袋の尾を切らせてしまってはどのような目に遭うか。だが、引きつった愛想笑いを浮かべる男に、白々しい程に紳士的な笑顔の男が無情にも止めをさす。
「…部屋に戻れればこっちのものだと、先程は相変わらずの惚気ぶりだったな。リッシュ」
 ぽつりと、しかしはっきりとエルリッヒが呟く。そしてそれが決定打となった事は…言うまでもなかった。
「…ほう。こっちのもの、だと?シュターゼン、どういう意味だ?」
「君が思ってるままで間違いないと思うが、あまり深読みしすぎると精神衛生上どうか…と」
 腕を組んで仁王立ちになっていたセレインの口の端が歪む。そのまま表情は笑顔に変わったのだが、どう見ても目が笑っていない。加えて言いたい事を言って余裕のエルリッヒの笑顔と、最早単純に状況が楽しくて笑いを堪えるアークの笑顔。
 かつてこれほどまでに『笑顔』の人間が怖いと思ったり、憎たらしいと思った事があったろうか。
「じゃおっさん、ごゆっくり」
「楽しいひと時を過ごせる事を祈ってるよ」
 まるで台本でも読んだかのようなアークとエルリッヒの言葉。そのまま二人はそそくさと部屋を出ていってしまった。残されたのは当事者二人と、重い空気のみだ。
「…さあリッシュ、私と二人っきりになりたかったんだろう?存分に付き合ってやるから喜べ」
 珍しくセレインがファーストネームを口にしたにも関わらず、呼ばれた本人はそれどころではない。動けない自分にゆっくりと近づいてくる彼女の姿は…正直恐ろしかった。
「いやいやいや!その前に俺の話を聞け!エルが大げさに言いすぎなんだって!別にやましい意味があったわけじゃ」
「なるほど。という事は、アークが言っていたのはウソでも、シュターゼンが言っていた事は認めるのだな?」
「う…あーっと、こ、言葉のあやって…奴?」
 完全に墓穴だったと思っても遅い。既にリッシュには、物理的にも精神的にも退路はなかった。

「うわっ!セレインちゃんマジで待てっ…!」
「こっちのもの、とはどういう意味か聞きたいのもあるが、とりあえず先に…あの世へ逝け!」


「そういえばアーク、リッシュの容態はどうだったんだい?」
 人が往来する格納庫の中、アシュクリーフのメンテの手伝いをかって出たエイジが問う。
「あまり心配するほどではなかったようでしたよ。ですよね?」
「ああ、フロイラインが看病しているとあらばすぐ治るだろう」
 すらすらと答えてくる二人の楽しそうな様に、エイジは僅かに首を傾げた。
「セレインが…看病してるのか?」
「ええ、そうです」
「パートナーが怪我をしたのだからな。それに邪魔をするのも野暮だろう?」
 普段あまり見かけないエルリッヒの満面の笑顔にエイジは一瞬面食らうが、元来のお人好しな性根が出たのだろう、『そうだな』と軽く呟き、作業に戻っていく。

