第198回 笑われてもいいの

数日前、歯科医院の待合室で日経新聞を読んでいた。
中ほどの頁の一面に大きく対談が掲載されていたが、
タイトルは「予測で危機回避」

常々わたしが心得としている思いと同じタイトルに興味を惹かれ、
読もうとしたそのとき、長い待ち時間に終止符を打って名前を呼ばれた。

予約時間を間違えたかと思われるほど長く待たされ、
そのイライラを解消させてくれるような記事を目にした途端に
名前を呼ばれるのである。
人生なんて所詮はこんなものと、大げさに感じる瞬間です。

歯の治療を受けながら、さて、タイトルの文字はわたしの思いと同じだけれど、
内容は違うものであろうと思った。

経済記事の新聞で言うところの予測も危機回避も、
おそらく経済についてのものであると思えるが、
わたしのそれは自分の身に起こる予測と危機回避を指すものです。

たとえば、我が家の玄関の鍵は家人がいるいないにかかわらず、
いつ何どきでも施錠するから、ちょっとした開かずの玄関である。

散歩に出るとき、家の中に夫がいても玄関の鍵をかけて出かける。
監禁するほど大事な存在と言うわけでもないが、
夫にも出かけるときはわたしを監禁してもらっている。
二人で一緒に家の中にいる時も、もちろん内側から監禁する(?)

夫は極端に面倒くさがりで、わたしは極端に用心深いから、
その差を縮めるのはかなり忍耐を要したけれど、
今ではわたしが家の中にいても夫が出かける際には施錠するようになった。
以前と比べて世の中が格段に物騒になったこと、
いつなんどき何が起こるか予測さえつかなくなってきていることに、
遅ればせながら夫も危機感を募らせたようである。

いきなり路上で刺され、通りがかりの車の中から吹き矢が飛んでくる、
屋上から人が落ちてきたり、前進するはずの車がよもやでバックして突っ込んでくる。
まだまだ枚挙にいとまがないほど、
予測できない事件や事故が世間では珍しくなくなった。

ゆえに車が発進しようとしている前後は避けて通る。
夜の住宅街で背後から来る自転車、バイク、車等には絶えず注意を傾け、
退避出来るような空間があれば通り過ぎるまでさっと身をよけ、
相手のタイミングを外す努力をする。

そのほかにも、さまざまな場面で危機予測をし回避を試みているけれど、
詳細を語ると馬鹿にされるから、秘密にしておくの。

普通の人からすれば、頭がオカシイだの異常だのと思われるかもしれないけれど、
東関東大震災で「津波なんてここまで来るわけがない」と呆れられながら、
退職金をつぎ込み約10年をかけて山に避難所を造った男性が、多くの人の命を救った。

この手のエピソードは昔話にも登場するから
「そんなことして何になるの」と、平時に馬鹿にされた人が(わたしのように)
いざというときに危機回避を可能にしているようである。

つまり、危機とはそういう類のものであることを、認識する必要がありそうですね。

そういった意味で、日本はまだまだ楽天的である。

夫の田舎へ帰省時に総出で墓参りをするとき、留守宅に施錠をしない。
「この辺は大丈夫」と人の好い義妹は笑っているが、
犯罪者は監視が厳しい都会を逃れて田舎をターゲットにしていると、
他国の窃盗団が報道番組でコメントしていた。

結局、大丈夫と笑っている人たちがターゲットにされるのである。

最近の事件では、ストーカー男につきまとわれながら、
1階リビングの施錠をしていなかった女性が殺害されてしまった。
たまたま施錠を忘れたとしたらとても不運な事件である。

沖縄のアパートでも中学男子がアメリカ人の兵士に首を絞められた。
突然、真夜中に外国人が侵入し首を絞められた驚きと恐怖は、
男の子の人生にトラウマとして一生忘れることができないでしょう。
とても可哀そうな事件だけれど、
これも真夜中であるのにドアの鍵がかけてなかったのが原因である。

わたしの場合は心配性が過ぎるかもしれないが、その場面で考えられる危機回避を、
効果はさておき、これからも自分なりに実行していきたい。
たとえわずかでも「想定外」を言い訳や後悔の種にしないためには、
国家も、東電も、個人レベルも心得は同じであるはず。

国家レベルの危機管理には厳しい目を向けても、自分の危機管理は他人任せ。
(電車などで幼稚園児を諭すようなアナウンスをされても疑問に思わない人たちのことよ)
そういったアンバランスののんき者の人が案外多いとみているけれど、どうかしら?

事件や事故の犠牲者になる確率をわずかでも下げられるのなら、
たとえ夫から「バッカじゃないの、異常じゃないの」と軽蔑されても、
これからも自己流危機管理を実践するつもりです。


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