ナースのおばちゃん的患者生活〜平成12年・抜釘編〜

4月に担当医が交代してからというもの、全くろくな事がなかった。
初対面の人間に対して挨拶はしないし、事情を知らないのに(働いてない事をズルしているというふうに)疑われるし、挙げ句の果てには10ヶ月に渡ったBED待ち…、どれもこれも「いい加減に勘弁してくれよ!」という感じだった。

左前十字靱帯再建術を受けたのがH11.6.18であるので、1年以上経過しての抜釘ということになるが、当時の担当医(今回の担当医の先輩らしい)に聞いていたのだと「半年後に抜釘、抜釘から更に半年で症状固定」という予定だった。今頃はとっくに復帰してブイブイと言わせている頃だったのに、今から抜釘という情けない状況なのだ。

まあ、とにかく平成11年11月末から待ち続けていたBEDがようやく空いて、とりあえずは抜釘出来るという状況は整った。しかし油断は禁物である。大体にしていくら“病棟に1室しかない2人部屋”を希望しているからと言って常識では考えられないことであるが、常識では考えられないことがあった後だけに「何が起こるか分からない」のである。
途中で転院の話があったが、ズルしていると疑われている最中で疑いが晴れてない時期だったのと合わせて「ここで転院したら負けだ。空くまで待ち続けてやる」と最初から決めていた。しかし、あっさり答えを出すのもシャクにさわるので、考える時間というのを要求した。

泣き寝入りと相手の思う壺にはハマッてはいけない。そう言うことも考慮した上で言動をしなければならない。要するに、入院したからと言って抜釘出来ると決まったわけではないのだ。本当に抜釘したものをこの目で確認するまでは…というと、何か悲しい感じもするのだがそれだけ信用していないと言う事になるのだ。これは私のせいではないので、悪しからず。

今回も去年と同じく、このノートパソコンを持参したので“自分なりの経過記録を兼ねたもの”を日々書いてみようと思っている。
急がないと21世紀は、もうそこまでやってきているのであ〜る!

                

          @入院当日〜9/15 
          A9/16〜9/29
          B9/30〜10/9(退院日)
          Cエピローグ

            入院当日〜9/15

9/11(月)
3日前に「2人部屋は確保出来ている」というのを電話で確認をしておいたので、指定された時間の午前9時に受付を済ませて整形外科外来に向かった。
少し待たされたが、“いつも総合案内に居て、転んだら骨折しそうなおばあさんナース”に整形外科の病棟に案内された。荷物を持ちましょうかと言われたのだが、パソコンを壊されても困るし、海外旅行用のトランクを引っ張っていて転ばれても困るので、荷物は全て自分で運ぶことにした。2人部屋だった。
同室者は29才の2児のお母さんらしく、股関節のOPをして1ヶ月くらいは経つと言っていた。
木曜日(9/14)にようやくBED上のみでの生活から解放されると言い、明日の朝から“48時間カウントダウン”をしようということになった。私の場合は手術までということになるのだけど。尚、この人は中学時代にバレーボールをプレーしていた事があるといい、社会人でも何でも良いから「セッターをやってみたら面白いですよ」と勧めてくれた。話が合うかどうかはともかく、暇つぶしにはなりそうだ。
日勤で私のアナムネを取ったのが“恐らく20代後半でスリム&beautofulなナース”で、準夜の部屋担当は“卒後4.5年目のbeautifulというよりはprettyなナース”であった。そして、もう1人の準夜は“自分とほぼ同じ年代と思われる毒舌健在のナース”であった。
エアコンをかけているという割には風しか吹いてないようなので、寝苦しい夜になりそうな気配が部屋全体に漂ってきている。夜は長い。今からが本番である。


9/12(火)
エアコンが全く効かなくて、夜間の巡視はAM1:00も3:00もパッチリと目が開いていた。
深夜の“恐らく20代後半でスリム&beautifulなナース”が気の毒がって、COOLINGをしてくれたが「焼け石に水」という感じであった。ま、ないよりはマシだったけどね。お陰で朝の検温時は眠くて目がショボショボしていたし、朝食後の回診まで眠ってしまったようだ。AM8:40に回診がやってきた。「OPまで何もやることがないので外出等しても良い」と言う割には、午後から内科の診察がありますというので、この部屋でパソコンをいじっていようと思う。肝心の内科の診察はPM5:00近くになってからだった。

3日前に入院した最大の理由は「いくら簡単な抜釘だと言っても、人よりリスク(喘息)があるので、手術寸前に形だけでも診察を受けておきたいから」である。
前日夜と当日朝の内服とか、飲食が開始になるまでの間、ネオフィリン血中濃度を維持する為の指示を不慣れな整形外科医に聞くよりは、専門医に聞いておきたかったから…ということである。

順番は前後するが、朝の検温時から“48時間カウントダウン”が始まった。
私はOPまでの、同室者は車椅子が使えるようになる日までの…カウントダウンが始まった。
朝6時には48時間だったものが、夕方になれば36時間になったと同室者は喜んでいた。そりゃあ1ヶ月間もズ〜〜ッとBed上安静だと、普通のことでも嬉しく感じるよね。

昼食寸前に院長回診とやらで、ここの院長と共に総婦長も同行してきた。そして総婦長は私に向かって次のようにのたまうのだ。
「なんか…、随分お待たせしたようで。すみませんでした」と社交辞令的に言ってきた。
私は「はあ」という日本人が好む曖昧な表現をしただけだった。
この総婦長と会話をしたことがないのに、このように言ってくるということは「今回の担当医に疑われていた時、上の機関に名乗って投書した」ということから来ているのだろうと分かった。(投書に至るまでの一連の出来事は別に記載した)

夕飯の後に担当医が本日2回目の病室訪問にやってきたが、明日の外出許可をもらったこと以外はどうということはなかった。
同室者は車椅子が開始になるのを心待ちにしているようだ。

書き忘れるところだったが、午前11時過ぎにKママが花を持ってきてくれた。僕ちゃんを幼稚園に送りだしてから来てくれたとのこと。買い物はないかと気を遣ってくれたようだが、まだ動けるし大丈夫だと答えた。明日の一時帰宅でふりかけとティッシュ、そしてミネラルWATER500ccを数本買っておけばいいので、そうしようと思っている。自分で動けるのに人に頼むのはいただけない。
今夜も熱帯夜になると言う嫌なニュースを聞いてしまった。せめてエアコンがちゃんと役目を果たしてくれれば良いのだが…。


9/13(水)
前日にほとんど眠っていなかった為か、さすがに良く眠れたようで深夜の巡視は2回とも知らずに朝を迎えた。快適な目覚めだったと思う。
またしても昼前にKママがきてくれて「あまり沢山の買い物は出来ないだろうと思って」と言い、ミネラルWATER2Lを1本持ってきてくれた。明日の手術後に飲食出来るようになった時の為に、バルンも入ってくることだし(膀胱炎予防も兼ねて)水分だけは取れるようにしておきたいと考えていた。本日の外出時にミネラルWATERを買っておこうと思っていた所に、絶妙のタイミングで持ってきてくれたのだ。Kママは僕ちゃんを幼稚園に迎えに行くといい、御礼を言ったら直ぐに帰ったが、これで外出時の負担が軽くなるというものだ。
午後の検温では37.5℃と高めの値だったが、そのまま外出し「コンビニ」「本屋」「剃毛」「入浴」という順番で用事を済ませた。14:20〜16:00までという中で行ったので結構急いだにも関わらず、ギリギリの時間になってしまった。しかし遅刻はしなかった。
髪の毛も乾かさないまま病室に戻り、本日の担当である“4月から整形病棟に配属されたというベテランらしきナース”にチェックを受けた。ルンバールの部位は背中から腰にかけてなので、そこは自分では不可能なのでやってもらったが、あとは合格だった。

又、外出から帰ってしばらくしてからOP室のナースが『術前訪問』というのにやってきた為、
不安なことは術後の尿閉だけなので、麻酔がかかって感覚がなくなってからバルンを…と頼んでおいた。
今日の準夜は“卒後4.5年目と思われるbeautifulというよりはprettyなナース”である。
部屋を回ってきた時の体温が37.2℃と相変わらず37.0℃代をkeepしていたが、自覚症状は何もないので20:00には予定通りに“グリセリン浣腸60ml”を自分で行った。
私は普段から便秘ということを知らないので、1回目のOPの時もそうだったが浣腸なんて使った事がない為か、冷や汗をかく位に気分が悪くなったのである。しかし病室に戻って横になっていたら、いつの間にか治っていた。後から病室にやってきた準夜のナースに反応便の報告をしつつ、消灯以降の絶飲食を確認した。
エアコンが効いたり効かなかったりなので、睡眠がとれるか心配だが眠れなくても仕方がないと思っているので、本でも読んでいようと考えている。


9/14(木)抜釘+関節鏡+瘢痕形成(縦の傷)
予定時間を少し過ぎたPM2:30頃、プレメディを打たれて“仕事以外で3回目の手術室”へ向かうストレッチャーに乗った。間もなくOP室へ入り腰椎麻酔がかかって下半身麻痺状態となった。
意識はあるのでDrやナースの喋っている事は聞き取れる。最初に関節鏡で左膝関節内をチェックしたが“軟骨の変性”とやらがあるようで、将来的に膝関節疾患との戦いがあるという予測がたった。これは現実なので素直に受け止めなければならない。
次に下腿の方の抜釘にとりかかったらしいのだが、担当医の話だと思っていたより深く入っていたとのことで骨を削ったという話があった。
最後に瘢痕形成という、ケロイド状になっている傷を綺麗にしてもらう処置をしてもらった。
ついでに…というか、高校生の時に半月板損傷のOPをして時のも一緒にやりますかというので、そうしてもらうことにした。