「…ま、死んでなきゃいいんだけど」
 アークの小声は誰にも聞こえるともなく、また声の本人もこれ以上の興味はないとばかりに肩を竦めただけだった。


「…あのさぁ、俺をこれ以上怪我人にしないでもらえるか?」
 いまだ両頬に残る、赤い手の平の痕をさすりながらリッシュはがっくりとうな垂れる。
 彼の顔面に飛来した二度の平手打ちは、もし煩悩というものを振り払うものだとしたら、十二分に効果のあるものであった。食らった側にしてみれば、煩悩はおろか記憶の一部まで吹き飛びそうな勢いだったのだから。
「これ以上怪我人にはしないぞ。度を越すとパイロットとしての活動に差し障る」
「もう十分差し障ってる気ぃすんだけどなぁ…」
 ぶつぶつと愚痴をこぼす男の脇で、セレインはスツールを乱暴に引き寄せ座り込んだ。
「んあ?どうした、座り込んで」
「貴様を殴って気分は晴れたが疲れた。少し休ませろ」
 壁に背を預け、俯き加減の彼女は短く大きなため息をつく。
 …ふと垣間見せる、無防備な姿。自分に対して嫌いだ、近づくななどと言っているわりに、少女は時々危機感のない態度を取る。『女である事に興味はない』とは本人の談らしいが、それをこんな形で見せつけられると、恋焦がれている男にとってはある意味目の保養であり、また不安要素でもあった。
「…なあ」
 特別な話題もなかったせいか、リッシュは思ったままを問いかける。
「お前さ、何だかんだ言いながら俺の前だとゆっくりしてない?」
「……」
「もちろん大歓迎なんだけどよ、他の男には見せたくない姿だなーと思って、さ」
 その言葉にセレインは眉根を寄せ、相手を横目で睨みつけた。
「くだらない。大体そんな事ばかり普段からぬかしているから今日のような目に遭うのだろう。自分の行いを少しは反省しろ」
「反省、ねぇ…」
 そもそもこうして個人の、しかも男の部屋で寛いでいる(彼女はそんなつもりは毛頭ないのだろうが)時点で、第三者が見たらどう思うかなどと、リッシュにしてみれば考えるまでもないのだが、それを今のセレインに言っても意味がなさそうである。とはいうものの、このまま何もせず、会話もなしにいるというのは単純に辛い。
「セレイン、迷惑ついでなんだけどよ」
「迷惑なら話すな」
「せっかく二人でいるんだし、コーヒー淹れてくれるとありがたいなぁ…っと」
 ガタリとスツールが揺れる音を立て、セレインは幽鬼のように立ち上がった。つかつかとベッド脇に歩み寄り、棒立ちで相手を冷たく見下ろす。
「貴様、本当に迷惑というものを知らん奴だな」
「迷惑っつーか、ただぼーっとしてんのもお互いキツいだろ?それに本来なら俺がお茶くらい出してやらにゃなんないのに、今回は申し訳ないが大事をとって、というわけだ」
 冷たいままの彼女の顔。しかし眉間に寄せた皺がふと緩んだ。
「おい。『ただぼーっとしてるのがお互い辛い』と言ったな」
「…あ?ああ。そうだけどよ」
 突然些細な、妙な事を言い出したセレインの考えを、彼は一瞬で読みきれない。
「そうか。では簡単な事だな」
 呟いて、ふと微笑を浮かべたセレインの体が、目前の男の体に影を落とした。ベッドの端に座ったかと思うと、相手の二の腕を掴み、そのまま軽く体重をかけてくる。それは前触れなく繰り広げられた、あり得ない光景だ。だが、自分にかかってくる彼女の重みに、リッシュが動じる事はない。
「…急にどうしたよ。こういう事はこっちが全回復してからの方がいいんだがな」
 自分の行動が理解できていない、というわけではないだろう。全くの無知であれば、それはそれで問題である。だが少しでも触れようものなら、リッシュはまるで重犯罪人のような扱いを受けていたはずだ。
 彼女は無表情のまま。なのにその顔は、どこか陰のある艶を湛えている。
「どうして、欲しいのだ?貴様は」
「どう、って」
「退屈するのが気まずいのなら、退屈させないぞ」
 ギシ、とベッドが軋む音と共に、セレインの体がさらに近くへ寄ってきた。顔も髪もというより、存在全てが既にリッシュの手の届く範囲にある。これではいくら足を負傷していても、力にものをいわせれば彼女は間違いなく動けなくなるだろう。
「なあセレインちゃん、気持ちはありがたいぜ。だがな、このまま続けたらどうなるか…わかるよな?」
「もちろん。貴様の事だ、変態的なプレイでもお望みなんだろう?」
 微かに、セレインは目を細め、口の端を上げた。その明らかな挑発に、はたしてのっていいものか、否か。だが、結論を出すのにそう時間はかからなかった。
<…ま、悪かねぇか>
 気持ちを言葉にはせず、リッシュは二の腕を彼女の肩と背に回す。相手に動揺は、無い。
「遅いぞ。やっとその気になったか」
「いやぁ、これでもお前の気持ちを考えてたんだぜ?もっともここまで誘われて引き下がるってのも、な」
「ほう、貴様にしては随分な気の遣いようだな。それとも、他の女でも同じ言葉…!」
 絡まれた二の腕が突然セレインの体を倒すように引き寄せる。衝撃に一瞬彼女は眉根を寄せるが、再び覗いた顔は先程と変わらぬ表情だ。
「俺にとって、お前がその辺の女と等価値なわけねぇだろが。挑発も度が過ぎると…イタい目みるぜ?」
 ニヤリと笑い、リッシュは少女の頬を指で軽く撫でる。それを合図にしたかのように、セレインは男の耳元へ顔を埋め、囁いた。
「ならば、イタい目とやらを見る前に」
 相手をねめつける『女』の視線が、一層華やかに笑う。

