辛口コラム 第241回 日本人を馬鹿にすると、ただじゃ済まないわよ

1ケ月間のスイス旅行を終え、「やれやれ、やっと日本へ帰れる」と、
ジュネーブの中央駅のホームで列車を待っていた。
首都の駅のホームだというのに閑散としていたのは空港行きだからか。
朝のホームには人の姿はほとんど見当たらなくて夫とわたしが待っている場所に、
白い半袖にジーンズのさっぱりした感じの長身の青年がひとりだけいた。

列車が入線し、わたしたちは乗り込んだ。
ジーンズの青年が続き、そのあとにホームでは見かけなかった
ずんぐりむっくりのポロシャツの中年男性も乗り込んできた。
それに続いて、またふたり。
いずれも似たりよったりのタイプである。
結局、狭い乗車口の通路に、6人の乗客が乗り合わせた。

危機管理意識の強いオクサンの方は、
外国の乗り物では乗降口付近には立たないことを守っていたけれど、
席に座るためには重いスーツケースを持ち、わざわざ階段を上がっていく面倒がある。
(スイスの列車は階段をあがって二階に行くスタイルがある)
さらに、空港までの乗車時間はたったの7分である。

欧州の列車は予告なしにいきなり出発するし駅名も恋人に囁くような声量で、
あっさり1回ほど告げるだけであるから、モタモタして乗り過ごしたら日本に帰れなくなる。
過剰な乗車サービスに慣れている日本民族にはかなり緊張を強いられる場面である。

「どうする、このまま立って行く? それとも座った方がいい?」
夫も迷っていたから、「このまま立っていきましょうよ。荷物は絶対に手から離さないでね」と、
いつものように危機管理の薄い夫にカツを入れながら、
何気なくなく夫のスーツケースに視線を転じ、あれ、目の錯覚 ?と、
もう一度よく見直した。
夫ではない人の手が、夫のバッグに無断侵入しているではないか。

まさか、と半信半疑で目を凝らすと、夫の隣に立つ男の手が、
間違いなく夫のショルダーバッグのポケットをまさぐっているようだ。
彼はスリの常套手段である、手にした雑誌でさりげなくショルダーバッグを覆い隠し、
その陰で仕事をしようとしていたらしいが、隙間から見える彼の手にわたしが気づいてしまった。

「ちょっと、あなた、なにやってんの!」

彼はうろたえもせずに、手を突っ込んだままわたしを見て微笑み、
夫は事情が飲み込めずにキョトンとしている。

彼が頬に浮かべたのは、不敵さを漂わせたニヤリではなく、
あくまでも紳士の挨拶のような軽い笑みである。
堂々たる態度に「勘違い?」と、わたしの方が一瞬ひるんでしまった。
もっとも、わたしは日本語で「なにやってんの?」と問いただしたので、
彼は戸惑い微笑むしかなかったのかもしれない。

それにしても、現場を押さえられても手を突っ込んだままとは、
日本人だから舐めたのねと思ったとたんに本来の腹立たしさを取り戻し、
頭に血が逆流した。

「あなた、さっさとそこを離れなさい! ゴー・アウエイ。馬鹿にするとただじゃ済まないわよ」

わたし流の日本語と英語を交えた大声で怒鳴るとその剣幕に驚いたのか、
男はしぶしぶといかにも未練がましく夫のそばを離れ、堂々と列車を降りた。
なぜか、別のふたりの男も彼の後に続いた。

わたしの罵声に驚いた中年の三人組が降りてから、夫に言った。
「気がつかなかったの? もう、危機管理がないんだから。あの三人、仲間だったのね」
負けず嫌いの夫が、すかさず言い返した。
「わかっていたさ、バッグにはなにも入っていないんだぜ」

確かにパスポート、現金、クレジットカードの類は、
夫は肌着スタイルの旅行用のベストに入れてシャツの下に着ている。
バッグに入っているのはティシュペーパー、ハンカチ、ガイドブック、会話集くらいである。

「それだって、盗まれたらシャクでしょ。それより、甘い日本人と見られるのがもっとシャクなの」

わたしは傍らにいるジーンズのさっぱりした青年の顔を何気なく見た。
先の三人に比べたら学生風のさわやかな感じではあるが、彼は手ぶらだった。

空港へ向かう列車なのに手ぶらなの?
その先に行くとしてもなにやら不自然ではないかと、
長年培ってきた勘のようなものが働いた。
どうせ彼には日本語は理解できないんだからと、堂々と夫に言った。

「この彼も、なんだか怪しいわね」

「そう言えば、ホームで待っているとき『空港行きの列車ですか』って聞いたぜ」
「それ、おかしいわよ。この軽装じゃ間違いなく現地人よ。知っているはずなのに」

わたしが(怪しい人とわかっているのよ)と、彼にわざとらしい視線のメッセージを向けると、
彼はまっすぐ前を見ているふりを装っていたが、
わたしのキツイ視線をその頬に針のように感じていたはず。
その証拠に、ワンテンポ置いてから彼は何気ないそぶりを装い、
すーっと階段をあがり客室の中に消えた。
そこには赤いワンピースを着た白髪の老婦人がたったひとりだけ座っているはずである。
わたしが背伸びをして彼の後ろ姿を確かめると、彼は老婦人の前を通り過ぎ、
長い客車をそのまままっすぐに進み次の乗降口へ消えた。

ルーマニアの市場ではわたしのバッグに手が伸びた。
常に危機管理のシュミレーションを怠らない人は、バッグにわずかな重みがかかった途端に、
ほとんど無意識のうちに手を振り払っていた。
手をひっこめたのは半そでシャツの短パン姿で、一見観光客のような雰囲気の若者だったが、
悪びれもせず堂々と立ち去った。

ポーランドの野外カフェでは、隣のテーブル座った青年の挙動に注目した。
観光客向けの広場に面したカフェのコーヒーは、現地の人にはかなり高く感ずるはず。
そのカフェに手ぶらで、たった一人で落ち着きがなく座っている青年。
テーブルの上に置いたわたしのキャノンの一眼レフ。
青年の視線がチラチラとそちらに流れている。
わたしはそっとカメラを膝の上に置き直した。
青年は形だけ間を置いてから傍目にもしぶしぶ席をたった。
彼の後姿を目で追いながらわたしはつぶやいた。

まったく、油断も隙もありゃしない。

このようにしてこれまで100回ほどの海外旅行で、
幸いなことにスリや置き引き等の被害に遭ったことは一度もありません。
それでも、この先は保障されていませんから気を引き締め直したいと思います。

海外では危機管理の薄い日本人がターゲットにされる例が多いと聞いています。
いやな世の中ですが、海外では「人を見たら泥棒と思え」意識も、
時には必要だと思っています。


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