第32回 言葉のアレルギー 日本語は、世界でも珍しいほど多様性を持ち合わせている言語であると思う。 そして、日本人はことのほか言葉の持つ意味を大切にする民族でもあります。 それはとても大事なことですが、一方では言葉の持つ意味を大切にするあまりに、 しばしば言葉の持つ意味に縛られすぎて、 肝心の進むべき方向を見失う場面があるようにも思えます。 たとえば「人権」「平和」などに見られる人々の過剰な反応ぶりは、 その代表的なものではないでしょうか。 過剰な「人権」については、昨今では見直しがされつつありますが、 凶悪事件の加害者と被害者の関係における「人権」の扱いは、 最近までは理解に苦しむものがありました。 これも<逮捕された加害者の人権は侵されやすい>という過剰な反応が、 加害者に手厚く被害者に薄いという奇妙な現象を 引き起こしていたのではないのか。 一家の働き手を一瞬のうちに奪われ、育ち盛りの子供を抱えて生活に苦しむ被害者。 これまで国家がその被害者家族にかける費用は、 加害者にかける費用の半分にも満たなかった。 被害者の家族がそれ以上に切なかったのは、 裁判の席上で加害者は言いたいことを言い、 自分たちにはそれが許されないことであった。 最近になり、ようやく被害者の家族にも意見陳述ができるようになったけれど、 際立った不公平さがこれ以上は許されないと、世論が沸き起こったからなのか。 最近の言葉のアレルギーは「強制」でしょうか。 たしかに<強制労働><強制連行>など、言葉自体が持つイメージはとても悪い。 この<強制>で揺れたのが中央教育審議会の答申内容の 「高校、大学における奉仕活動実績の入試への活用や単位認定」である。 もとより奉仕(ボランティア)と強制とは対極にあるものだから、 それを単位認定にすると言われたら<ボランティアを強制!>と、 世間にアレルギー反応が巻き起こるのも無理からぬことです。 しかしこの場合、あまり言葉の持つ意味にとらわれすぎると、 大切なものを見失ってしまうのではと、わたしは恐れています。 父母からは、ボランティア強制に対する反論が相当あるようですが、 なぜ、中教審がこのようなことまで言及しなければならなかったかを 考えるべきでしょう。 家庭で父母からきちんとしつけをされていたら、 中教審はわざわざボランティア活動を答申内容に盛り込まなかったのではないの? 自分たちが責任を放棄しておきながら、 せっかくの妙案にケチをつけるの?と、わたしは吠えたい。 青少年に見る凶悪犯罪の多くが<キレる>というキーワードを持っていますが、 これらは辛抱や我慢することを家庭でしつけられることなく、 放縦に育てられた結果ではと、今では誰もが感じているはず。 それらを是正するための「ボランティア強制」だとしたら、 家庭が放棄した子供のしつけを教育現場が背負わされることになり、 感謝はしても文句を言う筋合いはないはず。 わたしが子供のころは、しょっちゅう家の手伝いを言いつけられた。 遊びたい盛りで親を恨みながら 「大人はいいな、早く大人になって自由になりたい」といつも願っていた。 わたしはばかりでなく、当時の子供たちはだれもがみんなそう思っていたはず。 しかし、今の子供は「大人になりたくない」というが、子供は正直である。 自分にいちばん楽な方法を、いつの時代にも望むものである。 中教審の答申関連を伝えるニュースの中で高校生がさっそく 「子供の人権を侵害している」と、コメントしていた。 (人権アレルギーの大人の悪いまねをしているのね) その君に言いたい。 「では君の義務の方はどうなの? 権利と義務はワンセットなのよ。 一生懸命勉強をして、家の手伝いをちゃんとしている? 家では君も家族の一員として、できることをするのが義務のはず」 一方、同じく高校生から以下の投書があった。 「最初はボランティアなんて絶対にイヤだったけれど、 お年寄りがとても喜んでくれたので、自分までうれしくなった。 次に行くのが楽しみで将来は福祉へ進もうかと思い始めている」 また別の投書には<旅先で貴重な体験>のタイトルで、 修学旅行で農家の田植えの体験をさせてもらった様子が綴られていた。 「当初は普通の観光ができなくて不満の声が多かったが、 実際に行ってみるとみんな満足そうな良い顔をしていた。 これからもこういう修学旅行を続けてほしい」 修学旅行で田植え! それでも「楽しかった、続けて欲しい」と願っている。 その楽しさや貴重な体験も<強制>という束縛なしでは、 一生経験できなかったものである。 大人が頭で考えている以上に子供たちは柔軟なのだ。 その芽を摘み取るのも伸ばすのも、 ひとえに大人の毅然とした態度ではないのでしょうか。 経験を恐れているのは、むしろ大人の方かもしれない。 HOME TOP NEXT |