「…先の褒め言葉の、お礼だ」

 自分の傍らでセレインが発した言葉の意味。普段ならそれに気づいたのであろうが、あまりに突然の『順調な』展開に、どうやら彼は舞い上がっていたようである。片方の腕をすらりと伸ばし、彼女はたまたま自分の手の届く範囲にあったリッシュの足、もとい包帯の巻かれた足首に一瞬指を添え…まるで獣が餌に爪を立てるように、ギリギリと患部を掴み上げた。
「…だっ…いだだだっ!やめっ!放せ!マジでいてぇっ!!」
 電気ショックでも受けたかのように、彼の上半身が飛び起きた。そしてなおも掴んだ足を放そうとしない彼女の手から逃れようと強引に足を振り抜きざま、今度はベッドの縁に足首を打ちつける。
 …最早リッシュの口からまともな声が出る事はなかった。しばらく、まさに死にかけの態で、彼はベッドの上でうずくまる。
 偶然とはいえ手に入れた二人きりの時間に平手を食らい、捻挫した足首にこの仕打ちでは、いくらなんでも割に合わないだろう。ようやく平静を取り戻しかけてきたリッシュは、肩を震わせて苦悶に満ちた抗議を上げた。
「セレインっ…これはないだろっ…!」
「フン、どうせお調子者を相手にするなら、そのまま調子に乗らせたらどうなるかと思ったんだがな。あそこまで下心を剥き出しにされると文句を言う気力もなくなる。この愚か者」
 既に身を起こしたセレインはさっさと二人分のマグカップを用意し、熱湯の入ったケトルを手にして振り向くと、またしても笑顔を浮かべる。
「なんならその足に愛とやらを込めて温湿布でもしてやるか?」
 …どうして自分が劣勢に置かれている時に限って優しそうに笑うのか。男は余裕のない声で反論する。
「捻挫は温湿布じゃなくて冷湿布だろうが!大体惚れてる女にあんなん迫られたらマジになるのが当たり前じゃねぇか!卑怯だぞお前!」
「そうか。普段怪我とは無縁の奴が怪我をしたものだからな、少々動揺していたようだ」
「……」
 今の言葉が純粋な本心だったら。はあ、と情けない溜息をついたリッシュの前に、見慣れたマグカップが差し出された。

「飲んだらさっさと休め。こちらは貴様が思うほど暇ではない」


「あ」
 自分の方に向かってくる少女の姿を見つけて、アークは反射的に声を上げ、たまたま並んで歩いていたエルリッヒは特に変わる事無く、二人が歩みを止めるのに合わせるように立ち止まった。
 が、何となく目が合ってそれぞれ居合わせてみたものの、誰も上手い言葉が出てこない。
「…何だ。言いたい事でもあるのか」
 先に口を開いたのはセレイン。しかしその様子は明らかに不機嫌だ。
「えーと、なんと言うか」
 うかつな事を言おうものならまた延々愚痴られるか、最悪八つ当たりの対象だろう。アークは多少混乱しながら、それでもある意味一番聞きたかった事を口にする。
「…あのオッサンの事、ホントに殺しちゃったりはないよなーって」
「確かに、殺してはいないがな」
 ふと、心から残念そうにセレインは微かに俯いたが、次の瞬間には歩き出しざまに目を細め、薄く笑っていた。
「そうだな、万が一あいつが人間不信にでもなっていたら、お前が慰めてやるがいいさ」
 足取りも軽く、そのまま彼女は早々に姿を消してしまう。取り残された二人は僅かな間唖然とするが、言われた言葉を無言で反芻し、顔をしかめた。
「人間不信って…ちょ、気持ち悪いんだけど」
「こっちが人間不信になりそうだな」
 それが正直な感想ではある。が、同時にアークにはあの男がどんな仕打ちを受けたのが、好奇心と意地の悪い同情がわき起こったようであった。
「何かでも面白そう。とりあえずアンタ、探りよろしく」
「何故…私が」
「自分で調べるほどじゃないけど、アンタが探った結果は聞きたいから。まあなんだかんだで飽きないし。あの二人」
 そんじゃあね、と言いつつ、少年はさっさと歩き出してしまう。
 …探れと言われても、何を聞けばよいのか。というより、何となく結果が見えているのではと、エルリッヒはセレインが立ち去った先を見つめる。

 すり抜け様に彼女から一瞬漂った、覚えのある香り。確か、リッシュが好んでつけていた香水だったはずだ。

「アーク」
 先の曲がり角から、呼ばれた本人がひょっこりと顔を出した。
「探るまでもない。お互いに『仕留めがいがある』といったところだ」
「はぁ?何それ。ってかオッサンとセレインで解釈絶対違うと思うんだけど」
「それは我々には関係ないだろう?」
「…そりゃそうだ。あーあ、でもまた退屈になっちゃったな。なあアンタ、また俺以外の誰かに無茶難題ふっかけてみて下さいよ」
 バカを言うなと、エルリッヒは相手を軽くたしなめる。しかしその一方で。

<我々が間に入らなくなる頃には、どちらかが『仕留められて』いるのだろうな>

 想像して、だが『受難』はまだ続きそうだと、彼は同情を込めた笑みを浮かべた。




(感想)

紫月ぴあさまのサイトのキリ番10万HIT記念にいただきました。
こちらからのリクエストは「リッセレにエルアを絡めて」という如何ともし難いシチュエーションだったのですが、
流石はぴあさん、素敵なお話に仕上げて下さいました。
リッシュとセレインの2人が素敵なのは勿論、個人的にはちょっぴり意地悪で軽口なアークライトがツボでした♪

ぴあさん、どうもありがとうございました!

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