第177回 シンプルに消えるのみ

世間には、若返りのためのサプリメントや美容関連の広告や宣伝がメディアを席巻し、
それはすでに騒音やゴミ公害として、すさまじい勢いで日常にタレ流されている。

そこで考える。

人はなぜそんなにも年を取るのを恐れるのか?
嫌悪すらしているようにも思える。

誰もがいつまでも若くありたいと願うのは当然であるが、
それも程度問題で、外見をいくら延命してみても
ほんの数年くらい、気休め程度に先延ばしになるだけのもの。
そのためにたくさんのお金と時間を無駄に費やし、
先を思いやり暗くなったりするのはもったいないと個人的には思っています。

年を取るのは避けられないと分かっているならば、ジタバタするよりも
仲良く寄り添う方が、人生がもっと明るく豊かになるのではと、自分に言い聞かせている。

だからというわけでもないが、美容や若返りには無関心で特別なことは何もしない。
理想的に年を取るには健康は最も大切な要素であるが、
手っ取り早いサプリメントに頼るより、食生活の充実や生活習慣に留意する。
日常の根本の部分に目を向け、実践するように心がけている。

厄介なのは精神面のケアであると思う。
まだ経験し得ない「老後」という、その先の人生を恐れるのは、
若者が未知の世の中を恐れるのと同じような思いがあると思う。
その内容が「上り坂」と「下り坂」では、根本から違っているから、
下り坂のイメージはやはり暗いものがつきまとうのだろうか。

しかし、わたしは老後に暗いイメージはあまり感じていない。
自分の一生を植物に重ねると、芽を出し、葉をつけ、
小さいながら花も咲かせ(咲いたとは強く認識できないけれど、結婚?)
小さな実をつけたら(家庭生活?)、後は朽ちて土に戻るだけ。

その先に輪廻という概念があれば、何かに生まれ変わることも考えられるだろうが
人生は一度きりだからこそ価値があるという考えのわたしには、
その先の世界はないから、朽ちて土に戻るだけ。
とてもシンプルなイメージである。

さらに、老後も悪くないと思わせるものに、大先輩たちが後輩に見せてくれる姿がある。

新聞の投稿からの抜粋を紹介します。

妻が入院している84歳の方の場合。
「妻よ、今朝は君が<本年もよろしく>と、笑顔で新年のあいさつをし、
ぼくにお酌をしてくれる夢で目が覚めた」
夫はおせち料理を注文しても、妻が病室で食べるご飯を思うと申し訳なくなり、
退院するまではと断った酒は、今では冷蔵庫に入れっぱなしで手をつけなくなった。
独り暮らしでさみしいが、妻が退院する日を夢見て頑張ると宣言していらっしゃる。

90歳の体操教室の先生の場合。
奥さまに先立たれて10年になる。そこに通う生徒たちの話し合いの場に、
出前のお寿司の昼飯をふるまうとき、自らダシを取り野菜を刻み、
ワカメとカボチャと青菜の味噌汁を調理する。
絶品だったと生徒たちが感心している。

92歳の男性の場合。
3年前からアルツハイマーになった妻のために、家事を引きうけている。
自身も難聴の上、結核で肺切除を受け体力がなく、腰痛もあり、
最近では視力も低下しているが、それでも「三重苦でなくて、始終苦(四重苦)だね」
と妻に語りかけている。
生活に疲れて時には妻に辛く当たることもあるけれど、
互いに言いたいことを腹にためないのも良いと思っている。
週に2回介護施設に通うときは、恥ずかしげもなく手をつなぎあっている、
と綴っていらっしゃる。

共に自立した姿に、とても勇気をいただく思いがするが、
果たして自分がこの年まで生きられるのか、寿命があったとしても、
このように真摯に人生に立ち向かえるのかと考えさせられる。
何より、そのとき夫がそばにいてくれなかったらとぞっとするけれど、
そんなときは俳優の三国連太郎さんの寄稿文を思い出す。

三国さんはインタビューで語っていらっしゃる。

「人間の存在は<孤>だと思います。そこに気がつかないと妙な依存心を持ってしまう」。
「老いることで失うものは何か」の問いに次のように語っていらっしゃる。

「失うものは何もないと思います。世間では老いると孤独になると言うけれど、
 人生はオギャーと生まれたときから一人なんですね。人を恨むことも自分を恨む
 こともない。ただ年月が過ぎていっただけのことです」

三国さんの考えは、わたしがひごろ考えている思いと重なり合うものがあり、
老後をあるべき自然のなりゆきとして、淡々と迎えることの大切さを
あらためて感じています。


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