第214回 居場所考〜一杯のコーヒーから

あなたの居場所は? と問われたら、
たぶんわたしは三日間は頭を抱えて考え込んでしまうと思う。
それほどに、日常生活の中では意識しない事柄だから。

これが野生動物となると、まことにわかりやすい。
彼らはオシッコを振り撤くマーキングという行動を通して、
自分の居場所を厳格かつ明確に規定している。
彼らの居場所は掟となりそれを侵したりする行為は
命のやり取りを意味することになる。

幸いなことに人間世界には、
居場所を定義するような厳格なマーキングもなければ
命と引き換える恐ろしさなどはないようだ。
それだけに千差万別が許され、
各人各様の居場所が存在するのだろうか。

「あなたの居場所は?」と問われたら大抵の人は
「自分の存在が認められる場所」あるいは「居心地の良い場所」「好きな場所」と考えるから
自分の家であったり、職場であり、アルバイト先であったりするのか?

わたしは自分の精神状態が何かに束縛された状態に陥ったと感じるとき、
いつも同じ行動パターンをなぞっている。
つまり、お気に入りの一冊の本を抱えて静かでくつろげそうな雰囲気の良いカフェに足を運ぶ。
低く音楽が流れる空間の一角を独占してカップの熱いコーヒーを二度ばかりすすったあと、
手にした本の一ページ目をゆっくりめくる。

やがて時間の経過とともに周囲のざわめきが遠のき、
心地よい音楽さえ耳に届かなくなるころ、
目は活字を追えなくなっている朦朧とした状態でありながら、
なぜか本の物語や内容はちゃんと頭の中に鮮明に展開されている、
そのようななんとも不思議な感覚を体験する。
精神だけが異次元の世界にワープしているような感覚である。

わたしは自分にそんな感覚をもたらしてくれる時間を
自分の居場所と考えているのだろうか。
つまり、<自分が認められる「場所」>ではなくて
<自分の精神が解放される「時間」>を居場所として考えているのかもしれない。

それゆえ居場所がいつもコロコロ変わるので、
問われたときに戸惑いを覚えてうまく答えられないのだ。
あげくの果てに「自分の居場所はどこにでもあります」などと口走って
(なんて尊大な人!)と顰蹙を買ってしまう結果になるのかも・・・

人間はよほどの自意識がない限り「自分が認められる場所」などと
常にテリトリー意識を保ち続けるのには不適当な生物ではないのかしら?
それを意識し過ぎた結果「自分がどこでも認められていない!」
などと思い込んでしまったら、
それこそ世の中が真っ暗に思えてしまうかも。
そしたらもう坂道を転げて落ち込むしかないでしょ?

ちかごろ世間に蔓延している「自分の居場所がない病」は
居場所を意識し過ぎた結果ではないのかしらと
単純なわたしは思っているのだけれど。

もし、居場所の観念を「場所」から「時間」に発想を転換をさせて、
自身の精神をリフレッシュさせてくれるものとして心の中に設定できたら、
いつでもどこへでも手軽に持ち運べるし、
他と自分との存在価値を比較することもなく
精神衛生上すこぶる良いに違いないと勝手に思い込んでいる。

たった一杯のコーヒーで別人のようにリフレッシュして、
「明日は何かいいことがありそう」なんて
ちょっと心ウキウキとカフェをあとにできるならば
自分の居場所って意外に簡単で安上がりじゃありませんこと?


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