面白いコラム 鬼が人を喰ってなぜ悪い     


第5回  鬼が人を食ってなぜ悪い

ある日の読売の編集手帳に次の記述があった。

高校の国語教科書の検定で「馬鹿」が問題になったらしい。
山田詠美さんの小説の「(あの子は)馬鹿だから」という会話に
差別的だとの意見がついたので、
出版社は自主的に他の作品に差し替えた。

ああ、またか・・・と思った。

これもかなり前のこと。

ある幼稚園のお遊技会で「さるかに合戦」をすることになったが、
カニを騙した悪いサルが最後にみんなから懲らしめられるお話である。
わたしも幼いころ読んだ有名な童話です。

その幼稚園では、サルが懲らしめられるのはイジメにつながると、
悪者はひとりもいないように童話の筋を変えてしまった。

ちょっと待って!

昔から名作と言われている童話には勧善懲悪や、
一見残酷と思われる場面の記述がかなり多い。

「スズメのお宿」は、
欲の深いおばあさんがスズメの舌をハサミでちょんぎったあげく、
最後に懲らしめられるのである。

「イナバの白ウサギ」は、
嘘をついたウサギが皮を剥かれる残酷なストーリー。

「浦島太郎」だってカメが苛められる場面が出てくる。
シンデレラも白雪姫も例外ではないから、数えあげたらキリがない。
現在の童話に比べたら昔の童話のストリーは、かなり辛辣な面があった。

鬼が人を食い、タヌキをタヌキ汁にしてしまうなどの表現は
当たり前のように存在したのだから、
現在ならとんでもないということになるはず。

そのような童話を読んで育った当時の子供が、残酷になったか?

いや現在の子供より、むしろ情操は豊かではなかったかと思う。
わたし自身も童話を通じて幼心に
「悪いことをしてはいけない」ことを教わり、
さまざまな感情を身につけることができたと思っている。

数年前、小学校の運動会の走る競技では順番をつけないで、
みんなで並んで一斉にゴールをするように決めたことが話題になった。
その理由とは
「順番を決めると走りの遅い子供を差別することになりかわいそうだから」

なんともあきれた安っぽい人道主義である。

子供の自主的な行為で、遅い子と一緒に走った話は美談の例でありますが、
子供の優しさが伝わってきて嬉しいエピソードです。

しかしこの小学校の場合は全校で取り決めて実施したというから、
話の次元がまったく違う。

これが分別のある大人の考えた末の結論なのだろうか?

「さるかに合戦」はサルが懲らしめられたのはなぜか?
 どうしてそういう結果になってしまったのかを、
 幼い心にもわかるように教えることができたはず。
 さらに発展させて、どうするのが一番良い方法だったかを
 考えさせることもできたはず。

これが教育というものではないの?

運動会では競技を通じて「競争」という現実を子供は身につけるのである。
だから、昔の子供は競争を通じて自分を鍛えることを知ることができた。
前述の幼稚園や小学校の場合は、
子供にとって都合の悪いことは教えないということになる。
つまり<クサイものに蓋>である。

これは教育の場で、教育を放棄する行為に当たるのではないの?

大人が子供の教育に右往左往してクサイものに蓋をしている間に、
子供たちは「見ザル、聞かザル、言わザル」状態で育つことを余儀なくされた。

その子供たちは、今や人間や動物の死もバーチャル感覚でしか
受け止められなくなりつつあるようだ。
昨今は現実の死を厳粛に受け止められない現象が、
青少年の凶悪犯罪の原因とも言われている。

高校の国語教科書の検定で「馬鹿」の含まれた掲載文を差し替えさせた人たちに、
わたしはあえて言いたい。

そんな馬鹿な!


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