PM5:00に病室に戻ったのだが、5時を知らせる鐘がなっていた。
これは平成10年11月11日に滑膜切除術を受けて病室に戻った時にも、同じく5時の鐘が鳴っていたのを今回のストレッチャーの上で思い出した。
麻酔が切れかかる頃から、創痛と左の腰痛が出てきた。かなり強い。
確かPM10:00を回ったと思われる時、本日の準夜である“今年も私担当の卒後2年目になったナース”をナースコールで呼んで、鎮痛剤を注射してもらうことにした。腰痛はかなり強く、予想外のことだった。何しろ体位変換も自分で出来ない位の痛さだったのである。効果があるかどうかは不明だが、とりあえず使わないと痛みは治まらないのだ。


9/15(金)
日付変更線を越えてしばらく経った時、深夜勤務は
“今年の新人のうち身長が高いのが印象的なナース”だった。AM1:00の巡視の時に手伝ってもらいつつ、体位変換をしたのだが痛くて悲鳴をあげてしまった。壁に向かっていた為にナースコールは取れないようになっていたので、しばらくは左側臥位でいたが必死になって背中に挟んでくれた布団をはずした。
そして、これまた必死になって仰臥位→右側臥位へとなっていった。
気付いたらAM3:00近くになっていた。
巡視にやってきたナースに鎮痛剤を打ったのは何時か確認してから追加を要求したが、先輩ナース(ここの病棟主任)に聞いたら「6時間は経ってないと使えない」と言われたと言い、私にそれを報告してきた。私は痛みの極致だったので「頭では分かってるんだけど痛いものは痛い。私が良いと言っているんだから持ってきて」と言った。数分後に注射を持ってきたので、打ってもらった。
創痛には効果があったようで朝には軽減していたが、腰痛には全く効いていなかった。
検温終了後に病棟主任が私の病室にやってきて腰部に触れて観察した後「肩こりと同じようなコリコリしたものがあるので注射では効かない。痛み止めを使わないで動いて治して下さい」と言うのだ。痛くて動けないのに、どうやって動けと言うのだろうか!?
昼間の担当は“自分とほぼ同じ年代と思われる毒舌ナース”なのだが、壁の方に向いている私の腰部を強めにマッサージしてくれた。何故だか分からないのだが涙が出てきた。この事を同室者に話したら「私(同室者)も理由がなく涙が出てきたことがあった」とのことだった。そういう事もあるのだろう。こんなのは初めてである。病棟主任からの申し送りなのか日中は鎮痛処置をしてくれなかった。
何時か忘れたがAちゃんが来てくれた時に、こっそり生理痛用に持参していたボルタレン坐薬50mgを使用したので、数分後にやってきた本日の日勤者の1人である“卒後4.5年目と思われるbeautifulというよりはprettyなナース”に自己申告しておいた。
この坐薬が効いたのか、以後は鎮痛剤を使用することなく朝(9/16)を迎えた。

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                9/16〜9/29

9/16(土)
腰痛、創痛ともに昨日とはうって変わって、うそのようだった。午前中の点滴を済ませた後、自力でトイレ歩行してバルンを抜去した。昨日は殆ど無かった同室者との会話とか食欲が出てきたし、ビデオを見ようと言う気が出てきた。
私から食欲と口数が減ったら病気だと“9月からこの整形病棟に勤務交代になったという同じ年代かもしれないナース”に言ったら笑っていた。また何時かは忘れたが“今年も私担当の卒後2年目になったナース”がやってきたので、「甦ったよ」と報告した。

今日はシドニーオリンピックで女子柔道のYAWARAちゃんこと田村亮子選手が金メダルを獲得した。笑顔が似合うスポーツ選手は、女子バレー・クロアチアのバーバラ・イエリッチ選手に次いで印象的である。4年後のアテネの時は「4年前はこうだった」と思い出す自分がいるんだろうと思う。

昨日の昼間にナースに黙って手持ちの鎮痛剤を使用したのは悪いと思ったが、痛みは代えられなくて仕方がなかった。「注射では効かないので動いて治すように」と言われている以上、他に方法がなかったのだ。ま、効いて良かった、って感じかな。
話は前後するが、本日の日当直でもある今回の担当医に「傷より腰が痛い」と言ったら「OP中の体位ではないか」という説明があった。確かに自分自身も痛んでいる最中に「抜釘だけでこんなに痛いのはおかしい、変だ」と思っていた。理由はともかくとして、腰痛が軽減して良かったと思っている。


9/17(日)
週末から3連休の為なのか、特にやる事もないので暇な時間を微熱と共に過ごしているという感じである。ガーゼ交換は明日からだと担当医に聞いているし、朝晩の抗生物質の点滴とナースの検温以外は本当に暇である。今は24時間COOLING可能な“ICINGシステム”という代物を施行しているので、寝返りに少しの不便が生じているだけである。
神奈川県内の税務署の職員であるという同室者に、8月に行われたサザンのコンサートのビデオを録画してもらったので、昨日くらいから分割して見ていたのが終了した。
創痛と腰痛はまだあるのだが、手術直後と翌日に体位変換も自力では困難だった時と比較すると雲泥の差である。最高に痛い時を10とすると、今日は3か4である事を本日の担当である“卒後2年目になり今年も私担当のナース”に報告した。
PM7:00を過ぎてからMちゃんが面会に来てくれたので、少しびっくりした。
早く退院して“ドンキホーテ”に行こうという話や、Mちゃんの店で私の快気祝いとMY運転手の就職祝いをしようという話が出た。
Mちゃんは「早く治してや」という独特の大阪弁で言っていた。
私の中の予定では30日に退院することなっていると伝え、正式に決まったらメールを送る事にした。
腰痛は気休めの湿布と自宅から持ってきた“家庭用の低周波治療器”で少しは快方に向かっているようである。いつまでもあんなに痛いのは嫌なものである。


9/18(月)
本日の回診時にOP後初めて創部を消毒した。
回診に来たのは、先週の初対面時に私の方から「初めまして。よろし…」と言っている途中に言葉を遮られ、(Drの右手だけで)私の左膝に少し触れただけで「あ、落ち着いてるんだね。じゃあ明日(14日)抜きましょう」と言った医師だった。
ま、この人は退院したら2度と合わないし、今回の治療を頼んだわけではないので適当にあしらっておくことにしようと思う。
初対面の人間に対して挨拶も出来ないなんて、論外のことである。

週末にAちゃんが来てくれた時に、NTTから留守電が入っていたという連絡を受けていたので、こちらから連絡をすることにした。インターネット等の通信費を節約する為に“フレッツISDN”というのを契約する前段階である“工事の予約”をする事が目的であった。
しかし工事自体が混雑しているのか、あるいは回線が混んでいるのかは知らないが、何回かけ直してもつながらない為、インターネットから申し込むことにした。
しかし、ネット上では確認出来ないこともあるので、電話はかけ続けなければならない。殿様商売だから仕方がないのかもしれないが、つながらないのは電話ではないのだ。馬鹿者!

月・木定例と言っては悪いのだが、Kママが昼前に来てくれた。
ミネラルWATERを1本持ってきてくれた。しばらく喋って帰っていった。次に来る時は「別の花を持ってくる」と言っていた。僕ちゃんを幼稚園に送りだして、昼寝をせずにそのまま来てくれたみたいだった。友達とは有り難いものであるとつくづく感じている。
木曜日の手術後のことを一応、報告しておいた。


9/19(火)
今朝の検温は“恐らく20代後半でスリム&beautifulなナース”であった。
朝っぱらから体温が37.6℃となっていたが、検温時に採血も施行したので結果が楽しみである。AM8:30を過ぎた頃、回診があり創部を消毒した。熱の上昇については傷が綺麗だし、感染という感じでもなさそうだとのコメントがあった。
午後になり朝の採血の結果が出たそうで“今年も私担当の卒後2年目のナース”にDATAを教えてもらったら『WBC→6200』『CRP→4.2(++)』となっていた。OP前から続いているのが気にならなくはないが、今はOP後の炎症反応ということで片付けようと思っている。
自覚症状が何ともないので、検温にやってくるナース達に聞かれる度に「何か症状を言っておいた方が良いのだろうかと思ってしまう」と言うと、“今年も私担当の卒後2年目になったナース”に伝えたら笑っていた。
午後の検温では37.4℃だったが本日の担当でもある“今年の新人のウチ身長が高いのが印象的なナース”に「頭を洗いたいのだけど」と希望すると、良いと思いますとのことだったので検温後に施行した。6日ぶりなのでとても気持ちが良くて、微熱が続いていることなど気にもならなかった。
部屋に帰って頭を拭いていたら炭酸が飲みたくなったので、先週末にAちゃんが買ってきてくれていたコーラを冷やすことにした。

夕飯を食べ終わってしばらくすると今回の担当医が病室を訪ねてきた。
左膝を曲げても良いと言われてやってみたのだが、ありゃりゃ…という感じで90度くらいしか曲がらない。手術後からずっとICINGシステムを継続していたが、ここ数日間は膝の下に枕等を重ねておいて、その上に左足を乗せて自然に膝が曲がるようにはしていた。

