面白いコラム 久しぶりにイイ男


第13回  久しぶりにいい男

毎年、タレントさんを対象にしたいい男のランクキングが発表される。
わたしはそういう世界の男の人にはまったく関心がないから、
いい男ランキングの発表の時期になると別のある男性を思い出す。

その男性は伸び放題のひげをさっぱりとそり落とし、
記者会見に笑顔で応じた。

男性の名前は武智三繁さん(当時50歳)。

長崎県の崎戸町の漁船<繁栄丸>の船長で2000キロを漂流し、
1カ月ぶりに太平洋上で救出された人物である。

記者会見で彼は言った。

「人間って、なかなか死なないものだなぁ」

これが当時2001年の流行語大賞の語録賞を受けましたが、
わたしはユーモア大賞も合わせてあげたいと思った。

日帰りのつもりが1カ月間も真夏の大海原を漂流する羽目になり、
自力で歩くことさえ困難な状況下で救出されたときの、このセリフ。
並みの男性では、なかなかこのようにはいかないのではと思った。

さらに流行語大賞の受賞時のあいさつでも、
彼のユーモア精神は発揮された。

「これですぐに死んでしまったら話になりませんね」

武智さんの出航時の体重は47キロだったそうだから、かなり痩身である。
その人が強烈な真夏の日差し、飢え、渇きの三重苦と闘い、
人間の干物の様相で救出されたのだから、
痩身に宿る強靱な精神力は、筋骨隆々の逞しい大男のそれよりも、
はるかに極太だったようです。

武智さんは干物同様になっても、瓢瓢としていた。

日記を読ませていただいたが、
「いつ死んでも仕方がないと思ったら、少し気が楽になった」と、
当時の心境が淡々と書かれていたが、
生き延びるための驚くほど冷静な判断と知恵が働いていた様子が
随所にうかがえる。
究極の悲惨な状況を綴っているのにもかかわらず、
それほどの悲愴感が伝わってこないのは、
なによりも武智さんの人柄のせいであろうか。

遭難した人が、自分のオシッコを飲んで生き延びた話を耳にしたことがある。
武智さんもオシッコを飲んだと書いてあったので、
知りたがり屋のわたしは、すぐに夫に聞いてみた。

「極限状況に陥ったら、自分のオシッコを飲める?」

夫からは未だに回答は得られていないけれど、
自分の場合だったらどうするのか、すごく気になっている。

ちなみにそのお味の方は
「カップに入れて冷まして飲んだらしょっぱかった。よけいに渇きが増してしまった」
そうである。
今後の参考になるかも知れない。

人間があまりに干上がってしまうと唇はくっついてしまい、
口を開けるのにも大変だったとのこと。
だから唇が渇かないように「オシッコは唇を湿らす程度にした」と記述している。

遭難と言えば、武田泰淳氏の代表作<光ごけ>を思い出す。
こちらは小説の世界ですが、
武智さんと同じ漁師の遭難時の極限状態をテーマーにした名作である。

遭難した漁師が飢えに苦しんだあげく、
仲間のひとりを犠牲にして生き延びるというすさまじい内容である。
つまり、仲間の人肉を食べて生還する物語ですが、
驚くべきことにこのすさまじい状況が実在したのです。

かなり前、たぶんアンデスの山中に墜落した飛行機事故だったと思う。
奇跡的に生還した数人の生存者がいた。
後になって当事者の口から真実が語られたとき、
衝撃的な内容が世界を震撼させた。
その内容は生き残った彼らが死んでしまった乗客を食べて生き延びた
というものだった。

飛行機に乗る機会があるわたしは、遭難に関して無関心ではいられない。
遭難して生き残る度合いは、断然太った人が有利だとの結果が、
医学的にも立証されているが、
その根拠は脂肪を燃やして生き延びられるとのことらしい。

そういえば冬眠するクマさんも、まるまる太ってから穴に入り、
ひと冬を過ごしてから、春先にはげっそりやつれて現れる。

要するに、人間も野生動物も体の仕組みは同じ?

わたしは不安になった。

ケーキが大好きでケーキバイキングでは10個くらいはイケル口だし、
毎日食べている。それでも一向に太れないから、
遭難したら真っ先に衰弱死するタイプである。

もともとお肉はあまりついていないから食べられる心配はなさそうだけれど、
いちばん先に死ぬ役割を与えられるのはやっぱりイヤだ・・・

と思っていたら、わずか47キロの武智さんが
灼熱の太陽の下でも1ケ月も生き延びられたのである。
わたしが彼に引き付けられた最大のポイントは、そこにあったのかもしれない。

強靱な精神力は、ガンなどの病気に侵された場合でも不思議な力を発揮するという。
強靱な精神力に因って免疫力を高める物質が体内に発生すると聞いたことがある。

久しぶりに登場したイイ男を通して、
あらためて人間の精神力の底力の凄さに触れた思いがしました。


このコラムは2002年に書いたものですが、
2005/03の読売新聞記事に「アンデス奇跡の生還」が掲載された。
1972年にアンデスの山中に墜落した飛行機の生還者の所持品が発見され、
32年ぶりに返還されたというもの。
所持品はパスポートや免許証、財布、フィルム、サングラスなど。
顔写真を掲載された生還者はウルグアイの男性建築家。
人肉を食べて生き延びた辛い記憶と、
所持品が発見された喜びが交錯すると複雑な心境を述べていました。


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