第102回  <手抜き>が社会のトレンド?

新聞の読者投稿欄に37歳の主婦からの投書があった。
タイトルは「公園の遊具撤去過剰反応では?」

テレビで公園の遊具がどんどん撤去されていることを知り、
複雑な気持ちを抱いたとのこと。

子どもの死亡事故が相次いだ<箱ブランコ>の撤去が進んだときは、
仕方ないかなと思っていたが、シーソーまで撤去され始めていると知り、
そのうちに公園から何もなくなってしまうのではないかと、
彼女は憂慮している。

彼女自身の体験では、小さいころ箱ブランコから落ちて唇を縫う怪我をし、
シーソーでは指を挟んで薬指の爪を剥がして相当痛い経験をしたが、
しばらくして新しい爪が伸びてきたときはとても驚いた。
このような経験を通して、子どもは成長していくのではと綴っている。
最後に子どもに怪我はつきもの、大人が過保護になりすぎて、
子どもたちからいろいろな経験を奪ってしまわないように気をつけたい、
と結んでいた。
わたしも同感である。

現在のおしとやかさからは想像がつかないが(?!)
わたしも相当なおてんばだったので、子ども時代は生傷が絶えなかった。
そのころの子どもは誰もが真っ黒になって遊びほうけていたから、
みんな生傷だらけでそれが当たり前だった。
今では懐かしい思い出になっているが、それ以上に学んだことが多く、
いつの時代にも子どもたちは元気よく遊んで欲しいと願っている。

以前、最近の離婚ブームについて
「計算式の入力ミスですか?」というコラムを書いた。

その主旨は、結婚前は足し算だったが結婚後は引き算ばかりで、
ふたりで生活を築いていくという大切な足し算の気持ちが欠けているのでは
というものだったが、主婦の投書を読んで
社会全体が<引き算>の風潮に陥っているのではないかと感じた。

都合が悪いものはすべて引いてしまえ、の発想に基づいて、
どんどん引き続けると計算の答えは限りなくゼロに近づくが、
そこから発展的なものは何も生まれない。

子どもと遊具についても、子どもの楽しみを奪うことなく、
他の方法を模索してもよかったのではないの。
結局、手間暇をかけるよりもさっさと撤去した方が、
後々の責任問題も生じない、との発想なのだろう。

今、日本の社会に一番欠けているのは、
この手間暇をかけることのような気がしている。

手抜きを痛切に感じるのは政治や行政であり、例をあげるときりがなくなるけれど、
企業にしてもお辞儀の角度や「イラッシャイマセ、コンニチハ」に代表される、
お客にとってはどうでもよいことに経費と心血をそそぎ、
顧客サービスも通り一遍に感じられてならない。

地味で手間のかかるお客本位の本来のサービスよりは、
派手に声をかける手段の方がお客にはよりアピールしやすく、
収益に繋がるとの安易な発想のように思えるが、
同じ経費をかけるなら手っ取り早い方法を選ぶということでもあるのだろうか。

以前、世間を騒がせた必修科目を無視した教育現場にしても、
受験勉強に必要のない科目に手間暇をかけたくないとの発想からのようだが、
子どもの教育が受験勉強のためのものとなっているかのように受け取れる。
日本の将来を担う子どもの教育に、かなり危機感を持っています。

そして今一番問題なっているのが、
家庭における子どものしつけの手抜きではないのだろうか。

いじめに対する世論調査の結果では、
「親が社会のルールを教えていない」が65%を占め、
<家庭教育に問題あり>とした内容の回答が最も多かった。

学習は学校で躾は家庭でと分業のはずが、
親は親の義務を放棄し、すべてを学校に押し付ける。
そのような親の存在が、当たり前の風潮にさえなっている。

何に対しても手抜きは許されないが、
子どもの躾と教育だけは最重要課題であるはず。
子どもの教育や躾は、家庭に加えて政府や行政の手抜きも加担している昨今、
日本の先行きはどうなるの。

HOME  TOP  NEXT