本日の準夜のナースにもやって見せたのだけど、担当医がやってきた時とほとんど変わらない。左足関節(いわゆる足首)が内側も外側も腫れているのを2人で確認したような形になったが、恐らく膝も腫れている為に曲がりにくいのではないかと考えられる。
今朝の採血でCRPが4.2という結果が出ていたので炎症反応があることは間違いないのだが、たった4〜5日間でここまで曲がらなくなるものかと一瞬だが不安がよぎった。
担当医は「どんどん曲げてもOK」とのコメントを発表していたが、“左膝が腫れている為に曲がりにくい事”と“炎症反応が出ている事”を考えると、腫れが軽減して曲げやすくなってからでも遅くはないと思われる。
しかし、そうしていると入院期間が延長されるような気がしないでもないが、抜釘と瘢痕形成だけでそれは考えにくい。
…となると、曲げている時の痛みさえ我慢出来れば「どんどん曲げる」という方法しか
なくなる。ま、とりあえず“可能な範囲でやってみる”ってことにしようと思う。
順番は前後するが、準夜での検温は37.0℃と出た。


9/20(水)
今朝の検温は昨日と同じく“恐らく20代後半でスリム&beautifulなナース”である。
最近、流行の「オッハー!」というポーズで朝の挨拶をしたら、
向こうも同じように「オッハー!」とやっていたのには、笑ってしまった。半ば儀礼的に前日からの排泄回数を報告した後、体温は37.2℃と出た。
この時、ナースと少し話をして昨日の所にも書いたようなことを伝えた。
実際に曲げてみせたがナースは苦笑するだけだった。相談の結果、去年と同じく重力の力を借りて曲げられるように練習をしてみることになり、砂嚢2kgを2つ借りてきた。左足首にそれらを巻き付けて仰向けになる、そして左膝を軽く曲げたまま上に持ち上げてくる…、そうすると左膝は重力の力で自然と曲がってくるはずだったのだが、考えたようにはならなかった。朝食までの間に何回かトライしてみたのだが、短時間では進展があるはずがなかった。

朝食後は、回診→シーツ交換→清拭タオル配布という順番だったのだが、本日の担当である“自称・昭和41年生まれで体格も元気も良いナース”に昨日からのことを相談してみた。
元々、大事なことは“今年も私担当の卒後2年目になったナース”か“自分とほぼ同じ年代と思われる毒舌ナース”か、この“自称・昭和41年生まれで体格も元気も良いナース”に聞くことにしていたのだが、前の2人は本日は出勤してないというし、絶妙のタイミングで本日の部屋担当ナースに聞いてみることにした。
…で、ナースの前でも自力で曲げてみたのだが結果は予想通りだった。
「一時的に曲がりにくくなる人はいるけど、余りにも曲がらなさすぎるよね」と言っていた。
そこで去年と同じく、CPMという機械を使って強制曲げに近いことをやってみてはという事になったので、昼御飯直後からやってみることにした。(もちろんDrの許可は取ってくれた)

OP後2病日(9/16)に自力歩行した時から90度以上は曲がっていたので、開始を100度にして徐々にUPすることにした。
角度UPは割とスムーズにいったのだが、今回の目的は角度をUPするだけでなく「OP前は正座出来ていたので一刻も早く元通りに戻す」ということなので、曲がるのは当然であり大切なのは「UPした角度をkeepすること」という考えである。
一瞬なら125度まで曲げられたがkeepは痛くて出来なかった為、120度でkeepの練習をしてみることにした。1分近く120度をkeepしているとふくらはぎの部分がシビレ始めるのだが、それでも何とか「2分〜2分半は120度keepが出来た」という事を先程のナースに報告したら、今回は去年と違って角度制限はないしスムーズにいくと思います…というコメントを発表していた。尚、左膝関節から下は腫れていて、足関節(足首)は素人が見ても腫れているのが分かるという感じで踝(くるぶし)が分かりにくくなっている。
今日から1週間ほど担当医が夏休みだというので、1週間程度はこの方法で試してみようと思う。



9/21(木)
朝の回診時に、OP後からズッと継続していたICINGシステムを除去した。
本日の担当は“9月から整形病棟に勤務交代になったという、同じ年代かもしれないナース”なのだが、昨日開始になったCPMの意味を理解してないようだ。去年とは目的が違うということを。勤務交代して日が浅く、まだ慣れない中で仕方がないのかもしれないが勘弁してもらいたい。

本日のCPMは午後から施行してみたのだが、130度のkeepは困難で1分程度だったが、昨日は出来なかった125度では2分間keepが出来たのだ。自力ではどうしても目算で100度くらいしか曲げられないので、CPMの力を借りれば少しは違うかもしれないという目的でDrの許可をとってもらったのである。
しかし、目標はあくまでも『自力で苦痛なく正座が可能だったOP前の状態に戻すこと』であるので、この程度で喜んではいけない。
準夜の“自称・昭和41年生まれで体格も元気も良いナース”にも言ったのだけど、私の頭の中には「抜釘と関節鏡だけでこんなに曲がりにくくなるハズがない」という先入観みたいなものがあるし、抜釘は下腿なので(膝関節内とは)場所が違うことや、関節鏡では治療をしないで(膝関節内を)観察しただけなので曲がりにくくなった理由が分からない…という訳なのである。準夜のナースは「昨日よりは曲がっていると思うし、正座出来ていたものは元通りになるハズ」との見解を示していた。

私の中では「たった1〜2日間伸ばしっぱなしにしておいただけで、こんなに曲がりにくくなるのは変だ」という考えなのだが、その理由は上記の通りである。ここは1つ納得がいく説明を求めなければならないだろう。もっと簡単に手術前と同じように曲がるようになると考えていたのだが、それが間違っていたのだろうか?担当医の夏休み明けを待とう。


9/22(金)
今朝の回診は午前9時前にやってきたのだが、例の“挨拶をしないDr”が次のようにのたまうのだ。「血液が溜まっているし、曲がらないようなら抜く」と軽く言うのだ。
この人は恐らく私のカルテなんてろくに見てもいないだろうし、以前にどんな整形外科的な経過をたどっているのか…なんて知らないで言ったのだと思うが、何回も何回も繰り返し抜かれて挙げ句の果てには滑膜切除という手術まで受ける羽目になった経緯のある私としては「たまったもんじゃない」という思いがあるのだ。去年の入院時にも同じように(左膝関節内に)血液が溜まったことがあったのだが、抜かないで引けるのを待つという方法で成功している実績もあるので極力針を刺したくないのだ。
私は「オマエ、アホちゃうか!?」と思ったのだけど、この人に治療を頼んだ記憶はないし今は担当医が夏休み中ということもあり「考えます」とのみ答えた。回診に同行していたナースは4人で、そのうち3人は去年の入院時に居なかった人達なので、
私が「考えます」と言った理由はおろか、言ったことすら知らなかったと思う。

挨拶の仕方も知らないような人間に治療を頼んだ記憶がないだけでなく、今後も頼む気はないのだが、本当に必要な処置であれば今回の担当医に説明を聞いて自分でも納得してからにしてもらいたい…という事を今日のリーダーナースである“恐らく20代後半でスリム&beautifulなナース”をわざわざこの部屋に呼んで伝えた。そして、新しいナースの数だけ同じ事を言うのも面倒だし、情報の共有という観点からも今の発言(要するに穿刺を嫌がっている理由)が皆に伝わるようにしといてもらいたいと頼んだ。

この“恐らく20代後半でスリム&beautifulなナース”は、私から呼ばれているというのを他のナースから聞いた時「何かあったのかと思った」と言っていたし、また私が挨拶を知らないDrから前述のように軽く言われた時の私の反応(考えます、という発言)の意味は分かっていたと言っていた。これは今回の担当医が外来時に人間として失礼なことを言った時に名乗って投書したことや、去年の入院時から言い続けている“自分の身体のことは自分で納得してから決める”ということや、私が何事も納得しないと受け入れない…という姿勢を貫いている効果が出てきているのだろうと感じた。ここまでしないと、自分の身体のことなのに自分の意志が反映されにくいと言うのは、今までこの業界の中で職員として働いてきた中で気付いていなかった。いけないなぁ。

準夜の“卒後4.5年目と思われるパソコンに興味を持っているナース”に「貴方の膝が私と同じように2年間に3回のOPを受けるというふうになったらどうする?」と聞いたが、答えられなかった。そりゃあ、そうだろう。私だって、こうならなければ分からなかった。
患者の立場に立つとか、患者中心とかいうスローガンらしきものを掲げているが、本当に患者の立場になれる医療者なんて皆無に等しいのだ。
傷のなめ合いをする気はさらさら無いのだけど、“実際に体験したものでないと分からないのだ”ということを今更ながらに体験学習したのである。そして“体験したものでも分からないことはある”ってこともね。随分と高くて痛い“授業料”だった。
今は「いつか必ず笑い話にしてやる」と意気込んでいる自分が、悲しくもありおかしくもある。


9/23(土)
今日は朝から蒸し暑かった。気温は昨日より低いのだが湿度が高くて不快指数が上昇していた。こんな病室に入る為に10ヶ月間もBed待ちをしてお金を払うというのも、何だか馬鹿げているような感じがしてならない。

AM4:00過ぎに生理痛で覚醒したので、入院時から“生理痛用に”と持参していたボルタレン坐薬50mgを使用した。朝のナースには報告し忘れたが、午後の検温では自己申告しておいた。この所、ずっと37.0℃代の微熱が出ていたのだが、この坐薬の効果が出ているのか
36.0℃代になっていた。
水曜日から始まっているCPMは午後から施行して、130度は曲がるのだがそれをkeepするとなると、やはり1〜2分で左下腿がしびれてくるのでその辺が限界のようである。またCPM終了直後だと正座の格好をしてみても、かなり正座に近い状態にはなっているのだが…。
これは“今年も私担当の卒後2年目になったナース”にも見せたし、彼女には創部の消毒をしてもらいつつ、左膝が腫脹していることを彼女の目で確認してもらった。「元通りにしてから帰してもらわないと困る」と言ったら苦笑していた。「左膝が腫脹している原因が分からないという事が1番嫌だ」とも伝えておいた。

夕飯の少し前にAちゃんがきてくれたので、この1週間のことを報告して「火曜日に若医者(今回の担当医)が夏休み明けで出てこないと何とも言えないが、退院が延期になるかもしれない」と伝えたら、どちらにしても自宅か携帯の留守電にメッセージを入れることになった。
午前中は良かったのだが、蒸し暑さがぶり返して不愉快な1日だった。


9/24(日)
ジャイアンツがリーグ優勝した。
とても劇的でドラマチックで、そしてメモリアルな勝ち方だった。9回裏1アウト満塁の時点まで4−0で負けていたのだが、同点の1発に続いてサヨナラ勝ちとは本当に印象に残るGAMEであった。これを本来は職場でなければいけない“病院のBed”で見るというのも変な話だが、本番は日本シリーズなのでそれは自宅で見られるだろうと思っている。うーん、それにしてもドラマチックだった!


