第89回  人間の可能性と軍事兵器

スティーブン・ホーキング博士をご存じだろうか。

世界的な宇宙物理学の権威で運動ニューロン病という難病に全身を侵されながら、
人工の音声を使って車椅子で講演をされ、現在も世界規模で活躍をなさっている。

車椅子といっても普通の車椅子ではない。ハイテクを結集させたもので、
博士の身体の一部といって良いほどの機能を受け持っている。

運動ニューロン病とは、運動を司る神経が阻害されるので、
身体の運動機能が徐々に損なわれる難病で、
博士はオックスフォ−ド大学に在学中に発病したという。

高名になった博士は、研究論文の筆記や発表等ができなくて困っていた。
それを聞き及んだカルフォルニアのコンピューター専門家ウオルト・ウオルトス氏が、
頭や眼球を動かすことでスイッチを動かせるプログラムを博士のもとに送った。
これが発端となり、それから様々な人の協力で改良を重ね、
現在の博士の形になったようである。

博士の講演をテレビで拝聴したわたしは、
人間の可能性についての偉大さに圧倒された。

そして思った。

博士ご自身の努力もさることながら、
それを可能にさせた特別に恵まれた環境にもあるのではないか。
さらにこのような環境が、同じような境遇にある人たちにも与えられて欲しいと・・・

しかし、それはわたしの思い過ごしだった。

NHKのドキュメンタリー「ハイテクが支える私の人生」の中で紹介された
ある人物を思い出す。

その人物とは、全米でもトップクラスのバンク・オブ・アメリカ本社ビルの
元副頭取ジョー・マーチン氏(当時60歳)である。

マーチン氏は首から下が完全に麻痺状態で、
唯一のコミュニケーションの手段は「まばたき」のみ。
このように視線で操作するコンピューターシステムを<アイ・ゲイズ>という。

マーチン氏が文字盤のアルファベットのどれかに視線を2秒固定すると、
その文字が確定して文章が綴られていく。
マーチン氏はこの方法を駆使して、地方銀行に過ぎなかったちっぽけな銀行と、
全米屈指のバンク・オブ・アメリカとを合併させて重役に迎えられ、
金融界に衝撃を走らせた。
マーチン氏は車椅子さえ自分で操作できない環境にありながら、
200件もの合併や買収を成功させたのである。

株の取引で成功しているという別の人物は、車椅子どころか寝たきりで、
ベッドの上の天井だけが自分の世界だった。
この人物も唯一自由にできる視線を駆使して、
天井から吊り下げられたパソコンに向かってアイ・コンタクトを試みて、
株の取引をしている。
彼は穏やかに笑みさえ浮かべて言う。
「これが与えられている限り、私は不幸ではありません」

人間の可能性を限りなく引き出してくれる、
視線入力方式のコンピューターのワープロ装置が<アイ・ゲイズ>である。
わたしはこの画期的な技術に大いに感激したが、そのルーツを知って愕然とした。

アイ・ゲイズとは、湾岸戦争の攻撃用ヘリコプターのアパッチに採用されていた、
肉眼で距離を測定するミサイル発射装置だった。
人を殺傷する目的で開発されたシステムが、
人間の可能性を飛躍させるのに役立つというこの皮肉さ加減。

だが皮肉はさらに続き、
軍事機器とハイテク福祉機器には多くの共通点があるのだという。
福祉機器はそのまま高齢者用にも転用が可能である。
高齢者社会にとってはまたとない福音だが、
そのルーツを辿るとなんとも複雑な心境になる。

ハイテクの用途がはじめに<軍事開発ありき>ではなく、
手垢にまみれる前のきれいな姿(目的)のままで、
人間に手を貸して欲しいと思ったものです。

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