第162回 看板は倒しても、看板倒れはダメよ

デジカメの蓋が閉まらなくなったので修理に出すことにしたが、
住所を調べると修理センターは世田谷にあった。

車で出かけたが、そのあたりは緑の多い地区だった。
すっきりと延びた道路の片側は一般住宅が軒を並べ、
もう一方は三階建ての赤いレンガ造りのマンションが道路に沿って伸びていた。
道路には桜の木が植えられ、春にはさぞ美しいことだろうと思ったが、
春でなくてもそのあたりは充分美しかった。

夫が「看板がないとこんなにも景色や雰囲気が違うのか」と感心していたが、
家並みと緑の木だけのすっきりした風景は、看板だらけの日本では珍しい。

土地の価格が高い世田谷でも、マンションは三階建てである。
きっと規制されているか、周囲の住民感情を考慮したものに違いない。
そうでなければ、やり手の不動産業者のソロバン勘定は、割りに合わないだろう。

目指す修理センターは、マンションに隣接した建物だったが、
有名な企業でおなじみのその名前は、通りから見える看板はなく、
建物の壁に名前を記した小さなプレートがあるだけのもの。
車が建物の正面まで来て初めて目につくもので、あまりにも慎ましく(?)、
そのせいで「たしかこの辺り」と思われるエリアを、
行きつ戻りつして探さなければならなかった。

修理センターでわかりにくい看板のわけを尋ねると、
「この地域では通りに看板は出せないのです」と言った。
やはり区で規制していたのだ。

やればできるじゃない、と思ったのは、
あまりにも看板が多すぎる日本の光景を残念に思っていたからである。

石原慎太郎氏が東京都知事になり、例の意欲満々の石原調で看板の規制に触れたときは、とても期待していたけれど、その後、何も変わらないところを見ると、
さすがの石原さんも看板に負けたのでしょうか。

これが本当の看板倒れ?

日本の他の地域の状況はよくわからないが、
東京の歩道上の立て看板のすごさと言ったら、どう形容したらよいのか。

特に商店街の路上はひどい状態である。
ものを売るお店は、商品を路上にはみ出させ、
飲食店はメニューを書き連ねた立て看板や掲示板、提燈等など、
お店の宣伝になるものは総力をあげて、公共の路上にはみ出させている。

最寄りの電車の駅前の路上は、それら隙間を縫って
違法駐輪の自転車が、通りが見える限りの範囲を埋め尽くしている。
若くて適応能力の高い世代ならばとにかく、高齢者や足元の不自由な方、
車椅子等には、とても危険な状況であるが、
それに輪をかけて、スピードをゆるめない自転車が、
身体に触れるようにして通り過ぎる。

そのような環境の歩道を高齢者の妻らしい女性が、
杖を付いて足元がおぼつかない夫の腕に軽く手を添えてやってきた。
ある地点からおふたりは並んで歩けなくなった。
本来の歩道のスペースは、ご夫婦が仲良く並んで歩くのに充分なはずであるが、
歩道の両側にはそれぞれ自転車や看板が邪魔をしていた。
妻は先に立ち夫の手を引いていたが、夫は横からの支えを失い、
ほとんど転びそうな体勢になった。

いろいろな国で歩道をたくさん歩き回っているが、
ヴェトナムや中国の路地や歩道も混沌としているが、
不思議と日本のように立て看板等が邪魔をする光景は見たことがない。
当然のことながら先進国に至っては、
歩道が立て看板や自転車で溢れている状況などは論外である。

日本は先進国じゃなかったの?

前述のご夫婦は西洋人だった。
もう長く日本にお住まいで、このような状況にはなれていらっしゃるものと思ったが、
大変なことには変わりない。

もちろん、外国人だけでなく日本人にしても同様。
自分では足元もまだしっかりしていて、
適応能力もそれなりにあると思いこんでいるわたしにしても、
路上の看板、商品、自転車等にはドキッとさせられることがある。

日本社会は車の交通安全には、キャンペーンやキャッチフレーズ、
幟、タレ幕等、華々しい活動を繰り広げるが、
日常に溢れているこれらの危険にはなんとも無頓着であり、
一向に対策がとられる様子がない。
もし対策を講じているとしても、その効果がまったく見えてこない。

車椅子や杖の歩行者、小さい子供等にとっては、
歩道のこれらの障害物は避けては通れないという点において、
ある意味では車と同様に厄介な存在となっているはず。
路上の段差についても、かなり以前からよく指摘されていることだが、
これらも解消されているとは言い難い現状である。

行政は国民の注目を浴びやすい事柄だけにスポットを当てずに、
これらの当たり前と思われているような日常の状況にも、
積極的に対策を講じていただきたい。

本気でやればできるはずなのになぁ。



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