転院を決意するに至った経緯・その2


平成12年4月28日、担当医が変わるとのことで受診先の病院の整形外科を受診した。
H10,11,11に行われた1回目の滑膜切除、そしてH11,6,18に行われた靭帯再建術を担当してくれた
O医師の後輩だと聞いていた。

通常は靭帯再建後半年で抜釘を行うのだが、私の場合はH11,11月末に前の担当医が入院予約を
入れているにも関わらず、整形外科病棟の有料病室に空きが出ないままで、次の担当医に引き継がれることになっていた。
よほど混雑・繁盛しているのだろうとその時は思っていた。

薄い茶髪で今風の若者を意識したかのような2番目の担当医・Y澤医師は、初対面の診察時に色々と質問する中で
次のように言い放った。それは「いかにも」という感じであり、労災保険で治療を受けている患者はズルしている・・・と
いうのが前提で言っていると感じられてひどく傷ついた。今でもハッキリ、耳と鼓膜にこびりついていて離れない言葉だ。
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平成12年4月28日(金)Y澤医師初診。
初対面なので診察室に入って直ぐに自分の方から「初めまして」と言ったが応答はなく、
カルテを見ながら頭を上げずに「まだ働いてないんですか」と一言。その通りなので一応は「はい」と答えた。
しかし口調は“いかにも”という感じが伝わってきたので、この時点で「この患者(私のこと)は労災なのでズルしているなと
疑われているんだな」と感じた。その後も色々と質問してきたので答えていったが疑いの念は持っているようだった。

Y澤医師:労災なんですか?

私:はい。通勤途中に転倒したもので…。

Y澤医師:ふーん。色々と役所から問い合わせがきてるみたいなんですよねぇ。

私:はい。知ってます。O先生(最初の担当医)からも聞いてますし、私の所にも何回かTELがありました。
勤め先の方は「100%治してから出てこい」言ってくれてるし、車で通勤しているもので、装具が引っかかって
運転席に座れないんです。それは基準局にも勤め先にも言ってあるしO先生にも伝えてます。私の場合は筋力低下が
通常よりひどかったらしく元々1年くらいは…と言われてました。先月(H.12.3.24)の最後の診察の時にも
「仕事やスポーツはまだ」と言われてましたから。

Y澤医師:いや、仕事がまだとは言ってないはずですよ。(と言ってカルテを見ている)ほらね、ここに書いてあるでしょ。
(2/4付けで前主治医のDr.Oが書いている用紙を見せられる。確かに「軽労働なら可」と書いてあるが、
私はこの時初めて知った)月に1回しか来てないし、ちゃんと歩けてるでしょう。

月に1回の診察でよいというのは医師の指示なのだ。
私は「軽労働なら可」となっていたのを知らなかったのと、言葉の意味を知らなかったので「ズルなんかしてません」と
言い返したかったのをグッとこらえて、診察台の上で左膝を出して診察を受けた。Y澤医師は再び椅子に座って次のように言ってきた。

Y澤医師:いやね、2/4にこういう書類を出しているにも関わらず休んでいると後でもめることになりかねないから。
別に“働けよ”と言っている訳ではなく、結局用紙(休業補償)を出されたら、患者はその間収入がないわけだから
書かざるを得ないんですよね。

私は「この人に何を言っても今日の所は仕方がないから、とりあえず帰って“軽労働”という言葉の意味を考えよう」と思った。
収入のことまで言われた時にはさすがにムッとして「アンタに心配して貰わなくたって、
1年くらい働かなくても良い分くらいは貯めてるわい!」と思ったけど、まあ黙っていた。
疑われているというのは非常に不愉快なものである。Y澤医師は私の方を見ることなく、次のように言い続けた。

Y澤医師:最初だから色々聞かないとね。

私:いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。(…と言って診察室を出た)


H12,4,28のY澤医師の態度で非常に不愉快に感じた部分を以下に列記する。
  1,初対面の人間に対してあいさつをしなかったこと
  
  2,カルテからの情報をメインとし、患者の言うことはまるで信用していないかの如く、
   理由は不明だが最初から疑われているというのが手に取るように伝わってきたこと 
  
  3,自家用車で通勤しているので装具を使用している間は運転に支障がある事、
   勤務先が100%治してから出てこいと言っている事…の2点を伝えた時に「それはあくまでもそちらの都合。
   貴方と勤務先との話し合いは僕には関係ない」と言ったこと
  
  4,O医師(最初の担当医)からの申し送りで「抜釘後半年で症状固定にするよ」と言われていたので、
   そうなっているかどうかを確認するべく聞いてみた時「確かにそうなってはいるけど半年間休めるという訳ではありません」と
   いう信じられないような言葉を発したこと→これはまるで私が抜釘後半年間休むという前提ではないか!

