第168回 釈明会見の意味は?

警官の不祥事が新聞記事に登場する回数がかなり増えている。
そのせいか、以前のコラム「芸能人はいいなぁ」の中で、
命の危険にさらされている職業だから、
警察官の待遇をもっと考えてあげたらという内容に、
読者から厳しい意見が寄せられた。

その印象が「警察官全体が悪い」というニュアンスで
立腹されているようだったが、果たしてそうなのか。

警察官という職業は、生活のためだけで選んだとは思えない特殊なものがある。
その心に、人の役に立ちたいという強い動機がなければ、
漫然と選べる職業ではないと思っている。

毎年小学生を対象に、おまわりさんとのふれあいの体験等を綴った
「私たちの街のおまわりさん」を広く募集しているが、
その応募数は2万件を超えている。
それだけの数のおまわりさんと温かい交流や触れ合いがあることになるが、
新聞記事の不祥事警察官の数をはるかに上回っている。

わたしがこの作文を読むのを楽しみにしているのは、
不祥事記事ばかり見続けていると、「確かに今の警察官は」と、
誤った印象を持ってしまいがちになるから、
バランスを取るためにも必要だと思っている。

応募作文に書かれている内容とは、おまわりさんに接して憧れを募らせ、
自分も警察官になりたいと夢を持つ子供、父親の仕事の姿勢に憧れ
同じ警察官になりたいと思っている子らの姿が浮かび上がる。

しかし、警察官を取り巻く現状はどうなのか。

職務質問をした途端に、いきなりナイフで刺され、車を発進させて轢かれ、
あるいは拳銃で撃たれ、暴走族に集団で襲われたりと、常に危険が付きまとっている。

その警察官は、自分の身の安全をどのように守っているのか。
腰の拳銃は飾り物なのか。

いつも疑問に思うのは、まれに警察官が犯人に対して威嚇発砲したり、
あるいは足に向けて発射したりすると、かならず「拳銃の使用は正当であった」と、
釈明会見や弁明がニュース記事になる。

なぜそのつど、釈明や弁明する必要があるのか疑問に感じている。

一般国民は、警察官の拳銃は正当に使用されるものと信じているはず。
不正に使用した際には、国民に事の仔細を明らかにする必要があるが、
正当に使用された拳銃についてなぜわざわざ釈明する必要があるのか。

釈明会見に意味があるとすれば、
警察官が自分や市民の安全を守るべき土壇場で拳銃の使用をためらう、
つまりプレッシャーの種になる以外には考えつかない。

外国の凶悪犯が「日本の警察官は怖くない」と、口を揃えて言う記事を読んだ。
世界にも稀である日本の警察官は、自らが危険に陥っても銃を抜かないと見透かし、
たかをくくっているとしか思えない発言内容である。

数年前、東京都北区滝野川の路上で騒いでいた少年を立ち去らせるため、
警視庁滝野川署の男性巡査長(27)が拳銃を抜いて威嚇した事件で、
全国から巡査長の行動を支持する手紙やメールが署などに相次いだという。

この場合、個人的には<すこし過剰だったかな>と思わないでもありませんが、
メールを寄せた人たちの心情も理解できる気がした。

腹立たしいのは高校2年生ら少年3人の取った行動である。
直後に「銃を向けられた」と署に訴え出た。
自分たちの迷惑行為や警察官の問いや注意は無視したのを棚に上げ、
日本は警察官の発砲行為に厳しいことを知っているからこそ、
当の警察官を追い詰めるための報復行為と思えば、悪知恵だけは相当である。

巡査長は警察官だった父親にあこがれ、幼いころから警察官を目指していた。
署内でも「正義感が強い」と評判の人物であるようだ。
自宅謹慎中の巡査長は、
「もし、あの状況に戻れるなら相手が折れるまでとことん説得します」と、
拳銃で威嚇したことに反省の弁を述べているという。

一理あると思うが、若者が直後に取った行動から察すると、
折れる状況はつくりだせなかったと見る方が正解ではないのか。

昨今の少年たちを「少年だから」と侮るとひどい目に遭う。
過去に起きた少年犯罪の例を見ても、時には大人顔負けの悪辣を発揮している。
真面目で正義感の強い警察官が思わず発砲してしまったのには
それなりの理由があったのだと解釈している。

警察官は拳銃使用前には警告を発しなければならないようですが、
以前ニュースで、警告を発し空に向けて威嚇発砲をした警察官が、
そのすきに刺された事件を報じていた。

「そんな生温いことをやっているから刺されるんだ!」

そのとき、夫はいまいましそうに言ったが、それは警察官を非難したのではない。
そのような状況に警察官を追いやっているものに対しての、いまいましさである。

つまり、警察官の発砲行為に対する世間のアレルギーにほかならない。

前述の警察官に対する懲罰には、近隣からも嘆願書が届けられたというが、
少年らの騒ぎを注意したり辟易した人たちのものもあったという。

昔、警察官を怖がったのどかな時代と違い、今は社会の治安が極端に悪くなっている。
以前は非難の対象になったような警察官の発砲にも、
嘆願書が届けられる時代なのである。

警察官の銃の使用は、自身の一生の問題でもある。

シージャック犯を狙撃した警察官は、
犯人の家族から殺人だと訴えられ裁判になった。

また別の事件では、警察官の職務質問に対し、
激しい抵抗をした中国人2人組に拳銃を発砲し1人が死亡したため、
警察官は遺族から損害賠償の訴えを起こされた。

この警察官は、2人組の凶暴な中国人に1人で対する身の危険を感じ発砲したが、
この場合、彼らの祖国の中国では警察官に対しての凶暴な抵抗がどう扱われるのか。
日本のように甘くはないはずである。

警察幹部の釈明会見は、
警察官の発砲に対する世間の風当たりを弱くしたいとの保身が透けて見えるが、
なぜ胸を張って堂々とできないのか。
不正に使用した以外の釈明会見は、もうやめたらどうなの。
警察官の発砲の度に、いちいち会見を行うのは世界中で日本だけではないの?

いかに日本の独特の儀式とは言え、滑稽でなりません。



HOME  TOP  NEXT