第199回 アナログ人間の憂慮の世界

年に数回、電車に乗って都心へ出かけるけれど、昨日はその日に当たった。
しかも、珍しく通勤時間帯に乗り合わせたものだから、その混み様に驚いた。

最も自分の通勤時代、学芸大学から乗車した東横線の電車も凄まじく、
渋谷で乗り換えの赤坂までの地下鉄銀座線の混み様も半端ではなかったが、
すでに忘却の彼方の出来事なので、久しぶりに痛勤電車(?)を経験して
驚いた次第です。

さらに驚いたのは、その身動きできない状態の満員電車の中で、
器用にスマートフォーンを操る人のなんと多いことか。
人の顔が違うようにスマホを操る人の手先も、実に千差万別。

片手だけでチョンチョンと指先を使う人、
スルースルーと画面をスケートのごとく滑らせて変える人。
左手で押えて、右手で操る人。
横長の画面を両手にしっかり持って左右の手を忙しく使う人は、
満員状態をよいことに、電車の揺れも他人の身体に任せている。

なんとまあ、器用な人たちだろうと感心するやら、
混んだ電車の場所柄を考えると呆れるやら。

しかし、誰もが一心に画面を凝視して自分だけの世界に没頭している。
常に揺れている電車の中で凄まじいほどの集中力を発揮しているように見えるけれど、
通勤はそれだけで疲れるはずのもの。
さらに集中エネルギーで酷使するなら、
職場に着くころは疲労困憊で仕事へのエネルギーは空っぽになっているのではと、
世情に疎いおばさんは心配するけれど、大丈夫なの?

ラッシュの通勤の最中でも操作しないではいられないような魅惑に満ちたものが、
あの小さな物体の中に秘められているとしたら、それは何?

わたし自身はパソコンしか経験がないけれど、
文章作成やニュース等の情報を得るだけなので、
パソコンに張り付く時間はそれほど多くないから、
間違っても異常なほどの状態には陥らない。

それゆえに電車の様子を眺めていると「なにがそこにあるのだろう」と、興味がわく。

たしかに、手軽に持ち運びできるスマホのようなツールは、
いつでもどこでも必要な情報を得ることができる。
一見、万能にも思えるツールもそれを使う人の器量にもよるようです。

著書の「声に出して読みたい日本語」がベストセラーになり
メディアの寵児となった明治大学文学部教授の斎藤孝さんは
「ネット時代、新聞に強み」の公開シンポジュウムの中で述べていらっしゃる。

「情報の洪水と言われるが学生と付き合ってみると、
それほど多くの情報に接している実感はない」と言い切る。

その理由としてSNSなどを使った友達同士のコミュニケーションの時間が多く、
それほどいろいろな媒体と接しているとは言えないのではないのか」

ここでは媒体についての内容を述べているが、
スマホの使い方にも共通するものである。

つまり、ネットに情報は溢れていても、
自分の興味があるものしか関心をよせないとなると、
便利なツールも使い方次第ではかなり限定的なものになるはず。

しかし、満員電車の中で多くの人が小さな画面を凝視して一心に操作をするさまは、
ちょっとしたSF映画の奇妙なシーンに見えなくもなかった。
そのようなツールの存在が、
他人とのコミュニケーションをうまく取れない人を急増させているようにも感ずるけれど、
理解し難い事件や出来事が頻発するようになった世相と関係があるのだろうか。

便利なツールは価値のある必要な情報と共に、
知らなくても良い弊害となる情報も満載している。
使う人の裁量と知恵が試されている時代だと思うけれど、
このまま突き進むとしたら、その先にある世の中はどうなるのだろうと、
アナログ思考の人は憂慮するけれど、憂慮で終わることを願っています。


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