第140回  キレ度合い」の世代交代

テレビ番組で、世代別の「キレ度合い」の統計を発表した。

その結果は、青少年のキレ度合いは年々減少傾向にあり、
統計ごとに示された数値を結ぶカーブは見事なほど下降線を描いていた。
カーブが上昇していたのは30代から上の大人の世代である。

カーブが最も上昇していたのは60代である。
数値は統計を始めたころの約10倍になっていたので、
カーブは天を仰ぐほど見事な急カーブを描いていた。

以前のコラムで、最近は少年よりも大人のマナー違反やキレる状態が目につくと、
その嘆きを一度ならず書いてきましたが、
わたし個人の印象が統計上の数値でも実証された形になった。

番組のゲストの有識者は、
「中高年世代が現在の世の中を理解できなくなり、
 ままにならない鬱憤を晴らすためにキレるのです」
と分析していたが、実際はどうなのか。

わたしは様々な事柄で、マスメディアに登場する専門家の分析結果に、
自分では納得のいかないことがしばしばあります。
ゆえに今回もそのご高説をありがたく押し頂くことはなくて、
自分でも考えてみた。

今どきの青少年は、我慢することやマナーを
親や世間から満足に教えられることのない環境で育った。
それゆえ自分の思い通りにならなければキレる状態になるのは、
ある意味では理解できる。

しかし、現在高齢者と称される世代は、それらの教育をしっかり叩き込まれ、
世の中がままにならないこともよくわかっているはず。
それゆえ、知恵や経験の積み重ねで乗り切ることが出来ると信じていた。

わたしは専門知識も分析能力も持ち合わせていないので、
独断と偏見を免れないけれど、今回の統計結果にしても、
単純に「高齢者が我儘になっただけ」としか映らなかった。

高齢者世代は生活の困窮を我慢することに始まり、団体生活や、会社や世間との付き合い等、
生きていくための様々な面で我慢ばかりを強いられ重ねてきた。

その世代が、若い世代の奔放ぶりをメディアで目にするたびに、
自分たちはあんなに我慢してきたのにと、そんな思いが沸々胸に湧きおこり、
このままではあまりに惨めだ、もっと自由に奔放に振るわなければソンとばかりに、
キレたり平気でマナー違反をすることにつながっているのではと考えた。

それは貴重な人生の積み重ねを、一気にちゃぶ台返ししたような情けない状態とも言えます。

人生の先輩として、これまでの大切な積み重ねを
若い世代にきちんとバトンタッチする責務を背負いながら、それを投げ出し、
自由奔放の表現が一番ふさわしい世代になってしまった印象があります。

わたしがスーパーで経験する、ほんの小さなことにも、その傾向は現れている。

わたしがスーパーを出るときは、たいてい両手に袋を持っているが、
出口のガラスドアは手動式である。
荷物の両手を使えないから、体全体を使って押し開ける。
体でドアを押さえながらカニのように横に移動して外へ出るようになるが、
背後から人がやってくるのを認めるとそのまま静止して、
ドアの人間ストッパーの役割を請け負っている。

その時の人それぞれの反応は千差万別ですが、その多くに落胆する。
素通りして、ストッパー人間の存在など最初から無いものとして振舞う人。
ちらとストッパーに視線を投げるが、スーパーのドアウーマのごとく思っているらしい人。
なに、この人? と疑問の視線で半睨みを利かせる人。
あら? とちょっと驚いたあと、軽く会釈をする人(極めて少数)

わたしはもうかなり長い間、スーパーの人間ドアストッパーを勤めて来たけれど、
過去にたった一度だけ、はっきり意思を持ってお礼を言われたことがある。

流行の、のっぺりした髪形、分厚い靴底のおしゃれな履物で、
ペッタンコ、ペッタンコと危なっかしい足取りでやってきた
イマドキのオジョウーサンさんです。

「アッー、アリガトウゴザイマスゥ」

彼女は脳天に突き抜けるような甲高い甘ったるい声で、それを聞かせてくれた。

わたしがスーパーを利用する時間帯は30代から中高年世代が多いが、
彼らからお礼の言葉はもちろん、ちょっとした仕草で気持ちを表現されたこともない。
ごくたまに、中年の女性が軽く会釈をして通りすぎるくらいで、
年輩の男性に至っては壊滅的である。

わたしはお礼を言われたくてドアストッパーをしているわけではない。
子供のころからの教育が身にしみついていて、
自分が開けたドアを閉めるときのマナーとして励行しているだけである。

従って礼を言って欲しいとも思わないけれど、
まるで何事もなかったように目の前を通り過ぎていく人を見ると、
とてもさみしい思いに襲われる。
せめてちょっと会釈するなり、微笑んでみるなりができないものでしょうか。
お互いにとても楽しい気分になれると信じているのだけれど。

今どきの若いもんは、などとは言えない状況が、
世間の狭いわたしの周囲にも日常的に存在しています。


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