第52回 空き巣老人の孤独 三省堂の国語辞書で<空き巣>を引いてみた。 <その巣を作った鳥が、今そこに居ない(すんでいる形跡の無い)巣。 広義では留守の家を指すとあり、空巣狙いとは留守の家を専門にねらって入る 泥棒のこと> 従って読売の記事で<空巣老人>なる文字をみたときは、 老人による留守宅狙いの泥棒? と早トチリしてしまったが、 記事は中国特派員によるものであり、かの国では当然ながら別の意味があった。 空き巣老人とは<独居老人>をさす言葉である。 <手紙>がトイレットペーパー、<愛人>が妻や夫をさし <大女、大男>が未婚の男女を表すならば、 <空巣老人>なる単語も別の意味があって当然ですが、 愛人や大女と同じように、日本人の感覚としては独居老人が<空巣老人>とは、 やはり珍妙に思ってしまう。 これも、国が違えばなんとやらである。 記事による<空巣老人>について、 高齢化社会に突入した中国で問題になっている事例を紹介している。 代表的な例として、一人住まいの老婦人が孤独に耐えかねて、 子どもの来訪を求めて裁判所に訴えたというもの。 日本でも親子間の断絶は珍しくないはず。 この種の話題は、巷には掃いて捨てるほどあり、 犬も歩けは親子の揉めごとに当たるくらいの確率である。 しかし、わたしの世間があまりにも狭すぎるせいなのか、 この手の親子間の裁判沙汰は日本では聞いたことが無いけれど 「子どもが会いに来るように」を求めての裁判となると前代未聞である。 記事の詳細は吉林省に住む76歳の老婆が、 同居していた嫁と折り合いが悪く老人ホームに引っ越した。 老婆には、3人の息子がいるが、顔も見に来てくれない。 同世代の仲間と一緒にいるときは楽しいが、 よその子どもが訪ねてくる光景を見ると寂しくてたまらない。 息子たちに何度も電話をしても「都合がつかない」と取り合ってくれない。 老婆の願いは「介護や生活の面倒を見てくれとは思わない。ただ顔を見たいだけ」 であるから、その願いは切実である。 老婆は思案にくれたあげく、 「見舞いを受ける権利」を求めて裁判所に駆け込んだが、 裁判所は「両親を精神的に慰める法的義務はない」として、 訴えは町内会の調停に委ねられた。 うーん・・・考え込んでしまった。 名裁定で知られる遠山の金さんなら、どのような結果を導き出すのだろう。 裁判所は「法的義務はない」としたが、 なるほど子が親の顔を見に行くのは<義務>ではない。 もし、わたしが老婆の立場であるなら、義務で面会に来られたら惨めになるだけ。 しかし、子どもが心の中では義務と思いつつ親に会いに行く行為は、 受ける親からすれば紛れもない親孝行である。 <心の中まで見えなければ>の注釈つきではあるけれど。 しかし、裁判沙汰でなにもかもが表沙汰になってしまったら、 仮に会いに来てくれることが義務付けられたとして、 それでも訴えた老婆はうれしいのだろうか。 その面会に、どれほどの意味があるのだろう。 日本人にこの手の裁判沙汰が聞かれないのは、 心情重視の立場からではないかと思う。 その心をわかりやすく言うならば、 「裁判で面会を強要され、ようやく会いに来てくれるような子供なら、 こちらの方から願い下げ」と、親の方から離縁状を突きつける。 しかし、中国では心情よりも行為を重視するのだろうか。 それは、日本が心情を考慮してさまざまな交渉の場に臨んでも、 一方的に自国本位の実力行使を発揮する中国の特異体質なのか。 中国では65歳以上の人口は全人口の7.66%で、 一人っ子政策による少子高齢化が、急速に進んでいるという。 自分たちの生活を犠牲にしながらたっぷり教育を身につけさせた子どもたちは、 国外に留学、就職し、親の夢を体現していくが その愛情が深ければ深いほど孤独は深い、ということのようです。 上海では、スーパーの女性店員が常連客の<空巣老人>に 料理や掃除をしてあげるなどして取り入り、 借金と称して71万元(994万円)を騙し取る事件も起きている。 このような事例は日本でも問題になった事件があるので、 中国の現状を通じて日本の今も考えさせられました。 HOME TOP NEXT |