労災保険で治療を受けている患者は皆ズルをしているという先入観があるのかどうかは定かでないが、
私が非常に不愉快だったことは事実である。帰宅して直ぐに基準局にTELをして尋ねてみることにした。
知らなかったとはいえ、いけない事をしていたとなれば大変な事になるからである。

私:労災でお休みを頂いていたのですが、長期になって申し訳ないのですが、実は今日(4/28)から担当医が変わって
新しいDrになったと同時に、前のDrがそちら(基準局)に“軽労働なら可”というふうに出しているのを知りました。
驚いたのですが本当なら大変だと思って問い合わせました。まずは軽労働というのはどの程度のことなのか、
について教えて頂きたいのですが…。職種は看護婦で傷病名は左前十字靱帯損傷です。

基準局の人はまず軽労働のことについて「全職種の全労働者が負担に感じない程度のもの」であると同時に
「傷めている部位を極力使わないようにすること」と言って教えてくれた。但し看護婦の仕事がこれに該当するかどうかというのは
「貴方の方が良く分かると思いますが、かなりの疑問がある」という答えであった。

私:自家用車で通勤しているので装具が必要な間は車の運転がしにくい事(ハンドルの調整レバーに当たりそうになる)、
勤務先は長期になっているにも関わらず100%治してから出てこいと言っている事等を、新しい担当医に伝えましたが
「それは貴方と職場の話し合い。それと働けないかは別問題」と言われてしまいました。
一刻も早く復帰したいと思って治療は言われたとおりにしているのに…。

基準局の人は「患者に何も言わないで打ちきることはしませんから安心して治療を受けて下さい」と答えた。
ついでにという訳ではないが、私はどんな事があろうともう1回手術室に行かなくてはならないので、
役所にもDrにも迷惑をかけたりしないように、又不審に思われないように“軽労働”というのをワンランク上の表現に変更して
書き換えてもらえばいいのだろうかと聞いてみたが、それは不要とのことだった。
以上がY澤医師の初診日(H12.4.28)にとった私の言動である。

平成12年のゴールデンウイークに入った5月2日、初対面から4日後には「疑いを晴らす為だけに」正規の手続きで
受診という形をとってY澤医師と面会する時間を持ったのだが、結果は散々なものであり、人前で涙を流してしまうという
醜態をさらした私がいた・・・。これには診察の介助に入っていたナースも唖然としていた。無言でティッシュペーパーを差し出してくれた。
涙が出た理由は分からないが「これだけ言っても分かって貰えないのか」という悔しさだったのだと今になって思えてくる。

この件については、この病院と同系列の全国の病院を取り仕切っている半官半民の機関に対して正式に文書で抗議(投書)した。
もちろん私自身は自分の心に1つの曇りもないので、何処までも出ていくつもりだったし住所・氏名も名乗り出た。
しかし投書から約10日後にY澤医師から自宅に電話があったことや、Y澤医師の先輩でもある前の担当医師Oからも
自宅に電話があった・・・という事から予測すると「Y澤医師には詫びる気持ちが少しでもあったのだろう」と友達とも話をして、
これ以上のことは言わないことにした。
余談ではあるが、自分の勤務先の看護部長にも事情を話した上で、投書したことは報告した。
看護部長もBED待ちの期間が長すぎるという事に関しては強い疑問を抱いているようだったのだ。

その時点で何回も感染を繰り返す・・・なんて考えていなかったし「抜釘で終わり」と誰もが思っていただろうから・・・。
Y澤医師に疑われた時点で転院することも考えたが、自分に非がないという自信があったし、
ここで転院すると相手(受診先の病院関係者)の思う壺だった。
しかし『どうやったら相手が嫌がるか』と考えたら意外と簡単に答えが出た。それはこの病院を受診し続けることだった!
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結局は『平成11年11月末から平成12年9月までの10ヶ月間BED待ち』をしていたという事実が残った。
もちろん、この間も定期的に診察は受けており、その都度空き状況は訪ねていたがいつ質問してみても
「見通しが立ちません」という通り一遍のものであった。これでは基準局にも勤務先にも報告できる材料がないのだ。
いくら、整形外科病棟に1つしかない2人部屋を希望しているからと言っても、10ヶ月は長すぎる。
途中で私の勤務先の看護部長が出てきてY澤医師に直接尋ねる場面があったが、答えは同じものであった。
まあ、うちの看護部長が出てきたという点に関しては『彼女(うちの看護部長)の職責を果たすため』であろうから、
受診先にとっても私にとっても大して影響はなかった。
私の勤務先の看護部長が出てきたのは、平成12年7月始めのことであった。
長い長いBED待ちの末にようやく2人部屋が空いたと言われたのは、平成12年8月も終わりに近付いた頃のことであった。
とにかく入院予約を入れておくことにした。

10ヶ月間もの期間BED待ちをしていたのだが、この間に病院側の対応等に強い不信感を抱いたけれど
上記のように『どうやったら相手が嫌がるか』と考えた結果で受診し続けることにしたのだ。
私が受診し続けることで病院内に1人でも「あの人また入院するのよね」とでも思うのが1人でもいたらしめたものだ。
でも、そんなのは私がY澤医師から受けた屈辱からしたら足下にも及ばない。

この続きが『ナースのおばちゃん的患者生活〜平成12年・抜釘編〜』ということになるのだ。


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