左膝に関しては昨日までと大して変わりがない。
午後から施行したCPMでは130度での3分間keepが出来たのだが、このCPMの力を借りなければ曲がらないのである。CPM直後には、本日担当の“卒後4.5年目でパソコンに興味があると思われるナース”にも見せたけれど、かなり正座に近い状態になる。正座に近いとは「正座の格好をした時の、左踵部と臀部の肉の距離」が握り拳大になったということである。
しか〜し! これはOP前の状態にはほど遠いので、この程度で喜んではいられない。
ジャイアンツが優勝したというだけでなく、10/1にはDr.Nと久し振りに会って食事に出かける予定があるので、膝に血液なんて溜めている場合ではないんである。勘弁してくれ〜〜!


9/25(月)
今日は朝から気持ちの良い風が吹いていて、窓全開にしていた。
AM9時前には隣の透析室にやってくる人達が廊下の椅子に腰掛けてうるさいので、それらが帰ることを確認するまではベランダ側のみを開けていたが、昼過ぎからは入り口も全開にしていた。その位、気持ちが良かったのである。
AM10時過ぎにKママが来てくれた時もウトウトしていて、最初は気付いていなかった位なのだ。いつものように…というべきか、以前に持ってきてくれていたお花の水を取り替えてくれていた。

そのKママとダブッて思いがけない人が訪ねてきてくれた。
今からちょうど2年前の平成10年10月、近所のS整形外科という開業医にかかって治療していた。左膝に水が溜まり始めてから半年が経過していたが良くなる気配すら感じず、背に腹は代えられない状態でここを受診・入院となった時に産婦人科メインの病棟の1室で一緒に入院していた人である。彼女は当時妊娠中であり、中毒症か何かで入院してきたらしいという記憶が甦ってきた。しかも、この妊娠は“曰わく付き”だったという事を後々知ることになるのである。不倫の子供を妊娠・出産するのだが、その相手というのが以前勤務していた病院の形成外科医だったというので、本人の口からそれを聞いた時に大変驚いたのだ。中年男が若い女に入れあげるという、良くあるパターンであるが、両方を知っているというのも滅多にないと思った。まだまだ人生経験が足りないと言うことなのだろうか?
…で、その彼女がここの産婦人科を1年ぶりに受診するついでに「もしかしたら▽☆(私のこと)は入院しているか」と聞いて訪ねてきてくれたという訳なのである。確か、春くらいに会う予定を立てていたのだけど、結局私は行けなかったので気になっていたとのことだった。
不倫の話は良く聞くのだが、その両方とも自分の知っている人物だというのも珍しいし、恐ろしいと思っていたので、なるべく関わらないようにしたいと思っていたのだ。今日の話では来年の3月に実家に子連れで帰るとのことだった。
生まれてから現在まで1年5ヶ月が経過しているが、ずっと乳児院に預けっぱなしだった。2才までしか預けられないので、このままでは生活していけない為だとのことだった。

膝の方は大して変化がない。当然と言えば当然なのだけど。朝の回診で例の“挨拶の仕方を知らないDr”がやってきた。
この人の「曲がらないのなら(溜まっている血液を)抜く」という不用意な一言で、とても不安にさいなまれたのだが、それについてナース達に色々と言っていたのできっと(私がこう言っているという)情報を頭に入れてきたのだろう。
創部の消毒をしながら「曲がるようになった?曲げていれば(溜まっている血液は)引けてくるから」とのたまうのだ! 数日間でこんなに言うことが変化するとは、ある程度予想しなければならないのだがシカトするという態度は、間違えていないようだ。治療を頼まなくて良かったと思う。今日のこの発言に対しては「ええ、まあ」というふうに反応しておいた。
この程度で充分だろう。


9/26(火)
外来の診察が始まるAM8:45頃に回診で今回の担当医がやって来たのだが、創部を見て「あ、良いですね。明日、抜糸出来ると思います」としか言わなかった。ナース達にはあれほど「水か血液が溜まる理由を説明するように」というふうに言ってあったのに…である。
その代わりというべきか、病棟婦長氏が「居るあいだにリハビリをやりますか?今、CPMとか何もやってないんでしたっけ?」と言ってきた。いかにも早く退院させたいオーラが輝いていたのだが、そう簡単にはいかないのだ。婦長氏の発言の意図が分からなかったので答えなかったら、別のナースが「CPMをやってます」と言っていた。
―――→これに関しては約3時間後にやってくる院長回診時に、院長さんから「どうですか?」と聞かれたので「この機械(CPM)の力を借りないと曲がらなくなったので、元通りにしてもらってから帰ろうと思います」というふうに答えておいた。院長回診には総婦長と病棟婦長が同行してきたので私のこの発言を聞いてないとは言わせない。

今回の担当医の“何も言わない姿勢”と婦長氏の言動から察すると、私の出方を伺っていたと考えるのが妥当な線だろうか?
実際問題として、CPMの力を借りなければ(OP寸前まで何の苦痛もなく出来ていた)正座や膝曲げを始めとする130度keepが出来なくなっているので、これは何としても元通りにしてもらわないと話にならないし納得出来ないのである。
2つ目として、CRPが先週19日のDATAで4.2だった事があげられる。正常値は“0”か“マイナス”なのだが、私のは4.2で(++)だつたので正常値に戻ったことをこの目で確認しなければならない。19日以降は採血をしていないのでどう変化しているかは分からないが、正常値でないことは確かである。
3つ目として、先週金曜日に“挨拶の仕方を知らないし、治療を頼んだ記憶のないDr”がやってきて「(左膝が)曲がらないようだったら(針を刺して溜まっている血液を)抜く」という不用意な発言によって、かなりの不安が生じたのだが、この時にも現時点でも“水か血液が溜まる理由を誰からも何の説明もなされていない”というのは一体どういう事なのか!!

まあ、朝の回診は外来の診察に降りる前のわずかな時間を使って回るので、そそくさと引き上げるのは致し方ない…というのは分からないでもない。しかし、ナース達は(先生の休み中に私にこういう事があったというのを)ちゃんと報告しているのだろうか…?
一言も何も言わないというのは、黙っていたら外来通院中と同様にうやむやにされそうな予感がしないでもない。今日はたぶん夕飯の後くらいに回ってくるだろうとのことなので、その時に聞いてみないといけない。出来ることはやってからでないと文句も言えないと思っている。

ところが…である。
午後の検温にやってきたナースに「先生、何も言わなかったけどまさか(金曜日からの一連の出来事を)知らないで来ている訳じゃないよね!?」と聞いてみたら、知らないと思います…と言うのだ!知らないのならコメントも出来ないだろうが、そういうのを確認しないのだろうか?
金曜日のリーダーをやっていたナース、金曜日の準夜だったナース、今年も私の担当になったナース、今年から整形病棟に勤務交代になったというナース…と、少なくとも4人に対して「Drからの説明等を要求して、同じ事を何回も言わなくて良いようにナース全員で情報を共有するように」と言っているにも関わらず伝わっていなかったことになる。
一体、どういう事なのか???
全く、子供の伝言ゲームよりもレベルが低いではないか!

午後の検温に来たナースは金曜日にリーダーをやっていた人なので、私が「何?じゃあ伝わってなかったという事? Drが回診に回る前にそういうのを報告する時間とかはないの?」と聞いたのだけど答えは予想外のものだった。
「▽☆さん(私のこと)も私だけでなく他の人にも言っていたではないか。私達は担当ナースに任せていたので担当がやると思っていた。今日、確認しなかったのは私も悪いけど」と言うのだ! 私はコップに残っているお茶を一気飲みしてから、グリコポーズをしつつ「もう、いいわ」というしかなかったのである。

DrはPM5:00前にこの病室にやってきた。
先に同室者と話をしていたのだが、私の所にやってくるなり「▽☆さん、すみませんでした」と言いながら説明を始めた。
@水か血液が溜まる理由→関節鏡で観察する時に生理食塩水を入れてから観ているので、終わってから充分絞り出してはいるがそれらが残ったのだろう。血液も同じような感じで小さいけど傷はあるから…とのことだった。ちなみに現時点での溜まりはほとんどなし、とのことである。

Aこんなに曲がりにくくなった理由→傷が縦にある為テンションがかかる(これは私も分かっていた)だけでなく、それ用の筋肉を少し切ってあるからだと言っていた。OP後1週間まではなるべく動かさないようにしていたが、ちょうど1週間でCPMを始めたのだと思う。又、今後に関しては自分でやるしかないのだが、心配ならリハを追加で指示しておく。少しやってから帰っても良いし、通院でも構わない。

