第138回 シンボウが足りない日本人

最近の社会情勢をみるにつけ念頭に浮かぶのは、
「日本人はどうしてかくも残酷で陰惨な事件を矢継ぎ早に引き起こせるのか?
そのような資質を持ち合わせる民族だったのか?」という疑問。

たとえばアメリカの事件は凶悪犯罪と称しても
ニュースで世界に発信されるのは、単純な銃の発砲事件が多い。

しかし日本の凶悪事件は陰惨すぎてやり切れない。
これまでの例では母親の首を切断し、
学校のカバンに詰めたまま平然とカラオケに行き、
ネットカフェで音楽を聴くなどは世界でも稀な陰惨さだが、
妻が夫をバラバラにする、リンチ後に生きたまま土に埋める、
少女に集団で暴行を加えたのちにコンクリートで固めてしまう、
妊婦の腹を突き刺して殺すなど、まだまだある。

このうちの二件は青少年犯罪だが、
これに似たような犯罪は日本にはほかにも多くある。
例え他の国で同様な犯罪があるにしても稀であろうが、
日本は日常的になりつつあるところが恐ろしい。

日本人がこのような残虐性のある国民だと、
今さらながら知ることになったわけですが、
昔ならば凶悪な事件を引き起こす人物であっても、
担当刑事が母親やその家族に話題が触れると、
涙を見せるというエピソードはけっこうあったようです。

昨今は凶悪どころか「真面目でおとなしくて礼儀正しい人物」が
親を殺し、子供を殺す。
しかもその殺害方法が、世界にも類を見ないほど陰惨なものもある。
これが以前と同じ日本人の姿かと思うと、
明らかに他の国に比べて崩壊の激しさと速度が急激過ぎるが、
その原因は今の日本人に心棒、或いは芯棒、時には辛抱かもしれないが、
足りない結果ではないかと、ネット姫の独断偏見診断です。

他国には自分が誕生したときから祝福される宗教を通じて、
その人生に心棒が通っているような気がするが、
それは外国を旅行すると良くわかる。

東欧では、観光客はわたしたち夫婦だけという世界遺産の修道院もあったが、
他の寺院や教会にしても一般の観光客の姿はまばらであった。

そこで例外的に一緒になるのは、いつも遠足の児童や生徒の姿である。
敷地内ではしゃいでいた彼らが教会の建物へ一歩踏み入れると、
別人のように静かになり、順番に像に向かってちょこんと膝を折って礼拝をする。
或いは他より熱心に祈りを捧げる子供もいる。

薄汚れた風体の放浪者のような青年が、教会の片隅でじっと祭壇を見詰めていたり、
観光客の老夫妻は異国の教会でも静かに祈りを捧げる。
近所の老婆は頭を垂れたその姿勢で祈り続けていたり、
孫の手を引いた老人の姿も祈っている。
その姿からは宗教に裏打ちされた心棒が、
日常の生活に存在することを実感する。

わたしは異国の観光地で疲れたときは教会へ足を運ぶ。
荘厳にして厳粛で閑静な雰囲気が好きなこともあるが、
疲れた身にはほっとする空間である。
なにかをひとりで静かに考えたいときには、
うってつけの場所でもあるような気がする。

つまり、自分の内面と向き合うことができる空間と言えるものである。

もし日本で家の近くに同様な場所があったなら、
自分と向き合うために足を運ぶと思うが、
残念ながら日本に教会はあってもその雰囲気は別物になっているような気がする。

自分と向き合う時と空間(場所)が存在することは、
人間生活にとって非常に大切に思えるが、
日本にはそれらが存在しないと言っても過言ではない。

日本は「神は自然界に存在する」というアミニズムゆえに、茫漠としている。
わたしが幼いころは、
「悪いことをするとお天道さまがみている。のんのさまが見ている」
と言われて育った。

わたしは自然を崇拝する日本のアミニズムを非常に愛しているが、
今の時代は状況があまりに変化しすぎているためか、
茫漠としているアミニズムは若者たちの心を捉えるのは難しいのかもしれない。
それゆえインパクトのある極端な新興宗教等に走ってしまうのだろうか。

中学生の頃はよく聖書を読んだが、それは宗教としてではなく、
あくまでも物語のひとつとして「ギリシャ神話」等のように
楽しむために読んだものである。
今にして思えば、道徳教育的な内容もかなりあったような気がする。

他の国には、なにかしら国民のよりどころとなる心棒の存在があるが、
日本には欧米人のキリスト教や他のアジア諸国の仏教のような、
心のよりどころがないように思える。

日本人は仏教徒と言われているが、
それは仏壇に手を合わせるときくらいのものであるが、
今や若者たちはそれすらもしないのだから、よりどころがなくて当たり前。

国旗や国歌を巡って教育現場では未だにもめている。
本来は大切にしなければならない国旗や国歌を、
なぜか粗末にするような教育が教育現場で堂々とまかり通っている。
その矛盾に、子供たちは戸惑っている。
国の精神の象徴である国旗を粗末にして、
どうして自分の国や自分を愛せるのだろう。

オリンピックやワールド・サッカー等のスポーツシーンでの国旗掲揚は
日本においても熱烈に歓迎されるが、
ひとたび教育現場の国旗掲揚となると、とたんに状況は一変する。
なぜ同じ国旗の扱いがこうも変わるのか。
これでは国旗を政治的に利用していると言われても
仕方がないと思える行為である。

諸外国を旅行すると公的機関の建物には辺鄙な土地の小さな建物にも
国旗が掲げてありとても羨ましく思うが、日本では見かけない。

日本人の今の混迷状況は
<自分はどこにその存在の根を持っているのか>という
<アイデンティティを喪失した結果>であると思えば、
納得がいくような気がします。



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