第74回  あっちへ持ってけ、コノヤロー!

わたしの散歩はコウモリのように薄暗くなってから散歩に出る習慣がついているから、
「コウモリ女の散歩」と自称しているが、少し前からこの習慣をやめている。
今は「昼下がりの女の散歩」に改称して、
明るいうちに家を出るように心がけている。

夜から昼へと散歩が転向した理由は、夜のスーパーの前の薄暗い路上で引っくり返り、
頬を削り額を割ったからである。
その前は新宿の路上で引っくり返って左の膝頭を割っているから
2年続きの災難ということになる。

以前テレビ界でフィーバーした細木女史の言葉を拝借すると
「アンタは大殺界に入っているよ!」ということになりそうだが、
その手のものは興味はないけれど、
「また何か災難に遭うのかしら?」と漠然とした恐怖心はある。
これを今風のもっとしゃれた言葉で表現すると
「トラウマ」とでも言うのだろうか。

それゆえ、足元がおぼつかない夕暮れや夜間の散歩はかなり恐く感じるようになった。
「足元の明るいうちに、さっさと帰れ!」と誰に言われたわけでもないけれど、
足元の明るいうちの散歩を心がけるようになった。

意味はちょっと違うけれど・・・

わたしの散歩の目的は「自然界とのふれあい」であるから、
どうしても小川の河川敷や広大な敷地を持つ公園ということになる。
コウモリ女の散歩のころは薄闇や暗がりから「ハッ、ハッ」と荒い息遣いで、
夜行性の動物のようにぬっと現れるジョギング・ダイエットのオバサマや、
ワンチャンのお散歩のオジサマが常連だった。

しかし、昼下がりの女の散歩になった途端に周囲の状況は一変した。
幼児や学校帰りの生徒の姿を見かけるようになった。

その日も公園の遊歩道を歩いていると幼児の甲高い声が耳に飛び込んできた。
「あっちへ持ってけ、コノヤロー」。

ビックリした。
女の子の声だった。
砂場で数人の幼児が砂遊びをしていたが、
声の主はピンク色の上着の愛らしい子だった。

普段のお節介オバサンなら遊歩道を外れてノコノコと砂場へ足を運び
「女の子がそんな乱暴な言葉遣いをしてはだめよ」と説教をタレ、
ついでに「女の子らしいしゃべり方」の講釈までタレるはずだった。

しかしこのオバサンは気分屋でもある。
今日はそのお節介気分に乗り切れなくて砂場の横を通りながら、
「まったく、女の子がなんてしゃべり方をするの、だめじゃないの」と、
ブツブツと独り言を放っただけである。

自転車で横を通ったジーパンの女性が、チラとわたしに視線を投げて過ぎた。
中年女の独り言を気味が悪いと思ったのか、
それとも独り言の内容が気になったのか。

男女同権屋の威勢のよいオネエサンやオバサンたちが
「女の子らしい」などの表現を小耳に挟んだら、さぞ息巻くことだろう。

以前、この「らしさ」教育が男女差別だと噛み付いて
「ひな祭りも、端午の節句もダメ。運動会の騎馬戦もダメ、
それからもっといろいろダメ」と、あれこれイチャモンがつけられた。

わたしは、女の子はやはり女の子「らしい」言葉遣いをして欲しいと願っている。
この場合の「らしさ」は男女「差別」ではなくて、男女の「区別」である。

男女同権絶対主義の威勢の良い女性方もお化粧をするがなぜ?
モデルが着るような最新のファッションを身にまとっているのはなぜ?
人気者のエビちゃんみたいになりたいと憧れるのはなぜ?
その底に流れているのは見事なまでの「女心」ではないの。
女心は同性と張り合っておしゃれもするが、異性を強く意識するものである。

鳥類のオスはメスよりも断然色鮮やかだが、これはメスの気を引くためだとか。
人間界とは入れ替わった現象で「人間界のメスが化粧をするのと同じ?」と、
以前書いた覚えがあるが、前述の極端な男女同権の内容では
「女らしさ」を装ったり演出することもご法度になるはず。

しかし、威勢の良い男女均しを発言する女性たちも女性誌の愛読者であり、
そこでファッションや男女関係の知識を得ている様子も窺える。

お雛祭りがダメなら、女性雑誌、男性雑誌と分けるのもご法度になるはず。
区別と差別を取り違えて、男女の性差まで均そうとしている人たちは、
昨今人気の「オネエサマ言葉」を話す男性をどう見ているのであろう。
彼らは「女らしい言葉」を使うことによって、
自分がより女に近い存在であることをアピールしている。

蛇足の皮肉であるが、女性が男言葉を使うようになって区別がつかなくなったら、
彼らは「女らしさ」のアピールをどう表現したらいいのか悩むことになりそうですね。

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