これらの説明を受けて@、A共に理由は分かった。
今後についても「魚の小骨がノドに引っかかったような感じだったのだけど理由は分かった。私の頭の中では9/30位に退院しようと思っていたのだが、OP前まで正座が難なく出来ていたのだから、今度はマジで復帰しなくてはいけないのだから少なくとも元通りにしてもらわないと困る。追加でリハをお願いしようかな。(空きBedを)10ヶ月も待ったのだから1週間や10日は(多目に入院していても)別に良いでしょう?」と言っておいた。また「復帰については看護部長と話し合う事になっているが退院直後にと言う訳にもいかないし、(外来の時から許可が出ていた水泳を)復帰前の数週間を使ってトレーニングしてから行こうと思っていたので、退院する前に同意書にサインをお願いします」というのも伝えておいた。
2つともDrは了解していた。

ここで見逃してはならないのが『連絡体制』である。
ナース同士のものだけでなく、患者からDrへの伝言めいた大切な事が今回は全く伝わっていなかったのである。私が知りたかった内容に関しては担当医の説明で理解できたので、それでヨシとしよう。
1.患者からナース
2.ナース同士(情報の共有)
3.ナースからDr
――→今回は明らかに3が抜けていた。

準夜で“ほぼ同じ年代と思われる毒舌ナース”がやってきた。今日は毒舌でなかった。両方の膝に両手で触れて「うん、腫れは去年より大した事ないね。大丈夫だ」とのみ言った。本当にそうなのかどうかは関係なく、これだけで充分なんである。午後からの不愉快な気分がかなり和らいだ感じがする。

                

9/27(水)
本日の深夜明けは“この病棟で1番年輩と思われるナース”だったが、
意外にも最近流行の(?)SMAPの香取慎吾くんがやっている「おっは〜!」というオチャラケた挨拶を知っていた。
ついでに採血も施行した。WBCとCRPがどうなっているか楽しみである。

朝の回診で例の“挨拶の仕方を知らないDr”がやってきて全抜糸をしようとしていたが、担当医が半分ずつと言っていたので…と言うと「一緒に抜いちゃってもいいんじゃない?じゃあ残りはいつ抜くの?」と言いやがった!私は「さあ」とのみ反応し、とにかくその場は半抜糸にしといて貰った。全く、こいつはダメだ。挨拶が出来ないだけでなく、口のきき方を知らないようだ。こういう人間はシカトするに限る。

夕方になり今回の担当医がやってきて「僕は10/2まで休みなので」という言葉と共に残りの半分を抜いて言ったので、これで全抜糸になる。
本日の担当は昨日と同じく“恐らく20代後半と思われるスリム&beautifulなナース”である。
午前中は、昨日のことを気にしていたのか口数も少な目だったが、夕方…というか今日から始まったリハの様子を聞きにやってきた時は普通に喋っていた。

そのリハの前に1つ面白いことがあった。
この病室の前に横長のソファーが幾つか置いてあるのだが、それに腰掛けて自動車雑誌を読んでいた時のことである。エレベーターから上がってきた「内科患者のリハビリチーム御一行様」が、エレベーターを満タンにする位の人数で一斉に降りてきた。その中で車椅子に乗っている患者さんをヨボヨボのおじいさんが押してあげていたのだが、私の前を通り過ぎる時に左足の親指を踏んづけてしまったのだ。瞬間的にとても痛かった。じいさんは気付いてなかったのか素通りしていってしまった。
これに気付いた看護助手の1人が声をかけてきたのだけど、そこから先が何とも言えない感じだった。この(内科の)看護助手は整形病棟の婦長氏に自己申告したらしく、数分後に様子を見にやってきたと思っていたら、間もなく内科病棟の婦長氏を連れてきた。2人して謝っていった。そのまた数分後には直ちに担当医がやってきて、直ぐにレントゲンを撮影したが何ともないようだ。
―――→そんなに大した事でもないと思うのだが、踏んだ相手が私だったのが災いだったのかもしれない…という印象である。やはり外来通院時に蒔いておいた“地雷”の効果が少しは効いているのだろうか?こっちは、それ(大した事がないのに気を遣っていること)以上に嫌な思いをしているので何とも思わない。

レントゲンから帰ったと同時にナースステーション内で前述のように説明を受けた。直ぐにリハビリに降りた。今日から追加リハが始まるというのは、昨日から分かっていたので朝のうちに去年から担当してくれているお姉さんの所に「OPをしたら曲がらなくなっていた。原因は分かったけど、少なくともOP前の状態に戻してもらわないと困る、ってDrに言ったら追加してくれたのでまたよろしく」と一言お願いをしておいたので、開始はスムーズだった。
やり方は去年と似ていて、腹臥位(うつ伏せ)になって、左足首に巻き付けた5kgの砂嚢に負けないように、ゆっくりと膝を曲げてくるというものだった。
CPMだと130度で2.3分間keepは出来るのだけど、実際との角度差があり「CPMマイナス10〜15度」が実際に曲げられる角度のようだ。
5kgの砂嚢に負けないようにやったはいたのだが、お姉さんに押されると痛かったので、今日の所はこの練習を5分間やることにした。
明日からはお姉さんの手で曲げて貰うようにしたのだが、相談の結果、事前(リハビリ前)に“今日の5分間練習と同じ事”をやってからリハ室に行くことを決定した。要するにウオーミングアップをしてから、お姉さんの強制曲げに入る…という意味なんである。
今回のリハのゴール(目標)は『OP前と同じ状態に戻ること』である。
良くする…というか、普通に戻る為に抜釘&瘢痕形成&関節鏡をやってもらった訳であって、OP寸前まで出来ていたことを出来なくする為に(わずかでも)痛い思いをしたのではない。

今朝の採決の結果はWBC 5600で、CRP 0.29と普通に戻っていた。
準夜は昨日と同じく“ほぼ同じ年代と思われる毒舌ナース”である。もう1人は“今年も私担当の卒後2年目になったナース”だった。
私担当のナースには、昨日のことも今日のことも黙っていた。別に彼女が悪いという訳ではないだろうし、きっと・恐らく・たぶん先輩達から何かしら言われているに違いないと思われるからである。今更、患者の私が言っても何もならないしね。
そんなこんなで今夜はもう寝ることにしたいのだが、ここ数日間は夜になると病室内が暑くてムシムシしてくる為か、AM1:00の巡視時はたいてい本を読んだしている事が多い。

昼間は別にやる事もないし昼寝をしていれば良いのだが、明日からはそうも言ってられなくなる。リハのお姉さんと相談の結果、リハ室に降りたときに少しでも曲がりやすくするという目的で“事前の自主トレ”をやることになったのである。そうすれば、下では“お姉さんによる強制曲げ”から始められるという計算なのだが…。
何回も、何回も、何回も書いているが、とにかく『OP前と同じ状態に戻すこと』が最低限かつ最大の目標であることに変わりはない。


9/28(木)
今朝は割と快適な目覚めだった。
夜間の3回の巡視のうち23:00と1:00は大体起きているが、3:00は知らないと言うのがパターンだったけど、1:00は知らなくて3:00は起きていたにも関わらず快適に感じた。今日の深夜明けは“恐らく20代後半と思われるスリム&beautifulなナース”だったが、ナースにも「珍しく1時に寝てましたね」と言われた。

午前中は特にやる事もないので回診で入浴許可が出た以外は、砂嚢4kgで自主トレをやっていたら午前11時過ぎにCPMを持ってきてくれたので施行した。最初から130度のMAXで施行したが、特に痛みはなく3分程度ならkeepが可能だった。
CPM終了と共に昼食が配膳され、昼食後に約30分間の自主トレを施行してからリハ室に降りた。直ぐに、去年から引き続き担当しているお姉さんによる強制曲げが始まった。
やはり…というべきか、CPMと実際の差は歴然としていた。自力では120度らしいが、
担当のお姉さんの強制曲げでは“左踵部と臀部の距離が握り拳1個分”まで縮まっていたとのこと。その状態を30秒keep×10回でやってみたがkeepしている間はとてもきつかった。
しかし、そんな事は言ってられないので、本日の終了時に今後の進め方について相談した結果、以下のようになった。
――→今週は明日・29日しかないがリハに降りる前の自主トレ時間を増やしてみる。(ちなみに今日は約30分だった)強制曲げを30秒keep10回から、1分keep5回にしてみる。これはあくまでも目標であって、合格ラインは1分keep3回と設定した。週末は外泊しつつも自主トレを続行し、週明けからはkeepの回数・時間共に多く&長くしていけば、来週末には何とかなるのではないか…との見解だった。

同室者は本日の午後から局所麻酔下で左大腿部に入っていたと思われるピンのような物を抜くという簡単なOPを施行した。事前から「その日のうちに動けるか」「その日のうちにタバコは吸えるか」という事を気にしていた。本当に簡単なOPだったので30分程度で終わったらしいのだが、帰室してから間もなく「お腹が空いた」とつぶやいた為、Kママからもらった飴があったので1個あげた。帰室早々…というのには驚いたが、昼御飯は抜きだった訳だし空腹を感じるというのは健康な証拠であると思ったので、後でこの病室にやってきた“卒後2年目になったとてもかわいいナース”に申告したら「私は何も聞こえません」と笑っていたのが印象的だった。


9/29(金)
今朝も割と快適な目覚めだった。
“卒後1年目で初めて3階担当になったナース”に「おっは〜!」と挨拶したら、ニコニコしながら同じように「おっは〜!」と返してきた。かわいい…というより、まだあどけなさが残っているという感じのナースである。
いつもは朝食までの時間を2度寝することが多いのだが、昨日・今日は快適だったのでそれはしなかった。顔を洗い、同室者と少し話をした後で朝っぱらから文庫本を読む…という余裕があったのだ。

