第161回 日本の道路交通法規は変わったの?

本日、散歩の河川敷に行く途中で実に大胆な光景を見た。
その人物は小柄な中年の男性だったが、行動と心臓は特別の大柄仕様だった。

彼は赤信号を平気でスタスタ渡った。

「なーんだ、そんなこと今では珍しくもない」と言われそうだが、
そこは市役所のあるメイン通りの大きな交差点である。
車は渋滞で列をなし、信号待ちの人も人垣を作って待っている。
その中を堂々と渡るのだから、衆人の注目を浴びることになり、
かなり図々しい人物でもすこしひるむような状況であるから、
わたしの脳ミソは目まぐるしく回転した。

「恥ずかしくないのか、それとも信号を見誤ったのか?」

その信号は特別に調整していると思うほど異常に待ち時間が長い。
たまに利用していつもそう感じるから、
その人物も長い待ち時間を我慢できなかったのか。

ようやく信号が青に変わったとき、こんなに待たされるのでは無理もないと、
赤信号で渡った人物の心境にも理解を寄せたくなったが、それは余計な理解というもの。
決められたルールを守るのは、人として社会生活を送る上で欠かせない基本姿勢。
たとえ信号ひとつにしても。

今や中高年の社会ルール違反の頻発には呆れるが、
悪いことはできないものだと、それを実感した。

わたしがお散歩の河川敷へ行くコースをほとんど変えないのは、
お気に入りの道筋を変えたくない気持ちが強いからであるが、
今日はなぜか突然それを変えたくなった。

入り組んだ住宅街の細い道はすでに夕闇が迫り、急ぎ足で通り抜けようとしたとき、
ちょうど角地の家の玄関先のドアを男性が開けるところだった。

わたしは角地を曲がりかけてふと気がつき、
そこで振り向いて角の家の玄関先を見て思わず「あらぁ」と口にした。
それは独り言のようなものであったが、
閑静な住宅街の夕闇に思わぬほど響いてしまったようだ。

「なにか?」

その人はドアに手をかけたまま振り向いて言った。
その言葉に導かれたかのごとく、わたしはつい口走ってしまった。

「先ほど、赤信号で渡った人!」

それを聞くなり、その人は素早くドアを開け、
わずかな隙間からスルリと家の中に入ってしまった。

その人が赤信号を渡ったときは背中しか見ていなかったが、
茶色の格子のシャツの柄をよく覚えていた。

それにしても、信号からこの家まではそこそこの距離があり、
しかもかなり入り組んだ道をやってきたのだが、
なぜかその人物がまさに家に入る瞬間に出会ってしまった。
その偶然に自分でも驚いたが、相手の人は風変りな女のひと声に
もっと驚いたことだろう。

それにしても、小柄な彼とコンパスの長いわたしの急ぎ足は、
長いと思われた信号の待ち時間の差をあっという間に縮めてしまったようだ。

彼の信号無視は常習者のような貫禄があったが、
今後、信号を無視しようとするとき、ひょっとしたらわたしの発した

「赤信号で渡った人!」

を思い起こすかもしれない。
それが彼の信号無視の歯止めになったらと、期待している。

信号無視のような小さな社会ルール破りを放っておくと、
やがては大きな事件となって世間を賑わすことになる。
大きな事件も最初は小さな芽から始まる。
世の中が悪くなる現象は、小さな芽をおろそかにした結果であるとは、
ニューヨークの「破れ窓の理論」の事例で実証済である。

大人が信号無視をすれば、その姿を見ている青少年や子供も感化される。
最近では子供を教育する前に、まず親を教育する必要があると
親の教育に乗り出した学校さえあるという。
実に情けないことですが、これが日本の大人の現実のようです。

同じ日の散歩の帰りに、別の信号を待っていると、
赤信号をピンクのシャツの若い女性が自転車で渡ってきた。
こちら側からは、ブルーのシャツに帽子の白髭の高齢者が同じく自転車で横切った。

信号の役割とその存在理由は? 
それとも日本の道路交通法規が変わったの?

中国旅行では凄まじいばかりの車の走行と、それに相対する人民の列の双方が、
赤信号無視でバトルを繰り返していたが、
日本人も中国人のマナーを批判ばかりしてはいられない状況になりつつある。
これは恐ろしいことです。


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