面白いコラム 沈黙の世界


第9回 沈黙の世界

1956年。
フランスの映画監督ルイ・マルとジャック・イブ・クストーらが、
カリプソ号で2年をかけて航海した海洋ドキュメンタリー「沈黙の世界」は
カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。

海底で繰り広げられる神秘的な現象の記録は、
当時としては画期的なものだったらしく、
記録映画としては珍しいヒット作となったようである。

幻想的な海底の映像を表すのにふさわしいタイトルですが、
最近は陸の上でも「沈黙の世界」に遭遇することがある。

もちろん陸の上の沈黙の世界とは、
当然のことながら海のそれとは違っている。
わたしが遭遇するのは、多くはレストランやカフェ等であるが、
ひょっとすると家庭内でも見られるかもしれない。

あるレストランで、わたしの両隣に「沈黙の世界」が出現した。

右隣は初老の男女のカップル、左は若い男女のカップル。
その間に挟まれているわたしは、雨宿りを兼ねて一息ついている
手持ち無沙汰な身であった。

それは平日の午後。

状況から察すると、初老のカップルは定年退職後らしい夫婦連れ、
若い方は近くの大学の学生カップルらしい。

初老の夫はスパゲッティ、野菜サラダ、コーヒーを注文し、
細面の妻はメニューのアイスコーヒーを黙って夫に指さした。

夫が料理を平らげる間、
妻はアイスコーヒーのグラスに視線を落としたまま、
それは一度も夫に向けられることはなかった。
妻はストローをもてあそびながら、
ときおり思い出したようにコーヒーを啜っている。

「ねえさん、コーヒーまだかね」

夫が通りかかったウエイトレスに声を荒げたとき、
妻は初めて視線をあげて窓の外を見た。
「雨・・・やんだのね」と、つぶやいたのがわずかに聞きとれた。

わたしは「沈黙の世界」が気になって文庫本に没頭できないまま、
ずっと彼らの様子に付き合っていたが、なんだかとても切なくなった。

さて、学生カップルの方は・・・

若者は焼肉ランチにアイスコーヒー、女子学生はスパゲッティとコーラを、
それぞれがウエイトレスにオーダーした。

女子学生は、すぐにスポーツ新聞をひろげて読み始め、
若者は座ると同時に携帯メールを打ち始めた。

焼肉ランチのサラダが若者の前に運ばれてくると、
若者より先に、広げた新聞の脇から女子学生の手がすっとのびてきた。
彼女は新聞に目を落としたままサラダを自分の方に引き寄せ、
新聞にチラチラ目をやりながらパクパクと半分ばかり食べてから、
皿を相手方に押し戻し、何ごともなかったように再び新聞に目を落とした。

若者は相変わらず携帯画面に目を張りつけたまま、
戻ってきた皿へ機械的に手をのばして食べ始めたので、
その器用さに感心した。

やがて、焼肉の皿とスパゲッティの皿が運ばれてくると、
彼らはようやく携帯電話と新聞から目を離して、
文字通り黙々と食べることに専念した。

最後にそれぞれがアイスコーヒーとコーラを
「ズズッ」と音をたてて啜り終えると、
それが合図だったかのように揃って立ち上がり、出口へと向かった。

その間、わたしは彼らの会話を一言も聞くことはなかった。

しかし、沈黙の世界で彼らの「あ・うん」の呼吸は、
見事なまでに連携プレーを発揮していた。

ひょっとするとこれが従来に変わる、
新しいコミュニケーションの形態なの?



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