日勤での担当は“自分とほぼ同じ年代と思われるナース”であるのだが、同室者の点滴を刺しにやってきた時、彼女の得意技である毒舌が披露されたのだった…。
「少しは痩せないと膝に負担がかかるし、胸より腹が出ていたし、背中には脂肪の板を背負っている」とか言っていた。背中に脂肪…というのは、OP翌日の9/15に腰痛で離床出来なかった日に、自分の楽な体位ということで右側臥位になっていたら、いつの間にか背中から腰にかけてさすってくれていた時に気付いたのだという。体重に関しても、入院時に58kg代の後半だったのが増えてないし、いつもこの程度の体重なのに「身長は私(ナース)と1cm位しか変わらないのに体重がなんで10kgも違うのか」という嫌みにも似たセリフをおぬかしになられた。普通、これだけ言われると怒るのだが、何故かそういう怒りは湧いてこなかった。
とても不思議なことである。言い方でなく、内容が当たっている事もあるのだけど深くは考えない事にしたいと考えている。

昼食直後に30分ほどCPMを施行して、尚かつ自主トレを2種類行った後でリハ室に降りた。
昨日の計画だと「“左踵部とお尻の肉の距離”が握り拳1個分の状態で1分keep5回」というのが目標だったが、何とかクリアー出来た。週末の外泊時に自主トレをさぼらないようにして、来週中にはOP前と同様に難なく正座といきたいものである。

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          9/30〜10/9(退院)まで

9/30(土)〜10/1(日)
この日は入院前からDr..Nとの約束があった為、事前に許可をとっておいて外泊した。
入院の2日前に「また入院するの?」という様子伺いのTELがあった時に、話をしていて「そう言えば美味しい所があるらしい」と言っていたので、入院前に約束をしておいたのだ。その時は「目的があれば早く帰りたいという意識が働くだろう」という読みがあったのだ。
自分の頭の中の予定では9/30に退院というつもりにしていたのだが、予想外の展開で膝が曲がりにくくなってしまったので外泊になっただけの事である。

そういう訳で9/30の昼前から一時帰宅していた。
雨が降りそうな感じだったので、とりあえず荷物を置いてから買い物をに出かけた。
そのまま帰宅しても良かったのだが“ミスター陳”というラーメン屋に寄ってラーメンを食べた。
帰りの道中でかなり強い雨が降ってきたが、帰宅する頃にはやんでいた。
パソコンの設定をしていたり、本を読んでいたりしていると(時間は忘れたが)Dr.Nから連絡があった。
予約は昼の12時からにしていると言い、詳しい場所もFAXを送ってもらっていたという。彼女の受け持ち患者で大変な人がいるらしく、色々と話をしていたら1時間は経っただろう。それでも久し振りに会う約束をして電話を切った。
待ち合わせは彼女の勤務する病院の前にAM9:30となり、私が迎えに行くことになった。

この日(9/30)はAちゃんとTELしたり、フレッツISDNの取説を読んだりしていたらアッという間に日付変更線を越えたため、翌日の待ち合わせの事も考えて眠ることにした。
翌朝(10/1)は悲しいかな…、入院生活と同じ午前6時過ぎには覚醒してしまったのだが、それも悔しいので2度寝をすることにした。

待ち合わせはAM9:30なのだが早めに着いたので“朝マック”をする余裕があった。ほぼ時間通りにDr友達Nの勤務する病院の正面玄関に到着したと思ったら、携帯が鳴り「今、着いた?」というのだ。どうやら見える位置にいたらしい。
少し待った後、本当に久し振りに姿を見ることが出来た。時々、TELで話をしたりはしているがお互いの仕事の都合もあり、お目にかかるのは7〜8年ぶりではないかと思う。
直ぐに車を出し、首都高の入り口へ向かった。
目的地は山奥にある食事邸だった。事前に地図で調べておいたが少しは迷ってしまった。しかし時間に余裕を持って出たので慌てることはなかった。迷ったのを「これ(迷ったこと)はオプションだよね」というジョークが出るほどであった。
高速道路ののICを降りてからだと30分前後で到着出来ると思うのだが、私達は“うかいグループ”の他の食事邸を見に行ったりしたので、目的地に到着したのは予約の20分前だった。その位、時間に余裕はあったということである。
麦とろご飯もあったり、焼き鳥がとても大きくて肉厚だったり、あるいは周りの景色や庭園の中という雰囲気も手伝ってか、2人とも口数は全開でターボがかかったように(?)マシンガントークしていたら、いつの間にか2時間は経っていたようだ。内容は大した事でなく近況報告という感じの話だったけど、共通していたのは「平成の始め頃というあの時期にあの病棟で勤務していた者は、Drもナースも気が合えば長続きしている」という事だった。
そう言われてみれば、Dr.U、Dr.N、ツネ、T、HIちゃん、F、O、N…等は皆“もと西2階”なのだ。不思議だけど大切にしたいつながりである。
帰りの高速道路はとてもスムーズに流れており、自宅までDr.Nを送り届けてから帰宅、そして病室に戻った。もちろんナース達へのお土産も忘れずに持参した。
とにかく気分の良い1日だった。Dr.N様々、っていう感じかな。


10/2(月)
今朝の検温は“自分とほぼ同じ年代と思われる毒舌ナース”だったので、土曜日の外泊時から気付いていた「創部に残っている糸」のことを伝えようと思ったが、結局はやめておいた。このナースを信用していないというのでなく、今日の回診が“挨拶の仕方を知らない、しかも私の経過もよく知らないのに血液が膝に溜まっているからといい、簡単に抜くと言い放った馬鹿な奴”だったので、そいつに処置されたくない為に黙っていた。
明日になれば今回の担当医が休みから明けて出てくるので「先生、これ、糸が残ってると思うんだけど」とでも言って処置してもらえば済むし、何も嫌な奴にやられなくてもいいんである。この処置が遅れたことに関して何かあったとしても、文句は言わないと決めている。だって自分が報告しなければナース達は左膝に触れることはしないし、分かるはずがないのである。
簡単に言えば、先週のことがある為“ナースに訴えても話がDrに伝わらないと思ったから”というだけの理由である。自分で直接言えば、その場で何かしらの処置がなされることを自分の目で確認出来るという利点もある。(医療界全体というのでなく)この病院に対しての信用は皆無に等しいので、全て自分でやるしかないのである。考えてみれば悲しいことなのだけどもう少しだから仕方がない。

午後1時からのリハビリに備えて自主トレを施行した後でリハ室に降りていった。
直ぐに担当のお姉さんによる強制曲げから入ったが、意外と曲げやすいとのことだった。
出そうで出ない悲鳴をあげていたが何回か曲げられているうちに、左踵部が左臀部の短パンにくっついたというのが自覚出来た。短パンのことを考えると、左踵部と臀部の距離は“指1本”程度にまで縮まっているものと思われる。今日はこの状態で1分間keepが2〜3回は出来たと記憶している。
終わっても直ぐには動き出せずにしばらく台の上で休んでから起きあがったら、上半身にビッショリと汗をかいていた。そして担当のお姉さんに曲げられている最中、逃げようとしていたのか、胸から上の部分が台からはみ出していた。その位、力が入っていたのだろう。
とても自分の力だけではここまで曲げられない。あと少し…という時点での一押しはとても大切だけど、痛みから逃げるのに必死でそこまでは出来ないのが現状である。去年と似たような状況である。しかしOP前までは難なく出来ていたので、今週の計画として「踵と臀部の距離をどんどん縮めていくだけでなく、keepする時間を長くするという方向でやる」という提案をしてみたら、お姉さんも「出来ると思います」とのコメントを発表していた。何とかして正常な状態に戻さなければならないのだ。この左膝は大切に使ったら、あと35〜40年程度は使えるのだから…。
自分の身体のことなので、他人がどうのこうの…というより、自分で戦わなくてはいけない。
もう少しだ、頑張れ。


10/3(火)
今朝の検温は“卒後4.5年目と思われるprettyナース”だった。
朝っぱらからやたらとhigh-tentionだったようで、いつも私がやっている「おっは〜!」という挨拶を彼女の方からやってきた…という感じである。この子は確かにいつも元気だという印象だが、今朝は深夜明けで疲れているのか、特にhigh-tentionだった。
そして日勤での担当は“卒後1年目のうち小柄なprettyナース2(two)”だった。このナースも元気が売り物のようである。まだ、あどけなさが残っていてかわいらしい。

回診は外来の寸前と思われるAM8:40頃にやってきた。
回ってくるのが今回の担当医である事は知っていたので、週末の外泊時に発見した糸を処置してもらうべく初めて申し出た。抜きたかったらしいのだが、細い糸で縫っているため細いセッシとクーパーでないと出来ないのに、それ用の物がなかったこともあり抜糸は見合わせる事にした。皮膚の中を縫い合わせている所の先端の部分が、もう少し出てきていれば抜けたのだが…との話だった。
数日間待ってみて、抜糸が出来にくそうなら局麻(局所麻酔)をかけてから抜くというコメントが発表された。OP室で撮影したレントゲンが行方不明になっているらしく、まだ見つからないとのことだったが、これは退院前までに見られれば良いと思っている。

昼食寸前に院長回診というのがあり、ここの院長さんから「どうですか」と聞かれたので「はあ、同じです」と適当に答えた。総婦長も同行してきており、院長さんが退室しているのに私の所にとどまって「何か、この前はすいませんでした。痛かったでしょう?」と言いつつ私の左足の親指に触れた。私は「ええ、そりゃあその時は」と言い、総婦長は「すいませんでしたね。次から気を付けますから」と言ってから院長回診御一行様の中に消えていった。これは先週、患者同士で車椅子を押していた人に左足の親指をひかれた時の事を言っているのだが、大した事はなかったにも関わらず総婦長の方からこの話に触れてくるのは、外来受診時にまいておいた地雷が効いているに違いないと思って、心の中で笑ってしまった。

リハビリは定刻の午後1時から始まった。
昨日より今日…という感じで“左踵部と臀部がくっついている時間”が長くなっているようだ。
今日も事前に自主トレを2種類やってから下に降りたのだが、前述の状態をkeep出来た時間が確か2分以上だったと思う。担当のお姉さんに曲げられている時は痛みとの戦いなので、お姉さんに時間を見てもらっているのだが、確か2分は越していたと記憶している。それも1回だけでなく何回か出来たので、痛いのは痛いけれど「あと少し」というのが実感出来て(痛いながらも)嬉しかった。周りで見ているギャラリー達は相変わらず、目を背けていたがそんなのを気にしている余裕はないのであ〜る。

リハの後でTシャツ4〜5枚を洗濯したり本を読んだりしていたら、
Kママと僕ちゃんがきてくれた。僕ちゃんは、前回来た時は何故か緊張して固まっていたのだが今回は普通に戻っていた。
私の創部を見て「おばちゃんの足は治ってない」と言っていた。5才の目は見ていた、という感じ。しばらくじゃれて遊んでいたが、退院したらママに黙ってイトーヨーカドーに行き、おもちゃを買うという約束が出来てしまい、指切りげんまんまでやってしまったのだ。
Kママに宝くじのお買い物を依頼したら、当たったら3割報酬という他に「僕ちゃんが小学校に上がるのにランドセルを買ってやって」という為、OKとした。ロト6という新しい宝くじで1等の当選確率は1/600万 とニュースで言っていたので、何年間も同じのを買い続けようと思っている。当たるかどうかはともかく「ええい、ママヨ」とおまじないをかけるという気分である。友達とは本当に有り難いものであると思っている。


10/4(水)
今日は朝から大した事はなかった。
午後からリハビリに降りて“左踵部と臀部をくっつけた状態で3分間keep”が数回出来た。
その後に不完全ながらも正座が出来ており、右に傾いているということもなかったようだ。自転車をこいでも良いという許可が随分前から出ているので、ついでにエアロバイクを10分ほどやってみたが案外きついものだと感じた。働きだしたら、そうも言ってられないので入院している間にやれるものはやってみようと思う。そうするとリハのフォロースルーにもなると思うのだ。
リハを終えて病室に戻りしばらくウトウトしてからCPMを始めた。夕方に近かった。

夕飯を食べ終えて歯磨きをした後くらいに担当医が病室にやってきた。(今朝の回診は担当医でなかった)OP直後に撮ったレントゲンのフイルムがどうしても見つからないとの事だったので、この“OP直後にOP室で撮ったフイルムの行方”に関しては、うやむやにされる事を承知で担当医が提案してきた新たな撮影に応じる事にした。
それに応じなければ“本当に抜釘したかどうかを自分の目で確認出来ない”からである。今夜のうちに指示を出して、明日には撮影するとの話であった。
そして糸が出てきているという部分の消毒をしてないと伝え、下(ナースステーション)に降りて行きましょうか…と言ったのだが「いえ、来ます」という為じっと待っていた。
しかし1時間以上経っても音沙汰がないので、ちょうど検温にやって来たナースに前述のことを伝えて連絡してもらった結果が「今、急患を診ているのでもう少し待ってもらって良いですか?」というのだ。それならそうと言ってくれれば1時間も待たなくて良いのに!
そう言われると嫌でも待たざるを得ない為「じゃあ明日でいいです」と言って、パソコン一式を持って正面玄関のグレーの公衆電話の所に向かった。パソコンの電源を入れた瞬間に後ろから担当医がやってきて「▽☆さん(私のこと)、すいませんでした。整形の外来で消毒します」というので整形外来に行った。そして消毒をしている最中に「毎日、消毒する必要もないんですけどね」と、のたまうのだ!!
 じゃあ、最初からそう言えよ!そしたら1時間も待たなくてすんだのに! この馬鹿者!
明日は誰が回診に来るのか知らないが「毎日、消毒する必要はないそうですよ」とでも言ってやろうと思っている。

この病院のいい加減な所は「患者の言うことを最後まで聴かない点」と「一言が足りない点」に尽きると思い始めた。じゃあ自分は出来ているのかと聞かれれば自信を持って返事は出来ないが、この病院はそういう事が多すぎるという印象がある。
外来通院時に今回の担当医のことを投書までして自分の身の潔白を晴らさなければいけなくなった時も、今回入院してから起こっている色々な出来事も全てが前述の2点に集約されているようだ。
もちろん去年の入院時にも同じような事が度々あったのだが…。今更、書く気にもならない。
医療界のすき間でこのような事があり続けているという事実を、医療従事者である私の日記を通じて公開することにより、自分が現場に戻った時の教科書にしていきたいと思っている。カッコイイ言葉で表現するならば「反面教師」とでもしておこう。

ここの職員達から言わせると「そんなに嫌な病院や医師にかかり続ける事はないじゃないか」と言われそうだが、それをすると病院側の思う壺になるのであえてそうしないだけである。
言われないと気付かない馬鹿が多いので、私としては授業料が欲しい位なのである。
私がここに受診し続ける事によって職員が嫌な思いや煙たいという思いが少しでも湧いてくるとすれば、しめたものである。しかし、そんなのは私が今回の担当医から受けた屈辱に比較すると“まだまだ足りない”という感じである。


10/5(木)
AM9時前に担当医の回診があった。
昨夜のことがあったので「毎日、消毒する必要はないんじゃないですか」と言ったのだが「いえ、居るうちは(入院中は、という意味)私の回診の時はやりましょう」と言って、例の糸が出てきている部分を消毒してカットバンを貼っていった。
午前中は左膝のレントゲンを撮影した以外は何もなかったので、いつものようにメールを書いたりしながら過ごしていた。昼食を終え、PM1時からのリハビリに備えて自主トレをしていたら急に…というべきか“ほぼ同じ年代と思われるナース”が本日の部屋担当でもないのにやってきて1枚のハガキを無言で置いていった。ちょっとビックリした。

リハでは「うつ伏せで正座している状態」というのが解りやすいだろう。
しかし、それは大腿部の前面がとても突っ張って痛いので、悲鳴やうなり声をあげて耐えていた。
どうやら私の筋肉は固まりやすいのだろう。理学療法士は何人かいるが、私の担当のお姉さんでない人が私の訓練を見て(担当のお姉さんに)「そこまでしなければ固まってしまうのか?」という意味のことを聞いていた。私はうつぶせになっていて痛みに耐えるのに必死だったので、お姉さんが何と答えたのか知らないが、固まりやすいのは間違いなさそうだ。普段の運動不足もあるのだろうが、働きだしたら解消されるのではないかと思っている。
強制曲げが終わって起きあがってみたら「ちゃんとした正座」が出来ていた。
そりゃあ、そうだ。今日は3分間keepが出来たのだから!
先週の水曜日から追加でリハを始めたのだが、これはやって正解だったと思う。今からの季節は寒くなるので多少の曲がりにくさは残るかもしれないが、去年もそういう事は感じなかったので普通に動ければ何とかなりそうな感じがしないでもない。
去年も今年も、この人の力がなければ私の左膝は曲がらなくなってしまったかもしれない…と考えると、Drやナースよりも重要人物かもしれないという気がしてきた。これはもう感謝の域を超えているのではないだろうか? 整形外科ではDrやナースよりも大切になってくる事があるのだ。

PM4時からは今夜から始まるドラマ「渡る世間は鬼ばかり」のナビ番組があったので、同室者と共に気合いを入れていた。いつもは結構暇な時間なので、食べ物の話とかをしているのだがこの1時間はどちらも黙って見ていたのである。本番はPM9時からなので、それまでに全てのことを済ませておかなければならない。

夕食の前に担当医がやってきて、午前中に撮ったレントゲンフイルムを見せてもらった。
左下腿のビスは確かに抜き取られていたのをこの目で確認した。
正座をして見せてから「10/9に帰りたいのだけど」と言ったら「良いと思います」とOKサインが出た。
生命保険の書類等を直接Drに手渡そうとしたのだが「ナースか事務を通して」と言われた。今回の担当医は去年の入院時に“ここの病棟婦長に手渡して書類をなくされた”のを知らないので、そういう事を言ったのだと思うので、早速明日にでも担当部署を聞いて自分で直接手渡そうかと思っている。ここの病棟婦長は書類をなくしただけでなく、それを私がなくしたように仕向けてウソをついたのだ。当時の同室者の所に来ていた面会人が2人ほど呆れていたのを鮮明に記憶しているので、最初からこの人だけは信用していなかった。
10ヶ月間も空きBedがないという状況が続いている時「きっとコイツが操作しているに違いない」と確信したし、勤務先の看護部長も疑っていた。
それはともかく、大切な書類を信用できないウソツキ人物に渡すわけにはいかないのである。

今日は木曜日で手術日である。準夜のナース達は忙しいのか、検温と称した様子伺いもいつもより遅い時間だったし、消灯もしにこなかったので同室者の了解を得て私が消灯した。
PM11時の巡視に来たナースに「消灯に来なかったでしょう?」と聞いたら、ペロッと舌を出していた。検温の時に「忙しいの?」と聞いた時もお手上げポーズをしていたので、恐らくとても忙しいのだろう。
正面玄関にノートパソコンを持っていってメール等をチェックした後、大急ぎで病室に戻りナース達に差し入れのジュースを届けてから消灯し、「渡る世間は鬼ばかり」を見る体制を整えた。
何故か、消灯前だけ忙しくした1日だった。


10/6(金)
今日も午前中は大した用事がなかった。
今回9/11に入院して初めての“部長回診”というのがあった位である。去年もそうだったがこの部長さんという人は患者に対して「あいつ」とか「おまえ」とかいうし、私は生理的に合わないのでシカトしていたのである。表面的にも関わりたくないと言う感じの人物である。ま、いいか。
昼食を終えてリハ前の自主トレをやってから、PM1時にリハ室に降りていった。
今日で最後なのだが「関節自体は良く曲がっているので後は筋肉の固さをほぐす時の痛みだけですね」という担当のお姉さんのコメントがあった。
大腿四頭筋を伸ばすためのストレッチを2つほど教えてもらった。
1.正座をしたままで上半身をそらし、両方の手の平を後方におく。
2.起立したままで両膝を曲げていき、大腿部が床と平行になった状態をkeepする。

この2つは昨日から教えてもらっていたが、結構疲れるものなのだと思った。担当のお姉さんによると「これだけでも随分伸びますよ」とのことだった。
膝を曲げるだけでなく、それに必要な筋肉を鍛える方が大切&大変だと勉強になった。
昨日も書いたが、去年も今年もこの人が居なければ私の左膝はここまで曲がるようになっていなかったと、本当にそう思っている。

午前中にリーダナースを呼び寄せて「生命保険の診断書2通」「スイミングスクールの同意書1通」を書いて貰うように依頼した。リーダーは“卒後4.5年目と思われるbeautifulというよりはprettyなナース”だったので、私がここの病棟婦長に書類を触らせたくない理由を述べたら、去年のことを記憶していた。

去年のことというのは…。
今回と同じく退院前に診断書等の書類を(その時は病棟婦長に)依頼した。台風まがいの大雨騒ぎの時に他の患者のカルテに挟まってしまったらしいのだが、
最初はそれを黙っていたのだ。
そして私が紛失したと見せかける為に「床頭台に置いていった」と主張するのだ。
もちろん、そんな書類があるはずもないのに、ちょうど当時の同室者の所に家族が来ていたので念のために同室者の周囲も探してもらったのだが見当たる訳がない。
予備で持っておいた用紙を出さないと退院に間に合わない…と、強く言われた(これは同室者も面会人も聞いていた)ので仕方なく渡したが何としても納得がいかない。
私は床頭台に置いていったという書類なんて見てないし、
第一“手渡し”が基本のはずなのに、予備の書類を渡すと「やってないミスを認めた事になる」し、仮に見つかったとしても「私に黙っていれば、私が紛失したことに出来る」為、数時間後に取り返してきた。予備の用紙が病院側に渡ってなければ探すと思ったし、ぬれぎぬを着せられたくないからである。
そうしたら、翌日か翌々日になって「他の患者のカルテに挟まってました」と言ってきただけでなく、一言も謝罪めいた言葉は聞かれなかったので、“この婦長はウソをつく奴なんだ”という認識が出来上がったのである。


本日のリーダーである“卒後4.5年目と思われるbeautifulというよりはprettyなナース”は、それを記憶していたというので、私の要求に比較的あっさりと応じた。
私の要求というのは「本日の責任番であるリーダーが本来やるべき業務ではないというのは分かっているが、去年のことがあるので婦長のことは始めから信用していない。従って、私に手渡しするのは貴方にお願いしたい」という事である。もちろん、担当医が書類を書く時間や医事課に回される時間のことも考慮して、尚かつ彼女が残り番という勤務であることを確認してから…というふうな手順は踏んでおいた。
そしたら夕飯が配膳されて間もない頃、この病室にやって来て「お年寄りだとなくしたりするので書類は退院時に渡すのが基本になっているのだが」と前置きしてから、手渡してくれた。
別に今日は受け取らなくて良いのだが、内容をチェックしておかないと訂正個所があった時に早めに対処出来ず、退院時に持ち帰れないという事態にならないようにしたかったのだ。事前に「土曜日はガーゼ交換のある人のみ回診する」というのは知っていたが、今週は担当医が行うという情報があったので訂正個所があっても直ぐに直してもらえる…と考えていた。
普通は患者がここまで考慮するというのは考えられないのだが、この病院に限っては“Bed待ち10ヶ月間”という常識では考えられないことがあったし、去年のこともあるので信頼度という点に関してはZEROでなくマイナスだったのだから仕方がない。

準夜の担当は“卒後1年目のprettyナース2”という元気なナースであった。
いつも元気で笑顔がかわいい…という印象である。知識や技術がどうなのかは知らないが、とりあえず明るい雰囲気が出来ることに違いはないので、好感度は比較的高めである。
奨学金を返したらもっと大きな病院に勤務してもらいたいものだと切に願う。


10/7(土)
今日は午前中に担当医の回診があり糸が出てきている部分の消毒を行った。
この部分の消毒は市販の物でも充分だとのことで、
退院後は入浴した後にやれば良いと思う。
日勤の担当は“自称・昭和41年生まれで体格も元気も良いナース”だったので、数日前からこのパソコンに導入した“ポストペット”というEメール用のソフトの携帯版を見せてもらった。
機能や構造は同じ物であり、携帯電話用に持ち歩けるコンパクトサイズに設計されているようだ。私はそれ用に専用のアドレスをGETしたので、それを教えておいた。
ナースのを聞いて私がメールを出すよりも、先に教えておく方が警戒心を持たれないと思ったからだ。これでメールが来れば返信すれば良いし、こなければこないで別に構わないと思う。
このメールソフトは、ソフトの中でペットを飼うという設定になっていて、メールを書いたらそのペットが相手のペットに配達するというシステムである。なかなか面白そうである。

準夜は“卒後4.5年目と思われるbeautifulというよりはprettyなナース”である。
相変わらず元気そうで嫌みがない。去年の入院時にも感じてはいたが、比較的ジョークが通じやすいという印象である。何人か人が集まったら色んな役割があるというものだが、その場が明るくなるのではないだろうか。この辺で一念発起して大きい病院で実力を試してみるという意欲はないのだろうか…と余計なおせっかいだね、これは。

21:30から日テレ系で「三代目雷電為右衛門」という特番があった。
普段は日曜日の昼前と夜に「雷波少年」「電波少年」という番組が放送されているのだが、それらの合同特番になっている。先週の外泊時にわざわざビデオテープを病室まで持ち帰って録画した。
内容はともかく、明日の放送に続けている部分もあったので、明日も楽しみである。


10/8(日)
今日は特にやる事もない。明日の退院に向けて消灯前に荷物整理をした。
元々、10月はオプションという感覚だったので左膝さえ曲がれば
退院はいつでも良かったのだ。


10/9(月)
朝起きたときから雨が降っていた。
本日、退院。これで終わったと思うと気が抜けてきた。

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                   エピローグ
          〜3回の入院体験を終えて思うこと〜

しばらくは何でも我慢出来るのではないかと、マジでそう思っている。
平成10年5月に始まった“左膝に関する一連の出来事”が、何とか世紀末のうちにケリがつけられそうな気配が漂っているのである。
本当は数字的な区切りということもあり「1999年のうちに…」と考えていたのだが、10ヶ月間もBedが空かないという異状事態が発生したため、2000年に持ち越しになった。

半年間にこの左膝から10回以上の排膿だけでなく、薬液注入の為とはいえ何回も何回も太い針を刺されたのだが、全く改善する様子が無く結局は“仕事以外で2年間に3回の手術室入り”となった。
平成10年11月11日に行われた最初のOP(滑膜切除術)は、今から思えば“事情と経過を知っている人が見たら呼吸困難に陥るかも知れない位の悲壮感”があったのではないかと反省している。2回目のOP(前十字靱帯再建術)は平成11年6月18日に行われ、しかも入院期間が3ヶ月という長期に渡ってしまったが、それなりに過ごせたと思っている。
そして3回目は今年・平成12年9月14日に「関節鏡・抜釘・瘢痕形成」という術式で
施行された。

今は「仕事以外で何回もOP室に行くなんて、こんなチャンスは望んだって来るもんじゃない」という可愛げのない表現が可能になった。この体験を仕事上ですぐ人様に提供できるほど、私の人間性は大したものではないのだが、せめて自分にだけは…という思いがあるのも事実なのである。

いずれにしても「これ(左膝に関する一連の出来事)より痛い・苦しい・辛い・不愉快などと自分が思わない限りは、何でも我慢できる」とマジで思っている。

そう言えば平成11年10月15日に池上でおフランス料理の食事会をした時、Mママが言っていた。「人生観が変わったわよ!」って。

私のは人生観が変わるほどの大変な体験ではなかったが“それまでの思いや概念が全く変わる”という点に関しては、Mママの言っていることが少しだけ理解できるような気がする。
入院中の様々な出来事を前回と同様にこうして形に残るようにしておけば、後で読み返した時に何かしら“読み返している自分”にとって力になるのではないかと思うし、そのようになってくれれば良いと思っている。
そうでもなければ“情報化社会から隔離された非人間的な入院生活”なんて、たとえ短期間でもやってられないのである。

結構、かなり、随分と痛くて高い授業料を払ってまで色々な事を体験学習したけれど、今は日本人的発想で「痛み等を乗り越えて頑張ったというプロセス」にのみスポットライトを当てている自分が居る。汗や涙、我慢や忍耐が美徳とされていた時代はとっくの昔に終わっているし、あと数ヶ月で21世紀がやってくるのだ。そんな古くさい習慣はこの際20世紀に置いていくことにして「3回の入院体験をいつか必ず笑い話にしてやる」と思っている私がいるのも、これまた事実なんである。

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